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その十五 凍える牙
しおりを挟む生と死の分水嶺。
土壇場に追い詰められたとき、その者の本性があらわとなる。
それはヒトも獣もかわらない。
迫るクマという脅威を前にして、山狗の子コハクは背を向けた。
ただしその瞳からは闘志が失われておらず、尾が股の下に隠されてもいない。むしろ逆にピンと先っぽまでのびている。
コハクの背に振り下ろされたクマの右腕。体重の乗った一撃のもと、地面に相手を押しつけ背骨をも砕かんとする攻撃。
だがその攻撃は空を切る。
逃げ場のない袋小路の中で跳躍したコハク、倒木の格子へと突っ込んだかとおもえば、これを足場としてさらに跳躍、続けて向かい側の岩肌をも蹴り、高らかに舞いあがった。
宙にて山狗の体が翻る。
口からのぞく山狗の牙が、残雪の反射光を受けて閃く。
山の神気を宿す凍える牙が急降下して向かう先はクマの首筋。
いきなり目の前から消え、俊敏に空へと駆けあがった山狗の子。
これにクマは一瞬怯み、反応が遅れる。なぜならその巨体ゆえに、頭上をとられたのはひさしぶりであったから。
それでも培った生存本能が体を突き動かす。頭上より迫る殺気を察知し、立ちあがりながら左腕を突きあげ迎撃を試みる。
相手をすくいあげ、腹の肉をえぐるかのような軌道にて疾駆するクマの黒爪。
だが当たらない。
落下速度に自重、そこに捻りをも加えた山狗の子の身が流星となり、クマの手をかわす。
直後にクマの首筋に深々と食い込んだのは山狗の牙。
毛と脂肪と筋肉、三重の防壁に守られているというのに、ずんずん内へと侵入してくる。
たちまち濃厚となる死の気配。
これを厭いクマが両腕を振って暴れ、どうにかしてコハクを引き離そうともがく。
だがそれは悪手であった。
クマの動作にあえて逆らわずに、だらりと脱力する山狗の子。
夏場の水練により鍛えた体術と度胸を発揮し、相手の力を利用する。クマが右へ左へと身を振るたびに、生じる力、遠心力を蓄えては牙へと集約させる。
これにより首の奥へ奥へと喰い込みながら、鋭い牙が首筋を横から前へと半円を描くように引き裂きはじめる。
みちり、みちり、みちり、みちっ……。
筋肉が切れる音に続いて、唐突にブツンと大きな音がした。
頸動脈断裂、とたんに滝のようにあふれ出した鮮血が、クマの胸元から下腹部へとかけて濡らす。
クマの両腕がついにだらりと落ちた。
しかしコハクはまだ離れない。
クマも倒れない。己の血で朱に染まりながらも、なお二本足にて立ったまま。
「ふぅ、ふぅ、ふぅ、ふぅ」
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
生き残った者と死にゆく者と。
両者の息づかいが重なり、交わり、ひとつとなる。
だが長くは続かない。
ごぼっとクマが血泡を吐き出した。山狗の強靭な顎と牙がついに喉へと到達し、これを貫く。
次の瞬間、ゴキリと鳴ったのは首の骨。
ここでようやくコハクは相手から離れた。
首を半ば斬り裂かれ、ついには骨をも砕かれたクマは、それでもまだ立っていた。
血濡れた鼻先を天へと向けて、いまだに光が宿る瞳だけを動かし、クマは自分を倒した山狗の子を見る。
その視線を真っ直ぐに受け止めるコハク。
ふっとクマの目にあった光が無くなる。命の灯火が消えたのだ。
ようやく戦いは終わった。
コハクは試練に打ち勝った。
◇
立ち往生。
仁王立ちのまま果てているクマ。
木漏れ日を受けて佇むその姿は、凛として美しく、神々しくすらもあった。
獣同士の壮絶な戦いが終わり、隠れていた岩陰より姿をみせた正孝。
「これが山狗の戦いか……、なんと凄まじい。いや、だからこそ禍躬とも渡り合えるのだろう。しかしそれと真っ向から戦い、最期まで膝を屈しなかったこやつもすごい。敵ながらあっぱれ」
若い武官は感嘆しきり。
忠吾も「でかした」とコハクの頭を撫でながら同じ想いを抱いていた。
誇り高き森の王、その雄壮な姿に感動せずにはいられない。
しかしそれと同時に忠吾は山よりの天運を確かに受け取ったと感じていた。
「そういえば以前に、山を去ることになった同胞が言っていたな。『その時がくれば、おまえにもおのずとわかる、山が教えてくれる』と。どうやら俺はまだその時ではないらしい。あるいは……」
己の死に場所はここではないのかもしれない。
ふとそんな考えが忠吾の脳裏をよぎった。
それを肯定するかのように、冷たくも優しい山の風が彼の頬を撫でる。
そんな主人の身を案じるかのようにして、コハクが首をかしげたもので、フフッと忠吾は小さな笑みを零す。
「いまさらだな。これまでがむしゃらに生きてきた。ならばその時とやらがくるまで、精一杯に生きるのみ。さて、戻って都に行く準備をしなければ。
だがその前にこいつを処理しないとな」
正孝にも手伝わせて、忠吾はさっそくコハクが倒したクマの解体を始める。
毛皮を剥ぎながら、コハクにはこの森の王の強靭な前足と心臓を与えようと、忠吾は考えていた。
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