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俺は少年が憧れるスーパーヒーローじゃない!
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偽物だ。
あの学生も、あのサラリーマンも、あのコンビニ店員も、みんな打算と欲だけで動いている。
何も欲を持つなとは言わない。人は欲が有るから成長する。それは学力にも、社会的地位にも、人間的な事にも言える事で、欲を無くすという事は、人である事を放棄する事に等しい。
しかし、どいつもこいつも他人を見下し、優越感を得る為だけに行動している。いつも笑っている人間も、腹の内側では何を考えているのか分からない。あの笑顔も、友人も、何もかもが偽物の幸福を得る為だけのアクセサリーでしかない。
俺は海田亮太。十八歳の、今年から大学生。所謂事なかれ主義の人間だ。日々を何も生産せず、ただ世に溢れる情報を受け取る事に費やしている。虚しい。
俺は実家の母親が大嫌いで、あいつらから離れる為に、お気に入りのファミレスとの別れに涙を流しながら東京まで進学したのだ。
長時間の移動はそれだけで疲れるというのは本当らしい。住む予定のアパートに行く為に歩いているのだが、足が重いし頭も痛い。長時間の移動は避けるのが得策なのだろう。
歩いていると、少し前で何か騒ぎが起こっているようだった。
「なんだてめえ!」
「この子に謝れって言ってるんです!」
どうやら、子供にぶつかった男性を、あの女性が責めているらしい。
まあ、俺には直接の関係が無い人間の話だ。俺が横を素通りしようとしていると、急に男性の方が叫びだした。
「ああもううざってえ!退けクソアマ!」
そう言って、彼は拳を振り上げた。
鈍い音が響く。俺は痛む右頬を手で押さえた。どうやら俺は彼女を守る為に飛び出してしまったらしい。恥ずかしい。何故新天地に来て一日目でトラブルに関わってしまったのだろう。
男は少し後退り、それでも俺に叫び始めた。
「なんだよ!俺はその女と話してただけだぞ!?」
全く……振り上げた拳で彼女を殴ろうとしていたのはどこのどいつなんだ。
その言葉を押し退け、俺は百十番を打ち込んだスマホの画面を彼に見せ、自主的にこの場を離れる事を促す。
「結果的にとは言え、君は俺を殴りました。今俺がこのボタンをタップすれば、お縄になるのはどちらかな?」
どうやら脅かされてくれたらしい彼は、「覚えてろ!」と言って、どこかに走って行ってしまった。現実でそれ言う奴は見た事が無かったが、どうやら実在したらしい。
まあ今は、彼女の反応が気になる。えっぐい嫌われそう。まあ慣れたものだ。
「あの、有難うございました。良かったらこの後お茶でも……」
えなにこの人怖い。初対面の人間とお茶とか何考えてんだろう。
兎に角今は逃げるのが先決!俺は「いや、用事あるんで」と言って、速足にその場を離れた。
さあ、何か面倒な事が有ったが、新天地東京。ここから俺のキャンパスライフは幕を開けるのだ!
と言っても、今までの人生と同じように、程々の人付き合いと、十分な勉強、バイトをして過ごすだけだ。何も変わらない。強いて言うなら、もうこれ以上のトラブルと関わらないようにしよう。
初日は入学式だけ。ここで話し相手程度の間柄の人間を作れれば良い。欲を出すな。
大学の門の手前に差し掛かった辺りで、誰かの叫び声が聞こえた。
「あー!貴方は!」
どうやらどこかのラブコメのように、運命の出会いを果たした男女が居るらしい。全く羨ましい。俺には関係の無い話とは言え、急に大声が聞こえるのは結構驚く。
俺は足を止める事無く、建物に向かう。何せ新天地だ。建物の中で迷わないとも限らない。早く着くに越した事は無い。
「いや!貴方ですって!そこの手提げかばんの男の人!」
どうやら相手方に心当たりが無かったらしい。可哀そうに、久々に再会した大事な相手が、自分の事を覚えていないと言うのは、結構辛い物らしい。俺はさらに足を進める。
「貴方ですって!そこの栗色の髪で眼鏡を被った、背丈が少し高い人です!」
まさか俺か?いやそんな筈は無いが、一応確認して、違ったら注意する為に、一旦声がする方を見よう。
振り返ると、そこには先程の女性が笑顔で立っていた。
「やっとこっち見た!あの、私さっき貴方に助けられて……」
「ちょっと待って下さい。少し眩暈がする」
最悪だ。まさか俺が関わったトラブルの渦中に居た人間が、それも自分から関わってくるタイプの人間だったなんて。
どうやら彼女は結構優しい人間らしく、俺が額を押さえ天を仰いでいる間も、引っ切り無しに「大丈夫ですか?」「私何かしちゃいました?」と聞いて来ている。
兎に角、この場をやり過ごそう。そして二度と関わらない。いける。
「すみません。急いでいるので失礼します」
「いえ!助けてもらって何もお礼をしないなんて、父の教えに背きます!是非、お礼させてください!」
ああ面倒だなこの人!俺は「いえ、気にないでください」と言って、無理矢理その場を離れた。彼女はまだ何か言っていたが、すぐ人込みの騒がしさに紛れ、彼女の声は次第に聞こえなくなっていった。
一先ず、俺は適当な話が合いそうな人に話しかけた。ここは人脈を作る場でもあるのだ。人との関わりは持った方が得だろう。
俺は、木村陽太さんという人と連絡先を交換し、その日は帰った。
しかし、人の願いとは儚い物で、俺は最も会いたくない人間に、初めての授業で再会する。
「いや~偶然ですねえ!二人共同じ授業だなんて!あ、私、飯島心海と言います」
最悪だ。まさか同じ授業を受ける人間の中に、この人物がいたなんて。うん、非常に不味い。単位は欲しい上、人が多い訳でもないから昨日の様に逃げる事も出来ない。詰んだ。
俺は可能な限りの抵抗として、席を離そうと試みたが、抵抗虚しく、向こうも席を移動する事で呆気無く距離は詰められてしまった。やっぱこの人怖い。
そして彼女は昨日断ったにも関わらず、また俺に「お礼させてくれ」と言ってくる。うざったい。これ以上付き纏われても面倒だ。さっさと断ってしまおう。
「いま授業中ですよ?それに、昨日も断ったのに、なんで話しかけて来るんです?」
「お礼がしたいからです!」
どうやら彼女は折れないタイプの人間らしい。いくら言っても諦めてくれない。
俺は一旦彼女を無視し、真面目に授業を受ける事にした。彼女は少し静かになった。
授業が終わった後も、心海さんは付いて来た。
「昨日助けて貰ったお礼をさせてください!」
「全く強引な鶴の恩返しだ……」
しかし、いくら断っても付いて来られるのは正直もうウンザリだ。ここはお礼を受け取るだけ受け取って、さっさと彼女が付いて来る理由を無くしてしまおう。
「仕方ないですね。取り敢えずその『お礼』とやらを受け取りましょう」
「やった!有難うございます!」
なんでお礼する方が礼を述べるのか。どうやら彼女は自身の父親の言う事を忠実に守る、義理堅い人間でもあるらしい。
彼女は俺に、取って置きだという喫茶店を紹介してくれた。静かな店内にはあまり人は居らず、少しのコーヒーの香りと窓から差し込む日の光が、物が多い訳でもない空間を、とても綺麗な物に仕立て上げている。
彼女は誰も居ないカウンターの奥に向かって、「マスター!こんにちは!」と声をかける。少し間を開けて出て来たのは、髭を生やした、片眼鏡が特徴的な男性だった。
「おお心海ちゃん。今日はどんなご用件かな?」
「恩人さんにお礼です!」
俺は取り敢えず彼に一礼し、名前を言って自己紹介した後、窓際のテーブル席に彼女と座った。
「そういえば、貴方の名前って聞いてませんでしたね」
「聞かれませんでしたからね」
彼女は、オススメだというサンドイッチとコーヒーを二人分注文した。
三分ほどすると、思っていたより早く注文していた品が出てきた。
テーブルに四つの品を置いたマスターは、カウンター席から椅子を一つ持って来て、テーブルの脇に座った。
「で、二人はどういう関係なんだい?」
どうやら彼は結構好奇心旺盛らしい。
「別にどうという仲でも……今回来たのは、先程彼女が言った通り、彼女の恩返しに付き合っただけです」
「ふうん……」
彼はまだ納得していないようだ。俺がコーヒーを口に運んだ時、爆弾発言を寄越して来た。
「付き合ってないの?」
危ない。あと少しで吹いてしまう所だった。
なんだこの人は。初対面の人間にそんな事聞くか?ていうか話聞いてたのか?
俺が驚きのあまり黙っていると、心海さんがマスターに詰め寄る。
「何て事聞くんですかマスター!もし彼に彼女さんが居たらどうするんですか!」
「ははは、冗談だよ。だけど、もし恋仲の人が居たとしたら、君に付いて来ないと思うよ?」
誠に遺憾ながら、彼の言う事は間違っていない。俺は彼女どころか、「俺達友達だよな」なんて言い合う人間が居た記憶が無い。
正論をぶつけられた彼女は、「あっ」みたいな顔をして黙ってしまった。
食事中、彼はちょくちょく話を振って来た。喧しい。
「ねえ、君は何時東京に?」
「どうして東京に?」
「彼女は中学生の頃から良く来てくれてね。もうすっかり常連だよ。嫌な事が有ると決まってここに来るんだ」
俺は適当に流しながら、食事を口に運ぶ。美味い。
三十分程すると、食べていたサンドイッチも無くなり、コーヒーも残り僅かになっていた。
外の景色を眺めていると、マスターがケーキを持って来た。
「頼んでないですよ?」
「サービスさ。心海ちゃんが他人を連れて来るなんて初めてだからね」
やはり彼の頭の中は大部分がピンク色のようだ。
とはいえ、サービスでこれは有難い。頂いてしまおう。うん、美味い。
ケーキも食べ終わる頃にはコーヒーも無くなり、俺の腹も満たされた。この値段でこれとは、結構太っ腹なマスターだ。また来よう。
店を出る時、彼女が「これはお礼だから私が払います!」と言って来た。彼女がこう言いだすと、梃子でも動かない事は学んだので、その言葉に甘える事にした。
俺は店を出る時、マスターに呼び止められ、「私の勘は結構当たるんだよ?」と言って来われたので、「また来ます」とだけ言って、外に出た。
何にせよ、これでもう彼女が付き纏って来る事は無い。俺の静かで平和な生活が帰って来る。やったぜ。
そう思っていた時期が、僕にもありました。
なんと彼女は翌日も話しかけて来たのだ。
「なんでまた話しかけて来るんだ……」
「他に話す人が居ないからです!」
おっと親近感が湧くな。だが何故その明るさで友達どころか話し相手居ないとは……『現実は小説より奇なり』とは本当の事だったらしい。
しかし、もしその言葉が本当なら、他人に昨日の朝の事を離される事も無いし、友人が出来る可能性も有る。どうやら俺は吹っ切れてきたらしい。こうなりゃやけくそだ。
「はあ……なんです?」
「お!自分から話しかけて来るなんて、さては昨日のお出掛け、満更でもない感じですか?」
やっぱこいつヤバいヤツだろ。なんだその言い草。
「何の用か、と聞いているんです」
「もし今日も大丈夫でしたら、また一緒に出掛けないか、という話をしに」
はあ、やっぱりこうか。昨日と目が同じだ。
まあ、昨日は結構良い所を紹介して貰ったし、もし穴場を教えてくれるなら、こちらもとても助かる。何より、こういう時の彼女は意地でも譲らない。大人しく従った方が楽だろう。
「今は授業中なので、話はまた後で」と言うと、彼女は静かになってくれた。やはりこれが最善の道だ。次からもこうしよう。
こうして、俺が彼女の『お礼』に付き合う日常が始まった。俺が望む『平穏』は姿を消した。
慣れてみたらどうだ。結構楽しい。あの喫茶店は勿論だったが、その他にも安くて美味いラーメン屋や、小さいのに品揃えが良い本屋など、俺が狙っていた『穴場』を教えてくれた。俺もあのカフェでバイトを始めたので、結構金に余裕はあったが、それでも安いのは有難い。
俺達は、彼女が教えてくれた喫茶店で待ち合わせをするのがいつもの事になっていた。彼女は、自分が渡したクマのキーホルダーを見ると、「亮太さん!」と話しかけて来た。
マスターは凄い人で、常連だけでなく、仕事でたまに来ると言う人の名前を全部覚えていた。残業帰りに来るサラリーマンや一か月に一回来るペットショップの従業員、仕事で静岡に来たら来るという探偵など、決して来客が多いという訳ではない店だったが、それでも全員覚えているというのは凄いと思う。マスターは「君もそのうち覚える」と言っているが、いつまで経っても覚えられる気がしない。
今日もその予定だった。「今回は遠出で泊まりなんで、準備しといてね」と言っていたので、俺は一旦アパートに帰り、着替えや暇潰しの準備をしようとした。
そう、しようとしていたのだ。
部屋に入った俺は、ドアの前に居た人物に目を疑った。
「あら!亮ちゃ~ん!どうしたの?」
ああ、最悪だ。この世で最も嫌いな人が来てしまった。
「あらあら亮ちゃん。どうしたの?大丈夫?引っ越してから連絡も寄越さないなんて、心配で来ちゃったわよ」
何でこんなタイミングで。早く部屋に戻って、荷物を纏めないといけないと言うのに。
「取り敢えず、入れてくれる?」
俺は面倒だったので、煮える腸を押さえながら、部屋に入る。
部屋に入るなり、この人は座布団に座り、喧しく夕飯の催促に入る。
「早く何か出して頂戴。ここまで来るだけで疲れちゃったのよ」
「はいはい」
はあ……明日から遠出だから、今日は大して何か有る訳でもないのに……全く嫌なタイミングで来る人だ。
俺が缶詰などまで使って夕食を用意している間も、ずっと文句を垂れて来る。煩い。
「それにしても汚い部屋ね~。こんなぼろっちいアパートじゃ当然か。あんた、何で連絡寄越さないのよ。こっちはあんたの弟の世話で忙しいんだから」
その弟をほったらかしてここまで来たのは誰なんだか。俺の弟は、俺よりよっぽど出来が良く、中学の頃にはもうネットで仕事を見つけて、今は在宅で色んな所と取引をして、金を稼いでいる。この人はそれをニートで引きこもりだと勘違いして、弟にきつく当たっている。
俺はこの人に何度も説明したが、それで分かってくれる頭してるなら、多分俺はここまでこの人に嫌悪感を抱く事は無かった筈だ。
出来上がった料理を持って行くと、この人はまた文句を垂れて来た。
「あんた、これ何なの!?お父さんが作る料理の方が百倍美味しそうよ!?」
そのお父さんがほぼ男手一つで俺ら兄弟を育ててくれたのに……
文句を押し殺し、俺は「頂きます」と言って、黙々と食べ始める。
「なによこれまっずいわね~!」
煩いな。文句言うくらいなら食うなよ。
俺は黙々と食事を続ける。
「あんたもそろそろ浮いた話の一つも持って来なさいよ!あたしがあんた位の時はねえ……」
煩いな。アンタの話なんて聞きたかないんだよ。
俺は、黙々と食事を続ける。
「あんた!もうバイトやってんでしょ!?家に金でも入れなさいよ!」
煩いな。金に余裕が有ったらアンタが言う『汚い部屋』に住まないよ。
俺は、黙々と、食事を続ける。
「可愛げの無い子だね!どうせ友達すら出来てないんでしょ!?」
煩いな。俺の勝手だろ。
俺は、黙々と、食事を、続ける。
「そんなんだからイジメられんのよ!」
煩いな。黙れよ。アンタに関係無いだろ。
俺は、黙々と食べていた『それ』に味が無い事に気付いた。
「そんなんだからアタシがアンタを生んだ事を後悔しなきゃいけないのよ!」
俺は黙って立ち上がり、目の前で文句を垂れる『それ』を外に押し出した。途中も文句を垂れて来たが、俺の耳ではその罵詈雑言を聞き取る事は出来なかった。
外からドアを叩く音が聞こえる。煩い。
罵詈雑言も聞こえる。煩い。
煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い
気付いたら、俺はバイト先の喫茶店の扉の前に立っていた。
扉の向こうからは光が漏れている。
俺はその光に向かい、扉を開けた。
「やはり透哉君のコーヒーは良いね。心が落ち着くよ」
「有難うございます。君の話も面白いですよ」
マスターはお客と話していたが、直ぐに俺に気付いてくれた。
「どうしたんだい?今はバイトの時間じゃ……」
マスターは半ばまで言ってから、俺の様子が変だと思ったのか、取り敢えず座るよう促して来た。
暫くして、お客が帰って静かになった店内で、マスターが近づいて来た。
「大丈夫かい?」
「ああ……いや……大丈夫じゃ……無いかもです」
マスターは、「そうか」とだけ言って、俺に静かな空間を用意してくれた。
少し経ち、俺の心が落ち着いたと思ったのか、マスターは話しかけて来た。
「その気持ちが分かるだなんて、傲慢な事は言わないさ。ただ職業柄、色んな人間の表情を見る事が有ってね……その人間の状態を少し共感出来るんだ」
そうなんだ……やっぱりマスターは凄いな……それに比べ俺は……
「前にも、君と同じ顔をした人間が来た事が有るんだ」
「その人は、自殺してしまった」
再び、店内に静寂が訪れる。
「全部話せなんて言わないし、無理に話す必要も無い。ただ、私にも何が有ったのか話してくれ。少しは役に立つと思うよ」
視界が滲む。目を開けていられない。
それでも、この温かさは本物だ。
「俺は母親と仲が悪くて……昔っからずっと煩いだけの母親が嫌いで……それでも、父さんは「離婚はしない」って言い続けるから……父さんは好きだったから離れたくなくて……」
俺は、ぽつぽつと自分の昔話を放し始める。
マスターはただ頷き、俺の話を聞いてくれた。
「弟はいつも泣いていて……そんな家庭が嫌で、ここに来たんです……接する人はみんな優しくて、面白くて、あそこに居た時よりずっと楽しくて……」
そうか、俺は辛かったんだ。「どうせ誰も助けてくれない」と決めつけて、勝手に傷ついて、嫌になってここに逃げて来たんだ。
「心海さんは色んな場所に連れて行ってくれて、陽太くんはラーメン奢ってくれて……」
ここに来て良かったと思えた。ここに来てから、そりゃ良い事ばかりじゃないが、少なくとも実家に居た時では考えられない程の幸せを感じた。
「だから……初めて俺は、生きてて良いと思えたんです」
それを聞いたマスターは、満足気に頷いた。
「だってさ、心海ちゃん」
そう言うマスターの視線の先には、心海さんが立っていた。
驚いて固まった俺に、マスターと心海さんが説明してくれた。
「私ね、君の顔を見た時、目の前で自殺した客と同じ顔をしていたから、「もしかしたら彼は自殺してしまうかも」と思ったんだ」
「突然私のスマホに連絡が来た時は驚きました。『君の彼氏君が自殺するかも』なんてメールが来て、急いでここに来たんです」
はは……いつもなら怒るようなマスターの冗談も、今なら少しばかりの慰めになる。
「貴方の悩みは、少し理解出来ます……私、小さい頃施設に居たんです。あそこも、学校も、どこにも私の居場所が無いように感じて、よくここに来たんです」
マスターが言っていた、「嫌な事が有ると決まってここに来た」が少し分かった。ニュースでも、児童養護施設の環境が問題になっているとか、色々言われていた。
次に彼女が口にしたのは、話相手が俺以外に居ない理由だった。
「そんなんだから、こうなっちゃうんですよね……気付けば、他人と接するのを避けるようになっていたんです」
彼女は「助けてくれた日だって、内心凄く怖かったんですよ」と言って、少し微笑んだ。
「無理に笑わなくて良い」と言いたい。その一言が出て来ない。やっぱり彼女は、俺なんかよりずっと凄いんだ。強いんだ。
「あの時、思ったんです。「この人は、性根が優しい人なんだ」って……「私みたいに、自己肯定の道具として他人を使わない人なんだ」って……だから貴方に話かけて、自分と一緒に居る内に、私みたいな情けない人間にしてしまおうとしたんです」
あの時、決して折れなかった理由が分かった。ずっと話しかけて来た理由も。
人は、良くも悪くも望みが有る。彼女の望みは、俺を変える事だったんだ。
「だけど、貴方と話したり、出掛けたりする度、私が、私という人間が、肯定されているように感じたんです」
当たり前だ。君は凄い人なんだから、君は表面上だけでも他人に優しく出来る人間なんだから。君を拒絶した事は幾度とあるが、君を否定した事はただの一度も無かった。
「だから、私は貴方と居たんです。貴方が、何かから逃げても、何かを恐れていても、貴方が私にしてくれたのと同じように、私も貴方を肯定し続けようと思ったんです」
やっぱり君は凄い人だ。俺は直接何かをした訳じゃない。俺はただ、君を見ていただけだ。君について行っただけだ。それなのに、彼女は俺を肯定してくれた。こんな幸福、果たして君以上に他者に与えられる人が居るだろうか。
彼女は、俺が一番欲しくて、でも、一番最初に諦めた言葉をくれた。
「君が生きていて、君と出会えた事が、私はどうしようも無く嬉しいんです」
目から涙が零れる。君が俺を肯定してくれた事が、とても嬉しかった。
だけど、俺の口からは自己嫌悪が顔を出す。
「俺は、君が言うような素晴らしい人間じゃない」
「私は、貴方を尊敬します。人を助ける時、咄嗟に盾になる人が素晴らしい人間じゃない筈がありません」
それでも、彼女は俺を肯定する。
「俺は、君ほど他人に優しく接する事が出来ない」
「私は、貴方の様に心で他人と接する事が出来ません。全て表面だけのまやかしです」
それでも、俺の自己嫌悪を消していく。
「俺は、とても捻くれている」
「私は、貴方より捻くれています。貴方は捻くれていても、優しい人です」
それでも、俺の自己肯定を促す。
「俺は……」
「私は、貴方を肯定します。例え貴方が自己を否定しようと、私はそれ以上に貴方を肯定します」
涙が溢れて止まらない。こんなにも他人を肯定出来る人間を俺は知らない。
俺は、彼女に感謝する。たった一言、感謝する。
「……有難う」
暫くして、俺は泣き止み、時計は十一時を指していた。
彼女は、「明日の準備、よろしくね」とだけ言って、帰って行った。
俺は、マスターに話しかける。
「マスター、有難うございます」
「お礼はいいよ。バイトの面倒を見るのも、店長の務めさ」
マスターは、いつも通りの笑顔を俺に向ける。
俺は、少しマスターと話をする事にした。
「マスター、小さい頃の心海さんは、どんな子だったんですか?」
「んん?それは心海ちゃん本人に聞くべき事柄だが、彼女も話したがらないだろう。良いよ。聞かせてあげよう」
マスターは、俺が座っているカウンター席の隣に座り、少しずつ話し始めた。
「彼女が初めて来た時は、中一の夏だった。彼女の目は、どこかぼんやりしていて、服は濡れていた」
イジメか。そう珍しい事じゃないが、それで自殺する人も居るらしい。彼女が他人との関わりを避けるきっかけになったのは、大分昔の事らしい。
「彼女は、泣きそうな目をして私に訴えるんだ。「助けて」ってね。その後直ぐに同い年位の女の子達が来て、心海ちゃんが来てないかって聞くんだよ。直ぐに帰ったが、心海ちゃんはずっと震えててね……気の毒だったよ」
マスターに懐いていたのはその為か。思春期は、その人間の人格を形成する大きな要因の一つだ。その時期にそんな目に遭っては、捻くれるのも仕方が無い。
「それからという物、彼女は事あるごとにここに来た。その度、やれ病院が嫌だの、やれ給食で苦手な献立が出ただの、私に相談されても困るような事を言いに来るんだ」
中一の言う事かと聞きたくなる程、他愛の無い事ばかりだ。それでも、マスターは彼女を否定しなかったのか。
「それからドンドン月日は巡り、彼女は大人になっていった。大学で初授業があった日、君を連れて来たのには驚いた。「まさかもう彼氏が!?」と思ったさ」
あの時のあんな質問の意味が分かった。マスターは、彼女が悪い男に引っ掛かってないかが心配だったのだろう。親心と言うヤツか……
「君と出掛けるようになってからは、前に増して笑顔が増えた。顔を出せば君の事ばっかり!私は君に嫉妬したよ。なぜ出会って間もない君が、彼女を心から笑えるようにしたのかってね」
何時の間にか、俺は彼女を肯定していた。その影響を最も感じていたのはマスターだったのだろう。
「まあ、後は君の知る通りさ……さあ帰った帰った!私ももう寝たい!今日は閉店だよ!」
話を終えたマスターは、俺を外に摘まみ出し、店の明かりを消した。俺は空を見上げ、歩き出す。
騒がしい夜も、今日は何だか素晴らしい物に見えた。あの学生も、あのサラリーマンも、あのコンビニ店員も、とても凄い人の様に思えた。
人は欲で動いている。
欲を捨てる事は人を止める事と等しく、この世は誰かの、或いは誰もの欲で出来ている。
人は他人を、自身の欲を満たす道具として消費する。
それでも良い。
俺は子供が憧れるスーパーヒーローじゃない。
圧倒的なパワーで悪を叩きのめす事も、仲間とトラウマを克服する事も出来ない。
だけど、だからこそ、人は群れ、自分では消化しきれない事を他人と一緒に乗り越えようとするのだ。
俺は、自分で自分を誇れるような、そんな人間になりたい。
あの学生も、あのサラリーマンも、あのコンビニ店員も、みんな打算と欲だけで動いている。
何も欲を持つなとは言わない。人は欲が有るから成長する。それは学力にも、社会的地位にも、人間的な事にも言える事で、欲を無くすという事は、人である事を放棄する事に等しい。
しかし、どいつもこいつも他人を見下し、優越感を得る為だけに行動している。いつも笑っている人間も、腹の内側では何を考えているのか分からない。あの笑顔も、友人も、何もかもが偽物の幸福を得る為だけのアクセサリーでしかない。
俺は海田亮太。十八歳の、今年から大学生。所謂事なかれ主義の人間だ。日々を何も生産せず、ただ世に溢れる情報を受け取る事に費やしている。虚しい。
俺は実家の母親が大嫌いで、あいつらから離れる為に、お気に入りのファミレスとの別れに涙を流しながら東京まで進学したのだ。
長時間の移動はそれだけで疲れるというのは本当らしい。住む予定のアパートに行く為に歩いているのだが、足が重いし頭も痛い。長時間の移動は避けるのが得策なのだろう。
歩いていると、少し前で何か騒ぎが起こっているようだった。
「なんだてめえ!」
「この子に謝れって言ってるんです!」
どうやら、子供にぶつかった男性を、あの女性が責めているらしい。
まあ、俺には直接の関係が無い人間の話だ。俺が横を素通りしようとしていると、急に男性の方が叫びだした。
「ああもううざってえ!退けクソアマ!」
そう言って、彼は拳を振り上げた。
鈍い音が響く。俺は痛む右頬を手で押さえた。どうやら俺は彼女を守る為に飛び出してしまったらしい。恥ずかしい。何故新天地に来て一日目でトラブルに関わってしまったのだろう。
男は少し後退り、それでも俺に叫び始めた。
「なんだよ!俺はその女と話してただけだぞ!?」
全く……振り上げた拳で彼女を殴ろうとしていたのはどこのどいつなんだ。
その言葉を押し退け、俺は百十番を打ち込んだスマホの画面を彼に見せ、自主的にこの場を離れる事を促す。
「結果的にとは言え、君は俺を殴りました。今俺がこのボタンをタップすれば、お縄になるのはどちらかな?」
どうやら脅かされてくれたらしい彼は、「覚えてろ!」と言って、どこかに走って行ってしまった。現実でそれ言う奴は見た事が無かったが、どうやら実在したらしい。
まあ今は、彼女の反応が気になる。えっぐい嫌われそう。まあ慣れたものだ。
「あの、有難うございました。良かったらこの後お茶でも……」
えなにこの人怖い。初対面の人間とお茶とか何考えてんだろう。
兎に角今は逃げるのが先決!俺は「いや、用事あるんで」と言って、速足にその場を離れた。
さあ、何か面倒な事が有ったが、新天地東京。ここから俺のキャンパスライフは幕を開けるのだ!
と言っても、今までの人生と同じように、程々の人付き合いと、十分な勉強、バイトをして過ごすだけだ。何も変わらない。強いて言うなら、もうこれ以上のトラブルと関わらないようにしよう。
初日は入学式だけ。ここで話し相手程度の間柄の人間を作れれば良い。欲を出すな。
大学の門の手前に差し掛かった辺りで、誰かの叫び声が聞こえた。
「あー!貴方は!」
どうやらどこかのラブコメのように、運命の出会いを果たした男女が居るらしい。全く羨ましい。俺には関係の無い話とは言え、急に大声が聞こえるのは結構驚く。
俺は足を止める事無く、建物に向かう。何せ新天地だ。建物の中で迷わないとも限らない。早く着くに越した事は無い。
「いや!貴方ですって!そこの手提げかばんの男の人!」
どうやら相手方に心当たりが無かったらしい。可哀そうに、久々に再会した大事な相手が、自分の事を覚えていないと言うのは、結構辛い物らしい。俺はさらに足を進める。
「貴方ですって!そこの栗色の髪で眼鏡を被った、背丈が少し高い人です!」
まさか俺か?いやそんな筈は無いが、一応確認して、違ったら注意する為に、一旦声がする方を見よう。
振り返ると、そこには先程の女性が笑顔で立っていた。
「やっとこっち見た!あの、私さっき貴方に助けられて……」
「ちょっと待って下さい。少し眩暈がする」
最悪だ。まさか俺が関わったトラブルの渦中に居た人間が、それも自分から関わってくるタイプの人間だったなんて。
どうやら彼女は結構優しい人間らしく、俺が額を押さえ天を仰いでいる間も、引っ切り無しに「大丈夫ですか?」「私何かしちゃいました?」と聞いて来ている。
兎に角、この場をやり過ごそう。そして二度と関わらない。いける。
「すみません。急いでいるので失礼します」
「いえ!助けてもらって何もお礼をしないなんて、父の教えに背きます!是非、お礼させてください!」
ああ面倒だなこの人!俺は「いえ、気にないでください」と言って、無理矢理その場を離れた。彼女はまだ何か言っていたが、すぐ人込みの騒がしさに紛れ、彼女の声は次第に聞こえなくなっていった。
一先ず、俺は適当な話が合いそうな人に話しかけた。ここは人脈を作る場でもあるのだ。人との関わりは持った方が得だろう。
俺は、木村陽太さんという人と連絡先を交換し、その日は帰った。
しかし、人の願いとは儚い物で、俺は最も会いたくない人間に、初めての授業で再会する。
「いや~偶然ですねえ!二人共同じ授業だなんて!あ、私、飯島心海と言います」
最悪だ。まさか同じ授業を受ける人間の中に、この人物がいたなんて。うん、非常に不味い。単位は欲しい上、人が多い訳でもないから昨日の様に逃げる事も出来ない。詰んだ。
俺は可能な限りの抵抗として、席を離そうと試みたが、抵抗虚しく、向こうも席を移動する事で呆気無く距離は詰められてしまった。やっぱこの人怖い。
そして彼女は昨日断ったにも関わらず、また俺に「お礼させてくれ」と言ってくる。うざったい。これ以上付き纏われても面倒だ。さっさと断ってしまおう。
「いま授業中ですよ?それに、昨日も断ったのに、なんで話しかけて来るんです?」
「お礼がしたいからです!」
どうやら彼女は折れないタイプの人間らしい。いくら言っても諦めてくれない。
俺は一旦彼女を無視し、真面目に授業を受ける事にした。彼女は少し静かになった。
授業が終わった後も、心海さんは付いて来た。
「昨日助けて貰ったお礼をさせてください!」
「全く強引な鶴の恩返しだ……」
しかし、いくら断っても付いて来られるのは正直もうウンザリだ。ここはお礼を受け取るだけ受け取って、さっさと彼女が付いて来る理由を無くしてしまおう。
「仕方ないですね。取り敢えずその『お礼』とやらを受け取りましょう」
「やった!有難うございます!」
なんでお礼する方が礼を述べるのか。どうやら彼女は自身の父親の言う事を忠実に守る、義理堅い人間でもあるらしい。
彼女は俺に、取って置きだという喫茶店を紹介してくれた。静かな店内にはあまり人は居らず、少しのコーヒーの香りと窓から差し込む日の光が、物が多い訳でもない空間を、とても綺麗な物に仕立て上げている。
彼女は誰も居ないカウンターの奥に向かって、「マスター!こんにちは!」と声をかける。少し間を開けて出て来たのは、髭を生やした、片眼鏡が特徴的な男性だった。
「おお心海ちゃん。今日はどんなご用件かな?」
「恩人さんにお礼です!」
俺は取り敢えず彼に一礼し、名前を言って自己紹介した後、窓際のテーブル席に彼女と座った。
「そういえば、貴方の名前って聞いてませんでしたね」
「聞かれませんでしたからね」
彼女は、オススメだというサンドイッチとコーヒーを二人分注文した。
三分ほどすると、思っていたより早く注文していた品が出てきた。
テーブルに四つの品を置いたマスターは、カウンター席から椅子を一つ持って来て、テーブルの脇に座った。
「で、二人はどういう関係なんだい?」
どうやら彼は結構好奇心旺盛らしい。
「別にどうという仲でも……今回来たのは、先程彼女が言った通り、彼女の恩返しに付き合っただけです」
「ふうん……」
彼はまだ納得していないようだ。俺がコーヒーを口に運んだ時、爆弾発言を寄越して来た。
「付き合ってないの?」
危ない。あと少しで吹いてしまう所だった。
なんだこの人は。初対面の人間にそんな事聞くか?ていうか話聞いてたのか?
俺が驚きのあまり黙っていると、心海さんがマスターに詰め寄る。
「何て事聞くんですかマスター!もし彼に彼女さんが居たらどうするんですか!」
「ははは、冗談だよ。だけど、もし恋仲の人が居たとしたら、君に付いて来ないと思うよ?」
誠に遺憾ながら、彼の言う事は間違っていない。俺は彼女どころか、「俺達友達だよな」なんて言い合う人間が居た記憶が無い。
正論をぶつけられた彼女は、「あっ」みたいな顔をして黙ってしまった。
食事中、彼はちょくちょく話を振って来た。喧しい。
「ねえ、君は何時東京に?」
「どうして東京に?」
「彼女は中学生の頃から良く来てくれてね。もうすっかり常連だよ。嫌な事が有ると決まってここに来るんだ」
俺は適当に流しながら、食事を口に運ぶ。美味い。
三十分程すると、食べていたサンドイッチも無くなり、コーヒーも残り僅かになっていた。
外の景色を眺めていると、マスターがケーキを持って来た。
「頼んでないですよ?」
「サービスさ。心海ちゃんが他人を連れて来るなんて初めてだからね」
やはり彼の頭の中は大部分がピンク色のようだ。
とはいえ、サービスでこれは有難い。頂いてしまおう。うん、美味い。
ケーキも食べ終わる頃にはコーヒーも無くなり、俺の腹も満たされた。この値段でこれとは、結構太っ腹なマスターだ。また来よう。
店を出る時、彼女が「これはお礼だから私が払います!」と言って来た。彼女がこう言いだすと、梃子でも動かない事は学んだので、その言葉に甘える事にした。
俺は店を出る時、マスターに呼び止められ、「私の勘は結構当たるんだよ?」と言って来われたので、「また来ます」とだけ言って、外に出た。
何にせよ、これでもう彼女が付き纏って来る事は無い。俺の静かで平和な生活が帰って来る。やったぜ。
そう思っていた時期が、僕にもありました。
なんと彼女は翌日も話しかけて来たのだ。
「なんでまた話しかけて来るんだ……」
「他に話す人が居ないからです!」
おっと親近感が湧くな。だが何故その明るさで友達どころか話し相手居ないとは……『現実は小説より奇なり』とは本当の事だったらしい。
しかし、もしその言葉が本当なら、他人に昨日の朝の事を離される事も無いし、友人が出来る可能性も有る。どうやら俺は吹っ切れてきたらしい。こうなりゃやけくそだ。
「はあ……なんです?」
「お!自分から話しかけて来るなんて、さては昨日のお出掛け、満更でもない感じですか?」
やっぱこいつヤバいヤツだろ。なんだその言い草。
「何の用か、と聞いているんです」
「もし今日も大丈夫でしたら、また一緒に出掛けないか、という話をしに」
はあ、やっぱりこうか。昨日と目が同じだ。
まあ、昨日は結構良い所を紹介して貰ったし、もし穴場を教えてくれるなら、こちらもとても助かる。何より、こういう時の彼女は意地でも譲らない。大人しく従った方が楽だろう。
「今は授業中なので、話はまた後で」と言うと、彼女は静かになってくれた。やはりこれが最善の道だ。次からもこうしよう。
こうして、俺が彼女の『お礼』に付き合う日常が始まった。俺が望む『平穏』は姿を消した。
慣れてみたらどうだ。結構楽しい。あの喫茶店は勿論だったが、その他にも安くて美味いラーメン屋や、小さいのに品揃えが良い本屋など、俺が狙っていた『穴場』を教えてくれた。俺もあのカフェでバイトを始めたので、結構金に余裕はあったが、それでも安いのは有難い。
俺達は、彼女が教えてくれた喫茶店で待ち合わせをするのがいつもの事になっていた。彼女は、自分が渡したクマのキーホルダーを見ると、「亮太さん!」と話しかけて来た。
マスターは凄い人で、常連だけでなく、仕事でたまに来ると言う人の名前を全部覚えていた。残業帰りに来るサラリーマンや一か月に一回来るペットショップの従業員、仕事で静岡に来たら来るという探偵など、決して来客が多いという訳ではない店だったが、それでも全員覚えているというのは凄いと思う。マスターは「君もそのうち覚える」と言っているが、いつまで経っても覚えられる気がしない。
今日もその予定だった。「今回は遠出で泊まりなんで、準備しといてね」と言っていたので、俺は一旦アパートに帰り、着替えや暇潰しの準備をしようとした。
そう、しようとしていたのだ。
部屋に入った俺は、ドアの前に居た人物に目を疑った。
「あら!亮ちゃ~ん!どうしたの?」
ああ、最悪だ。この世で最も嫌いな人が来てしまった。
「あらあら亮ちゃん。どうしたの?大丈夫?引っ越してから連絡も寄越さないなんて、心配で来ちゃったわよ」
何でこんなタイミングで。早く部屋に戻って、荷物を纏めないといけないと言うのに。
「取り敢えず、入れてくれる?」
俺は面倒だったので、煮える腸を押さえながら、部屋に入る。
部屋に入るなり、この人は座布団に座り、喧しく夕飯の催促に入る。
「早く何か出して頂戴。ここまで来るだけで疲れちゃったのよ」
「はいはい」
はあ……明日から遠出だから、今日は大して何か有る訳でもないのに……全く嫌なタイミングで来る人だ。
俺が缶詰などまで使って夕食を用意している間も、ずっと文句を垂れて来る。煩い。
「それにしても汚い部屋ね~。こんなぼろっちいアパートじゃ当然か。あんた、何で連絡寄越さないのよ。こっちはあんたの弟の世話で忙しいんだから」
その弟をほったらかしてここまで来たのは誰なんだか。俺の弟は、俺よりよっぽど出来が良く、中学の頃にはもうネットで仕事を見つけて、今は在宅で色んな所と取引をして、金を稼いでいる。この人はそれをニートで引きこもりだと勘違いして、弟にきつく当たっている。
俺はこの人に何度も説明したが、それで分かってくれる頭してるなら、多分俺はここまでこの人に嫌悪感を抱く事は無かった筈だ。
出来上がった料理を持って行くと、この人はまた文句を垂れて来た。
「あんた、これ何なの!?お父さんが作る料理の方が百倍美味しそうよ!?」
そのお父さんがほぼ男手一つで俺ら兄弟を育ててくれたのに……
文句を押し殺し、俺は「頂きます」と言って、黙々と食べ始める。
「なによこれまっずいわね~!」
煩いな。文句言うくらいなら食うなよ。
俺は黙々と食事を続ける。
「あんたもそろそろ浮いた話の一つも持って来なさいよ!あたしがあんた位の時はねえ……」
煩いな。アンタの話なんて聞きたかないんだよ。
俺は、黙々と食事を続ける。
「あんた!もうバイトやってんでしょ!?家に金でも入れなさいよ!」
煩いな。金に余裕が有ったらアンタが言う『汚い部屋』に住まないよ。
俺は、黙々と、食事を続ける。
「可愛げの無い子だね!どうせ友達すら出来てないんでしょ!?」
煩いな。俺の勝手だろ。
俺は、黙々と、食事を、続ける。
「そんなんだからイジメられんのよ!」
煩いな。黙れよ。アンタに関係無いだろ。
俺は、黙々と食べていた『それ』に味が無い事に気付いた。
「そんなんだからアタシがアンタを生んだ事を後悔しなきゃいけないのよ!」
俺は黙って立ち上がり、目の前で文句を垂れる『それ』を外に押し出した。途中も文句を垂れて来たが、俺の耳ではその罵詈雑言を聞き取る事は出来なかった。
外からドアを叩く音が聞こえる。煩い。
罵詈雑言も聞こえる。煩い。
煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い煩い
気付いたら、俺はバイト先の喫茶店の扉の前に立っていた。
扉の向こうからは光が漏れている。
俺はその光に向かい、扉を開けた。
「やはり透哉君のコーヒーは良いね。心が落ち着くよ」
「有難うございます。君の話も面白いですよ」
マスターはお客と話していたが、直ぐに俺に気付いてくれた。
「どうしたんだい?今はバイトの時間じゃ……」
マスターは半ばまで言ってから、俺の様子が変だと思ったのか、取り敢えず座るよう促して来た。
暫くして、お客が帰って静かになった店内で、マスターが近づいて来た。
「大丈夫かい?」
「ああ……いや……大丈夫じゃ……無いかもです」
マスターは、「そうか」とだけ言って、俺に静かな空間を用意してくれた。
少し経ち、俺の心が落ち着いたと思ったのか、マスターは話しかけて来た。
「その気持ちが分かるだなんて、傲慢な事は言わないさ。ただ職業柄、色んな人間の表情を見る事が有ってね……その人間の状態を少し共感出来るんだ」
そうなんだ……やっぱりマスターは凄いな……それに比べ俺は……
「前にも、君と同じ顔をした人間が来た事が有るんだ」
「その人は、自殺してしまった」
再び、店内に静寂が訪れる。
「全部話せなんて言わないし、無理に話す必要も無い。ただ、私にも何が有ったのか話してくれ。少しは役に立つと思うよ」
視界が滲む。目を開けていられない。
それでも、この温かさは本物だ。
「俺は母親と仲が悪くて……昔っからずっと煩いだけの母親が嫌いで……それでも、父さんは「離婚はしない」って言い続けるから……父さんは好きだったから離れたくなくて……」
俺は、ぽつぽつと自分の昔話を放し始める。
マスターはただ頷き、俺の話を聞いてくれた。
「弟はいつも泣いていて……そんな家庭が嫌で、ここに来たんです……接する人はみんな優しくて、面白くて、あそこに居た時よりずっと楽しくて……」
そうか、俺は辛かったんだ。「どうせ誰も助けてくれない」と決めつけて、勝手に傷ついて、嫌になってここに逃げて来たんだ。
「心海さんは色んな場所に連れて行ってくれて、陽太くんはラーメン奢ってくれて……」
ここに来て良かったと思えた。ここに来てから、そりゃ良い事ばかりじゃないが、少なくとも実家に居た時では考えられない程の幸せを感じた。
「だから……初めて俺は、生きてて良いと思えたんです」
それを聞いたマスターは、満足気に頷いた。
「だってさ、心海ちゃん」
そう言うマスターの視線の先には、心海さんが立っていた。
驚いて固まった俺に、マスターと心海さんが説明してくれた。
「私ね、君の顔を見た時、目の前で自殺した客と同じ顔をしていたから、「もしかしたら彼は自殺してしまうかも」と思ったんだ」
「突然私のスマホに連絡が来た時は驚きました。『君の彼氏君が自殺するかも』なんてメールが来て、急いでここに来たんです」
はは……いつもなら怒るようなマスターの冗談も、今なら少しばかりの慰めになる。
「貴方の悩みは、少し理解出来ます……私、小さい頃施設に居たんです。あそこも、学校も、どこにも私の居場所が無いように感じて、よくここに来たんです」
マスターが言っていた、「嫌な事が有ると決まってここに来た」が少し分かった。ニュースでも、児童養護施設の環境が問題になっているとか、色々言われていた。
次に彼女が口にしたのは、話相手が俺以外に居ない理由だった。
「そんなんだから、こうなっちゃうんですよね……気付けば、他人と接するのを避けるようになっていたんです」
彼女は「助けてくれた日だって、内心凄く怖かったんですよ」と言って、少し微笑んだ。
「無理に笑わなくて良い」と言いたい。その一言が出て来ない。やっぱり彼女は、俺なんかよりずっと凄いんだ。強いんだ。
「あの時、思ったんです。「この人は、性根が優しい人なんだ」って……「私みたいに、自己肯定の道具として他人を使わない人なんだ」って……だから貴方に話かけて、自分と一緒に居る内に、私みたいな情けない人間にしてしまおうとしたんです」
あの時、決して折れなかった理由が分かった。ずっと話しかけて来た理由も。
人は、良くも悪くも望みが有る。彼女の望みは、俺を変える事だったんだ。
「だけど、貴方と話したり、出掛けたりする度、私が、私という人間が、肯定されているように感じたんです」
当たり前だ。君は凄い人なんだから、君は表面上だけでも他人に優しく出来る人間なんだから。君を拒絶した事は幾度とあるが、君を否定した事はただの一度も無かった。
「だから、私は貴方と居たんです。貴方が、何かから逃げても、何かを恐れていても、貴方が私にしてくれたのと同じように、私も貴方を肯定し続けようと思ったんです」
やっぱり君は凄い人だ。俺は直接何かをした訳じゃない。俺はただ、君を見ていただけだ。君について行っただけだ。それなのに、彼女は俺を肯定してくれた。こんな幸福、果たして君以上に他者に与えられる人が居るだろうか。
彼女は、俺が一番欲しくて、でも、一番最初に諦めた言葉をくれた。
「君が生きていて、君と出会えた事が、私はどうしようも無く嬉しいんです」
目から涙が零れる。君が俺を肯定してくれた事が、とても嬉しかった。
だけど、俺の口からは自己嫌悪が顔を出す。
「俺は、君が言うような素晴らしい人間じゃない」
「私は、貴方を尊敬します。人を助ける時、咄嗟に盾になる人が素晴らしい人間じゃない筈がありません」
それでも、彼女は俺を肯定する。
「俺は、君ほど他人に優しく接する事が出来ない」
「私は、貴方の様に心で他人と接する事が出来ません。全て表面だけのまやかしです」
それでも、俺の自己嫌悪を消していく。
「俺は、とても捻くれている」
「私は、貴方より捻くれています。貴方は捻くれていても、優しい人です」
それでも、俺の自己肯定を促す。
「俺は……」
「私は、貴方を肯定します。例え貴方が自己を否定しようと、私はそれ以上に貴方を肯定します」
涙が溢れて止まらない。こんなにも他人を肯定出来る人間を俺は知らない。
俺は、彼女に感謝する。たった一言、感謝する。
「……有難う」
暫くして、俺は泣き止み、時計は十一時を指していた。
彼女は、「明日の準備、よろしくね」とだけ言って、帰って行った。
俺は、マスターに話しかける。
「マスター、有難うございます」
「お礼はいいよ。バイトの面倒を見るのも、店長の務めさ」
マスターは、いつも通りの笑顔を俺に向ける。
俺は、少しマスターと話をする事にした。
「マスター、小さい頃の心海さんは、どんな子だったんですか?」
「んん?それは心海ちゃん本人に聞くべき事柄だが、彼女も話したがらないだろう。良いよ。聞かせてあげよう」
マスターは、俺が座っているカウンター席の隣に座り、少しずつ話し始めた。
「彼女が初めて来た時は、中一の夏だった。彼女の目は、どこかぼんやりしていて、服は濡れていた」
イジメか。そう珍しい事じゃないが、それで自殺する人も居るらしい。彼女が他人との関わりを避けるきっかけになったのは、大分昔の事らしい。
「彼女は、泣きそうな目をして私に訴えるんだ。「助けて」ってね。その後直ぐに同い年位の女の子達が来て、心海ちゃんが来てないかって聞くんだよ。直ぐに帰ったが、心海ちゃんはずっと震えててね……気の毒だったよ」
マスターに懐いていたのはその為か。思春期は、その人間の人格を形成する大きな要因の一つだ。その時期にそんな目に遭っては、捻くれるのも仕方が無い。
「それからという物、彼女は事あるごとにここに来た。その度、やれ病院が嫌だの、やれ給食で苦手な献立が出ただの、私に相談されても困るような事を言いに来るんだ」
中一の言う事かと聞きたくなる程、他愛の無い事ばかりだ。それでも、マスターは彼女を否定しなかったのか。
「それからドンドン月日は巡り、彼女は大人になっていった。大学で初授業があった日、君を連れて来たのには驚いた。「まさかもう彼氏が!?」と思ったさ」
あの時のあんな質問の意味が分かった。マスターは、彼女が悪い男に引っ掛かってないかが心配だったのだろう。親心と言うヤツか……
「君と出掛けるようになってからは、前に増して笑顔が増えた。顔を出せば君の事ばっかり!私は君に嫉妬したよ。なぜ出会って間もない君が、彼女を心から笑えるようにしたのかってね」
何時の間にか、俺は彼女を肯定していた。その影響を最も感じていたのはマスターだったのだろう。
「まあ、後は君の知る通りさ……さあ帰った帰った!私ももう寝たい!今日は閉店だよ!」
話を終えたマスターは、俺を外に摘まみ出し、店の明かりを消した。俺は空を見上げ、歩き出す。
騒がしい夜も、今日は何だか素晴らしい物に見えた。あの学生も、あのサラリーマンも、あのコンビニ店員も、とても凄い人の様に思えた。
人は欲で動いている。
欲を捨てる事は人を止める事と等しく、この世は誰かの、或いは誰もの欲で出来ている。
人は他人を、自身の欲を満たす道具として消費する。
それでも良い。
俺は子供が憧れるスーパーヒーローじゃない。
圧倒的なパワーで悪を叩きのめす事も、仲間とトラウマを克服する事も出来ない。
だけど、だからこそ、人は群れ、自分では消化しきれない事を他人と一緒に乗り越えようとするのだ。
俺は、自分で自分を誇れるような、そんな人間になりたい。
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