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Category 1 :Recognition
1 : Infant
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眩しい。目が開かない。
明るさと共に、涙で何も見えない。手探りで辺りを調べる。
柔らかいものが皮膚に当たった。温かい。
人の手だろうか。
向こうがこちらの手を握り返した。
顔が見たい。だが見えない。光に満ち溢れている。
「どうして眩しいんだ?」
向こうの握る手から脈拍の変化によって困惑が読み取れた。
「えっと、眩しいの?」
答えた声は、まだ二十代以下であろう少女のものだ。きっと彼女にとっては普通の明るさなのだろう。
「そうだ」
そう答える。眩しくて良く見えなくても、相手の動きは分かる。見回し、何かを探しているらしい。
「これでどう?」
顔に何かが柔らかい物体が覆い被さる。それがタオルである事は見るまでもない。目に刺さる光が消えた。
「何故手を握っている?」
あまり良い気分ではない。
「えっ? あっ、ごめんなさい……」
別に悪く言っているつもりではないのだが、何故か彼女は戸惑いながら謝った。手は直ちに解放された。
まだ知りたい事は沢山ある。
「ここは何処だ?」
「医療テントよ。まだじっとしてて、貴方頭を強く打たれたのよ」
医療テント……一度起きた時と同じ所か。頭を強く殴られたのは覚えている。しかし、あの時は速過ぎて何が起こっているか良く分からなかった。
いや、そう訊いたつもりじゃない。
「外は乾燥した砂地みたいだった。何処に位置している?」
「い、位置?」
どう答えようかと慌て、あたふたしているのが口調と動きで読み取れる。
代わりに落ち着いた大人の男性の声が答えた。
「カルフォルニア北部の砂漠地帯だ。」
「砂漠……何故そんな所に?」
「説明してやりたいのは山々なんだが、話すべき事は山ほどあるし、その前に色々やらなければならない事もある。少年、お前もまだ起きたばかりで体が辛いだろう。だから今は休めよ。医者としての命令だぞ」
「……分かった」
「アンジュ、済まんがまだ彼の相手をしてやってくれんか? まだ仕事が残っているんだ」
「えっ? はい、大丈夫ですよ」
少女の声に、男性の方は安心した様に息を吐くと姿を引かせた。
滲んだ涙はまだ引かなかった。
「貴方は誰?」
再び先程の少女の声。自分への問いだという事は明らかだ。
「私はアンジュリーナ・フジタ。アンジュとも呼ばれているわ。」
誰か……名前……確か……頭が痛い。
知っている気がする……
何かが脳内に浮かんだ。
思い出した。
◇
「アダム」
背中でその声を聞いた。
「戻ってこい」
どうすれば良い?
◇
何かが教えてくれた気がした。
「……アダム……それが名前だ……多分……そして苗字は……アンダーソン……そう呼ばれていた……」
確信はない。
「アダム、良い名前ね」
しかし、相手からは不信感を読み取れなかった。信じてくれている。
そうなのか? いや待て、名前はこの際分かったとしよう。だが、それ以外は……
「何も分からない……」
こうして少なくとも対話する為の知識はある。目に被さっている布の名前がタオルだという事も知っている。カルフォルニアが北アメリカ大陸の西側にある事もだ。
しかし自分に関する事が全く分からない。名前以外は。
手が勝手に、小刻みに震えながら動く。
「何も覚えていないの?」
「……自分は誰なんだ?」
息が苦しい。
耳にも入っていなかった雑音がうるさい。
明るみが欲しい。
教えてくれ!
「落ち着いて!」
少女の訴えで我に返った。
少女の手が触れた。忙しく動く右手を握り、抑えた。
息が戻った。静かになった。光を浴びてもいないのに、明るかった。
「大丈夫、落ち着いて」
何の説得力も無かった。だが、自分でも自身の心拍が下がったのが分かった。
何故だ?
「私が貴方を絶対に助けてあげる。今はまだ思い出せないかもしれないけど、少しずつでも思い出せれば良いわよ」
左手でタオルを取った。
見えた。灰色の目と灰色の髪。
眩しい……
目を閉じた少年。アンジュリーナは少年が動いて崩れた毛布を掛け直した。
握る手の力が無くなった。安心し、手を毛布へ入れてあげた。
「寝たみたいです」
「そのようだな。やはり私の考えは間違ってはいないらしい」
「考え、ですか?」
少女に訊かれたチャックは得意げに語り始めた。
「前に言ったろう、この少年はいわゆる出産間もない赤ん坊と同じだって事だ。さっきの行動を見るだけでも分かる。外界と繋がる為の知識はあっても、実際に今まで外界なんかと関わりを持たなかったに違いない」
医者の生き生きとした得意げな口調は、次第に真面目さに変容していた。アンジュリーナも次第に引き込まれてゆく。
「彼は自分の記憶が無いって言ってました。きっとその事も関係するんでしょうか?」
「記憶喪失だってのは私にも聞こえたよ。しかし、人格的なものは記憶を失っても残るのだ、本来ならね。記憶は電気信号だが、人格というのは大きくは成長過程の環境に左右される。要するに記憶と人格は殆ど別物なのだ。つまりあの少年は記憶が無いどころか人格を形成する機会が一切無かったという訳だが……」
話を一旦止めたチャック。自分が言いたい事ばかり言っているので、アンジュリーナがついて行けているのか確かめる為だった。それを察知したアンジュリーナは「大丈夫です」と頷く。チャックが頷き返して再び口を開いた。
「で、あの少年についてだが、さっき彼の遺伝配列を調べた結果が出たんだ。戦闘中に電源が切れなくて良かったよ」
チャックは少年の横たわるベッドの隣にある椅子に座った。表示された机の上にあるコンピューターの液晶画面を指差して言う。アンジュリーナはチャックの隣にある椅子に座らず、立って画面を眺めた。
長い二重螺旋状の構造。隣に並ぶアルファベットの羅列。
「遺伝子配列の結果で分かったのが、彼が「トランセンド・マン」であるという事だ」
「やっぱりそうだったんですか?」
「そうじゃなきゃ説明出来ん事もあるだろう。しかし、興味深い所もあった。これを見てくれ」
視線ポインタによって、画面に表示された二重螺旋の構造物が動く。チャックが指を画面に触れたところで動きは止まった。
「この部分だ。分かるか?」
「ええっとー……」
少女の困惑した反応も無理はない。素人にいきなり専門知識を教えたってどうせ覚えない。自分勝手に進めていたチャックが反省しながら言う。
「済まん、説明する。生物のDNAが四種類の塩基からなるのは知っているだろう?」
「はいそれは、アデニン、グアニン、シトシン、チミンでしたっけ……それで、これのどこが興味深いんですか?」
アンジュリーナは当然、殆ど専門用語で埋め尽くされた画面を見ても、さっぱり分からない。そこでチャックが指を画面に置き、素早くタッチ。何回かクリック音が鳴った。
新たに表示された六種類の画像。物質の構造を示す立体CGだ。
「この右四つは生物なら皆持っている塩基対だが、問題はこの左二つだ……」
チャックは何故か間を置いた。気分が高ぶっているというより、これから言う事に緊張している雰囲気だった。
「未知の構造物だよ。残念ながらDNAの塩基は性質が決まっているのを利用して検査するから、条件に当てはまらないこれらがどんな構造かは分からないがね」
「……それじゃあ、彼はそのDNAの所為で何か異常でもあるんでしょうか……」
「可能性は否定出来ないね。まあここにある装置では分からんよ。まあ、帰ったら詳しく調べられる」
「そうですね……あっ、皆さんもう撤収準備しているみたいですよ」
「おおそうか。話に夢中になっていたな」
話は一旦終わり、椅子から立ち上がるチャック。先にアンジュリーナは手伝いに入っていた。
「テント片付け終わりました。他ももうすぐ終わります」
「そのようだな。皆、ご苦労さん。早く帰ってゆっくり休もう」
ハンが疲れに気を緩めながら大勢の兵士達に向かって言う。群衆は「終わった」だの「疲れた」だの言いながら散らばり、それぞれの車両に乗り込む。
「しかしレックス、君も良くやってくれた」
「いえいえ、なんのこれしき。スクランブル発進なら俺にお任せありです。そういやリョウはどうしたんです?」
手を横に振ったレックス。ついでに、という感じでハンに訊いた。リョウの姿は仮設基地の片付けが始まってから一度も見ていないのだ。
「さあね、まだストレス発散足りてないだろうし……先に帰ってるんじゃないか?」
「ハハハ、あいつらしいや。さて、俺達も帰りましょうや」
「そうだな」
振り向けば、荒野の向こう側からオレンジの光が差し込もうとしている。もうすぐ太陽が顔を出すだろう。
ふと、朝日に照らされ、人影が一つこちらに歩み寄っているのが見えた。
そしてその人物は、二人の方向を見返している。
「ハン、言っておきたい事がある」
レックスやハンよりも年配で落ち着きがある、正面のアラブ系の人物からの声。そして明確な意思がある。不思議と抑揚は無かった。
「勿論だ。君が自分から言ってくれるのは正しい事だと信じているよ」
柔らかなアジア人の声だが、トレバーの表情は固く、簡単に変わりそうにない。その雰囲気に打ち負け、自然と二人まで難しい顔になっていた。
「ハン、考えてみろ。敵基地を奇襲し大打撃を与える筈だった。だがこちらが襲撃された時、相手は少なくともこちらの戦力を上回っている程残っていた。どういう事か分かるか?」
「……まだ何か隠されているとでも言うのかい? それじゃあこの作戦は……」
「責めるつもりはないのだが、まだ秘密が多く残っている筈だ。あの少年や、俺が持ってきた死体だってそうだろう」
トレバーの無機質な断言はただ現実を伝えるだけ。しかし、ハンは見えない圧力に頭を押さえていた。
「これは失敗だな……二か月も前から練ったというのに、入念に調べたつもりだったのに……犠牲者をこんなに出す上にまだ判明していないことがこれだけ出るとは……」
「自分を責めないで下さいや、“指揮官”殿。俺だってもっと早く来ていりゃ……」
独り言で押し潰されるハンを見かねて、慰めようとレックスが声を掛ける。深呼吸してハンは、大丈夫だ、と手で制した。
「それにこれから気を緩めてもなるまい。帰還しても奴らはあの少年を狙いに来る筈だ」
「……ああ、まだ分からない事が沢山だ……もっと念入りに調べないと……」
容赦なきトレバーに、ハンが盲目的な独り言。更に上司の迷った様を見かねたレックスが声を掛けた。
「いや、もう念入りに調べたんでしょう? 敵の機密管理は少なくとも俺達を内部の深い所に入れさせないだけの防諜技術があるって事でしょうよ。でもハンさんならきっと“火の壁”だって破る事も出来ますよ」
「……いや、外部から侵入して調べた時に、それだけで見えるシステムの全容は既に分かってはいたんだ」
「というと?」
「恐らく向こうでは外部との関係を持たない独立したシステム回線を持っているに違いない。それも自分が調べたよりも大規模にね。外部からの侵入が出来ない以上どうやって調べるか……」
具体的に言ったハンの顔は悩みが幾分消えているように見えた。ただし、慰めようとしていたレックスは驚き呆れていた。
「……それって実際無理なんじゃないっすか?」
「違うんだ。カイルやドニーの力を借りたいと思っている」
「ああー、カイルなら障害物お構いなしだし……でもドニーさんの方はどうなんでしょう?」
「彼は言っていたよ。必要な時が来れば分かる、って」
「あの人らしい言い方っすね……相変わらず言う事が難しいもんだ……」
ラテン人が苦笑いを浮かべ、東洋人の表情は更に和らいだ。ちなみにアラブ人のは腕を組んで「行くぞ」と少し離れた車両にもたれ掛かっていた。
「さて、帰ろう。リョウも言っていたな。明日の事は明日考えれば良い、って。まあリョウが単に面倒臭がり、ってだけだろうけど」
「もうお腹ペコペコです。朝食は焼き立てのタコスでも食いに行きましょうよ」
「賛成。ポークのタコスなんてどうだい? 激辛にして、あとフレンチのコーヒーも一緒にね」
「韓国人の嗜好は分かりませんわ。第一朝だってのに濃すぎません?」
「それが丁度良いんだ。高級な日本牛よりも安上がりなアメリカンポークの方が僕にとってはご馳走なのさ。脂身がたまらないんだ。食にこそ刺激が必要だね」
「でも何故アジアの料理ってあんな辛いのかは俺にはサッパリですがね」
笑いながら二人は、それぞれ輸送車両の運転席と助手席に座った。
朝日が顔を出し、荒野が輝きに満ちる。
車が発進し、太陽に照らされながら既に走行中の車両の群れに加わった。
明るさと共に、涙で何も見えない。手探りで辺りを調べる。
柔らかいものが皮膚に当たった。温かい。
人の手だろうか。
向こうがこちらの手を握り返した。
顔が見たい。だが見えない。光に満ち溢れている。
「どうして眩しいんだ?」
向こうの握る手から脈拍の変化によって困惑が読み取れた。
「えっと、眩しいの?」
答えた声は、まだ二十代以下であろう少女のものだ。きっと彼女にとっては普通の明るさなのだろう。
「そうだ」
そう答える。眩しくて良く見えなくても、相手の動きは分かる。見回し、何かを探しているらしい。
「これでどう?」
顔に何かが柔らかい物体が覆い被さる。それがタオルである事は見るまでもない。目に刺さる光が消えた。
「何故手を握っている?」
あまり良い気分ではない。
「えっ? あっ、ごめんなさい……」
別に悪く言っているつもりではないのだが、何故か彼女は戸惑いながら謝った。手は直ちに解放された。
まだ知りたい事は沢山ある。
「ここは何処だ?」
「医療テントよ。まだじっとしてて、貴方頭を強く打たれたのよ」
医療テント……一度起きた時と同じ所か。頭を強く殴られたのは覚えている。しかし、あの時は速過ぎて何が起こっているか良く分からなかった。
いや、そう訊いたつもりじゃない。
「外は乾燥した砂地みたいだった。何処に位置している?」
「い、位置?」
どう答えようかと慌て、あたふたしているのが口調と動きで読み取れる。
代わりに落ち着いた大人の男性の声が答えた。
「カルフォルニア北部の砂漠地帯だ。」
「砂漠……何故そんな所に?」
「説明してやりたいのは山々なんだが、話すべき事は山ほどあるし、その前に色々やらなければならない事もある。少年、お前もまだ起きたばかりで体が辛いだろう。だから今は休めよ。医者としての命令だぞ」
「……分かった」
「アンジュ、済まんがまだ彼の相手をしてやってくれんか? まだ仕事が残っているんだ」
「えっ? はい、大丈夫ですよ」
少女の声に、男性の方は安心した様に息を吐くと姿を引かせた。
滲んだ涙はまだ引かなかった。
「貴方は誰?」
再び先程の少女の声。自分への問いだという事は明らかだ。
「私はアンジュリーナ・フジタ。アンジュとも呼ばれているわ。」
誰か……名前……確か……頭が痛い。
知っている気がする……
何かが脳内に浮かんだ。
思い出した。
◇
「アダム」
背中でその声を聞いた。
「戻ってこい」
どうすれば良い?
◇
何かが教えてくれた気がした。
「……アダム……それが名前だ……多分……そして苗字は……アンダーソン……そう呼ばれていた……」
確信はない。
「アダム、良い名前ね」
しかし、相手からは不信感を読み取れなかった。信じてくれている。
そうなのか? いや待て、名前はこの際分かったとしよう。だが、それ以外は……
「何も分からない……」
こうして少なくとも対話する為の知識はある。目に被さっている布の名前がタオルだという事も知っている。カルフォルニアが北アメリカ大陸の西側にある事もだ。
しかし自分に関する事が全く分からない。名前以外は。
手が勝手に、小刻みに震えながら動く。
「何も覚えていないの?」
「……自分は誰なんだ?」
息が苦しい。
耳にも入っていなかった雑音がうるさい。
明るみが欲しい。
教えてくれ!
「落ち着いて!」
少女の訴えで我に返った。
少女の手が触れた。忙しく動く右手を握り、抑えた。
息が戻った。静かになった。光を浴びてもいないのに、明るかった。
「大丈夫、落ち着いて」
何の説得力も無かった。だが、自分でも自身の心拍が下がったのが分かった。
何故だ?
「私が貴方を絶対に助けてあげる。今はまだ思い出せないかもしれないけど、少しずつでも思い出せれば良いわよ」
左手でタオルを取った。
見えた。灰色の目と灰色の髪。
眩しい……
目を閉じた少年。アンジュリーナは少年が動いて崩れた毛布を掛け直した。
握る手の力が無くなった。安心し、手を毛布へ入れてあげた。
「寝たみたいです」
「そのようだな。やはり私の考えは間違ってはいないらしい」
「考え、ですか?」
少女に訊かれたチャックは得意げに語り始めた。
「前に言ったろう、この少年はいわゆる出産間もない赤ん坊と同じだって事だ。さっきの行動を見るだけでも分かる。外界と繋がる為の知識はあっても、実際に今まで外界なんかと関わりを持たなかったに違いない」
医者の生き生きとした得意げな口調は、次第に真面目さに変容していた。アンジュリーナも次第に引き込まれてゆく。
「彼は自分の記憶が無いって言ってました。きっとその事も関係するんでしょうか?」
「記憶喪失だってのは私にも聞こえたよ。しかし、人格的なものは記憶を失っても残るのだ、本来ならね。記憶は電気信号だが、人格というのは大きくは成長過程の環境に左右される。要するに記憶と人格は殆ど別物なのだ。つまりあの少年は記憶が無いどころか人格を形成する機会が一切無かったという訳だが……」
話を一旦止めたチャック。自分が言いたい事ばかり言っているので、アンジュリーナがついて行けているのか確かめる為だった。それを察知したアンジュリーナは「大丈夫です」と頷く。チャックが頷き返して再び口を開いた。
「で、あの少年についてだが、さっき彼の遺伝配列を調べた結果が出たんだ。戦闘中に電源が切れなくて良かったよ」
チャックは少年の横たわるベッドの隣にある椅子に座った。表示された机の上にあるコンピューターの液晶画面を指差して言う。アンジュリーナはチャックの隣にある椅子に座らず、立って画面を眺めた。
長い二重螺旋状の構造。隣に並ぶアルファベットの羅列。
「遺伝子配列の結果で分かったのが、彼が「トランセンド・マン」であるという事だ」
「やっぱりそうだったんですか?」
「そうじゃなきゃ説明出来ん事もあるだろう。しかし、興味深い所もあった。これを見てくれ」
視線ポインタによって、画面に表示された二重螺旋の構造物が動く。チャックが指を画面に触れたところで動きは止まった。
「この部分だ。分かるか?」
「ええっとー……」
少女の困惑した反応も無理はない。素人にいきなり専門知識を教えたってどうせ覚えない。自分勝手に進めていたチャックが反省しながら言う。
「済まん、説明する。生物のDNAが四種類の塩基からなるのは知っているだろう?」
「はいそれは、アデニン、グアニン、シトシン、チミンでしたっけ……それで、これのどこが興味深いんですか?」
アンジュリーナは当然、殆ど専門用語で埋め尽くされた画面を見ても、さっぱり分からない。そこでチャックが指を画面に置き、素早くタッチ。何回かクリック音が鳴った。
新たに表示された六種類の画像。物質の構造を示す立体CGだ。
「この右四つは生物なら皆持っている塩基対だが、問題はこの左二つだ……」
チャックは何故か間を置いた。気分が高ぶっているというより、これから言う事に緊張している雰囲気だった。
「未知の構造物だよ。残念ながらDNAの塩基は性質が決まっているのを利用して検査するから、条件に当てはまらないこれらがどんな構造かは分からないがね」
「……それじゃあ、彼はそのDNAの所為で何か異常でもあるんでしょうか……」
「可能性は否定出来ないね。まあここにある装置では分からんよ。まあ、帰ったら詳しく調べられる」
「そうですね……あっ、皆さんもう撤収準備しているみたいですよ」
「おおそうか。話に夢中になっていたな」
話は一旦終わり、椅子から立ち上がるチャック。先にアンジュリーナは手伝いに入っていた。
「テント片付け終わりました。他ももうすぐ終わります」
「そのようだな。皆、ご苦労さん。早く帰ってゆっくり休もう」
ハンが疲れに気を緩めながら大勢の兵士達に向かって言う。群衆は「終わった」だの「疲れた」だの言いながら散らばり、それぞれの車両に乗り込む。
「しかしレックス、君も良くやってくれた」
「いえいえ、なんのこれしき。スクランブル発進なら俺にお任せありです。そういやリョウはどうしたんです?」
手を横に振ったレックス。ついでに、という感じでハンに訊いた。リョウの姿は仮設基地の片付けが始まってから一度も見ていないのだ。
「さあね、まだストレス発散足りてないだろうし……先に帰ってるんじゃないか?」
「ハハハ、あいつらしいや。さて、俺達も帰りましょうや」
「そうだな」
振り向けば、荒野の向こう側からオレンジの光が差し込もうとしている。もうすぐ太陽が顔を出すだろう。
ふと、朝日に照らされ、人影が一つこちらに歩み寄っているのが見えた。
そしてその人物は、二人の方向を見返している。
「ハン、言っておきたい事がある」
レックスやハンよりも年配で落ち着きがある、正面のアラブ系の人物からの声。そして明確な意思がある。不思議と抑揚は無かった。
「勿論だ。君が自分から言ってくれるのは正しい事だと信じているよ」
柔らかなアジア人の声だが、トレバーの表情は固く、簡単に変わりそうにない。その雰囲気に打ち負け、自然と二人まで難しい顔になっていた。
「ハン、考えてみろ。敵基地を奇襲し大打撃を与える筈だった。だがこちらが襲撃された時、相手は少なくともこちらの戦力を上回っている程残っていた。どういう事か分かるか?」
「……まだ何か隠されているとでも言うのかい? それじゃあこの作戦は……」
「責めるつもりはないのだが、まだ秘密が多く残っている筈だ。あの少年や、俺が持ってきた死体だってそうだろう」
トレバーの無機質な断言はただ現実を伝えるだけ。しかし、ハンは見えない圧力に頭を押さえていた。
「これは失敗だな……二か月も前から練ったというのに、入念に調べたつもりだったのに……犠牲者をこんなに出す上にまだ判明していないことがこれだけ出るとは……」
「自分を責めないで下さいや、“指揮官”殿。俺だってもっと早く来ていりゃ……」
独り言で押し潰されるハンを見かねて、慰めようとレックスが声を掛ける。深呼吸してハンは、大丈夫だ、と手で制した。
「それにこれから気を緩めてもなるまい。帰還しても奴らはあの少年を狙いに来る筈だ」
「……ああ、まだ分からない事が沢山だ……もっと念入りに調べないと……」
容赦なきトレバーに、ハンが盲目的な独り言。更に上司の迷った様を見かねたレックスが声を掛けた。
「いや、もう念入りに調べたんでしょう? 敵の機密管理は少なくとも俺達を内部の深い所に入れさせないだけの防諜技術があるって事でしょうよ。でもハンさんならきっと“火の壁”だって破る事も出来ますよ」
「……いや、外部から侵入して調べた時に、それだけで見えるシステムの全容は既に分かってはいたんだ」
「というと?」
「恐らく向こうでは外部との関係を持たない独立したシステム回線を持っているに違いない。それも自分が調べたよりも大規模にね。外部からの侵入が出来ない以上どうやって調べるか……」
具体的に言ったハンの顔は悩みが幾分消えているように見えた。ただし、慰めようとしていたレックスは驚き呆れていた。
「……それって実際無理なんじゃないっすか?」
「違うんだ。カイルやドニーの力を借りたいと思っている」
「ああー、カイルなら障害物お構いなしだし……でもドニーさんの方はどうなんでしょう?」
「彼は言っていたよ。必要な時が来れば分かる、って」
「あの人らしい言い方っすね……相変わらず言う事が難しいもんだ……」
ラテン人が苦笑いを浮かべ、東洋人の表情は更に和らいだ。ちなみにアラブ人のは腕を組んで「行くぞ」と少し離れた車両にもたれ掛かっていた。
「さて、帰ろう。リョウも言っていたな。明日の事は明日考えれば良い、って。まあリョウが単に面倒臭がり、ってだけだろうけど」
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「賛成。ポークのタコスなんてどうだい? 激辛にして、あとフレンチのコーヒーも一緒にね」
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「それが丁度良いんだ。高級な日本牛よりも安上がりなアメリカンポークの方が僕にとってはご馳走なのさ。脂身がたまらないんだ。食にこそ刺激が必要だね」
「でも何故アジアの料理ってあんな辛いのかは俺にはサッパリですがね」
笑いながら二人は、それぞれ輸送車両の運転席と助手席に座った。
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皇帝ガレスと娼婦ソーニャの間に生まれた第七皇子ルクスは、魔力が少ないからという理由で無能皇子と呼ばれ冷遇されていた。
だが実はルクスの中身は転生者であり、自分と母親の身を守るために、ルクスは魔法を極めることに。
毎日人知れず死に物狂いの努力を続けた結果、ルクスの体内魔力量は拡張されていき、魔法の威力もどんどん向上していき……
『なんだあの威力の魔法は…?』
『モンスターの群れをたった一人で壊滅させただと…?』
『どうやってあの年齢であの強さを手に入れたんだ…?』
『あいつを無能皇子と呼んだ奴はとんだ大間抜けだ…』
そして気がつけば周囲を畏怖させてしまうほどの魔法使いの逸材へと成長していたのだった。
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