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その五 消える炎、消せない炎

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 あれほどジュクジュクやかましかった木魂虫の声が、ずいぶんとおとなしくなった。
 夏の盛りが過ぎて、そろそろ山の緑が色褪せ始めた頃。
 忠吾とコハクが暮らす山小屋をたずねたのは、杖をつき左足を軽く引きずっている男。歳の頃は忠吾とさしてちがわなかったはずだが、隻腕ながらもいまだに壮健さを誇る彼とはちがい、こちらはすっかり老齢に浸りつつある。
 男は酒瓶片手に開口一番「やれ、情けない。これしきの山登りですっかり息があがってしまったわ」と嘆息をつき、手ぬぐいで首まわりの汗を拭いた。

 囲炉裏で差し向いとなり、さっそく土産の濁り酒にて一献かたむける二人。
 来客の名前は富吉。
 彼もまた禍躬狩りにて、忠吾とは若い時分より幾多の修羅場をいっしょに駆け抜けてきた間柄。
 友人、仲間、同士、家族、好敵手……。
 そんな言葉ではとてもいいあらわせないほどに、濃密な時間を共有した者たち。つねに死線に身を置き、生と死を分かちあった分身。

 しばらく黙々と杯を重ねていたが、ふいに富吉が伏目がちに言った。

「すまん、忠吾。ご覧の通りのありさまでな。とても次の冬は耐えられそうにない。だから、俺は山を降りることに決めた」

 禍躬狩りが山を降りる。
 それすなわち引退表明である。
 かつては旺盛な若人らが一攫千金を夢見ては、山に集っていたものだが、年を経るごとにひとり死に、ふたり抜け……。
 まるで歯が抜けるようにいなくなっていく同胞たち。
 一方でこの職業に求められる技能は非常に高く、なおかつ過酷な仕事ゆえに、なり手はほとんどいない。
 とくに紀伊国では、四年前の禍躬ヤマナギ討伐戦において、多数の死傷者が出た。兵士たちだけではなく、禍躬狩りやその相棒である山狗たちもたくさん死んだ。
 その惨状をまのあたりにして、山を目指す者はほとんどいなくなった。

 辛勝のすえ、どうにか生きながらえた那岐王(なぎおう)も、まるで英霊たちにせき立てられるかのようにして復興に邁進するあまり、ついに無理が祟って体を壊してしまう。
 急遽、あとを継ぐことになった伊邪王(いさおう)は、まだ若輩にて国の情勢はいまだ定まらず。
 あの討伐戦の影響が方々におよび、いまになって国内を蝕んでいる。

 富吉の言葉に忠吾は「そうか」とだけつぶやきうなづいた。
 またしばらく二人は黙ったまま酒を酌み交わす。
 いつしか窓の格子から差し込む陽が茜色となっていた。
 薄暗くなった室内。囲炉裏の柔らかな火に照らされて、老人たちの顔色がほんのり赤い。

 ふと顔をあげた忠吾、立ちあがり土間へ降りると表戸を開けた。
 のそりと入ってきたのは野鳥をくわえた一頭の山狗の子。

「わざわざ酒の肴をとってきてくれたのか。ありがとうよ、コハク」

 忠吾が頭を撫でると、山狗の子はうれしそうに尻尾をふった。
 その姿を見て冨吉が「ひょっとして、ソウとアサヒの子か」とたずねれば、忠吾は「そうだ」と答えた。

 五体倒せれば名人達人と呼ばれる世界にあって、じつに十二体もの討伐に成功し、忠吾が伝説の禍躬狩りと呼ばれるようになったのは、彼のみの力にあらず。
 背中を預けるのに足る同胞たちや、なによりつねにかたわらにつき従っていた、優秀な二頭の山狗たちの存在が大きかった。
 しかしソウとアサヒは禍躬ヤマナギとの戦いで死に、忠吾もまた左腕を失う。
 傷口に受けた禍躬の呪いはいまだ健在にて、彼の身を内よりじりじりと焦がし続けている。
 にもかかわらず忠吾は山を降りなかった。
 理由はみっつある。

 ひとつはコハクの存在。
 優れた山狗であったソウとアサヒの血を受け継ぎし子。その身に宿る才は両親をも越える。それを見抜いた忠吾はどうしても育てたくなってしまった。

 いまひとつは、忠吾自身の内に燻り続けている炎。
 禍躬ヤマナギに刻まれた熱をも凌駕する情炎がたしかにある。これある限り、自分はきっと止まれないと忠吾にはわかっていた。だからたとえ片腕になろうとも鍛錬は怠らなかった。すると不思議なことが身に起こる。
 不自由になった分だけ、一発にかける想いがより強固となる。かつてないほどに感覚が研ぎ澄まされ、集中力が高まった。それに呼応するかのようにして肉体強度もあがる。ここにきて禍躬狩り忠吾という存在が、ひと段階昇華したのである。

 最後のひとつは、単純に忠吾が山での暮らしが気に入っていたから。
 もとは里産まれで貧乏農家の五男坊であったのだが、気がついたらいつもぼんやり山を眺めていた。
 山に魅了されたのか、山に魅入られたのかは定かではない。
 末っ子が「禍躬狩りに弟子入りする」と言い出したとき、両親や兄姉たちが誰も反対しなかったのは、忠吾はいずれ山にとられることがわかっていたのかもしれない。

 コハクを目にして冨吉が「いい山狗だ。さすがはあのソウとアサヒの血を継いでいるだけのことはある」と褒めると、わずかに頬を緩めた忠吾が「その足じゃあ、途中で陽が暮れる。今夜は泊っていけ」と言った。


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