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その二十八 海の暴君
しおりを挟む「小賢しい。この程度の包囲網、逃げようとおもえばいつでも逃げられる」
まるでそう言わんばかりに身を翻したイッカク、悠然と向かうのは囮船のところ。狙いはもちろん船に乗っている若い娘たち。
女の、それも若い娘の肉を好んで喰らう海の暴君。
はなから他のものなど眼中になかったのである。
イッカクの狙いに気がついた護衛船が前に。船体を防壁にして迎撃態勢をとった。
この船にも沈められた黒組の母船ほどではないが、それに準ずる威力を誇る弩弓が積み込まれてある。加えていざともなれば女どもを守るためにと、各組から選りすぐりの猛者どもが乗船していた。
「いまだ、弩を放てっ!」
敵影が射程へと入ったところで護衛船の船長が命じる。
すぐさま射出される矢。しかしそれはただの大きな矢ではない。
角材を削って作られた先端が鋭く尖った杭を八本束にしたもの。
数人がかりにてギリリと限界まで張り詰められた弦がパァンと鳴く。解き放たれ自由となり、勢いよく飛び出した矢。目標へと近づいたところで、あらかじめ切れ目を入れていた紐がぷつり。
とたんに束がばらけ、杭の雨が降り注ぐ。
点の攻撃が、いきなり面の攻撃へと展開。
いかにイッカクといえどもこれは避けられない。
いや、もともと避けるつもりがなかったのか。
怯む素振りは微塵もなく。猛然と突進を続けている。
まるでみずから杭の雨に飛び込むかのような動き。
だが当たる直前のこと。頭を上下に振ったイッカク、長く立派な角を水面へと叩きつけたことにより生じる水の柱と薄い幕。
これにより殺到する杭の突端がぶれ、勢いが削がれてしまう。加えて海をかき分けずんずん突き進む力により発生している波が、水の鎧となってイッカクの身を守っており、当たった杭はたいした損傷を与えることもなく、はじかれ、受け流されてしまった。
目を見張る護衛船の者ども。
それでもすぐに弩弓に二の矢をつがえる一方で、先んじて放ったのは漁網。
円陣に使っているのと同じ鉄ビシが編み込まれた品。大きさこそは比べるまでもないが、それでも身にまとわりつけば、かなり鬱陶しいはず。ひれにでも引っかかればもうけもの。いっそ鼻先にかかって大口を塞いでくれたらとの淡い期待もあった。
投網の腕がいい者が放ったおかげで、パッと宙にて花開く漁網。
まんまと向かってくるイッカクの鼻先へと展開。「これならきっと」と投げた当人のみならず他の者らも喜色を浮かべるも、それはすぐ絶望に変わる。
イッカクが大口をガバッと開けた。
ひょうしに口腔内があらわとなり、生えている歯が丸見えとなる。
その数が尋常ではなかった。
歯、歯、歯、歯、歯、歯……。
三角の形にて鋸の刃ようなギザギザした凶悪な歯が、奥までびっちり。
この近海で見かける鮫の歯はせいぜい二百もあればいいところ。
しかしイッカクの口の中には、数百どころか数千はあろうかという数の歯が生えていた。
まるで歯地獄!
勇猛でならした海賊の男どもですらもが、おもわず「ひっ」と声を発するほどのおぞましさ。
あれに囚われ、生きながらにして身を砕かれ、削られ、すりつぶされて、喰われる。
犠牲になった女たちが、どれほどの絶望と恐怖の中で死に絶えていったのか、想像もつかない。
イッカクの大口が漁網をガブリ。
編み込まれた鉄ビシ? そんなもの関係ないとばかりに乱雑なひと噛み。
そのまま首をブゥンと横に振る。
ただそれだけで網は散りぢりとなってしまった。
兇状の数々のわりに、円らな瞳をしている海の暴君。
どこか虚ろな黒い瞳。見つめていると魂が吸い込まれそうな錯覚をおぼえる黒穴は、奈落か深淵か。
海の悪夢をすべて集めて煮詰めて、凝り固めたかのような存在。
かつてないほどの至近距離にて海の暴君と対峙したとき。
護衛船の甲板は恐慌状態へと陥る。
焦った男たち、やたらめったら銛を投げては、矢を放つ。
だが統率を欠き、乱れた攻撃は本来の威力には遠く及ばず。せっかく間に合った弩弓の第二射も狙いが甘かったせいで外してしまう。
矢をかわした直後、イッカクの身が大きく跳ねた。
角を突き出す格好にて降ってきた巨体。甲板にいた者たちが得物を捨ててあわてて逃げ出す。
ぶつかった瞬間、甲板の床が大きくたわむ。帆柱が根元から折れた。
続けて衝撃は走り、いきなり船体上部がばっくりえぐれた。
イッカクが行きがけの駄賃だとばかりに齧ったのだ。
半壊した船がイッカクにのしかかられ押される格好にて、ゆっくりと傾いでいく。
こらえきれずに横転。
無造作に海へと投げ出された男たちの悲鳴が響く中、イッカクはそれらを一顧だにすることなく、囮船へと鮫首を向ける。
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