俺はヒーローじゃない!

暇神

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私は世界を愛せるヒーローじゃない。

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 金以上に価値のある物は無い。

 価値とは信用に因って与えられる物であり、金以上に信用がある物は存在し得ない。

 そうでなければ、誰も紙切れ一枚と食料を交換しないだろう。

 だから私は、金が好きだ。

 だが、もし金よりも信用がある物を見つけられたら、とは思う。


 私はそんな事を考えながら、今日も金稼ぎに勤しむ。


 人々は今日も、誰かと並んで歩いている。笑顔だったり、泣いていたり、或いは怒っていたりもする。その中で、私は少し浮いている方だなと自覚してしまう。
 私の名前は笹山蒼依ささやまあおい。今は医者だ。『今は』という表現を使ったのは、何度も様々な職業を渡り歩いて来たからだ。
 今から五十年程前、一つの奇病が生まれた。それに感染すると、肉体は老いる事が無くなり、寿命と呼べるものすら無くなる。年老いて、余命宣告すらされていた老婆でさえ、この病に感染した後、現在まで健康に生きているらしい。
 人々は、感染経路も不明なこの病を、『フェニックス病』なんて呼んだ。勿論正式名称ではない。この世界のどこを探しても、この病気の感染者は十名しか居ない。その中の一人が、私だ。
 十八で感染して、私も最初は喜んだ。だが、次第に悲しくなっていった。私だって男だ。恋人が欲しいとかはある。ただ、どんなに頑張っても、『フェニックス病の人でしょ?』とか、『実際年寄りでしょ?』で断られる。なんでだ。それに、家族や親密な人間が段々年老いて行くのに、私だけ姿が変わらない。取り残されているような感覚だ。
 その点、金は良い。誰もが金を信用して、使っている。金には無限の可能性と価値がある。何より私自身が信じる事ができる。安心する。
 私は様々な職業に手を出した。どうせ時間は腐る程あるのだ。金稼ぎのついでに、『これだ!』と思えるような物を探してみようかなと思ったからだ。今は医者をやっているが、その内辞めると思う。
 そんな私だったが、今は結構、変な人と関わっている。
「先生!次どこ行く?」
「君の好きな所にしなさい。私と違い、君は残された時間が少ない」
 私の言葉に、目の前の少女は頬を膨らます。どうやら、私の発言が気に障ったようだ。
 彼女は坂井奏子さかいそうこさん。私の知り合いで、ついでに病人だ。
 奏子さんとの出会いは、遡ると一年前になる。奏子さんの両親が、僕が働いている病院に娘を連れて来たのだ。検査の結果、彼女は内臓の、しかも現在の医療ではまだ直す方法が確立されていない病気に罹っている事が分かった。
 大量の薬と月に一度の検査で健康に見せかけているが、余命は残り一年程度しか無い。まだ十八なのに死んでしまうのは、あまりにも短い人生だ。
 そんな奏子さんだったが、何故か私に『付き合ってほしい』なんて言ったのだ。自分でも何故かは分からないが、なるべく言う事を聞いてやろうと思った私は、一緒に出掛けるようになったのだ。この関係は、既に半年続いている。
「私は先生が行きたい場所を知りたいの!」
「行きたい場所ねえ……海でも行くかい?」
「行く!」
 元気な子だ。きっと病人でなかったら、学校や会社、所属したグループの中心人物として、人との関わりの絶えない生活を送っていただろうに。それが病気に罹っただけで、夢程度にしか思えなくなるとは、人の生とはなんと儚い物だろうか。
「先生!見て見てヒトデ!」
「裏側向けないでくれ気持ち悪い!」
 奏子さんは笑いながら、ヒトデを海に投げ飛ばしている。微笑ましいが、冷静に考えると少し怖いな。まあ、ああいう無邪気な所が、彼女の良い所だ。
「先生!チキンレースしよ!」
「分かったよ。じゃんけんで負けたら一歩前に出るルールでな」
 奏子さんが私に告白した理由を、以前聞いた事がある。彼女曰く、『秘密』との事だ。私は、最近の若い子の考えが理解できなかった。
 奏子さんは私を連れて、様々な所へ行った。映画に買い物、水族館等々……数えて行くとキリが無い。私は記憶力が良いので、その時の奏子さんの様子や表情なんかを、大体覚えている。基本的には笑っていて、泣いたのを見たのなんて、猫のポスターに釣られて見た映画が、偶然にも感動できる内容だった時位だ。
 私は仕事の合間をなんとか作って、奏子さんと会う時間を作っている。どうやら奏子さんは、私と会うのをとても楽しみにしてくれているようで、会う度に笑顔を見せてくれる。私もそれが嬉しくて、奏子さんと会う時を、日々の楽しみにしている。
 チキンレースをしていた私の足に、海水が付いてしまいそうになる。私は思わず、足を動かしてしまった。動かすまいと強張らせていたせいで、その動きはとても小さい物になり、結果として、私の足はしっかり濡れてしまった。
「うわ!負けちゃった」
「私の勝ちー!先生じゃんけん弱過ぎー!」
 う~ん。自分で決めたルールで負けるのは中々気恥ずかしい物だ。私は頭を掻きながら、濡れた足で砂浜へ戻る。少し疲れてしまったので、近くの流木の上に腰を下ろした。
「楽しいな~!楽しいな~!」
「嬉しそうでなによりだよ。私も楽しい」
 彼女は笑いながら、砂浜を駆け抜けている。どうやら、海で遊ぶのが堪らなく楽しいらしい。頻りに「楽しいな~!」と言っている。
「水着でもあったら良かったんだけどな~!」
「海開きはまだだから危ないよ。でも、それは確かに楽しそうだ。次海に来る機会でもあれば、その時は水着を用意しよう」
「やったあ!」
 私も奏子さんも、こういうのが好きな性格で、最初は考えていなかった程気が合う。奏子さんが行きたい場所は、私も楽しいと感じるし、私が行きたい場所でも、彼女は楽しそうにしてくれている。
 彼女はどうやら、体を動かすのが好きなようだった。中学高校と運動部に所属し、賞を取った事もあるそうだ。体力は十八の頃から衰えた感じはしないのだが、それでも私は、奏子さんについて行くのがやっとだった。
「先生!お城作ろ!」
「分かった。知識だけはある私を舐めるなよ」
 私達は周囲の砂を集め、山のようにする。そして、それに細かい装飾を施したり、足りない部分に砂を足したりしながら、城を作って行った。
 砂の城はとても大きな物になった。私の知識と奏子さんの器用さが上手く噛み合った結果、二人で作ったにしてはそこそこ良い出来の、大作と呼べる物ができあがった。
「できたー!」
「こういうのは達成感があるね」
 その城ができた頃には、もう日が傾いて来ていた。日が落ちる前に家に帰さなければ、奏子さんの両親が心配してしまう。そろそろ奏子さんを家に送って行かないと。
「奏子さん、そろそろ……」
「あっ……」
 奏子さんが珍しく、悲しそうな声を出したので、私も慌てて奏子さんの視線の先にある物を移した。そこには、何かを模した形をしていたと分かる、砂の塊があった。どうやら、砂の城が崩れてしまったようだ。
「ああ……作り方が悪かったかな。仕方無いか」
「そうだね……」
 あんなに時間を掛けて作った物が、こうも簡単に崩れてしまうのか。悲しいな。しかし、もう一度作り直す時間も無い。私は振り返り、車の方へ奏子さんの手を引こうとする。
「そろそろ遅くなって来る。帰ろう、奏子さん」
「先生、私もあんな風になるのかな」
 私はその言葉に驚き、奏子さんの顔を横から見つめる。そう呟く彼女の目には、とても大きな悲しみがあった。それは、十八歳の個人に背負わせるには、余りにも大き過ぎる物だった。
「私が一年後には死んじゃった後、同じクラスだった皆にも、近所の皆にも、忘れられちゃうのかな。あの砂のお城みたいに、最初から無かった事になったみたいに」
 彼女は砂の塊を見つめながら、どこか遠くを見ているようだった。私なんかが見る事の無いような場所を、じっと見つめて、目を逸らさないでいる。
 聞いている方まで悲しくなってしまうような声で、彼女は呟いた。私は隣に立ったまま、水平線を見ながら、奏子さんに自分の言葉を伝える。
「奏子さん、君は死んでしまう。それも近い内に。それでも、君を忘れない人は必ず居る。私もその一人だ。未来永劫、絶対忘れない。約束だ」
「……うん」
 奏子さんは静かに、私の手を取った。私はその手を引いて、彼女を車に乗せた。私達が乗っている車はゆっくりと発進し、奏子さんの家へと向かった。

 一年と少し後。奏子さんは死んだ。余命より一か月程度長生きしてから。
 私は奏子さんの葬儀に出席した。親御さんは「貴方と居るようになって、少し元気になったのだと思います」と言ってくれた。しかしその一方で、私はこの事を、この上無く悔やんでいる。金稼ぎに勤しむばかりで、私は奏子さんについて、余りにも無知だったからだ。
 神は人に罰を与えない。だが、同時に救いを与える事も無い。ありとあらゆる人間に対して平等に接する。この苦しみは、奏子さんに肩入れした私の自業自得に過ぎない。そして、奏子さんが死んだのは、この世界にありふれた、不幸な出来事でしかない。
 私は、大きな喪失感だけを感じている。私にとっての奏子さんの存在は、人一人にしては余りに大きすぎたのだ。奏子さんが死んだ。人が一人死んだというだけの、この世の中にありふれた出来事一つだけで、私は何か、取り返しのつかない物を失ったのだ。
 ふとした時、私はそれまでの三日間、何も口にしていない事を思い出した。この体なら、食わずとも死ぬ事は無いらしいが、それでも空腹というのはかなり苦しい。私は冷蔵庫の中にあった余り物を寄せて集めて、不格好なカレーライスを作った。
 あまり旨そうに見えないそれを、私は何も考える事無く口にした。そして驚いた。

 まるで味がしなかった。

 私はその時、自分はもう駄目なんだと悟った。たった一人、頼まれて恋仲ごっこをしていただけの知り合いが死んだだけで、私はここまで弱ってしまったのだ。
 私は残りを口にする勇気も無く、それを生ごみの袋に捨てて、再び布団に潜り込んだ。
 顔だけ出した私の目には、部屋中の様々な物が飛び込んで来る。ここまでの五十年間で、生活で余った金を、取り敢えず使おうとして買った、高級なブランド品が多くある。しかし、それらが放っていた輝きは、既に私には感じ取れなくなってしまった。それらに価値を与えていた信用が、今の私にはまるで持てなかったのだ。
 私はその光景もこの現実も、自分を取り巻く一切合切が嫌になって、頭まで布団を被って寝た。それでも、起きればそこにあるのは、無情な現実と空虚な置物達だけだった。
 私は何度も奇跡を望んだ。朝起きたら、奏子さんが生きている状態に戻って、また笑っているだなんて、馬鹿げた妄想をした事もあった。それが無意味な事であると、私もとうの昔に分かっていた。
 次第に私は無気力になった。何をするにも面倒に感じるし、何もしたいと感じない。あれだけ熱心にやっていた仕事も辞めて、今は貯金を切り崩して生活している。それも、今月で尽きるだろう。
 そんなある日、私の元に一通の手紙が届いた。私は怠い体を動かして、それを手に取る。

『先生へ』

 私はその文字を見て、心の奥底で、そこにあったとも気付かなかった何かが打ち震えるのを感じた。奏子さんの筆跡だ。何故?遺書?違う。それなら、遺族から何かしら連絡がある筈だ。それも無い。何が起こった?
 頭の中では無数の思考が、生まれては消えを繰り返している。考えが纏まらないまま、私は震える手で、その手紙の封を解いた。中の文も、やはり奏子さんの筆跡だった。

『先生。元気で生きていますか?こんな事を言うのは失礼ですが、私が死んで、落ち込んでくれたら嬉しいです。』

 そんな言葉で始まった手紙には、私への少しのメッセージの後に、奏子さんからの、ささやかな『お願い』が書かれていた。私はそれを、一字一字、愛おしい物を眺めるような気分で読み進めた。

『この手紙には、私が生きている間には行けないであろう、先生といっしょに行きたかった場所を書いてあります。どうか、私の事を考えながら、この場所に行ってください。私をこの場所に、連れて行ってください』

 その下には、いくつかの有名な観光地が書かれていた。奏子さんが行きたいと願った、『死ぬまでに行きたい場所』だ。私はその手紙を読んで、「行かなければ」と思った。

 気付けば私は、目から大粒の涙を流しながら、少し笑っていた。

 先ずは金だ。資金が必要になる。私は良い条件の企業に就職し、更に近所のコンビニやら飲食店やらで、兎に角バイトを始めた。体を壊さないギリギリのラインで働き、家にあった、生活で必要な物以外は全て売り払い、生活に必要な最低限の金しか使わないよう心掛け、奏子さんに頼まれた度をするだけの資金を貯め続けた。
 全力で貯金し続けて、おおよそ五年。世界中に散らばっている、『奏子さんが行きたかった場所』を巡るだけの資金が貯まった。達成感は無かった。これはあくまでも、奏子さんの『お願い』を叶える為の準備でしかないからだ。
 私はその金と、数冊のガイドブック、そして着替えを持って、家を出た。

 奏子さんが行きたかった場所は、本当に有名な観光名所しか無く、病室か家のテレビを見て憧れたんだろうなと想像した。手紙のリストには、ピラミッドとかモアイとかエアーズロックとか、テレビを眺めていると偶に見る物の名前ばかりが並んでいる。
 私はその全てを見て回った。驚く程素晴らしい光景もあれば、少し期待外れな物もあった。ただ、楽しいと感じた。何かに夢中になって、そればかりに没頭する。真面な趣味を持って来なかった私にとって、コレはとても新鮮な感覚だった。
 私は旅の途中、何度も『もし、奏子さんがここに居たら』を考えた。奏子さんの表面的な部分は知っていた私は、それを簡単に想像する事ができた。笑ったり、残念がったり、兎に角表情豊かな子だった。奏子さんの輪郭を見る度に、私は少し安心した。
 私は時々、耐え難い心の空白に苦しんだ。まるで、そこ以外の部分が移動してその穴を埋めようとしているように感じた。その度、心の他の部分が擦り減って、痛みを生み出すのだ。あの日々が思い出される度、私は自分がまだ死んでいない事を悔やんだ。
 それでも、私は歩みを止めなかった。私は多分、信じたかったんだと思う。坂井奏子と言う、この世にたった一人の、重い病気に罹って、それでも元気に振る舞い続けた少女が、かつてこの世に生きて、夢を見ていたのだという事を。
 私は歩き続けた。奏子さんが行きたかった場所を、代わりにもならない私が行くという、愚かさだけで言えば、この世で五本の指に入るであろう行為を止めたくなかった。

 その旅も、終わりの時を迎えようとしている。

 手紙に最後に、薄く、細く、小さく書かれていたのは、『夏の前に先生と行った海』という文字だ。私は自宅に帰った直後、直ぐに車を走らせた。ほんの数分で海に着き、私はその光景を前に、ただ立っている事しかできなかった。
 誰も居ない。奏子さんと来た時と同じだ。誰も、何も居ない。そこにはただ、少しばかりの波の音と、ただ青いだけの海、そして所々に流木やゴミが散らばった砂浜しか無かった。自然と、あの日の光景が重なる。
 私は少し足を動かし、砂浜に立つ。砂の不確かな足場の感触が、靴越しに私の足に伝わる。ああ、あの時と同じだ。

『忘れられちゃうのかな』
「忘れてないよ。奏子さん」

 そう呟き、私は足元の砂をかき集め始める。集めて、固めて、山にする。その後、少しずつ細部を掘って、固めて、段々と形をはっきりさせて行く。
 私はそれの形を作りながら、奏子さんがまだ生きていた頃を思い出す。たった一年半の、奏子さんと居た時間の全てが、この上無く鮮明に、瞼の裏に写る。奏子さんの輪郭、髪や肌の色、表情が、色鮮やかに蘇るようだった。
 力も体力も、奏子さんに比べて少ない私は、それを作るのにとても苦労した。だが私は、少しずつ、可能な限り懸命に、砂を運び、かき集め、固め、形を作って行った。そうしていると、次第に出来上がって来る物だ。私の目の前には、いつの日か奏子さんと作った物と同じ形の、砂のお城が建てられている。
 私はそれを見て、恐らく今までの人生で、いや、私の永遠とも言える人生で一番大きいであろう達成感を得る事ができた。私はその砂の城の向こうに、奏子さんの後ろ姿を見た気がした。
「あの時は、作った後直ぐに崩れるような物を作ってしまって、済まなかった」
 私はその砂の城を残して、その場を去った。

 翌日。私は残った金で、画材を買った。油絵を描く道具だ。油絵を描くのに必要な道具を一式揃えた私は、空いていた部屋にそれらを並べ、一枚の絵を描き始めた。
 私は、坂井奏子という人間の表面に現れる部分は、ほぼ全て知っている。今からやろうとしているのは、ただ、それを紙に写して、長い時間保存できるようにするだけの作業だった。
 だが出来上がった物は、この世界に生きていた奏子さんとは程遠い、何かが欠けた肖像画だった。私はそれを破り捨て、新しいキャンバスの上に、絵の具を塗り始めた。
 だが、何かが足りない。構図、色彩、輪郭、表現等、絵に使われる要素の殆どだけを見た上で、笑って海辺を歩く少女の絵として見れば、私でも納得の行く作品ばかりだ。だが、『奏子さんの絵』として見た瞬間、何かが足りない、欠けている事だけが分かる。
 一体何だろう。私は何度も何度も何度も何度も、同じ事を繰り返し続けた。奏子さんの表面の部分は表現できた。ならば何が足りない?
 表面で足りないなら、内面だ。奏子さんは既に亡くなっている。私にその全てを知る事はできないが、私にできる限りの手を尽くして、坂井奏子という人間の解像度を上げよう。
 私は、奏子さんが好きだと言っていた所を、再び巡った。水族館に始まり、海、映画館、果ては近所の路地裏まで行った。少し資金が必要にはなったが、働く合間にと考えれば、あまり苦でもなかった。
 坂井奏子という名前の少女が経験した出来事をなぞる事で、奏子さんの考え方を、少しでも覚える事ができればと考えた。
 好きな場所、好きな作品、趣味、そして嫌いな物……それら全てを、私は経験した。理解できない部分は、何度も何度も繰り返し、それでも無理な所は、根拠の無い憶測や、心理学の知識で想像して埋めた。無駄に積み上げた年数が役に立った、数少ない機会でもあった。
 私は、奏子さんの経験をなぞるのに、その経験をした年月、つまりは十八年を費やした。そして私は、再び筆を取った。
 奏子さんの輪郭をなぞるだけではなく、坂井奏子という少女の内面をも写し取る絵を描く。私は技巧を凝らす為の思考をする訳でも、色彩に思考を裂く訳でもなく、ただ、感情の赴くままに、筆を走らせた。次第に、十八歳の、病人で、それでも輝くように元気な少女の輪郭が浮かび上がって来る。腕、足、胴、頭、表情の輪郭を作り出し、そして最後に、色彩を作り出した。
 その果てに出来上がったのは、海岸や町、丘の高台を笑顔を歩く、奏子さんの絵画だった。私の思い出の中にある、『奏子さん』を、完全な形で描く事に成功した。私のその絵を描き上げると、気絶するように寝てしまった。


 夢を見た。

 奏子さんと海岸を歩く、私の夢。

 私の体は宙に浮いていて、かつての光景を、上から見下ろしている。

『忘れられちゃうのかな』
『未来永劫覚えてる』

 そう言葉を交わした二人の姿は、段々とぼやけて、やがて消えた。

 私はただただ白い空間の中で、何かを探そうともがき始める。

 やがて見つけたそれは、奏子さんの幻影だった。

 私はその幻影に何かを伝えようとするが、言葉が出ない。

 奏子さんの幻影は私に、何かを言っている。

 だが、口の動きだけで、何を言っているかは分からなかった。


 やがて目が覚めた。私は顔を上げ、絵の具と筆と油、出来損ないの絵画達、そしてたった一つの『完成品』だけがある部屋を見渡し始める。私は目の前の絵に対して、一つの言葉を、声にして投げ掛ける。
「君が見せてくれたのかい?奏子さん」
 勿論絵画は答えない。だが、私の心は妙にスッキリしていて、何より先に、余裕を持って、今日は何をしようかを考える事ができた。最終的に墓参りをしようと考えに至った。丁度今日は、奏子さんの命日だ。
 思い出せば、奏子さんが死んでからの二十五年、私は一度も、奏子さんの墓参りに行っていない。申し訳無い事この上無い。今になって行っても、奏子さんは許してくれるだろうか。それとも、怒ってしまうだろうか。泣いてしまうだろうか。
 まあ、行ってみるだけなら自由だ。私は車を走らせて、奏子さんが眠る墓地に行く事にした。
 そこには石が立ち並び、そこに眠る故人の、家の名前が書いてある。私はその中から、奏子さんが眠る墓を見つけ、その前で手を合わせた。それも終わると、近所の花屋で買った、アネモネとチューリップの花を置いた。二つ共、奏子さんが好きだった花だ。
 奏子さん、今まで墓参りに来なくて、済まなかった。言い訳をする訳じゃないが、この二十年で、私が体験した事を伝えるよ。
 私は頭の中で、今までの事を思い浮かべた。奏子さんが行きたかったという、世界の名所を巡った事、奏子さんを可能な限りリアルに表現した絵画を描いた事、そして何より、砂の城を完成させた事。長かった。しかし、思い返すと短いような二十年だった。
「また来るよ」
 そう言って、私は墓地を離れる事にした。しかし、墓地の出口辺りで、思い掛けない人物に出会った。
「先生……」
瑛子えいこさん、それに、道雄みちおさんまで……」
 二人は、奏子さんのご両親だ。年老いて、顔には深い皺が刻まれている。だがそれでも、葬式で見た、泣き出してしまうのを我慢しながら、無理矢理笑った顔を思い出せる。にしても、なんでここに……
 いや、考えてみれば当たり前か。一人娘の命日だもんな。邪魔をしてしまった。そう考え、立ち去ろうとする私に、道雄さんが話し掛けて来た。
「よく顔を出せたな」
「ちょっと!」
 私はその言葉に、足を止める。瑛子さんが道雄さんを止めるが、それでも道雄さんは続けた。
「なんでこの二十年!娘の墓参りすら来なかった!あの子は……あの子はずっと!」
 その言葉の最後の方は、道雄さんの喉につかえて、出て来ない様子だった。道雄さんの言葉に、私は何も言えない。ここで私が何か言っても、私がこの二十年、墓参りにすら来なかった事実は揺るがない。
 それでも、伝えたい事はある。私は二人の方を振り向き、深く、頭を下げた。
「そんな事をしても……」
「奏子さんは何も言ってはくれない。死人に口なしです」
 そう。きっと何も言ってはくれない。ただそれでも、失った物を想い、笑い、悲しみ、喜ぶ事はできる筈だ。
 私は頭を上げて、二人に正面から話す。
「それでも、私は奏子さんを愛しています。未来永劫、永遠に。そう約束した」
 そう言った私に、二人は何も言っては来なかった。私は少し笑って、二人に別れの言葉を言う。
「奏子さんの絵を描いたんです。もし機会がありましたら、見に来て下さると嬉しいです」
 私はそう言って、駐車場の車に戻った。私は車の鏡を見て、吹き出してしまった。酷い顔だ。泣いて、泣いて、情けなく泣いて、それでも笑っている。情けない、惨めな男の顔が、鏡に映っている。
 私は鏡の中の、男の歪んだ顔を見ながら、自分自身に問い掛ける。

 私は、奏子さんを愛せているか?

 その問いに、私は堂々と答える事ができた。

 勿論だ。私は奏子さんを愛している。この愛を、私は何より信用するだろう。

 私はその答えを生み出してから、奏子さんとの日常を思い出した。水族館で見た横顔、映画館で見た泣き顔、砂浜で見た笑顔……その全てが、実在した、本当の思い出であると、私はそう信用できた。
 信用は価値を生む。私にとってあの日々は、値千金でも足りない、この世の財の全てを使ってもまだ足りない、何も比肩する事ができない程の価値がある物だ。私はそれだけ、あの日々と、その美しさを信用する。
「次は、砂浜でも行こうかな」
 私はそう呟いて、かつて奏子さんと行った海に向かって、車のエンジンを掛けた。

 数十分も車を走らせると、その海に着いた。この風景も、二十年前から殆ど変わっていない。波の音も、海の色も、水平線の遠さも、何も変わっていない。変わったとすれば、砂浜に散らばったゴミの種類程度だろう。
 私は近くの流木に腰を下ろすと、かつての恋人の陰を見ながら、こう呟いた。

「奏子さん、次はどこに行く?」

 『先生の行きたい所ならどこでも』という答えが、どこかから聞こえた気がした。


 私は、世界を愛せるようなヒーローではない。

 私が愛せる物には限りがある。

 それはこの手から零れ落ちない物に限定される事が多い。

 ただ、やがて聞こえなくなる音楽のように、それが消えた後も、愛おしく感じる物はある。

 私はこの先も、一人で生き続ける事だろう。

 それでも、私はしっかり生きて行こうと思う。

 遠い、遠い将来、あの世で奏子さんに聞かせる土産話を、沢山蓄える為に。
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