演じるは愛しき罪人達

暇神

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とある青年の物語

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 目が覚める。カーテンを開け、また一日が始まった事を告げる朝日を浴びる。朝日を浴びると気分が良くなるそうだが、胸の内側は憂鬱な気分で埋め尽くされている。
 一階に降り、テーブルに置かれている朝食を食べる。冷めた米は少し硬く、味が薄く感じる。
 朝食を食べ終わると、歯磨きをしてから、少し前に夏服に変わった制服に着替え、荷物を持って、自宅の扉を開ける。友人に会うまで、胸の内も憂鬱と向き合い続ける。


 だが嫌な気分でも、ヒッキーと会うと忘れてしまうようだ。ヒッキーは僕の背を思いっ切り叩きながら、「おはよう!」と言った。
「おはようヒッキー。暑いのに元気だね」
「暑いは暑いんだけどな。最高気温二十七度だってよ。六月なのにイカれてるよな」
「全くの同感だ」
 六月としてはかなり暑いが、最近は八月に三十度を超え、日によっては四十度まで近づく日もある。今日程度の暑さで倒れてたら、八月頃には一歩も外へ出られないのではないか。まあそれでも良いんだけど。
 夏服には変わったが、まだ教室のエアコンは使ってはいけないらしい。何とも言えない気分だ。僕らは変わらず光る太陽の下で、なんとか元気に登校する。
 教室に入っても、この暑さは変わらない。エアコンが使えないのだから当然ではあるが、室内でもこの感覚が続くのは、正直勘弁してほしい。
 だが、演劇部の面子は、いつもと変わらない様子で練習に励む。

 そんな事は断じて無い。僕が部室に入ると、部長が椅子の背もたれに体重を預けて、俊介さんと今日子さんに扇いでもらっている光景が目に入る。
「暑い……暑い……」
「ホント暑さには弱いんですから。部長はもう少し、暑さ対策をすべきですよ」
「私も毎日コレじゃ、腕が疲れちゃうよ~」
 部長は暑さにはトコトン弱いらしく、ここ最近は毎日こんな感じだ。『エアコンを使わせない教師が憎い』という言葉は、もう聞き飽きた程だ。部長を扇いでいる俊介さんも今日子さんも、額には薄く汗が滲んでいる。僕は三人の横に鞄を置き、適当な椅子に座る。
「毎年こんな様子だったんですか?」
「そりゃあね。部長、寒さには強い分暑さには弱いんだ」
「どっちも強かったら楽なんだけどね~」
「エアコンを使わせない教師が憎い」
 しかし、ずっとこうしている訳にも行かない。四時を回ると、僕らはいつも通り……いや正確には、部長を抜いて練習を始めた。部長を抜くと、必然的に人が足りなくなるので、僕らはいつもより、ほんの少しだけ忙しくなる。
 練習が終わり、僕らは校舎を後にする。日が沈み始める頃なので、ほんの少しだけ、暑さが和らぐ。部長もこの頃になると、多少は元気が出て来る。
「夏休みは海に行こう!な!それが良い!」
「この町から海は遠いですよ。精々プールじゃないですか?」
「私は良いと思うよ。海。夏っぽくてさ」
「僕も賛成ですけど、そうなったら移動手段が問題ですよね。電車ですか?」
「俺の方で知り合いに色々頼んでみるわ」
 ふんわりとだが、夏休みにも遊びに行く事が決定した。僕はそれを楽しみにしながら、また一歩、歩みを進める。

 七月。そろそろ夏休みも近くなって来た頃だ。部長も本格的に活力が無くなって来たが、それ以外にも変化があった。
「今日もですか?」
「そうみたいだね」
 俊介さんが部活に来る事が少なくなったのだ。詳しく事情は知らないが、これは毎年の事らしく、部長も今日子さんも『今年もそんな時期か~』と言っている。どんな時期だ。
「なんで来ないんですか?」
「この時期が最盛期だからね」
 俊介さんの実家は農家なんだろうか。夏が旬の野菜って何があったっけ。キュウリとかトマトとか?スイカは野菜だっけ。
「扇いでくれる奴が一人減って、しかもこの暑さだ……死にそう」
「熱中症で死ぬ人も居ますから洒落になりませんよ」
 勿論、全く来ない訳ではない。週に二、三回程度来る。しかし、毎日来ていた以前と比べると、やはり異常に感じる。何があったんだろう。やっぱり家の手伝いかな。農家なら手伝った方が良いんだろうし。真面目そうな人だし。有り得る。
 しかし気になる。部長と今日子さんは事情を知っている様子だが、それでも何か言っている様子は無い。何も言わずに無断欠席なんて、あの人がやりそうな事とはかけ離れているように感じる。

「……で、なんでヒッキーが居るのさ」
「親友だろ?こんな面白そうな事、首突っ込まずにはいられないしな」
 放課後。俊介さんがどこに行くのかを調べる為に、僕は俊介さんを尾行する事にした。因みに、部長と今日子さんには『歯医者に行く』と言い訳をしている。下準備は済んだ。後は実行するだけ……という所で、ヒッキーが合流して来たのだった。
「どこぞの洋画とかゲームとかみたいで良いな」
「気付かれるかもだから、静かにね」
 俊介さんは暫く歩き、自分の家の方へ進む。やっぱり何も無いのかもな。そんな事を考えながら、僕は尾行を続ける。それからさらに時間が経っても、俊介さんはいつもの帰り道から外れなかった。
「やっぱ何も無いんじゃね?帰ろうぜ」
「あっちょっと待って」
 俊介さんがこっちを向きそうになったので、僕は慌ててヒッキーの頭を押さえる。少しだけ時間を置いて、また壁から顔を出すと、俊介さんは、いつもの道から外れて、別の道へ進もうとしていた。
「動きがあったよヒッキー」
「お、いよいよ面白く?」
「なるかもね」
 僕らは気付かれないように、俊介さんを追い掛ける。段々と人通りが少ない場所になっていくので、僕らは不審に思った。やがて小さなトンネルの近くに着いた。
「こんな所あったのか……僕知らなかったな」
「俺ここ知ってるぜ。不良の溜まり場として有名なスポットだ」
 不良の溜まり場?ザ・優等生な俊介さんが、こんな所で何を……と考えている内に、俊介さんは大きく息を吸い込むと、周囲に宣言した。
「おい!居るんだろ!出て来たらどうだ!」
 僕とヒッキーは顔を見合わせて、『バレてたのか!?』とアイコンタクトをする。しかし、僕らの事ではない事は直ぐに分かった。なぜなら、道の脇や壁の向こう側から、ガラの悪そうなお兄さん達が出て来たからだ。
「え?ヤクザ?」
「不良集団……だよな。ここの背景考えると」
 不良集団の中から、一際目立つ背丈の男が前に出て来ると、俊介さんはその人と向かい合って、目を合わせた。どうやら、顔見知りらしい。だが、親密だったり仲が良かったりとかではない様子だ。
「よお来たなあ俊介ぇ……今度こそボコしたるわ」
「エセ関西弁やめろよ。関西の人怒るぞ」
 俊介さんの言葉に怒ったらしいその人は、「野郎共!やっちまえ!」とお決まりの台詞を言った。沸点低いな。
 その言葉を待っていたと言わんばかりに、周囲の男達は、一斉に俊介さんに襲い掛かった。俊介さんはそれらを一人一人、その拳で殴って鎮めて行く。まるで映画のワンシーンのような光景に、僕とヒッキーは目を見開く。この頃にはもう、自分達が隠れている事すら忘れていた。
 やがて、リーダー格の男だけが残った。男は俊介さんを睨みながら、小さく声を漏らす。
「野郎……」
「『量より質』って言うだろ?頭数だけ増やすのは悪手だぞ」
 男は腕にメリケンサックを嵌め、俊介さんに殴り掛かる。俊介さんはその腕を躱し、掴み、そのままの勢いで投げた。コンクリートの地面に叩き付けられた男は、暫く呻き声を上げながら、地面を蠢いていた。やがて起き上がった男は、「覚えておけよ!」と言って、その場を去った。取り巻きの男達も、足早にその場を去って行った。
 残ったのは、少し息が上がった俊介さんだけだった。俊介さんは僕らに気付いていたようで、僕らの方を見て、「少し言い訳させてくれないかな?」と言った。僕らは何も言えず、ただ首を縦に振った。

 僕らは近くのカフェに行き、そこで話をする事にした。取り敢えず、座って話そうとしたのだ。
「で~……そっちは?」
「僕の友人の響輝です」
「竹田響輝です。よろしくです」
「よろしく」
 うん。やっぱりいつもの俊介さんだ。優しそうな雰囲気の人だ。だけど、さっきまで不良を殴り倒してたんだよなこの人。凄いな。オンオフの切り替えが。
「じゃ、言い訳だね。春樹君は部長達から聞いてないんだよね?」
「はい」
「それなら良い。後で部長を殴らないで済むし」
 部長がこの件について、頑なに事情を説明しようとしなかったのはその為か。そんな事を考える僕だったが、俊介さんは構わずに話し始めた。
「僕の両親は厳しい人でね。成績優秀、眉目秀麗、文武両道……そんな『完璧超人』が欲しかったらしいんだ。だけど僕は、そんな両親のご期待に添えなかったらしくてね。散々習い事やら塾やら行かされたよ。母親からは見た目に気を遣うレクチャーもされたさ。そのお陰で、成績は優秀になったし、運動もできる。見た目も……こういう事自分で言うのはアレだけど、同級生の女子にキャーキャー言われる程度には良くなった。感謝……はしてるけど、どうにも、苦手な人達だ」
 俊介さんは一口お茶を飲んだ。店内からは人が段々と居なくなり、僕の耳に入って来るのは、店が流している音楽と、氷がコップの中で揺れる音だけになる。装飾の少ない店内が、より一層寂しい風景となる。
「それにさ、そういう生活続けてるとこう……息苦しいって言うか。凄く生き辛い感じになっちゃったんだ。僕はそのせいか荒れちゃってね。一時期色んな所に喧嘩売ってさ、そいつらと殴り合ってストレスを発散してたんだ。今思うと、アレが僕のささやかな反抗期だったんだと思う。段々と冷静になって、喧嘩にも飽きて来た頃にはもう、それまで積み上げて来た恨みは途方も無い物になってたんだ。それで、今も喧嘩を続けてるって訳さ」
 話を終えた俊介さんは、注文していた烏龍茶を、また少し飲んだ。俊介さんとどうにも結び付かなかった『喧嘩』という物が、ようやく結び付いたような気がする。
 それはそれとしてヒッキー。その顔を止めろ。『女子にキャーキャー』の辺りから急に顔の線が増えたような気がするぞ。下心を隠そうともしないんだな。いや考えてる事は分かるけどさ。
 話を聞く限りでは、中々結構な毒親だな。もしこういう人が身内に居たら、相当面倒臭い思いをしそうだな。絶対に嫌だ。こういう類の人が一番面倒なんだ。
 『人が最も強くなるのは大義を得た時だ』とよく言うだろう。それは本当にその通りで、人を殺す事が悪だったとしても、自分や家族、仲間、もっと言うなら国を攻撃する、言わば『敵』を殺す事は善になる。こういう時、善悪の境目は無いと言っても過言じゃないだろう。
 こういう場合、事の張本人が重要視しているのは『子供の自由を制限する事』ではなく、『子供の為になる経験を積ませる事』だ。そっちは全く悪い事じゃないから、俊介さんのご両親は、全く悪い事をしたと考えない。むしろ、その発想すら無いだろう。
 しかし、本人が『感謝している』と言っている以上、僕らに何かを言う権利は無いし、これ以上追求するのも良い事とは言えないだろう。幸いなのは、俊介さんは本当に器用な人と言う点だろう。こんな事は今までにもあったらしいが、部長はその事について何も言っていないようだ。それはつまり、こんな事があったとしても、俊介さんの演技には何も問題が無いという事だろう。凄い。
「まあ、俊介さんが良いならそれで良いですよ。僕は何も言いません」
「俺もそうするかな。モテたいけど、そういうのを聞くのもなんかちげーしな」
「そうか……そうだね。じゃあ、部長と今日子さんによろしく」
 僕らは席を立って、喫茶店を出て行く。俊介さんはまだ残っている烏龍茶を手に持ちながら、僕らを見送ってくれた。その顔が、ほんの少し寂し気だった事に、この時の僕は気付かなかった。

 帰り道。ヒッキーは頭を抱えていた。
「やっぱモテる秘訣とか教えてもらっておくんだったー!」
「俊介さんは見た目だけじゃなくて性格もイケメンだしな。真面目だけど堅物じゃないし、荷物運ぶのを手伝ったりするし、道歩くとき何気無く車道側歩いてたりするし……」
「止めてくれー!俺がモテない理由が浮き彫りにー!」
 ヒッキーは女子全般からそこそこな人気を得ているんだがなあ。まあ、そういうのは余程激しかったり自意識が強くない限りは気付かない事が多いのだろう。
「でも意外だったな。俊介さんが喧嘩とは」
「いつもの人畜無害そうな顔から想像もできないってか?」
「人畜無害って……優しそうだってだけだよ」
 まあ、言っている事は間違っていない。正直僕もそう思ってるし。
 俊介さんが考えている事は分からないが、僕はあの人が優しい人だと言う事は知っている。喧嘩しているという面だけを見れば不良だが、それ以外の面は、少なくとも僕から見れば、俊介さんのご両親が望んだと言う『完璧超人』と何ら違いは無い。
 ただ、やはりモヤモヤする。どうにも、あれをやれこれをやれと親が言うのには、あまり良い印象は持てないな。『そういう育て方は子供の判断力を鈍らせる』みたいな話をどっかで聞いたし。
 しかし、判断力が無いとは言えない人に育ってるよな。なんでだろう。言われた事をやるだけの人じゃなかっという事だろうか。やっぱりそういうのは、生まれた時点で決まってるのかな。なんだか神様でも信じたくなる気分だ。
「じゃ、俺はこの辺で。また明日な」
「うん。また明日ね」
 ヒッキーと別れた僕は、一人で家の扉を開ける。


 そして、絶望と言っても良い程憂鬱な気分になった。母親の靴は無いのに、見慣れたくもない靴が、几帳面に玄関に並べられていたからだ。
 靴を脱ぎ、リビングに向かおうともせず、自分の部屋へ向かう。しかし、リビングの扉は急に開けられた。中から不機嫌そうな父親が出て来た瞬間、全身の神経が逆撫でされるような気分を感じた。
「帰ったか」
 その顔を見る度に、その声を聞く度に、何か嫌な物が腹の底に重く沈む。そして、この憎たらしい体をその場に縛り付け、動けなくする。逃げられなくする。
「ただいま」
「なんだその目は。育ててやった恩を忘れた訳ではあるまいな」
「そんな訳無い」
 逃げなければ。逃げなければ。そう思うだけだった。なんとか足を動かして、二階の、自分の部屋へ、自分だけの城へ逃げようとする。
 だが、そんな都合の良い事がある訳も無い。頬に衝撃が伝わり、ほんの少し、身体が揺れる。
「どれだけお前に金と時間を使ったと思っとるんだ!」
「すみません」
 その後も、父はその足を、その腕を、その全身を使って、ただ目の前にあるだけの、自身の子供都合の良いサンドバックに暴力をぶつけ続ける。
 暫くすると、どうやら気も収まったようで、「今日の夕食、さっさと作っとけよ」と言って、リビングへ戻って行った。まるで腹の底の何かが急にどこかに行ったように、身体が自由になる。何かを感じるよりも先に、自分の部屋へ戻って行こうとした。ほんの少し痛む身体を引き摺るように自分の部屋へ戻ると、ちょっとだけ、気分が楽になった気がした。

 こんな親、大嫌いだ。そんな事を考えながら、ベッドに横になった。


 翌日。部室に向かった僕は、信じられない言葉を聞いた。
「すみません。今後暫く、部活には来れません」
 俊介さんは、部長に向かってそう言った。部長は何とも言えない表情で、俊介さんを見つめる。
「なぜか……は、大体察しがつくな」
「すみません」
「謝る必要は無い。ただ俺はほんの少し、愉快だと思っただけだよ」
 部長はそう言って、俊介さんに一冊のノートを渡した。俊介さんはそれを受け取ると、「これは何ですか?」と言って、首を傾げた。
「俺から見た、俊介君の問題点をまとめたノートだ。要らないかも知れないがな」
「ありがとうございます」
 俊介さんはそのノートを鞄に入れると、それを背負って、部室を出た。誰も止めはしなかった。
 俊介さんが部室を出た後、僕は部長に話を聞こうとする。だが、部長は頑なに口を開かなかった。その後、練習は滞り無く行われ、僕らはいつも通り……ではないが、いつもの帰路を辿る事になった。

 それから少し経った。七月に入り、夏休みが見えて来た頃だ。
「だけど夏には夏期講習!やってらんねー!」
「それはそう。本当にそう。僕もできる事なら行きたくない」
 夏休みに夏期講習が行われるらしく、僕らはお盆とその前後を除いた期間、学校に行く事になった。夏休みなのに。夏休みなのに。小学生の頃の一か月丸々休めたあの頃が懐かしくなる。
 あれから、俊介さんは部室に顔を出していない。学校には来ているらしいが、同じクラスの今日子さんが言うには、あれ以降あまりにも元気が無く、友人とも話さないらしい。以前からこういう事が無かった訳ではないが、ここまで酷いのは初めてらしい。
 心配だが、友人とも話さないのに、ただ部活が同じだけの僕と話してくれる筈も無い。僕は俊介さんの事を心配しながらも、部活に通い続けた。
「俊介さん……大丈夫かな」
「俊介君には、少なくとも俺は干渉できない。干渉する権利は無い」
 権利。俊介さんの一件に対して、部長はこの単語を使う。権利が無い。俊介さんには自身で行動する権利がある。だから不用意に干渉する権利は無い。部長は事情を知っているようだが、その事について一切を語ろうとはしない。この事に関してだけ、部長は顔から表情を消し去る。
 今日子さんは何も知らないが、俊介さんの事を心配しているようだった。時々、『知り合いがあんな顔をしているのは、あんまり見たくない』と言う。そう言っては寂しそうな表情をするので、僕はどうした物かと考える。
 そして僕は、再び行動を起こす。気になったら自分で何とかするのが、僕のポリシーだ。
「で、ヒッキーが来るのはいつもの事……と」
「まあまあ。俺達の仲だろ?」
 そう言ってヒッキーは僕の背中を叩く。僕らはこうして、再び俊介さんを尾行しているのだ。何か知ってどうなるとも考えられないが、何も知らないでいるのは、何だか少し、嫌だ。気になる。モヤっとする。
「また喧嘩か?」
「そうなったら顔とか腕とか、どこか見える所に怪我すると思うよ?だけどそうは見えなかったし。違うんじゃないかな?」
 今日子さんの話では少なくとも、見える場所に怪我は無かったらしい。喧嘩しているのはそうかも知れないが、少なくとも、今回の件は別なのだろう。やっぱり親御さん関連だろうか。て言うか、そうじゃなかったら何なのか、全く分からない。
 俊介さんは暫く歩いて、やはり自分の家へ戻った。どこかに寄り道する事も無く、ただ真っ直ぐ歩いて、自分の家へ。
「何も……無かったな」
「そうだね。何も無いのが一番だけど、このままじゃやっぱり気になるよね」
「どうしろってんだよ」
 ふっふっふ。諦めるのはまだ早い。策とは、二重三重に張って、ようやく功を奏す物だ。僕は懐からスマホを取り出し、一枚の写真をヒッキーに見せる。ヒッキーは案の定、首を傾げた。
「ナニコレ」
「なんで片言なんだよ。これは前に俊介さんを尾行した時、こっそり撮った写真さ」
 あの時、僕は思わずカメラを構え、この写真を撮っていた。自分でも少し驚いた。しかし、これは情報として扱える。着崩されてはいるが、どの学校の制服か位は判別できる。この付近の高校の制服を洗い出して、彼等の学校を突き止めた。
「お前……盗撮は犯罪だぞ?」
「バレなきゃ犯罪じゃないから大丈夫」
「そうだなバレなきゃな」
 そう後ろから聞こえて来た声に、僕らは背筋を凍らせた。ゆっくり後ろを振り向くと、そこにはいつか見た、不良集団のリーダーらしき男が居た。彼は僕のスマホを覗き込んで、にやりと笑う。
「盗撮とは、中々良い趣味してんな」
 『バレなきゃ犯罪じゃない』なんて言った直後にバレるとは、どうにもツイてない。彼は僕の顔を見ると、愉快そうな顔をした。
「えっと……これは……」
「まあここで話すのもアレだ。面貸せよ」
 この時、僕とヒッキーは顔面蒼白になっていた事だろう。こんな曖昧な言い方になったのは、僕らはどちらも、お互いの顔色を確認する余裕が無かったからだ。

 僕らは、以前俊介さんを尾行した時に来た場所に連れて来られた。どうやらここは、ヒッキーの話通りの彼等の溜まり場のようで、周囲を見渡すと、同じ制服を、似たような着方で着たお兄さん達が居る。お菓子を持ち寄ったり、コンビニのホットスナックを食べていたりと、仲が良さそうだ。
 男は僕らを、置いてあったボロいパイプ椅子に座らせると、自己紹介を始めた。
「先ずは自己紹介……俺は木城政宗きじょうまさむね。ここらで喧嘩が一……二番目に強い男だ」
 言い直したな。律儀な人だ。嘘が吐けない……と言うよりかは、嘘を吐こうとしない人は、かなり好感が持てる。信用はできるだろう。
「えっと……僕は赤星春樹です」
「俺は竹田響輝。よろしく」
「おう。よろしくな」
 政宗さんは僕らと握手をしてから、抱えていたビニール袋からジュースを取り出した。彼はそれの蓋を開きながら、僕らに質問する。
「で?なんであんな所に居たんだ?」
「えっと……それは……」
「ま、大体察しはつくけどな」
 僕は顔を上げた。なんか部長みたいな事を言うな。彼はパイプ椅子の背もたれに体重を預けながら、ジュースを飲み始める。
「最近、シュン……俊介の奴が、ここに来なくなった。アイツは時々ここに来ては、俺達と喧嘩して帰るんだ。来なくなったら嫌でも気付く。あそこはシュンの家だろ?お前らはアイツの後輩で、心配で尾行してたって所だろ?」
 凄い。合ってる。怖い。僕は「はい。何か知りませんか?」と聞く。政宗さんは首を縦に振る。
「アイツの両親が、アイツに金を使って教育したって話は聞いたか?」
「はい」
「なら話は早い。アイツは両親の想像と違わぬ『完璧』になった。アイツのお袋は満足してるらしいが、親父はどう もそうじゃねえ。自分で教育しといてコンプレックスらしくてな。仕事に隙間ができた時にゃ、偶に家に帰っては、所謂家庭内暴力をやってる。嫁さんにも手え出すみたいでな。シュンのお袋は、あまり家に居ないらしい」
 だけど、それなら今までと違う部分が多すぎる。前にもあった部分には納得だが、今日子さんの話では、部活には顔を出していたらしい。どう考えても異常だ。政宗さんはジュースを一口飲むと、「続きだ」と言う。
「今回はどうにも親父の癇癪がひでぇらしい。多分、門限でもあるんじゃねぇか?それまでに帰らなかったら……ま、想像に難くねぇ」
 だが、どうにも引っ掛かる。なんだか、それにしてはおかしいみたいな部分が多いのだ。だがどこだろう。そしてその疑問を、僕よりも早く突き止めたヒッキーが、政宗さんに質問する。
「でも、俊介さんは喧嘩が強いんだろ?家庭内暴力ってんなら、どうもおかしいんだが」
 そこだ。あの日見た俊介さんの喧嘩の腕は、まるで映画の主人公のようだった。それなのに、見える場所に傷が無い。つまり、殴り合いにはなっていない。一方的に殴られているだけなのだ。それはどうにもおかしく感じる。
 だが、政宗さんはそうじゃないらしい。政宗さんは首を横に振って、その疑問に答えた。
「覆せねえ上下関係って奴さ。労働者は経営者に、国民は王様に、少なくとも単独では勝てねえ。それに、もし勝てるだけの人数を揃えたとしても、手段は限られちまう。それと何も変わらねえ。シュンの頭には、絶対に勝てない『父親』の姿が焼き付いているんだろうさ」
 上下関係。その言葉が、頭の中に響く。父と子、言い換えれば、親と子の間には、そこまで強固な上下関係が築かれるのだろうか。僕の中ではそこまで、『親』とは大きな存在ではない。だから、俊介さんと俊介さんの親父さんの間にあるという、『上下関係』にピンと来ない。
 だが、言いたい事は分からなくもない。幼少期から刷り込まれた価値観は、そう簡単には変わらないだろう。小さい頃から何かを教え込まれた子供は、理由も分からないまま、その『何か』を疑いすらしない事だろう。
「シュンが心配だったとしても、俺達にできる事はねえな。先ず、アイツはそれを良しとしねえ。そういう奴だ」
「待ってください。なんでそんなに、俊介さんに詳しいんですか?」
 どうにもおかしい。俊介さんは、少なくとも今日子さんにこの事を伝えてはいなかった。それなのに、ただ喧嘩をするだけの相手と、そこまで深く話をするとは思えない。何でだろう。
 だが、この質問は浅はかだったようで、政宗さんは一拍置いてから、大きく笑った。
「ははははは!は~……まあアレだ。一度拳を交わした仲って奴だ。アイツがここに最初に来た時、アイツはどうにも暗い顔をしてやがった。だからよぉ、俺は聞いたんだ。『そんな強ぇのに、なんでシケた面してる?』ってよ。そしたらアイツ、泣きそうな顔しながら事情を話し始めたんだ。きっとアイツにゃ、誰かに話したい部分があったんだろうな」
 ほんの少し、『面白いな』と感じた。『人に話せば楽になる』とはよく言うが、それで楽になるとは到底思えなかったからだ。それは何の解決にもなっていない。何も変わらない。だが、俊介さんは楽になったらしい。どうにも分からない。面白い。
 取り敢えず、政宗さんが俊介さんの事に詳しい事に関しては納得だ。夕日を背に殴り合うみたいなシーンは、色んな創作物で繰り返されて来たし。フィクションだけど、始めに書いた人には、似たような経験があったのだろう。
「だけど何かしないと、俊介さんはずっと辛いままだろ?どうにか……」
「ならねえ。と言うよか、少なくとも俺達には何もできねえ」
 まあ、そうだろうな。俊介さん程賢い人なら、家庭内暴力程度は対処ができる筈だ。手段を選べない程、あの人はバカじゃない。それなのに何もしないという事は、他でもない本人が、もう諦めてるという事だろう。
 だが、それだけで諦められる程、僕の執着は軽くない。僕は「だけど」と言って、やりたい事を伝える。
「あの人は辛そうにしてたんでしょう?」
「何が言いたい?」
 政宗さんの顔から笑みが消える。目の前の男は僕を、真っ直ぐ見つめる。それでも、僕は臆する訳には行かない。
「『一度殴り合った仲』なんて偉そうな事言いながら、アンタは何もしないじゃないか。聞くだけ聞いて何もしないのは、何よりクソッたれな悪徳だ」
 僕は椅子から立ち上がり、男の目の前に立つ。怖がるな。腰を引くな。胸を張れ。大きく見せろ。

「偉そうな事言う位なら、行動の一つでも起こせよ愚図」

 少し、沈黙が流れる。その後、政宗さんは「言ってくれる」と言って立ち上がった。僕よりも頭一つ分大きなその身体は、僕の身体を容易く殴り飛ばせるだろう。政宗さんは手を上げ、僕に向かって振り下ろす。
 目を固く閉じた僕だったが、叩かれたのは顔でも身体でもなく、背中だった。政宗さんは僕の肩を抱きながら、笑いながら話し始めた。
「そうだな!その通りだ!考えてみりゃ、お前らは行動を起こした訳だ!説教できる立場でもなかったな!」
 政宗さんは再び椅子に座り、残っていたジュースを一気に飲み干す。そしてそれを潰して、自身の胸を叩く。
「こっからは俺達の番だ。アイツの頭ン中かき回して、んでもってスッキリさせてやる!話は聞いたな悪友共!」
 いつの間にか集まっていた不良集団が沸き立つ。その中で、政宗さんは堂々としている。やっぱり凄い人だ。これだけ沢山の人から信頼されて、慕われている。
 安心したのか、僕は身体から力が抜け、その場に座り込んでしまった。それを見た人達は、一拍置いてから盛大に笑った。僕は顔が熱くなるような感覚と、それを覆い隠す程大きな安心感に包まれていた。


 起き上がる。それは自然な目覚めではなく、父の怒号による物だった。一階に降りると、やはり父は顔を赤くしていた。
「何やってる!早く朝飯を作れ!」
「分かった」
 今日も学校なのに。そんな文句を腹の奥に押し込み、二人分の朝食を作り始める。机の上に並べられたそれを食べた父は、また怒号を飛ばす。
「なんだこの味は!全くなっとらん!」
「すみません」
 それなら食べるなよ。そんな文句も、腹の奥に押し込むしか無い。逆らえない。この人の目の前に居ると、腹の中に重りを入れられ、且つ四肢を鎖で縛られるような心地になる。
 朝の支度を追えると、逃げるように家を出た。


 そして、強い日差しに目を隠す。もう七月も終盤だ。真夏日も多くなって来ている。これだけで、もう外に出ようという気も無くなってしまう。
 だが、まだ学校の登校日だ。僕は憂鬱な気分になりながらも、いつもの投稿路を歩き続ける。やがてヒッキーと合流した僕は、「そろそろかな」と思った。
「おはよう」
「おはよう。確か……今日だよね」
「そうだな。俺も一部始終に関わった人間として、最後まで見届けるぜ」
 あの日。政宗さんと僕らは話し合い、俊介さんの背中を押す、もとい尻を叩く計画を練った。そして、それの決行当日が今日なのだ。上手く行く確証も無い。余計なお世話で、ただの自己満足に終わるかも知れない。それでも政宗さんは、この計画を『起爆剤』と称する。
 決行は放課後。俊介さんの帰宅を待ち伏せする。失敗は許されない。僕とヒッキーが居なくても、政宗さん率いる不良集団が居なくても成り立たない。それまでは、いつもの学校生活だ。

 授業も終わり、放課後の活動が始まる頃、僕は部長に、部活を休む断りを入れる為、部室に来ていた。
「今日は休みます」
「そうか。分かった」
 こういうやりとりは、いつもと違って淡泊になる人だ。こういう人は、仕事だとかでミスをしないんだろうな。僕は鞄を持って、部室を出る。しかし、部長がそれを呼び止めた。
「春樹君!」
 僕は振り返り、「何ですか?」と部長に聞く。部長は僕を真っ直ぐ見つめながら、はっきりとした口調で答える。
「夏休みには海に行くんだ。準備を怠るなよ?」
 この人は一体どこまで、今日僕らがやろうとしている事について知っているんだ?いやそれ以上に、何については知らないんだ?まるで全てを見通しているかのようなその眼差しに、僕は不思議と安心感を抱く。
「分かってますよ」
「なら良い」
 僕は待ち合わせに遅れないように、校舎の中を走り、ヒッキーと合流する。途中、名前も知らない教師に『廊下は走るな』と言われたが、それは無視した。
「遅い!もう直ぐ決行だぞ!」
「走れば十分に間に合う!」
 急がなければ。僕らは合流場所に急ぎながら、間に合うように祈った。


 アイツらが来ない。春樹と響輝が。まあアイツらは普通に学校行くんだしな。多少は前後するか。
「政宗!アイツら、時間なのに来ねえぞ!?」
「関係無ぇ。俺達は俺達の仕事をする。それとも俺の誇れる悪友共は、タメ相手に時間稼ぎができねぇとでも言う気か?」
「……そうだな」
 俺は着けている腕時計を見て、「そろそろ時間だな」と呟く。悪友共は思うままに声を上げ、自分達の士気を高める。俺も椅子から立ち上がり、声を張り上げる。
「俺の誇れる悪友共!親友ダチが苦しんでる!ケツぶっ叩いて、目ぇ覚まさせてやろうぜ!」
 俺達はシュンを待ち伏せする地点へ移動し、アイツが来るのを待つ。少し経って、見覚えのある姿が目に写ると、俺達は一斉に、その陰の前へ躍り出た。
「何か用か?僕は今、帰ってる途中なんだが?」
「話がある。付き合え」
 シュンは溜息を吐いて、片手にぶら下げていた鞄を地面に置く。そして構える。俺も拳を構え、恐らく直ぐに来るであろう衝撃に備える。
「得意のメリケンサックはどうした?家に忘れて来たか?」
「今の手前にゃ、これでも十分だろ」
 静寂が訪れる。お互いにお互いの初動を見逃さないよう、神経を研ぎ澄ませる。
 最初に動いたのは俺だった。俺は右の拳を大きく振り上げ、シュンの顔を思い切り殴る……つもりだった。シュンは俺の腕を軽々と躱し、掴み、足を払い、そのまま地面に投げ付けた。視界が回転し、背中に強い痛みが走る。俺は身体を丸め、痛みに悶える。
「僕はもう帰らなきゃならないんだ」
 シュンはそう言って、鞄を持ち上げる。だが、それを許す程、俺の悪友共は甘くない。一人、また一人とシュンに殴り掛かり、そして打ちのめされる。
 地面に全ての人間が突っ伏した後、戦況とは裏腹に、シュンは余裕が無さそうな顔をして見せた。そうだ。もっと追い詰めろ。打ちのめされても立ち上がれ。少しでも時間を稼げ。ハルが行動する時間を稼げ。
 俺が立ち上がると、シュンは目に涙を溜めながら、心底不安そうな顔をした。
「いい加減にしてくれ。僕はもう帰らなければならない」
「知らねえなぁ。俺ぁ勝つまでやるぜ?」
 俺は再びシュンへ立ち向かい、そしてまた投げ飛ばされる。そしてまた立ち上がり、そしてまた投げ飛ばされる。そしてまた……繰り返している内に、俺の身体はボロボロになるが、同時に、シュンの表情から余裕が消える。俺はまた立ち上がり、そしてシュンへ立ち向かう。
 シュンは俺の事が見えていないという風に、俺の拳を避けようとはしない。この時、出会ってから初めて、俺の手がシュンに触れる。シュンは体勢を崩して、そのまま地面に尻餅をつく。
「立てよ。まだ終わってないぞ」
「……もう、僕の負けで良いんだよ。それで帰らせてくれるなら……」
 俺は立ちあがらないでいるシュンの胸倉を掴んで、目を合わせる。しかし、シュンは何も言わない。目を合わせてはいるが、その目は俺の姿を捉えていない。虚ろで、曇っていて、暗い目をしている。
「手前はいっつもシケた面で喧嘩してやがる。ただのサンドバックを探してるみてえだ」
 その言葉が、シュンはどうにも気に食わなかったようで、シュンはゆっくりと口を開いた。
「父と一緒にしないでくれ」
「同じだ。殴っても文句を言われない、都合の良い相手を探してる」
「違う」
「違わねえ。手前が俺達を一度でも、個人として見た事があったか?」
 シュンは何も言わない。何も言い返さない。俺はただ、その白けた顔を見つめ続ける。それでも、シュンは俺を見ようとしない。
「なあ。俺はもう、手前を悪友と思ってる。ダチの我儘も聞けない程、俺は小さくねえぞ」
「子供と一緒にしないでくれ」
「違うな。手前は手前の親父と一緒にされたくねえだけだろ」
「違う。僕は一人で……」
「違わねえ。手前は奴隷だ。自分で考えるのを放棄した、より楽な道を選んだ奴隷だ」
「違う。僕は……」
「手前が一人で決意したのは、俺達と初めて喧嘩した時だけだ。それ以外は一度も、自分の意思で俺達の所には来なかった。俺らなんて心配過ぎて、わざわざ頃合いを見て、果たし状を送ってやった位だぜ」
 この時、初めてその目に怒りが宿った。その目は真っ直ぐ俺を見つめ、そして射殺すように睨む。鎖に繋がれている猛獣の目の前に居るようだ。
 だが、鎖に繋がれていようがいまいが、俺はここで逃げる訳には行かない。俺は臆する事無く、その目を見つめ返す。腰が引けるような相手だが、俺はその腕を放さない。
「俺は手前を侮辱していない。ただ俺が思う、伊藤俊介を話しているだけだ」
「僕はただ、それが一番損をしない選択だと理解しているだけだ」
「で、その選択肢に準じて殺されるのが本望だと?」
 シュンは俺の胸倉を掴み返す。俺よりも小さなその身体で、俺とそう変わらない力を持つコイツは、俺と対等以上でいると思っている。
 だが、格闘技がコイツの主戦場ホームなら、喧嘩が俺の主戦場ホームだ。シュンは俺の足を払うと、地面に組み伏せようとする。それに対して俺は、体勢を崩す直前にシュンの顔を殴り飛ばす。怯んだシュンは、俺に上手く技を決める事ができず、一歩後ろに下がる。
「クッソ……」
「良い目になったじゃねえか。反則とは言うなよ?元々ルールなんざねえんだ」
「よく言うよ……今まで僕のルールに準じてた癖に」
 俺は口の端で笑い、拳を構える。シュンはいつもの、型に嵌まり切った体勢になる。俺がシュンに殴り掛かると、シュンはいつものように腕を掴む気満々になる。しかし、俺の狙いは別だ。シュンが俺の様子の違いに気付いた時にはもう遅い。俺はシュンの身体にタックルを仕掛け、その身体を掴む。
「何を……」
「漫画なんかでよくあるだろ?ロシアンスープレックスって奴だ」
 俺はいつかどこかで見たように、自分の身体を逸らし、そのままシュンの頭をコンクリートへ叩き付ける。だがシュンはすんでの所で受け身を取り、頭を守った。俺は腕を放し、少し距離を取る。
「いってえなあ……」
「そっちは組み伏せる事に神経を使うが、こっちは掴むも投げるも殴るも蹴るも何でもありだ。まだ引き出しはあるぜ?そうだろ悪友共!」
 俺の号令で、周囲に倒れた奴等が続々と立ち上がる。その目は真っ直ぐシュンを見つめている。俺達は、格闘技で負けようが、喧嘩で勝てればそれで良い。
 胸張って去勢を張れ。俺の役割を忘れるな。ハルが来るまで耐えるか、それまでにシュンに勝てば俺の役割は終わる。目の前の相手から目を逸らさず、俺達はその姿を見つめる。
 俺は殴り掛かる。ただ愚直に、真っ直ぐに。シュンもそれに応えるように、俺の方へ拳を構える。だが、ただ殴るだけなら俺の方が得意だ。俺はシュンの拳を間一髪で躱し、そのまま顔面に拳を叩き込む。シュンは一拍置いてから後ろに倒れる。俺はその姿を見下ろしながら、中指を立てる。
「『一昨日来やがれ』……だったか?」
 俺はこの日初めて、シュンに勝ったのだった。


 目を覚ました。硬い地面から立ち上がると、見慣れた顔が二つ並んでいた。
「あ、起きた」
「起きたな」
 その二つの顔を見て、僕は事の経緯を察した。いつもは果たし状を寄越して来る政宗が、よりにもよって待ち伏せなんていう、正に『らしくない』事をした理由を。
 だがそれより、僕はさっさと帰らなければならない。そうしなければ……そうしなければ……何だったか。思い出せない。いや、頭の中にはあるけど、どうにも気にする気分にならない。
「門限……を気にするような時間帯でもなさそうだね」
 僕がそう言うと、二人は満足そうに笑った。どうやら僕は、彼等の狙い通りになってしまったようだ。政宗と春樹君は満足そうに笑うと、僕に向かって手を伸ばした。
「「さて、どこに行きたい?」」
 なんだか少し、肩の荷が下りたような心地がする。俺は笑って、その手を取った。
「それなら……」


 僕らは大所帯で、夜の町を歩いている。
「遠足みてえでワクワクすんなあ!」
「深夜帯だから静かにな」
「ヒッキーは大丈夫なの?」
「親には連絡済みだ。『飯は食って来い』との仰せだ」
 俊介さんは、『海に行きたい』と言った。この人数じゃバスは使えないし、金が足りないから電車も使えない。僕らは仲良く、徒歩で海へ向かう事にしたのだ。
「にしても、海とは意外ですね」
「そうだね。部長達と行くかも知れないけど、それとは別の思い出になる」
 やがて、僕らは海へ辿り着いた。直ぐ近くに民家があるわけでもないので、到着した途端に、全員がはしゃいで、靴を脱ぎ捨てながら、海へ走って行った。
「夏の思い出だー!」
「っしゃー!」
 政宗さんは、「俺も負けてらんねえ!」と言って駆け出した。ヒッキーもそれに続き、残ったのは僕と俊介さんだけになった。
「俊介さんは良いんですか?」
「少し話をしたい。ちょっと我慢させちゃうけど、大丈夫かな?」
「大丈夫ですよ」
 俊介さんは砂浜の上に座る。僕もその隣に座り、海で遊ぶ皆の姿を見ながら、俊介さんの話を聞く。夜の暗い砂浜には、誰が作ったのかも分からない立派な砂の城が建てられている。半月に照らされた夜の海は、少し幻想的で、それでもやはり、暗かった。
「俺の家庭環境は……政宗に聞いただろう?」
「そうですね。親父さんがロクデナシって聞いてます」
「ははっ。ロクデナシか。まあその通りだ」
 しかし俊介さんは、水平線を見つめながら、「昔は……そうでもなかったんだけどね」と言った。『寂し気な表情』というのは、まさにこういう表情の事なんだろう。
「昔は厳しいけど優しくて、家庭内暴力とか考えられない人だったんだ」
「じゃあなんで、今のようになったんですか?」
「分かってるのなんて、母と教育方針が食い違った事程度だよ。両親が家にあまり来なくなったのも、父が暴力を振るうようになったのも、俺が小一の時の話だ。母は帰って来た時に僕の食事を作って、それ以外は放置。父なんて知っての通りさ」
 それはそうか。わざわざ殴る相手に理由を詳しく説明する訳が無い。ただの八つ当たりなら尚更だ。
 そして俊介さんは、いよいよ本題へ入る。その目は、水平線の更に向こうまで見通すような色をしていた。
「話っていうのはさ、なんで俺の家庭環境に首を突っ込むのかって事なんだ。だってそうだろ?だって『自分とは関係無い』で終わる事だろ?」
 そうか。その発想は無かった。でもそうだ。関係無い他人が、ただの部活の先輩の家庭環境に首を突っ込む。こんなに変な事もそうそう無い。
 道徳とか人道とか、そういう御立派な理由は無い。ただ、僕がそうしたかった……と言うよりかは、そうしなければならないと思ったからだ。それが『なんでなのか』と聞かれると、答えに困ってしまうな。僕は少し考えた後、なんとか出した答えを話す。
「『夏休みに海かプールへ行く』。その時も今までみたいになったら困るんですよ。四人で居るから心置き無く楽しめるのに、誰か一人でも居ないと、気になって仕方が無くなるでしょう?」
 自分でも、実に自分勝手で自己中心的な理由だと思うが、これが本音だ。俊介さんは「そうか……まあ、そうだよね」と言い、その場を立ち上がった。
「怒りましたか?」
「いや?俺もそれ位、自分勝手になろうかなと思ったんだ」
 それなら良い。その方がきっと、伊藤俊介という人物は面白くなる。僕は満足に笑ってから立ち上がり、靴を脱ぎ、靴下を脱いだ。
「そろそろ行こうかな」
「そうだね。折角来たんだし、楽しもう」
 僕らも海へ入り、六月の海水の冷たさを肌で感じる。その冷たさが少し愉快で、僕もヒッキーや政宗さん達と一緒になって遊び始める。
 遊び終わった後、俊介さんの「そう言えば、タオル無いよね」の一言で、僕らは全員、『どうした物か』と頭を抱える事となった。


 俺が家に帰ると、どうやら父はご立腹のようだった。明かりが点けられているリビングに入ると、父が怒鳴りながら近付いて来た。
「おい俊介!こんな時間まで何やってた!」
「友達と遊びに」
 すらりと答える俺に、父は更に怒りを募らせたようで、その手を上に上げて、僕の顔を叩く。肌と肌がぶつかる音の後に、僕の頬に、じんわりと痛みが伝わる。
「『遊びに行ってた』だと!?よく親の目の前でそんな事が言えるな!」
 俺はにやりと笑って、持っていたスマホの画面を父に見せる。父は「なんだこれは!」と、必要以上に大きな声を出して、俺を威嚇する。
「気付かないんだ。今の出来事の録画だよ」
「何!?」
 父は怯む。どうやら、自分がやっている事の重大さと、俺がやった事によって生じる、自分の不利益を察したようだ。俺は顔に笑みを浮かべたまま、スマホをポケットに仕舞う。
「この動画を持って警察に行けば、虐待か暴行か知らないけど、何かの罪で逮捕されるかもね」
「そんな事が……」
「許されるんだよ。父親でも母親でも兄弟姉妹でも、家族に手を上げればそれは立派な犯罪だ」
 父の顔は青ざめる。俺は父の額を軽く押して、床に倒れさせる。父の体は実に弱々しく、頼りなく思えた。ああこんなに、小さい人だったんだろうか。
「まあでも、まだこれを使う気は無いよ。アンタにはまだ暫く、資金面で援助してもらわなきゃ」
 青い顔で座り込む父の額に指を当て、目を合わせる。
「まあ、今後何も無ければの話だけどね」
 俺は後にも先にも、この時以上に、父が恐怖した瞬間を見る事は無かった。


 翌日。僕が部室に向かうと、見慣れた面子が揃っていた。
「お、遅かったな春樹君」
「ええ。少し先生に呼び出されてまして」
 僕は久し振りに、俊介さんと今日子さんと部長が揃った光景を見た気がした。僕が机に鞄を置くと、部長も椅子から立ち上がり、僕の頭を撫でた。
「よくやったな」
「夏休みの予定、大丈夫なんですよね?」
「無論だ。良い人が居た」
 部長と僕のやり取りを、今日子さんは首を傾げて、俊介さんは微笑みを顔に浮かべながら見ている。部長は仕切り直しの合図の代わりに手を叩き、大きく音を出す。

「さあ!今日の練習を始めよう!」
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