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その三十三 人の技

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 絶えまなく寄せては返す波。
 空の蒼さを映す水面が陽光を受けて煌めく。
 この広大なる海原はイッカクの領域。
 陸に住まう者にとっては水の呪縛から逃れられぬ場所。

 海の暴君は若き武官と山狗の子を歯牙にもかけず。一蹴しようと突っ込んでくる。残った右目が見据えるのは、海賊の娘の肢体のみ。
 だがその瞳があり得ない光景を目撃することになる。
 立ち泳ぎにてどうにか胸元を出すのがやっとであった正孝。その身が突如として大きく跳躍。水飛沫とともに、槍を手に宙へと舞いあがる。
 それをなしたのは山狗の子であった。

  ◇

 コハクはいまだ成長途中ながらも、すでに七尺に届かんとする大きさに達している。
 山狗の中には一丈を越える個体も稀に存在する。コハクの父ソウのように……。
 勇猛であった父の血を受け継いでいるコハクもきっと同じぐらいになるであろう。
 伝説の禍躬狩りの男から幼少期より英才教育を施されたコハクは、現時点でも忠吾を背負って駆けられるほどの地力が備わっている。
 そんなコハクがいっきに水底へと向けて潜水。
 滝修行にて幾度もこなしてきたので、どのくらいまでならば耳に負担をかけず、無茶が利くのかはよくわかっている。
 いけるところまで潜ったコハク。すぐさまくるりと反転し、今度は海面へと目がけてまっしぐらに急浮上を開始。
 ただし向かったのは海上ではなくて、正孝の足下である。
 ぐんと顎を引いたコハク、頭突きの体勢のまま正孝へとぶつかり、偉丈夫の身をいっきに押しあげた。

  ◇

 コハクという足場を得た正孝が、一時的に水の呪縛から解き放たれる。

「うおぉぉぉおぉぉぉぉっ!」

 戦士の雄叫び。槍の切っ先をギラリと光らせ、向かってくるイッカクへと襲いかからんとする。
 これを前にしてイッカクは「こしゃくな!」とばかりに、角を突き出し宙にいる正孝を串刺しにせんとする。
 が、その出足がほんのわずかながらに遅れた。
 原因はコハク。
 浮上した山狗の子が吠える。
 咆哮が水面を走り、海風ごとイッカクの鼻面を打つ。
 瞬間、イッカクの野生が無意識のうちに反応した。
 樹液を煮詰めて凝り固めたかのような色味の双眸と、漆黒の洞のような隻眼。コハクとイッカクがしかとにらみ合い、双方の殺意がぶつかり火花を散らす。
 これはコハクによる援護射撃。
 そのせいでイッカクは気勢が乗り切れないまま、正孝という男と対峙することになってしまう。

  ◇

 槍と角の対決。
 長さ、膂力、破壊力においてイッカクが圧倒している。
 なにせイッカクは大型帆船の頑強な身をもたやすく貫き抉るほどの猛者。
 いかに槍の名手といえども、まともにぶつかればひとたまりもない。
 しかし正孝にもイッカクに勝るものが二つあった。
 ひとつは手にした愛槍の穂先の鋭さ。歴史に名を残すほどの刀鍛冶が後世に託した逸品。
 いまひとつは身に宿した人の武。連綿と受け継がれ磨かれてきた技。
 ともに人知の結晶である。
 それらを武器に若き武官は海の暴君へと立ち向かう。

 ギィイイイィィィィィンッ!

 穂先と突端が正面より交差。鉄と骨がぶつかり、形容しがたい不協和音が鳴り響く。
 刹那、笹の葉の形をした平刃がぐにゃりと捻じれたように見えた。
 それは正孝が手元にて槍の柄にひねりを加えたことにより生じた回転によるもの。
 これにより角の必殺の軌道がわずかながらも外側へとそれる。
 一方で槍はその間隙を縫うようにして、するりと相手の懐深くへ迫る。

 相手の剣に槍を絡めて払う、槍術の巻き落としなる技の応用。
 人間相手でも実戦で行うのは難しい技。それをこの場面で、海の暴君を相手にして正孝が成功させたのは、たゆまぬ鍛錬により培われた武と極限にまで研ぎ澄まされ高められた集中力があったればこそ。

 が、そんな正孝の槍がイッカクの顔面へと突き立つ寸前にて、急に翻った。
 銀閃が弧を描き、パッと鮮血が舞う。
 穂先が縦に斬り裂いたのはイッカクの鼻の先の部位。神経が集中している箇所にて、鮫の急所と云われているところ。
 いかに鍛えようとも人の身には限界がある。めいっぱいの膂力を込めて槍を深々と突き立てたとて、それではぶ厚いイッカクの肉体を貫き切れないことは明白。
 だからこそ正孝は必殺ではなくて、確実に次へとつながる一手を放ったのであった。
 たとえ己がここで海の藻屑となろうとも、後には忠吾とコハクが控えている。彼らならばきっとやってくれる。
 若き武官はそう信じて疑わない。

 左目に続いて、鼻まで傷つけられた海の暴君は激怒した。
 怒りはあらゆる感情を駆逐して、内にある力を爆発させる。
 乱雑に鮫首を振る。頭突きと角の横薙ぎが混じったかのような攻撃。
 宙にいる正孝にこれを避ける手立てはない。
 辛うじて槍の柄で直撃こそは防いだものの、その身は空へと大きく打ちあげられてしまった。
 上がればあとは落ちるだけ。
 真下には渦巻く歯地獄が待ち構えていた。


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