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その十三 天運を問う
しおりを挟む衝撃が続き、あまりの救いのなさに正孝の瞳は光を失う。
魂が抜けたかのようになり、勧められるまま夕食に手をつけるも、あくまで形だけのこと。
とてもではないが今後のことについて話し合える状態になく、この日はそのまま就寝となる。
山もすっかり寝静まった頃。
むくりと起きた正孝は、そのままふらり、幽鬼のごとき足どりで表へと出ていく。
その気配に気づき首をあげたコハクを無言のまま制し、忠吾もそろりとあとに続こうとしたのだが、その時のことであった。
ビュン、ビュン、ビュン、ビュン……。
戸の向こうから鋭い風切り音が聞こえてくる。
少しだけ戸を開けて外の様子をうかがってみれば、正孝が槍を振るっていた。
まるで目の前に立つ見えない誰かと対話をしているかのように、次々と技を繰り出している。躍動するごとに吐く息がいっそう白く濃くなる。じきに火照った体から湯気が立ち昇り、額から汗が滴るようになっても、青年は止まることなく一心不乱に槍を振るい続ける。
その姿を目にした忠吾は戸をそっと閉めて、自身の寝床へと戻り横になった。
正孝の槍の風切り音は夜が明けるまで続いた。
◇
翌早朝、徹夜明けにもかかわらずすっきりした表情となっている正孝。
「迷いは消えたか?」
忠吾の言葉に正孝はうなづく。
「正直、許せぬことだらけです。いっそのこと怒りのままに都へと舞い戻り、この命尽きるまで、片っ端から憎い仇どもをこの槍で突き殺してやろう。あるいは何もかも捨てて出奔しようかとも考えました。けれども、やはり自分は戻ります。父がそうであったように、それがしも武官としての生を、その職務を真っ当する所存です。たとえその結果、理不尽な死が待ち受けていようとも」
禍躬狩りには禍躬狩りの血が流れており、山狗には山狗の血が流れている。
それと同じく武官にもまた武官の血が流れており、それは親から子へと確かに受け継がれていた。
緒野正孝という若き武官は覚悟を決めた。
ならば次は忠吾の番である。
いまわのきわにある先代の那岐王が書状にて、自分の選択により人生が翻弄された哀れな青年を守ってやってくれと頼んできたものの、ことは忠吾ひとりの問題ではない。
禍躬はあまりにも強大であり、対する人間はとても非力だ。
そんな非力な身で禍躬にあらがい、これと戦うには相棒の存在が必要不可欠。
しかしコハクはまだ若い……。いかに両親譲りの才に恵まれていようとも、いまはまだ春先に大地より顔を出した新芽のようなもの。
「あと二年、いや一年あれば……」
せんなきこととはわかっている。
それでも忠吾は口に出さずにはいられない。
◇
悩んだ末に忠吾は山に天運を問うことにする。
山狗の子を連れて向かったのは、森の中にあるブナの大木のところ。つい先日、六十貫越えの大物のクマが冬眠しているのを見つけた洞の岩穴。
目印がわりに入り口に立てておいた小枝はそのままであった。付近に這い出たような形跡もない。獲物は動いていない。
それを確認してから、忠吾はいっしょについてきていた正孝に火筒のみならず、腰に差していた山刀までをも渡し言った。
「預かっておいてくれ。あんたはそれを持って向こうの岩場の陰に隠れていろ。いいか、何があっても絶対に出てくるな」
「しかし忠吾殿、これからクマを狩るというのに丸腰では、いくらなんでも」
「勘違いをするな。狩るのはあくまでコハクだ。俺はなにもしない。もしもコハクがしくじったら、しょせんはその程度だったということ。クマを仕留められないで、禍躬と戦うなんぞはどだい無理な話。そして相棒のいない禍躬狩りもまた片羽をもがれた鳥のようなもの。ならばともに山の土に還るだけだ」
山狗の子が主人である忠吾に全幅の信頼を寄せるのと同じく、主人もまた山狗の子を信じ己の命を預ける。
この試練を越えられぬようであれば、どのみち先はない。
首尾よくいけばそれでよし。
コハクとともに湖国へと赴き、彼の地で暴れる禍躬を討つのに尽力する。
失敗して果てたとて、けっして無駄死にではない。なぜなら少なくとも緒野正孝の命は守れるはずだからだ。
なにせ肝心の招聘すべき相手が死んでしまっているのだから、使者の役目の不首尾を責めようがない。あとは伊邪王なり先代なりがうまいことやるだろう。
正孝が指示通り岩場に身を潜めたのを見届けてから、忠吾は熊穴のあるブナの大木の根元へと移動する。
山狗の子は穴の入り口正面にて立つ。
「いくぞ、コハク」
言うなり大きく跳ねた忠吾。落下の勢いのままに、ドンっ。思いっ切り地面を踏む。それを二度、三度とくり返し、ついには五度目のこと。
一帯に濃厚な獣臭が漂ったかとおもえば、熊穴よりのそりと黒い毛の塊があらわれ、「ぐるる」と低い唸り声をあげた。
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