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その六 手ざわり

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 夜更け過ぎまで思い出話に花を咲かせた忠吾と冨吉。
 翌朝、山小屋を去るとき。
 見送る忠吾とコハクを前にして、意を決したように富吉は言った。

「なぁ、忠吾。やっぱりおまえも山を降りんか」と。

 冨吉は里で商いをしている息子夫婦のところに身を寄せることになっていたものの、これまでの蓄えも充分にあることから、「なんなら家を借りていっしょに住もう。余生をのんびり楽しもう」とまで口にした。
 もしもそれが気に入らないのならば都に行けばいい。
 先王の命を助け、禍躬ヤマナギから国を救った忠吾ならば、喜んで迎え入れられるだろう。
 たつきはいくらでもある。
 かつては大勢いた禍躬狩りの仲間たちはもういない。
 自分がいなくなれば忠吾はひとりきりになってしまう。
 それはあまりにもしのびない。あるいは山を捨てる罪悪感も手伝い、つい富吉の口から出た言葉。

 だがこの申し出に忠吾は小さく首をふる。

「存分に山で生きてきた。だからあとは山で死ぬだけだ」

 長年のつき合いゆえに、富吉には忠吾を翻意させるのは無理だとすぐにわかった。
 だから二人はもう余計なことは言わずに、「またな」と笑顔で別れることにする。
 これが忠吾と冨吉の今生の別れとなった。

  ◇

 ヒトの感傷なんぞにはおかまいなしに時は流れて自然は移ろう。
 山肌を上から下へと撫でるようにして木枯らしが吹き、すっかり色褪せた葉っぱが散っては、地面を埋め尽くす。
 生き物の姿をとんと見かけなくなった。みな来たるべき過酷な季節に備えるのに忙しいのだろう。
 例年よりもいささか駆け足にて通り過ぎた秋。
 初雪が降ったとおもったら、すぐに峰の辺りが白くなった。
 それからは日を追うごとに入念に雪化粧を施されていく山景。

 足元から冷気が這いあがってくる。
 吐く息までもが凍えそうな、いっとう寒い夜。
 轟っと風が唸るたびに、木と石で組んだ山小屋全体がミシリと軋む。
 外では吹雪が荒れ狂っている。
 いかに伝説の禍躬狩りとて、この中に放り出されればたちまち凍死してしまうことであろう。

 いつもより多めに焚いた囲炉裏の火。
 そのそばで身を寄せ合って過ごす忠吾とコハク。
 安心しきっている山狗の子は主人の右隣にて、丸まったまま安らかな寝息をたてている。けれども忠吾はまんじりともせず、じっと囲炉裏の火を見つめていた。
 ときおりパチリとはぜる炭。そのたびにパッと散る火花。
 その音に反応してピクリとコハクの耳が動くたびに、忠吾はそっと背を撫でてやる。

「毛の手触りがだいぶ固くなってきたな。そろそろ頃合いか」

 山狗の子は他の動物たちと比べて成長が遅い。
 同じ系統の四つ足の獣である里犬たちが、ほんの二年ほどで成犬となるのに比べて、倍の五年ほどもかけてじっくりと体を作る。
 その過程は糸を寄り集めて紐とし、これをさらに編み込んで丈夫な布を作るのに似ている。
 だがそれゆえに骨の密度がちがう。骨格の強度がちがう。四肢の太さがちがう。関節のしなやかさがちがう。筋肉が発揮する力がちがう。瞬発力がちがう。持続力がちがう。肺活量がちがう。血の濃さがちがう。運動量を支える心臓の働きがちがう。
 軍などで使役される里犬を十とすれば、山狗は五十は下るまい。
 そして禍躬狩りの相棒としての鍛錬を施された個体ともなれば、優に百を越えるだろう。

 山狗は五年かけて基礎を固め、十年をかけて経験を積んでは円熟を増し一人前になり、そこからさら年を重ねるごとに狡猾さを学んでいく。
 ただただ肌触りが良かっただけの毛の質が変わる。
 より過酷な環境にも順応できるようになった証。それすなわちコハクの幼少期が終わりを告げようとしていること。
 手塩にかけて育てた子が、しっかりと成長している。
 それはうれしい反面、ちょっと寂しいことでもあった。
 去りゆく幼少期を惜しみつつ、忠吾はコハクの背を撫で続ける。

「あれからもうすぐ五年か、早いものだな……。この冬はより実戦的な訓練だな。しばらくはウサギかテンあたりで雪の上での動きに馴らしがてら様子をみて、具合がよければカモシカあたりを追ってみよう。春先が近づいたところでクマも狙ってみたいところだが、そいつはさすがに気が早すぎるか」

 あれこれと忠吾が想いを馳せているうちに、いつのまにか外が静かになっていた。
 風の音が聞こえない。どうやら吹雪きが止んだようだ。
 大地に生きとし生ける者たちがみな息を潜めているかのような、しぃんとした静寂の時間がしばし続き、じきに朝陽が顔を出す。
 ついに夜があけた。
 ゆっくりと立ち上がった忠吾。主人の動く気配にて顔をあげたコハクは寝ぼけまなこ。

「小便だ。いいからおまえは寝てろ」

 言われて、ふたたび顔を下げたコハク。鼻先を丸めた自分の体にうずめた。

 毛皮を羽織った忠吾はひとり外へと向かう。
 表戸を開けたとたんに目に飛び込んで来たのは雪の壁。昨夜はなかなかの豪雪であったようだ。
 そいつをかき分けかき分け、進んだ先に待っていたのは一面の銀世界。
 無垢な白へと一歩踏み出せば、サクリと心地良い音がした。
 いよいよ本格的な山の冬が始まる。


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