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その八 いのち

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 いよいよ自分のところにカモシカが向かってきた。
 なかば雪に埋もれるようにして隠れていたコハクが姿をみせる。
 だが待ちかねていたせいか、最後の最後で少しばかり気が急く。引きつけが甘く、いち早く相手に待ち伏せを勘づかれてしまった。

 前方の雪が盛りあがり、山狗の毛がわずかに見えたところで、カモシカはかくんと急旋回。コハクが潜んでいた木立ちをかわし、迂回すべく山肌を斜めに登りはじめる。
 木立ちの奥は入り組んでいる。死角も多い。跳ねるように地を駆けるカモシカにとっては、十全の力を発揮できる場所じゃない。そんな中、山狗の追撃を振り切ることは困難と判断したのだろうが……。

 雪を蹴り躍動する四肢。灰地に黒が混じった毛をなびかせながら、コハクが駆ける。
 逃げるカモシカとの距離がみるみる縮まっていく。
 これにはちょっとしたからくりがある。
 たしかに山狗の子は足が速い。だからとて必死のカモシカにたやすく追いつけるわけではない。
 最初から駆け登るつもりで走り出したコハクと、忠吾に追われて斜面を降りてきたところをふたたび登ることになったカモシカ。
 この時点で、四肢への負荷と余力にかなりの差が生じていた。
 それがコハクの脅威の追いあげを実現していたのである。

 コハクは相手の後方からいっきに接近。勢いのままに右の後ろ足太ももに牙を突き立てんとする。足を封じてしまえば九割方狩りは完了する。
 だがこのカモシカとて独り立ちせんと、厳しい冬山に分け入るほどの剛の者。

「獲れるものならば、この首とってみろ」

 と言わんばかりに、鼻息荒く大きく後ろ足を蹴りだす。
 崖のごとき斜面や、急峻な岩場を渡るほどの足と蹄を持つカモシカ。体幹も優れており、猛然と走りながらにもかかわらず、放った蹄は的確に山狗の顔面を捉えていた。

 槍の穂先のごとき鋭さで迫る蹄。
 これを前にして、コハクは避けるのではなくてさらに前へと一歩踏み出す。
 さっと脇に跳べば簡単に避けられるだろう。だがそれをすれば、引き離されてもう追いつけなくなる。獲物を逃がしてしまう。
 だからとてカモシカの蹴りをまともに喰らうのは論外。
 そこでコハクは躊躇することなく頭を下げて突っ込んだ。地を這うようにして進み、カモシカの足が伸びきる前にその下をかい潜る。

 渾身の一撃が空を切る!

 たたらを踏んで崩れそうになったカモシカ。体勢をすぐさま持ち直したのはさすがであったが、そのときにはすでに懐深くにまでコハクが入り込んでいた。
 左の後ろ足、足首へと食い込んだ牙。深々と突き立ち、強靭な顎が一瞬にして肉どころか骨をも噛み砕く。
 もんどりうって、どうっと倒れるカモシカ、激しく雪けむりをあげながら、二度、三度と転がった。撒き散らされた鮮血が、辺りに点々と赤い染みをつくる。
 にもかかわらず、カモシカはなおも闘志を失わない。ジタバタと暴れては、迫る死を振り払おうとあらがう。命が尽きるその時まで、けっして生きることを諦めない。
 だがついにその時が訪れる。
 山狗の子の牙が首の頸動脈を断ち切った。
 瞳の艶がみるみる失われていき、命の灯火が小さくなっていく。逆立っていた毛がくたりと寝るとともに、全身がだらりと弛緩する。ふっと魂が抜け、ついにカモシカは動かなくなった。

  ◇

 コハクが仕留めたカモシカを木立ちへと運び込んだ忠吾。
 両前足に縄を結び、枝から吊るす。
 この手の作業、隻腕になった頃にはずいぶんと難儀したものだが、いまでは手慣れたもの。もたつくことなく口と手で器用に縄をしっかり結ぶ。
 ぶら下がった獲物、喉元に解体用の小刀の刃を突き立てるなり、腹下、肛門の付近までいっきに斬り裂く。
 とたんにカモシカの血と臓物が雪に掘った穴へとボトボト落ちた。

「ちゃんと処理したらウマいんだが……。もったいねえが、しようがない。モツはあきらめよう」

 内臓の処理を終えたところで、今度は皮はぎ。首の部分から身の内に沿うようにして刃をはわし、削ぐようにして剥いでいく。
 持ち帰るのは肉の一部と毛皮のみ。
 荷運び役がいないので、これ以上は無理。もう少し麓付近であったのならば、ソリを使う手もあったのだが。

 皮はぎを終えたところで、いよいよ解体となるのだが、忠吾が最初に切り取ったのは左の後ろ足。コハクが最初に牙を突き立てた部位。
 それを切り取るなり、ずっと伏せで待っていた山狗の子に与える。

「たんと食え」

 とたんに肉にかぶりつくコハク。強い顎により、ウマそうに肉も骨もバリボリと喰らう。
 その食べっぷりに目を細めた忠吾は、いったん手を止め山狗の子に語りかける。

「いいか、コハク。命を喰らうということは、その命を己がうちにとりこみ宿すということだ。命も想いもその一切合切を引き受けて背負い、ともに生きていくということだ。だからけっして感謝を忘れてはいけない。敬意を忘れてはいけない。それがたとえ禍躬であろうともだ。
 憎しみで狩りをしてはいけない。なぜなら憎しみは心を惑わし、まなこを曇らせる。そうなれば、相手へと向けた牙や爪はたちまち己に跳ね返るということを、よぉく覚えておけ」

 忠吾の話にいちおうは耳を傾けているのか、肉に喰らいついている山狗の子、耳をピンと立ててはピクピクとさせ、尻尾をふりふり。
 その姿にフッと笑みをこぼした忠吾は、ふたたび手を動かし始めた。


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