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「ハン、今大丈夫か?」

 疲れた声でそう言って、ビルの真ん中の階にある一つの部屋に入ってきたのは、アイルランド系の小太りな男性、チャックだった。

「良いですよ。僕も今ここに来たばっかりです」
「そうか、なら早速聞いてくれ」

 この軍医はまるで子供みたいに、面白い事を見つけたかのように、相手を思いやる気持ちなど微塵も無く喋り始めた。

「まずはこれを見てくれ」

 鞄から取り出したノートパソコンを開き、スリープモードにしていたのかすぐに明るい画面が現れる。

 クリック、画面に幾つかの画像が表示された。それを見るとハンは訳が分からず、不安げに首に手を当てる。

「ええとこれは……」
「説明する。トレバーがあの時の戦闘で見つけ、持ってきた死体だ。DNAを調べたら「トランセンド・マン」に非常に近かった」

 チャックが何気なく指さす写真は、胴体とそれから切られた首。チャックは慣れたのか平然とした顔だが、ハンは一瞬の驚きを見せる。

「それで、何か特異点でも?」
「そうだ」

 短く答え、画面中のマウスカーソルがせわしなく動く。やがて別の画像やグラフが現れた。

「見てくれ。血液中にこれだけ大量の薬剤が含まれていた。普通の人間が飲めば一発でアウトなものだ。頭部からは外科手術痕があった。透視してみたら……これだ」

 薬剤量を示すグラフ画面から一転、脳のスキャン画像と思しきCGに切り替わった。前頭葉の一部分に直径一センチメートル程度の黒い領域が見える。

「この黒いのは何です? 脳の損傷個所ですか?」
「いいや、トレバーは見事に首だけ切断してそれ以外は何もしとらん。本当に腕は確かだよ……それで、これは金属反応を示しているんだ」
「金属? ……コンピューターでも埋め込んでいるんですか?」
「ご名答。あとトレバーから得た情報なんだが、トレバーの奴あとこれと同じ奴を十五体も葬ったそうだ。そして、そのどれも一般的な「トランセンド・マン」に劣るものだったという。しかも、他の死体は勝手に燃え消えたそうだ。脳から身体へ情報が伝わらなかった故だろう。恐らくは証拠隠滅の為だろうな」
「足止めされたとは聞きましたが、これだったんですね。ですがコンピューターは何に? 制御にでも?」
「それもあるだろう。しかしこれを見てくれ」

 チャックが、透明の箱に入っている、何か小さいものを鞄から取り出した。掌に包まれて見えない。

 箱に入ったまま机の上に置き、説明し始める医師。一平方センチメートルのコンピューターチップであるのはハンが見ても間違いない。

「これがその脳に埋め込まれていたものだ。生体電気によって動き、脳の働きを活性化させるのが主な使用目的らしい。他にもテレパシー通信やらデータ記録やらの機能もあるらしいが、大方はそれだな」
「じゃあ先生はこの人物が「予備」だと考えるんですか?」
「その通り。人数では“我々”なんかより十倍以上も居ると言われているからな。戦闘能力を引き上げる事で貴重な戦力の代わりとでもするつもりなのだろうが、「管理軍」も無茶ばっかりするなあ……」
「うーむ……これ正直言って侵入して得た情報なんかよりよっぽど凄いですよ……」
「同感だ。これじゃあ骨折り損だな……あ、いや、別にお前を責めているつもりはないぞ、“指揮官殿”。相手が悪かったなあれは」
「分かってますよ、大丈夫です。それにこれで次の作戦の目途だって立ちますし」

 うっかり配慮を忘れ、申し訳なさそうに言ったチャックに対し、ハンの声は明るかった。

「私からは以上だ。他に何かあるか?」
「大丈夫ですよ。あっ、そういえばトレバーはどうでしょうかね? 少年も心配ですよ」
「さあ、我々が心配する必要は無いんじゃないか?」
「しかしトレバーは何も言ってくれないんですがね……」

 二人は天井を、正確にはビルの屋上を想像しながら見上げた。

 このビルの一番上で、少年がしごかれていると考えると……

「トレバーの教え方で分かるかがまず問題ですね……」
「ハ、ハハハ……」

 力ない笑いだけが周囲に広がる。

「わ、私はこの辺で。ちょっと用事がありまして」
「そ、そうか。時間取ってすまんかったな」

 ハンが我を取り戻したように手を振って部屋のドアを開ける。医師も手を振り返して、青年を見送った。

 ストーン医師との面談を終えてドアの向こうへハンは早足で移動し、同じビルの別な部屋へ。

 窓は無く、LED電球だけが部屋を照らしている。扉は廊下に面する一枚だけ。小規模な会議室程度の広さだった。

 この部屋の最も奥にあるモニターにハンの手が触れる。パネルを操作し、画面が浮かび上がった。

「交信開始……ドニー、忙しい時にごめん」
『構わんさ、大事な要件なのだろう』

 モニターに映ったのはやや大柄な黒人男性。その中でも肌の色と対照的な銀髪と、人類には稀な紫色の瞳が、まず印象に残る。

「じゃあ早速言おう。昨日「管理軍」の基地に侵入・強襲する計画を実行した時だが……」
『予め知ってはいる』
「相手の戦力が予想の倍以上に多かった。調べても出て来なかった機密を多く隠していた。簡単に言えば失敗だ」
『それで、どうした? 要件を言ってくれ』

 画面の人物の声は冷たいが、ハンを非難する様子もない。東洋人は内心でホッ、と息をつき、話を再開した。

「詳しい情報はデータを送る。今ここで言いたいのは、戦力の追加を要請したいって事なんだ。向こうの戦力は未知数だ。向こうが近々攻めてくる可能性も少なくはない」
『よし、“私達”から送ろう。南太平洋は「管理軍」の手は回ってこないだろうし、多少時間は掛かるにせよ確実に送り届けられる』
「感謝する。でも今でなくて良いんだ。こちらに回す分を準備万端で用意してくれれば良いだけだ。向こう側をかえって警戒させるだろうし」
『分かった。何かあれば何時でも言ってくれ』
「頼もしいよ。それじゃあ……」

 ハンは分かれの挨拶をしようとし、話を終えようとした。のだが、阻止された。

『ハン、何か言いたい事でもあるのか?』

 二秒の間が開いた。「今日は見抜かれてばかりだな……」と呟いたハンは頷きながら従った。

「送ったデータにもあると思うが、「管理軍」の施設からある少年を拾ったんだ。記憶は無いが、向こうの重要機密に関わっているかもしれない。実を言えば今度予想される「管理軍」の攻撃は彼が原因で起こる可能性もある」
『……それでも、お前はその少年を見捨てないんだな?』
「ああ」
『お前はその少年を信じているのだな?』
「そうだ」
『知る事は罪ではない、だが注意しろよ。私にはこれだけしか言えぬが』
「分かっているさ。任せてくれ」

 爽やかな笑顔で答えてみせるハン。頷いた画面の黒人の冷たい表情も和らいだ気がした。




















 五メートル後ろに吹き飛ばされたアダム、背中が地面に着く。後ろに転がり、素早く立ち上がる。

(速い)

 少年の五メートル前方に居るアラブ系の男性、トレバー。右手だけを前に出し、「来い」と手招き。

(どうやったら速くなれる?)

 地面を蹴り、距離が詰まる。折り畳んだ右腕を素早く突き出す。

 トレバーの右手がそれを感嘆に逸らした。止まらず、少年は向こうに反撃させる暇を与えぬよう、両腕を回転して多方向へパンチを送る。

(どうやったら当たる?)

 右フック、左ボディブロー、右裏拳、左肘――続けて左半身を前に、右回し蹴り、左回し蹴り、右裏拳――どれも防がれた。

 トレバーの左手がアダムの伸ばした右腕を掴む。

 アダムが左手を伸ばそうとする。だが、トレバーの右拳が先に少年の肘を打った。

 肘が曲がり拳が鈍る。トレバーの右手がアダムの左腕を止め、左掌が腹部を強打した。

 吹き飛ばされながら空中で後ろに一回転、そして丁度ヘリポートマークの円周の縁へ着地。

(どうやったら追い付く?)

 既に相手の姿はアダムの目前二メートルまで来ていた。慌てて両腕で顔を覆う。

 今度はトレバーのターン。アダムには反撃の余地が全く無い。

 顔面へ伸びるストレートを両手で受け取ったアダム。姿勢を低く、相手の腕を自分の肩に掛け、後ろへ投げ飛ばした。

 トレバーは宙を舞い、反対側へ綺麗に着地する。途端、アダムの跳び蹴りが目前に迫っていた。

 一発――腕でブロック。少年は諦めず、次々と両足を交互に蹴り出す。

 相手の腕が蹴りを逸らし、宙を漂う無防備なアダムに向かって掌――腰に衝撃。

 吹き飛び、背中から不時着。起き上がると反対側のヘリポートマークの端に居た。

(どうやったら避けられる?)

 静かに歩み寄る二者。後ろの少女が黙って見守る。

(どうやったら同じ事が出来る?)

 既に、互いの距離は三メートルにも満たなかった。

(どうやったら勝てる?)

 突如、トレバーの上半身が動いた。咄嗟に腕を頭へ。

 しかし、綺麗なフォームの横蹴りがアダムの胸を捉えていた。

「……」
「……」

 蹴りは寸止めだった。

 動かず、対峙。二人は黙ったまま顔を見合わせている。

 大人の方は冷えた視線で少年の目を覗く。対する少年の青い目は幾らか赤みを帯びていた。

 トレバーが口を開く事なく蹴りを戻し、ようやく言葉を発する。

「何故当たらないと思う? 何故防げないと思う? 何故勝てないと思う?」

 まるでアダムの考えを見通している様に。

「……動きが速過ぎる」

 余裕ある大人の口調。片や、子供は息が上がっていた。

「確かに、お前にとっては俺の動きは速いだろう。だが、俺にとっては当たり前に出来る事だ。その違いは何か」

 アダムは答えられなかった。

「信じろ」
「……何をだ?」
「お前自身だ。お前はまだこの世界を疑っている。だから何事も考える。お前は“信じるべきもの”を疑っている以上、進歩はしないだろう」

 意味が分からなかった。大人からの言葉はまだ終わらない。

「考えるな」
「……考えずにどうやれば良い?」
「感じろ」
「……何を感じ取れば良い?」
「それはじき分かる。そうだと分かる瞬間が来る」
「……そうすれば勝てるのか? あのように速くなれるのか?」
「それは少し違う」

 想定外の返答にアダムが黙った。

「お前が辿り着けるのは俺ではない、“お前”だ……まだ疑っているだろう」
「ああ、信じられない」
「“それ”はそこにある。“それ”が本当に分かった時、お前は信じる」

 断言。トレバーは自分の台詞に絶対の自信を持っている、そう思われた。アダムはそれを信じた。

「まだやるぞ。俺を討て」

 それを聞き構え直したアダム。彼の顔は迷いがなく、どこか晴れていた。表情は動いていない、が、何かが違う。

 屋上のドアの傍から、少年を見てそれに何となく気付いたアンジュリーナは、嬉しそうにほほ笑んだ。
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