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私はあらゆる困難を蹴飛ばせるスーパーヒーローじゃない。
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特別な人に触れられない苦しみを、味わった事はあるだろうか。
お互いを認知している、特別な人に。
触れられない。
触れたいのに。
『愛の力』なんて嘘っぱちだ。
私は浅原茜。大学生。
先日、付き合っていた男の子が交通事故で死んだ。私と同い年の、秋宮英祐という名前の子だった。
ところが、英祐の死を知らされた時も葬式の時も、私は泣かなかった。なぜなら……
「茜。今日の学食、何にする予定なんだい?」
「麻婆豆腐かな。前々から気になってたのよね」
英祐は幽霊となって、ずっと私の隣に居るからだ。
事を遡ると、英祐が死んだ日、死んだ時間の、ほんの少し後になる。部屋で寝転がってスマホをいじっていた私の目の前に、そこに居る筈の無い、英祐の姿が現れたのだ。私は飛び上がって、「なんで居るの!?」と聞いたが、英祐は英祐で、「いや、俺にも何が起こってるんだか……」と、煮え切らない返事をされてしまった。
その後、英祐は自分は交通事故に巻き込まれたのだろうという事と、自分が恐らく、死んでしまった事を私に話した。私は悲しんだが、英祐に涙を流す場面を見せたくなかったので、泣くのだけは我慢した。
まあ、一緒に居られるなら良いかという事で、私達は何でもないような顔で、日常を過ごす事にしたのだ。
「にしても、私に霊感があったとはね……」
「いや僕が見えるだけじゃない?一応、茜は僕の『未練』なんだし」
「どういう事なのそれ」
英祐はけらけらと笑って、宙で腹を抱えた。幽霊でも、可笑しい時は腹を抱えるんだな。まあそうか。生きてた頃もそうだったんだし。私も少し可笑しくて、ちょっとだけ吹き出してしまった。
今日も学食は混み合っている。私は人込みを掻き分けながら、食券機に向かう。
「俺は浮けるから高見の見物~」
「私も浮かせられない?」
「この中で浮くのは、きっと体だけじゃないだろうな」
「やっぱやめとく」
英祐は寝転がるような体勢で、天井ギリギリの所を浮いている。良いなあ。正直、この人の多さは少し鬱陶しいんだよな。仕方の無い事だけどさ。
私は食券を買って、カウンターで注文し、昼食を受け取った。丁度席が空いている。ありがたく座らせてもらおう。
「良いな~旨そうだな~」
「幽霊だから食べられないんだよね」
「食べ物にも未練残しておくんだったな~」
こういう時の悔しそうな顔が可愛いんだよな。生きてた頃と変わらない。
大学の講義が終わると、私はもう自由だ。どこか遊びに行こうかな。ああでも、金欠なんだよな。これじゃどこにも行けないや。
「あんなに服とか化粧品買うからだね~」
「必要なの!」
理解はあるけど、こういう所で正論を言われると苦しいな。いやでも欲しかった奴だし。仕方無い。うん。
「まあ、バイトの給料が出るのを待つしか無いか」
「そうだ。本屋で立ち読みでもしようよ。これならお金掛からない」
「こういう時、茜のずる賢さは凄いと思う」
『逞しい』って言って欲しい所だけど。まあ自分でもそう思うし、否定はしないでおこうかな。
「あ、コレ面白そうだな」
「へ~良いかも」
英祐が幽霊で便利な所は、こういう時にスペースを取らず、二人で同士に読める所だな。女子の中だと背が高い方な私と、男子の中ではそこまで高い訳でもない英祐の背丈は大して変わらないので、同時に同じ本を読むのは、そこそこハードルが高い。その点、幽霊なら浮いた状態で、上から覗き込むような形で読めるから、楽だ。
そう言えば、初めて会ったのも図書館だったな。読書が好きなのはお互いの共通点だから、気が合う部分が多かったのが、付き合う切っ掛けになった。
そう言えば、あの時から頑なに、手を繋ぐ以上の事はしなかったな。
バイトが始まる時間の少し前まで時間を潰した私は、自分のバイト先であるコンビニへ向かった。英祐は、私がバイトをしている間暇らしく、見張りという名目で、コンビニの天井近くを浮く。
「茜~面白い事無い~?」
「特別な事は起こらなくても良いよ。ああでも、詰まらないのはそうだね」
人通りが多い訳でもない場所にあるこのコンビニには、客が来る事も少ないので、私達は暇を持て余すのが常だった。その度、適当な事を話し合って、時間を潰すのだ。
「そうだ。しりとりでもしない?」
「良いね。どうせやる事も無いし」
私達は時間を潰して、バイトの時間が終わるのを待つ。語彙が豊富な私達のしりとりは、かなり長い物となって、バイトの時間を全て使っても、結局終わる事は無かった。
「茜ちゃん。そろそろ上がって良いよ」
「はい。お疲れ様でした」
コンビニを出た私は、暗くなり始めた道路を歩いて、自分のアパートへ向かう。
「にしても、いつまでこの世に居られるの?」
「分からないけど、成人式で見れるであろう茜の晴れ着姿を見るまでは、成仏したくないな」
これは英祐の口癖で、ずっと「茜の晴れ着姿を見るまでは死なない」と言っている。「私の親かな?」とは思うけど、私も英祐となるべく長く一緒に居たいから、正直それで良いんだよね。
「なんかさ、暇だよね」
「文句は言ってられないけどね」
「しりとりでもする?」
「さっきやったばっかじゃん」
私は部屋で寝転がりながら、英祐に暇潰しを要求している。英祐は「ここまで何も無いんじゃ、どうしようもね」と言うけど。
私はあまり、服や化粧品、小説以外の娯楽にお金を使わない。それ以外にお金を使ってると、金欠になってしまうから。まあ、その三つ以外にお金を回していない今も金欠なんだけど。最近高くなった電気代が憎い。
「そう言えば英祐、あんまり私に触らないよね。幽霊だから無駄なのは分かってるんだけど」
「いやまあ……はは」
「『はは』って何!?」
英祐はそう叫ぶ私に、また大笑いした。腹を抱えて笑う英祐に、私は少し頬を膨らませる。英祐はそんな私を見て、慌てて目尻に滲んだ涙を拭った。
「いやさ、あんまりベタベタすると嫌われるんじゃないかって不安でさ」
「ある程度なら大丈夫なのに~」
「ま、今となっては触れられないんだけどさ」
なら仕方無いか。冷たいのは苦手だし。幽霊が居る場所は気温が低いらしいし。
翌日。アパートの一室でくつろいでいた私を訪ねて来たのは、英祐のお母さんだった。彼女は少しの荷物を持って、私の部屋のインターホンを押した。
「はいはい……って、おばさん」
「こんにちは茜ちゃん。今、お邪魔しても?」
「ええ勿論。上がってください」
おばさんの急な来訪に、英祐も驚いている。勿論私もだが。しかし、今は良いお菓子も何も無い。もてなす事もできないな。どうしよう。
おばさんは私が案内した通りに、前からあった椅子に座った。私は取り敢えず、インスタントの紅茶を出す事にした。
「すみません。こんなのしか無くて」
「構わないわよ。急にお邪魔したのはこちらなんですもの」
にしても、急にどうしたんだろう。前にも来た事はあったけど、その度に何か連絡を入れてくれてたんだけど。嫌という訳でもないんだけど。
おばさんは私の知り合いの中で、英祐の思い出を多少共有できる唯一の人物だし、来てくれる事自体は嬉しい。それでも来るなら来るで、連絡はしてほしい部分はある。何も用意できていないし。
「急にどうしたんですか?」
「いやね。なんだか急に顔が見たくなっちゃったの」
おばさんの後ろを見ると、英祐が分かり易くほっとしている様子が見えた。英祐も、自分のお母さんに何かあった訳じゃなくて安心しているらしかった。そりゃ、急に自分の身内が訪ねて来たら、『何かあったんじゃないか』と思うよね。因みに、私も少しほっとしている。
「何かあった訳じゃなくて良かったです」
「そうよね。何も無いのが一番よね。英祐が守ってくれてるのかしら」
英祐も「違うけど、まあ良いか」と頷いている。私の傍にずっと居たけど、それでもお母さんの事は心配だったんだな。
私はふと、英祐の昔の事は知らないなと思った。英祐も私も、昔の事を気にするような性質じゃないし、知らないのも不自然な事じゃないんだけど。
「折角だし、英祐の昔の事聞いても良いですか?どんな子だったとか、何が好きだったとか」
「え!?」
「良いわよ。えっとね~」
「母さん!?」
ふふふ。幽霊ではこの話の邪魔はできまい。恥ずかしかったとしても、ただ見ているしかできないだろう。愉快愉快。
「昔はあの子は、大切な物はずっと抱き締めてたのよ。お気に入りのぬいぐるみとか、おもちゃとか」
「意外ですね」
「そりゃあ誰でも変わる物よ?昔から変わらない物なんて無いんだから」
英祐は天井近くを、赤くなった顔を両手で覆い隠しながら浮遊している。こういう所はレアだからね。ちょっとラッキーと思ったり。
「でもまあ、好きな物によく触れるのは変わらなかったわね。ぬいぐるみも、時々引っ張り出しては抱き着いてたわ。お友達にも、よくじゃれついてたらしいわ」
「そうなんですか?そんな印象無かったです」
「ええそうよ。ああでも、高校に上がってからは、そんなに家に友達を連れて来なくなったわね」
英祐は高校から同じ学校になった。友達が少ない訳でもなかったけど、そんなにじゃれついてたような印象は無いんだけどな。高校デビューかな。それならそうで良いけど、なんでそうなったんだろう。
「茜、その話題はやめてくれない?」
英祐はやっぱり、昔の事をアレコレ話されるのが苦手らしい。まあ、私も母親にこんなにペラペラ話されたら嫌だけど。まあ、止めてあげる気も無いけどね。
「昔の癖とかあるんですか?」
「そうねえ、昔のあの子はねえ……」
「恥ずかしい……」
その後も暫く、私とおばさんは話を続けた。英祐はその間、ずっと顔を覆って恥ずかしがっていた。
日が傾いて来た頃、おばさんは「そろそろお暇するわね」と言って、このアパートを出た。おばさんが部屋を出た後、私は英祐と話し始めた。
「ねえ英祐。おばさんああ言ってたけど、本当なの?」
「ええ?まあ……うん。そうだよ」
英祐はやっぱり恥ずかしいようで、まだ顔が赤い。今なら触れば温かそうだな。ちょっと面白いし、もうちょっといじってみようかな。
「友達によくじゃれついてたってのも?」
「そうだよ……」
「なんで止めちゃったの?」
「それは……」
顔を背けている!面白い!可愛い!もうちょっとだけやってみたい!私は更に、昔は友達にじゃれついていたという話について掘り下げる。
「なんで?」
「えっと……言いたくない」
「良いじゃん。もう昔の事だしさ~」
英祐がこんなに恥ずかしがる事なんて中々無いし、凄く面白い。自然と顔がにやける中で、私は更に、英祐に畳み掛ける。
「高校デビュー?何の為の?」
「えっとお……」
「やってた方がモテてたって!可愛いだろうし」
私は面白がって、英祐の半透明な肩に手を置こうとする。勿論、触れられない事は忘れて。
それがいけなかった。英祐は私の手を大袈裟に避けた。笑う私の視界に入ったのは、怒りや悲しみが滲んだ、英祐の顔だった。
「もうやめてくれよ!僕はもう死んでるんだ!昔の事なんて掘り返さないでくれよ!」
私はその声を聞いて、何か鉛のように重い物が、胸の奥に沈んだような気持ちになった。それと同時に、頭の中が不安だけで埋め尽くされ、自然と目尻に、熱い何かが零れた。
英祐はそんな私の顔を見て、凄く後悔したような顔に表情を変えた。そしてそのまま、窓をすり抜けて、外に出て行ってしまった。私はその後を追うように、窓を開けて、英祐が進んで行った方向に手を伸ばす。
そこには、既に英祐の姿は無かった。
それから一週間経った。英祐はまだ見つからない。私が一日で行って帰って来れる範囲を全部探しても、その姿は見つからなかった。
もう成仏してしまったんじゃないかと思ってしまう。英祐の未練が私だとしたら、喧嘩して別れてもう会わないのも、未練を断ち切る一つの形なんじゃないか。もしそうだったら、未練が無くなる訳だから、もう成仏していると考えるのが自然だろう。
だとしても、喧嘩別れしてそのままだなんて嫌だ。私が一方的に悪いのに、謝る事もできず永遠にお別れなんて、絶対一生後悔する。なんか嫌だ。
私は今日も、この辺りの心当たりがある場所を見て回る。最近行った場所を全部回って、毎日回って、それでも英祐の姿は見つからなかった。
私はここまで、英祐の事を知らなかったのか。喧嘩して、相手が居なくなった時に行く場所すら分からない。私はこの一週間で、自分の無知を実感した。そして痛感した。自分の行動の浅はかさが。謝りたい。それで許されなくても仕方無い。謝って、話して、それで少しは、英祐の事を知りたい。
でも、この辺りは全部探した。影も形も見つからなくて、私はとても、不安になってしまった。どこまで行ったんだろう。もう戻って来ないんじゃないか。もう会えないんじゃないか。もう話せないんじゃないか。もう声すら聞けないんじゃないか。もう……
ああそうだ。英祐が私と同じ学校に転校して来る前の、昔の家ならどうだろう。あそこなら、もしかしたら見つかるかも。そうと決まれば、おばさんにその場所を聞かなきゃ。私は携帯電話を取り出して、おばさんの電話番号に電話を掛ける。五コール程で、受話器を取る音が聞こえた。
『もしもし。茜ちゃんかしら?』
「あ、はい」
『どうしたの?急に電話なんて』
「えっと、おばさんと英祐が越して来る前の家を知りたいんですけど」
私がそう聞くと、おばさんは気まずそうな声を出した。どうやら、あまり私に教えたくないようだ。しかし今回ばかりは、引き下がる訳にも行かない。
「教えてください。英祐の事を知りたいんです」
おばさんは口を紡ぐ。受話器の向こうからは、少しだけ荒くなった息遣いだけが聞こえて来る。そのまま一分程、この状態が続く。
私もそろそろ我慢の限界になりそうな頃だった。おばさんは口を開き、押し殺すような声で、私にその場所を話し始めた。
『分かったわ。ちょっと待っててちょうだい。今メールで送るわ』
少し間を置いて、私の携帯に通知が来た。どうやら住所を送ってくれたらしい。
「ありがとうございます」
『でも急にどうしたの?私達の昔の家なんて、もう何も無いわよ?もう取り壊されている筈だもの』
「それでも良いんです。行ってみたいだけですから」
私はお礼を言って、電話を切った。メールを確認すると、ここから少し離れた場所だった。でもこの距離なら、二日も使えばなんとかなる筈だ。私は早速荷物を纏めて、明日から始まる休日に備えた。
翌日。私はいつも以上に早起きして、最寄りの駅に向かった。ここら辺で唯一、新幹線が通っている駅に向かい、新幹線に乗り込む。
私は本を開こうとしたが、頭の中には英祐の事しか無かった。無論集中できる筈も無く、私は取り敢えず、外の風景を眺める事にした。周りよりも高い場所にある車両は、少しずつ速度を上げ、目的地へ向かって行く。私は段々高くなる電車の音を聞きながら、英祐の事を考える。
会えたら、どう話せば良いんだろう。何を話せば良いんだろう。先ずは謝ろう。それから、もし『教えてあげる』と言ってくれたら、昔の事を知りたいな。どんな子供だったとか、何が好きだったとか、どんな事があったとか、色んな、思い付く限り沢山の、英祐を知る為の言葉を数えよう。そしたら、少しは気が紛れるかも知れない。
「会いたいな……」
窓の外のは田んぼばかりが広がっていて、遠くの景色までよく見える。私は窓の外を見ながら、まるで景色を眺めてはいなかった。
やがて目的地に着く。二、三時間程使って来たその場所は、私の大学がある場所よりも栄えているように見えた。私は駅を出て、英祐が昔暮らしていた家に向かって歩き始めた。
その場所は、この駅からは遠いが、歩いて行けない距離を示していた。何より、ここが一番近くの駅だから仕方が無い事だ。私はその道の間に、英祐の姿が無いかを探しながら歩いた。
駅を出てから一時間程経って、もうすぐ十一時になろうかという所で、私はその場所に辿り着いた。そこには既にコンビニが建設されていて、住宅があった場所とは思えなかった。
少し早いけど、歩き続けてお腹も空いたし、軽くお昼ご飯にしようかな。私はコンビニの中に入り、適当な弁当を買った。
さてどこで食べよう。弁当にしちゃったし、なるべくそこら辺で食べるのは避けたいんだけどな。私は温めてもらった弁当が入ったビニール袋を持って、少し歩く。結構近くに河川敷が見つかったので、そこで食べる事にした。
英祐もここに来たのかな。ここに来て、遊んで、汚れた服で帰ったのかな。私は愉快な妄想をして、口元に少し笑みを浮かべる。
昼食を終えた私は、近くにある商店街に行ってみる事にした。英祐は賑やかな所が好きだったし、もしかしたらそこに居るかも知れない。私は食べ終わった弁当をビニール袋に仕舞い、それをバッグに入れる。
休日の商店街はかなり賑わっていて、人が沢山居た。私は周囲を見回しながら、人を掻き分けて進む。
商店街を一通り見終わって、ここには居ないのだと思った時、私はふと、違和感を感じた。何の変哲も無い脇道が、少し変に見えたのだ。私はそこに近付き、何かあるのか確かめようとする。
「茜!待って!」
「え?」
唐突に聞こえた、聞き覚えのあるその声に、私は後ろを振り向く。そこには、半透明の男の子、英祐の姿があった。
「英祐!」
英祐は『しまった』というような顔をして、直ぐにどこかに飛んで行ってしまう。私は慌てて後を追い掛けるが、途中で見失ってしまった。
「英祐……」
ここに居たんだ。この町に居たんだ。会える。きっと。間違い無く。私の心の中に少しの希望が灯り、疲れていた筈の体には、気力が満ちた。
だが、その後どれだけ探しても、英祐は見つからなかった。
私はその日、夜中まで英祐を探して、結局疲れ果ててしまった。何時の間にか河川敷まで戻っていた私は、痛む足と疲れた体を地面に投げ、脱力する。
「英祐……どこに居るんだろ」
本当に疲れた。この辺りに居るんだろうけど、それが全く見つからない。どこに居るんだろう。この町は粗方見終わったけど、それでも見つからないなんて。あの時見つけられたのが最後なのかもな。
その考えに至った所で、私の目から熱い物が溢れた。体は疲れ果て、十分な気力も無くなってしまった私は、それを手で拭う事すらしなかった。会いたいな。謝りたい。できるなら、もう一度前のように一緒に居たい。でも、今のままじゃ叶わない。
その時、涙を垂れ流している私の視界に、突然人の顔が入った。私は寝転がったまま、その目を見る。
「英祐……」
「ごめんね。話さないといけなかったんだ」
英祐はそう言って、私の隣に座った。
「実はさ、兄貴が居たんだ。俺より不器用な人でさ、今は何をしてるのかも分からない」
英祐から、おばさん以外の家族の話を聞く事が無かった私は、その言葉に驚いた。「転校する前に別れたの?」と聞くと、英祐は「そうだよ」と答えた。
「その前に親父も死んで、母さんは一人で俺と兄貴を育てるつもりだったらしいんだ。でも、なんでか急に引っ越す事になって、兄貴は別の人の所に行ったらしい」
英祐の声に涙が混じり始める頃には、私も少しは気力が湧いて、上体だけ起き上がった。英祐は、どこか遠くを懐かしむような顔で、対岸の灯りを見つめている。
「俺は兄貴が好きだったしさ、母さんに泣きついたよ。『なんで兄さんは一緒じゃないの』ってさ。それから、俺は誰かに触るのが嫌になったんだ。なんでかも分からないけど、なんか、嫌になったんだ」
「居なくなっちゃうかもって?」
「そんなんじゃない。突然、ステージの照明が切れるような感じで、怖くなったんだ。理由も知らない」
お父さんが死んで、お兄さんと別れて、きっと辛かったんだろうな。私は英祐の頭に手を伸ばし、撫でようとする。英祐はそれに気が付くと、飛び退いて避けた。
「あ、ごめ……」
「ああいや、茜が悪いんじゃない。たださ、怖いんだ」
「生きてた頃みたいに?」
「違うんだ。もしこの手で触れられなかったら、きっと虚しい。俺も、茜も。それが怖いんだ」
私は「そっか……」と言って、伸ばした手を戻す。英祐は再び私の隣に座ると、「続きだよ」と言って、話を始めた。
「転校した先でさ、凄い……何て言うのかな……なんか、かっこいい子を見つけたんだ。その子は凄い子で、皆の中心みたいな子で、それで……かわいかった」
英祐の顔が赤くなる。私もなんでか、顔が熱くなって来る。私は恥ずかしくなって、顔を英祐から背ける。
「俺はその子の視界を占有したくて、その子は承諾してくれた。それで、俺が死ぬまで一緒だった」
恥ずかしくて恥ずかしくて、私は少し、変な声を漏らしてしまう。それを英祐が軽く笑うから、私は一層恥ずかしくなった。だけど英祐の表情は、そこで硬くなった。英祐は突然呻き声を上げ、体を丸めた。
「英祐!?」
「大丈夫……続きだよ。死んだ後も、俺はその子の傍に居れた。まだその子の視界に入れる事が嬉しくて、俺は生まれて初めて、神様っていう物を信じようと思ったんだ。だけど、何事にも終わりってのはある物なんだな」
そう言って英祐は、私とは逆の方に置いていた手を、私に見せる。その手は、もう消えかかっていた。
「英祐、これって?」
「幽霊になってからさ、なんか分かるんだ。後どれ位、このままで居られるのかって」
英祐の体を見ると、もう右足も、足首から先が無くなっている。私は泣きそうになって、それでも涙を流すまいと、下唇を噛んだ。
「なんで……言わなかったの?」
「悲しませると思ったから。だから出て行った時、実は『丁度良い』と思ったんだ。一人で勝手に消えれば、それで良いかなと思って」
「良くないよ……何も良くない!」
私は怒って、怠い体を立ち上がらせて英祐を睨む。英祐は困ったような顔で、「分かってる」と言った。
「だから、今話をしたいんだ。多分、消えるとしたら今夜だ。見た目を取り繕うのも辛い。それで、やっぱり最後に、茜に会いたくなったんだだから茜に会った時、凄く嬉しかった。だけど、茜があまりにも辛そうな顔をするから、俺はなんか、罪悪感ってのかな。それで逃げた」
「そんな事……」
「あったんだよ。でも、今日の内にまた会えて良かった。最後に、言いたい事があったんだ」
英祐は立ち上がって私と目線を合わせ、唯一、たった唯一の言葉を私に伝える。
「あいしてる」
英祐の体は、その瞬間も消え続けている。私はそれを見るのが辛くて、英祐の体に抱き着いた。英祐は避けようとしたけど間に合わず、私に押し倒されてしまった。
そして笑った。「もっと早くこうしておけば良かった」と。「今までの俺が馬鹿みたいじゃないか」と。
体が全て消えるより前に、私も一つ、やりたい事があったのを思い出した。謝る事も忘れて、もっと他の、言いたい事も忘れて、英祐の言葉への答えのように、私は英祐の顎を、撫でるように押さえた。
一瞬間が空く。英祐は驚いた顔で、自分の唇を撫でる。私もその感触を忘れない内に、何か言う間を与えない内に、英祐と同じ言葉を放つ。
「あいしてる」
また少し、間を置いた後で、英祐は笑った。もう喉も消えて、声も発する事すらできないようだったが、彼は口で私にこう伝えた。
『ありがとう』と。
それから暫く経って、私は成人式に出た。母さんから借りた晴れ着は、久し振りに洗濯したばかりだったのか、柔軟剤の匂いがした。父さんと母さんは感極まったのか、涙で濡れた目元を、お気に入りのハンカチで拭っていた。
成人式で、私は昔からの知り合いと会って、それぞれの今までの経験を話す。久し振りに会う皆の中には、すっかり変化した人も居れば、良くも悪くも変わらない人も居た。話して、笑って、泣いて、怒って、また笑って……久し振りにあった友人との話は、そこそこ盛り上がった。積もる話をしている内に、時間はあっと言う間に過ぎる。私は父さんの車に乗せられて、実家に帰る。
私は、母さんに晴れ着を返す前に、『一枚だけ写真を撮ってもらえないか』と頼んだ。母さんは『断る理由が無い』と言って、喜んで写真を撮ってくれた。晴れ着を着て、できる限りのおめかしをした私の写真を。
母さんは『誰に送るのか』と聞いた。私は少し言葉を選んでから、彼と過ごした日々を思い浮かべて、満面の笑顔で答えた。
「この世もあの世も全部含めて、私が一番大好きな人に!」
母さんは笑いながら、「やっぱり、笑顔が似合う子ね」と言った。
私は、あらゆる困難を蹴飛ばせるスーパーヒーローじゃない。
できる事には限りがあるし、できない事の方が多い。
困難が目の前に立ち塞がったら、絶望してしまうだろう。
それでも、歩みを止める訳にはいかない。
歩みは決して、止まる事は無いだろう。
私が抱えている物は、後悔や無念よりも、彼と過ごした思い出の方が大きいから。
お互いを認知している、特別な人に。
触れられない。
触れたいのに。
『愛の力』なんて嘘っぱちだ。
私は浅原茜。大学生。
先日、付き合っていた男の子が交通事故で死んだ。私と同い年の、秋宮英祐という名前の子だった。
ところが、英祐の死を知らされた時も葬式の時も、私は泣かなかった。なぜなら……
「茜。今日の学食、何にする予定なんだい?」
「麻婆豆腐かな。前々から気になってたのよね」
英祐は幽霊となって、ずっと私の隣に居るからだ。
事を遡ると、英祐が死んだ日、死んだ時間の、ほんの少し後になる。部屋で寝転がってスマホをいじっていた私の目の前に、そこに居る筈の無い、英祐の姿が現れたのだ。私は飛び上がって、「なんで居るの!?」と聞いたが、英祐は英祐で、「いや、俺にも何が起こってるんだか……」と、煮え切らない返事をされてしまった。
その後、英祐は自分は交通事故に巻き込まれたのだろうという事と、自分が恐らく、死んでしまった事を私に話した。私は悲しんだが、英祐に涙を流す場面を見せたくなかったので、泣くのだけは我慢した。
まあ、一緒に居られるなら良いかという事で、私達は何でもないような顔で、日常を過ごす事にしたのだ。
「にしても、私に霊感があったとはね……」
「いや僕が見えるだけじゃない?一応、茜は僕の『未練』なんだし」
「どういう事なのそれ」
英祐はけらけらと笑って、宙で腹を抱えた。幽霊でも、可笑しい時は腹を抱えるんだな。まあそうか。生きてた頃もそうだったんだし。私も少し可笑しくて、ちょっとだけ吹き出してしまった。
今日も学食は混み合っている。私は人込みを掻き分けながら、食券機に向かう。
「俺は浮けるから高見の見物~」
「私も浮かせられない?」
「この中で浮くのは、きっと体だけじゃないだろうな」
「やっぱやめとく」
英祐は寝転がるような体勢で、天井ギリギリの所を浮いている。良いなあ。正直、この人の多さは少し鬱陶しいんだよな。仕方の無い事だけどさ。
私は食券を買って、カウンターで注文し、昼食を受け取った。丁度席が空いている。ありがたく座らせてもらおう。
「良いな~旨そうだな~」
「幽霊だから食べられないんだよね」
「食べ物にも未練残しておくんだったな~」
こういう時の悔しそうな顔が可愛いんだよな。生きてた頃と変わらない。
大学の講義が終わると、私はもう自由だ。どこか遊びに行こうかな。ああでも、金欠なんだよな。これじゃどこにも行けないや。
「あんなに服とか化粧品買うからだね~」
「必要なの!」
理解はあるけど、こういう所で正論を言われると苦しいな。いやでも欲しかった奴だし。仕方無い。うん。
「まあ、バイトの給料が出るのを待つしか無いか」
「そうだ。本屋で立ち読みでもしようよ。これならお金掛からない」
「こういう時、茜のずる賢さは凄いと思う」
『逞しい』って言って欲しい所だけど。まあ自分でもそう思うし、否定はしないでおこうかな。
「あ、コレ面白そうだな」
「へ~良いかも」
英祐が幽霊で便利な所は、こういう時にスペースを取らず、二人で同士に読める所だな。女子の中だと背が高い方な私と、男子の中ではそこまで高い訳でもない英祐の背丈は大して変わらないので、同時に同じ本を読むのは、そこそこハードルが高い。その点、幽霊なら浮いた状態で、上から覗き込むような形で読めるから、楽だ。
そう言えば、初めて会ったのも図書館だったな。読書が好きなのはお互いの共通点だから、気が合う部分が多かったのが、付き合う切っ掛けになった。
そう言えば、あの時から頑なに、手を繋ぐ以上の事はしなかったな。
バイトが始まる時間の少し前まで時間を潰した私は、自分のバイト先であるコンビニへ向かった。英祐は、私がバイトをしている間暇らしく、見張りという名目で、コンビニの天井近くを浮く。
「茜~面白い事無い~?」
「特別な事は起こらなくても良いよ。ああでも、詰まらないのはそうだね」
人通りが多い訳でもない場所にあるこのコンビニには、客が来る事も少ないので、私達は暇を持て余すのが常だった。その度、適当な事を話し合って、時間を潰すのだ。
「そうだ。しりとりでもしない?」
「良いね。どうせやる事も無いし」
私達は時間を潰して、バイトの時間が終わるのを待つ。語彙が豊富な私達のしりとりは、かなり長い物となって、バイトの時間を全て使っても、結局終わる事は無かった。
「茜ちゃん。そろそろ上がって良いよ」
「はい。お疲れ様でした」
コンビニを出た私は、暗くなり始めた道路を歩いて、自分のアパートへ向かう。
「にしても、いつまでこの世に居られるの?」
「分からないけど、成人式で見れるであろう茜の晴れ着姿を見るまでは、成仏したくないな」
これは英祐の口癖で、ずっと「茜の晴れ着姿を見るまでは死なない」と言っている。「私の親かな?」とは思うけど、私も英祐となるべく長く一緒に居たいから、正直それで良いんだよね。
「なんかさ、暇だよね」
「文句は言ってられないけどね」
「しりとりでもする?」
「さっきやったばっかじゃん」
私は部屋で寝転がりながら、英祐に暇潰しを要求している。英祐は「ここまで何も無いんじゃ、どうしようもね」と言うけど。
私はあまり、服や化粧品、小説以外の娯楽にお金を使わない。それ以外にお金を使ってると、金欠になってしまうから。まあ、その三つ以外にお金を回していない今も金欠なんだけど。最近高くなった電気代が憎い。
「そう言えば英祐、あんまり私に触らないよね。幽霊だから無駄なのは分かってるんだけど」
「いやまあ……はは」
「『はは』って何!?」
英祐はそう叫ぶ私に、また大笑いした。腹を抱えて笑う英祐に、私は少し頬を膨らませる。英祐はそんな私を見て、慌てて目尻に滲んだ涙を拭った。
「いやさ、あんまりベタベタすると嫌われるんじゃないかって不安でさ」
「ある程度なら大丈夫なのに~」
「ま、今となっては触れられないんだけどさ」
なら仕方無いか。冷たいのは苦手だし。幽霊が居る場所は気温が低いらしいし。
翌日。アパートの一室でくつろいでいた私を訪ねて来たのは、英祐のお母さんだった。彼女は少しの荷物を持って、私の部屋のインターホンを押した。
「はいはい……って、おばさん」
「こんにちは茜ちゃん。今、お邪魔しても?」
「ええ勿論。上がってください」
おばさんの急な来訪に、英祐も驚いている。勿論私もだが。しかし、今は良いお菓子も何も無い。もてなす事もできないな。どうしよう。
おばさんは私が案内した通りに、前からあった椅子に座った。私は取り敢えず、インスタントの紅茶を出す事にした。
「すみません。こんなのしか無くて」
「構わないわよ。急にお邪魔したのはこちらなんですもの」
にしても、急にどうしたんだろう。前にも来た事はあったけど、その度に何か連絡を入れてくれてたんだけど。嫌という訳でもないんだけど。
おばさんは私の知り合いの中で、英祐の思い出を多少共有できる唯一の人物だし、来てくれる事自体は嬉しい。それでも来るなら来るで、連絡はしてほしい部分はある。何も用意できていないし。
「急にどうしたんですか?」
「いやね。なんだか急に顔が見たくなっちゃったの」
おばさんの後ろを見ると、英祐が分かり易くほっとしている様子が見えた。英祐も、自分のお母さんに何かあった訳じゃなくて安心しているらしかった。そりゃ、急に自分の身内が訪ねて来たら、『何かあったんじゃないか』と思うよね。因みに、私も少しほっとしている。
「何かあった訳じゃなくて良かったです」
「そうよね。何も無いのが一番よね。英祐が守ってくれてるのかしら」
英祐も「違うけど、まあ良いか」と頷いている。私の傍にずっと居たけど、それでもお母さんの事は心配だったんだな。
私はふと、英祐の昔の事は知らないなと思った。英祐も私も、昔の事を気にするような性質じゃないし、知らないのも不自然な事じゃないんだけど。
「折角だし、英祐の昔の事聞いても良いですか?どんな子だったとか、何が好きだったとか」
「え!?」
「良いわよ。えっとね~」
「母さん!?」
ふふふ。幽霊ではこの話の邪魔はできまい。恥ずかしかったとしても、ただ見ているしかできないだろう。愉快愉快。
「昔はあの子は、大切な物はずっと抱き締めてたのよ。お気に入りのぬいぐるみとか、おもちゃとか」
「意外ですね」
「そりゃあ誰でも変わる物よ?昔から変わらない物なんて無いんだから」
英祐は天井近くを、赤くなった顔を両手で覆い隠しながら浮遊している。こういう所はレアだからね。ちょっとラッキーと思ったり。
「でもまあ、好きな物によく触れるのは変わらなかったわね。ぬいぐるみも、時々引っ張り出しては抱き着いてたわ。お友達にも、よくじゃれついてたらしいわ」
「そうなんですか?そんな印象無かったです」
「ええそうよ。ああでも、高校に上がってからは、そんなに家に友達を連れて来なくなったわね」
英祐は高校から同じ学校になった。友達が少ない訳でもなかったけど、そんなにじゃれついてたような印象は無いんだけどな。高校デビューかな。それならそうで良いけど、なんでそうなったんだろう。
「茜、その話題はやめてくれない?」
英祐はやっぱり、昔の事をアレコレ話されるのが苦手らしい。まあ、私も母親にこんなにペラペラ話されたら嫌だけど。まあ、止めてあげる気も無いけどね。
「昔の癖とかあるんですか?」
「そうねえ、昔のあの子はねえ……」
「恥ずかしい……」
その後も暫く、私とおばさんは話を続けた。英祐はその間、ずっと顔を覆って恥ずかしがっていた。
日が傾いて来た頃、おばさんは「そろそろお暇するわね」と言って、このアパートを出た。おばさんが部屋を出た後、私は英祐と話し始めた。
「ねえ英祐。おばさんああ言ってたけど、本当なの?」
「ええ?まあ……うん。そうだよ」
英祐はやっぱり恥ずかしいようで、まだ顔が赤い。今なら触れば温かそうだな。ちょっと面白いし、もうちょっといじってみようかな。
「友達によくじゃれついてたってのも?」
「そうだよ……」
「なんで止めちゃったの?」
「それは……」
顔を背けている!面白い!可愛い!もうちょっとだけやってみたい!私は更に、昔は友達にじゃれついていたという話について掘り下げる。
「なんで?」
「えっと……言いたくない」
「良いじゃん。もう昔の事だしさ~」
英祐がこんなに恥ずかしがる事なんて中々無いし、凄く面白い。自然と顔がにやける中で、私は更に、英祐に畳み掛ける。
「高校デビュー?何の為の?」
「えっとお……」
「やってた方がモテてたって!可愛いだろうし」
私は面白がって、英祐の半透明な肩に手を置こうとする。勿論、触れられない事は忘れて。
それがいけなかった。英祐は私の手を大袈裟に避けた。笑う私の視界に入ったのは、怒りや悲しみが滲んだ、英祐の顔だった。
「もうやめてくれよ!僕はもう死んでるんだ!昔の事なんて掘り返さないでくれよ!」
私はその声を聞いて、何か鉛のように重い物が、胸の奥に沈んだような気持ちになった。それと同時に、頭の中が不安だけで埋め尽くされ、自然と目尻に、熱い何かが零れた。
英祐はそんな私の顔を見て、凄く後悔したような顔に表情を変えた。そしてそのまま、窓をすり抜けて、外に出て行ってしまった。私はその後を追うように、窓を開けて、英祐が進んで行った方向に手を伸ばす。
そこには、既に英祐の姿は無かった。
それから一週間経った。英祐はまだ見つからない。私が一日で行って帰って来れる範囲を全部探しても、その姿は見つからなかった。
もう成仏してしまったんじゃないかと思ってしまう。英祐の未練が私だとしたら、喧嘩して別れてもう会わないのも、未練を断ち切る一つの形なんじゃないか。もしそうだったら、未練が無くなる訳だから、もう成仏していると考えるのが自然だろう。
だとしても、喧嘩別れしてそのままだなんて嫌だ。私が一方的に悪いのに、謝る事もできず永遠にお別れなんて、絶対一生後悔する。なんか嫌だ。
私は今日も、この辺りの心当たりがある場所を見て回る。最近行った場所を全部回って、毎日回って、それでも英祐の姿は見つからなかった。
私はここまで、英祐の事を知らなかったのか。喧嘩して、相手が居なくなった時に行く場所すら分からない。私はこの一週間で、自分の無知を実感した。そして痛感した。自分の行動の浅はかさが。謝りたい。それで許されなくても仕方無い。謝って、話して、それで少しは、英祐の事を知りたい。
でも、この辺りは全部探した。影も形も見つからなくて、私はとても、不安になってしまった。どこまで行ったんだろう。もう戻って来ないんじゃないか。もう会えないんじゃないか。もう話せないんじゃないか。もう声すら聞けないんじゃないか。もう……
ああそうだ。英祐が私と同じ学校に転校して来る前の、昔の家ならどうだろう。あそこなら、もしかしたら見つかるかも。そうと決まれば、おばさんにその場所を聞かなきゃ。私は携帯電話を取り出して、おばさんの電話番号に電話を掛ける。五コール程で、受話器を取る音が聞こえた。
『もしもし。茜ちゃんかしら?』
「あ、はい」
『どうしたの?急に電話なんて』
「えっと、おばさんと英祐が越して来る前の家を知りたいんですけど」
私がそう聞くと、おばさんは気まずそうな声を出した。どうやら、あまり私に教えたくないようだ。しかし今回ばかりは、引き下がる訳にも行かない。
「教えてください。英祐の事を知りたいんです」
おばさんは口を紡ぐ。受話器の向こうからは、少しだけ荒くなった息遣いだけが聞こえて来る。そのまま一分程、この状態が続く。
私もそろそろ我慢の限界になりそうな頃だった。おばさんは口を開き、押し殺すような声で、私にその場所を話し始めた。
『分かったわ。ちょっと待っててちょうだい。今メールで送るわ』
少し間を置いて、私の携帯に通知が来た。どうやら住所を送ってくれたらしい。
「ありがとうございます」
『でも急にどうしたの?私達の昔の家なんて、もう何も無いわよ?もう取り壊されている筈だもの』
「それでも良いんです。行ってみたいだけですから」
私はお礼を言って、電話を切った。メールを確認すると、ここから少し離れた場所だった。でもこの距離なら、二日も使えばなんとかなる筈だ。私は早速荷物を纏めて、明日から始まる休日に備えた。
翌日。私はいつも以上に早起きして、最寄りの駅に向かった。ここら辺で唯一、新幹線が通っている駅に向かい、新幹線に乗り込む。
私は本を開こうとしたが、頭の中には英祐の事しか無かった。無論集中できる筈も無く、私は取り敢えず、外の風景を眺める事にした。周りよりも高い場所にある車両は、少しずつ速度を上げ、目的地へ向かって行く。私は段々高くなる電車の音を聞きながら、英祐の事を考える。
会えたら、どう話せば良いんだろう。何を話せば良いんだろう。先ずは謝ろう。それから、もし『教えてあげる』と言ってくれたら、昔の事を知りたいな。どんな子供だったとか、何が好きだったとか、どんな事があったとか、色んな、思い付く限り沢山の、英祐を知る為の言葉を数えよう。そしたら、少しは気が紛れるかも知れない。
「会いたいな……」
窓の外のは田んぼばかりが広がっていて、遠くの景色までよく見える。私は窓の外を見ながら、まるで景色を眺めてはいなかった。
やがて目的地に着く。二、三時間程使って来たその場所は、私の大学がある場所よりも栄えているように見えた。私は駅を出て、英祐が昔暮らしていた家に向かって歩き始めた。
その場所は、この駅からは遠いが、歩いて行けない距離を示していた。何より、ここが一番近くの駅だから仕方が無い事だ。私はその道の間に、英祐の姿が無いかを探しながら歩いた。
駅を出てから一時間程経って、もうすぐ十一時になろうかという所で、私はその場所に辿り着いた。そこには既にコンビニが建設されていて、住宅があった場所とは思えなかった。
少し早いけど、歩き続けてお腹も空いたし、軽くお昼ご飯にしようかな。私はコンビニの中に入り、適当な弁当を買った。
さてどこで食べよう。弁当にしちゃったし、なるべくそこら辺で食べるのは避けたいんだけどな。私は温めてもらった弁当が入ったビニール袋を持って、少し歩く。結構近くに河川敷が見つかったので、そこで食べる事にした。
英祐もここに来たのかな。ここに来て、遊んで、汚れた服で帰ったのかな。私は愉快な妄想をして、口元に少し笑みを浮かべる。
昼食を終えた私は、近くにある商店街に行ってみる事にした。英祐は賑やかな所が好きだったし、もしかしたらそこに居るかも知れない。私は食べ終わった弁当をビニール袋に仕舞い、それをバッグに入れる。
休日の商店街はかなり賑わっていて、人が沢山居た。私は周囲を見回しながら、人を掻き分けて進む。
商店街を一通り見終わって、ここには居ないのだと思った時、私はふと、違和感を感じた。何の変哲も無い脇道が、少し変に見えたのだ。私はそこに近付き、何かあるのか確かめようとする。
「茜!待って!」
「え?」
唐突に聞こえた、聞き覚えのあるその声に、私は後ろを振り向く。そこには、半透明の男の子、英祐の姿があった。
「英祐!」
英祐は『しまった』というような顔をして、直ぐにどこかに飛んで行ってしまう。私は慌てて後を追い掛けるが、途中で見失ってしまった。
「英祐……」
ここに居たんだ。この町に居たんだ。会える。きっと。間違い無く。私の心の中に少しの希望が灯り、疲れていた筈の体には、気力が満ちた。
だが、その後どれだけ探しても、英祐は見つからなかった。
私はその日、夜中まで英祐を探して、結局疲れ果ててしまった。何時の間にか河川敷まで戻っていた私は、痛む足と疲れた体を地面に投げ、脱力する。
「英祐……どこに居るんだろ」
本当に疲れた。この辺りに居るんだろうけど、それが全く見つからない。どこに居るんだろう。この町は粗方見終わったけど、それでも見つからないなんて。あの時見つけられたのが最後なのかもな。
その考えに至った所で、私の目から熱い物が溢れた。体は疲れ果て、十分な気力も無くなってしまった私は、それを手で拭う事すらしなかった。会いたいな。謝りたい。できるなら、もう一度前のように一緒に居たい。でも、今のままじゃ叶わない。
その時、涙を垂れ流している私の視界に、突然人の顔が入った。私は寝転がったまま、その目を見る。
「英祐……」
「ごめんね。話さないといけなかったんだ」
英祐はそう言って、私の隣に座った。
「実はさ、兄貴が居たんだ。俺より不器用な人でさ、今は何をしてるのかも分からない」
英祐から、おばさん以外の家族の話を聞く事が無かった私は、その言葉に驚いた。「転校する前に別れたの?」と聞くと、英祐は「そうだよ」と答えた。
「その前に親父も死んで、母さんは一人で俺と兄貴を育てるつもりだったらしいんだ。でも、なんでか急に引っ越す事になって、兄貴は別の人の所に行ったらしい」
英祐の声に涙が混じり始める頃には、私も少しは気力が湧いて、上体だけ起き上がった。英祐は、どこか遠くを懐かしむような顔で、対岸の灯りを見つめている。
「俺は兄貴が好きだったしさ、母さんに泣きついたよ。『なんで兄さんは一緒じゃないの』ってさ。それから、俺は誰かに触るのが嫌になったんだ。なんでかも分からないけど、なんか、嫌になったんだ」
「居なくなっちゃうかもって?」
「そんなんじゃない。突然、ステージの照明が切れるような感じで、怖くなったんだ。理由も知らない」
お父さんが死んで、お兄さんと別れて、きっと辛かったんだろうな。私は英祐の頭に手を伸ばし、撫でようとする。英祐はそれに気が付くと、飛び退いて避けた。
「あ、ごめ……」
「ああいや、茜が悪いんじゃない。たださ、怖いんだ」
「生きてた頃みたいに?」
「違うんだ。もしこの手で触れられなかったら、きっと虚しい。俺も、茜も。それが怖いんだ」
私は「そっか……」と言って、伸ばした手を戻す。英祐は再び私の隣に座ると、「続きだよ」と言って、話を始めた。
「転校した先でさ、凄い……何て言うのかな……なんか、かっこいい子を見つけたんだ。その子は凄い子で、皆の中心みたいな子で、それで……かわいかった」
英祐の顔が赤くなる。私もなんでか、顔が熱くなって来る。私は恥ずかしくなって、顔を英祐から背ける。
「俺はその子の視界を占有したくて、その子は承諾してくれた。それで、俺が死ぬまで一緒だった」
恥ずかしくて恥ずかしくて、私は少し、変な声を漏らしてしまう。それを英祐が軽く笑うから、私は一層恥ずかしくなった。だけど英祐の表情は、そこで硬くなった。英祐は突然呻き声を上げ、体を丸めた。
「英祐!?」
「大丈夫……続きだよ。死んだ後も、俺はその子の傍に居れた。まだその子の視界に入れる事が嬉しくて、俺は生まれて初めて、神様っていう物を信じようと思ったんだ。だけど、何事にも終わりってのはある物なんだな」
そう言って英祐は、私とは逆の方に置いていた手を、私に見せる。その手は、もう消えかかっていた。
「英祐、これって?」
「幽霊になってからさ、なんか分かるんだ。後どれ位、このままで居られるのかって」
英祐の体を見ると、もう右足も、足首から先が無くなっている。私は泣きそうになって、それでも涙を流すまいと、下唇を噛んだ。
「なんで……言わなかったの?」
「悲しませると思ったから。だから出て行った時、実は『丁度良い』と思ったんだ。一人で勝手に消えれば、それで良いかなと思って」
「良くないよ……何も良くない!」
私は怒って、怠い体を立ち上がらせて英祐を睨む。英祐は困ったような顔で、「分かってる」と言った。
「だから、今話をしたいんだ。多分、消えるとしたら今夜だ。見た目を取り繕うのも辛い。それで、やっぱり最後に、茜に会いたくなったんだだから茜に会った時、凄く嬉しかった。だけど、茜があまりにも辛そうな顔をするから、俺はなんか、罪悪感ってのかな。それで逃げた」
「そんな事……」
「あったんだよ。でも、今日の内にまた会えて良かった。最後に、言いたい事があったんだ」
英祐は立ち上がって私と目線を合わせ、唯一、たった唯一の言葉を私に伝える。
「あいしてる」
英祐の体は、その瞬間も消え続けている。私はそれを見るのが辛くて、英祐の体に抱き着いた。英祐は避けようとしたけど間に合わず、私に押し倒されてしまった。
そして笑った。「もっと早くこうしておけば良かった」と。「今までの俺が馬鹿みたいじゃないか」と。
体が全て消えるより前に、私も一つ、やりたい事があったのを思い出した。謝る事も忘れて、もっと他の、言いたい事も忘れて、英祐の言葉への答えのように、私は英祐の顎を、撫でるように押さえた。
一瞬間が空く。英祐は驚いた顔で、自分の唇を撫でる。私もその感触を忘れない内に、何か言う間を与えない内に、英祐と同じ言葉を放つ。
「あいしてる」
また少し、間を置いた後で、英祐は笑った。もう喉も消えて、声も発する事すらできないようだったが、彼は口で私にこう伝えた。
『ありがとう』と。
それから暫く経って、私は成人式に出た。母さんから借りた晴れ着は、久し振りに洗濯したばかりだったのか、柔軟剤の匂いがした。父さんと母さんは感極まったのか、涙で濡れた目元を、お気に入りのハンカチで拭っていた。
成人式で、私は昔からの知り合いと会って、それぞれの今までの経験を話す。久し振りに会う皆の中には、すっかり変化した人も居れば、良くも悪くも変わらない人も居た。話して、笑って、泣いて、怒って、また笑って……久し振りにあった友人との話は、そこそこ盛り上がった。積もる話をしている内に、時間はあっと言う間に過ぎる。私は父さんの車に乗せられて、実家に帰る。
私は、母さんに晴れ着を返す前に、『一枚だけ写真を撮ってもらえないか』と頼んだ。母さんは『断る理由が無い』と言って、喜んで写真を撮ってくれた。晴れ着を着て、できる限りのおめかしをした私の写真を。
母さんは『誰に送るのか』と聞いた。私は少し言葉を選んでから、彼と過ごした日々を思い浮かべて、満面の笑顔で答えた。
「この世もあの世も全部含めて、私が一番大好きな人に!」
母さんは笑いながら、「やっぱり、笑顔が似合う子ね」と言った。
私は、あらゆる困難を蹴飛ばせるスーパーヒーローじゃない。
できる事には限りがあるし、できない事の方が多い。
困難が目の前に立ち塞がったら、絶望してしまうだろう。
それでも、歩みを止める訳にはいかない。
歩みは決して、止まる事は無いだろう。
私が抱えている物は、後悔や無念よりも、彼と過ごした思い出の方が大きいから。
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