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第壱章
弐:茶々の憂鬱
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和子が京へ旅立って数ヶ月後、竹千代と国松が元服の儀を迎えた。竹千代は『家光』、国松は『忠長』と名を改め、それぞれ官位を賜って大人の仲間入りを果たした。
近頃茶々の機嫌がすこぶる悪い。乳母であるうめは主君の不機嫌とわがままに困り果てていた。
「嫌じゃ!とにかく嫌じゃっ!」
新しい着物を仕立てるために江が取寄せてくれた反物を畳の上にぶちまけて、茶々は泣きわめいていた。
「姫様、駄々をこねてはなりませぬ。お母上がせっかく取寄せてくださったのですから」
「嫌じゃ!茶々はもう子供ではない!母上と同じ着物がよい!」
子供ではないと言われても、茶々はまだ六歳である。それに、将軍の正室である江と姫君である茶々が同じ着物を着るにはなかなかに無理があった。だが、うめは頭ごなしにこの幼い姫君を叱ることはできない。主君であるというのもあるが、茶々がなぜこんな風になったかもわかっているからだ。
茶々は寂しいのだ。和子は輿入れして江戸を離れ、家光と忠長は元服して秀忠の政務を手伝うようになった。これまで一緒に遊んでくれた兄や姉と過ごす時間がなくなり、一人でいるのが辛く寂しいのだ。だから、構ってほしくてこうやって駄々をこねるのだ。乳母であるため己も子を持つうめは、茶々の気持ちが分かった。
「何の騒ぎじゃ?」
そこに、すっと襖が開いて江が入ってきた。茶々が母の姿を見てぱっと表情を明るくしすぐさま居住まいを正す。江は室内にぶちまけられた反物と、うめの疲れ切った表情、そして茶々の頬に残る涙の痕を見て大体の状況を察した。
「茶々。またうめを困らせておるのか?」
「……」
厳しい声音に、茶々はむすっとした表情になって俯いた。図星だったからだろう。
ここ最近の茶々の機嫌が悪く、我が儘を言ってうめや侍女たちを困らせている話は秀忠と江、そして家光と忠長の耳にも入っていた。その理由も察しがついていたし、一人で寂しい茶々の気持ちも分かっていた。だが、
「和子が嫁ぎ、家光と忠長とも遊べなくなって寂しい思いをさせているのは私も承知している、そなたにはすまぬと思うておる。……されど、だからといって我が儘を申してはならぬぞ」
江はそう言った。
「そなたは徳川の姫じゃ。この国のすべての姫の鑑でなくてはならぬ」
「お方様……それは姫様には酷では」
うめは控えめにそう進言した。そばでお世話をしてきて、幼い姫の寂しさを分かっているからの発言だった。しかも、茶々はまだ六歳。姫の鑑であれというのはさすがに酷だ。
しかし江は小さく首を横に振り、茶々の前にそっと座った。
「和子も申していたであろう?徳川の姫としての役目があると」
「……はい。兄上と兄君とともに、父上と母上をお支えすると……」
「そうじゃな。されど、私はそなたにもう一つ徳川の姫としての役目を授けようと思うておる」
江はそう言って茶々の小さな手を取る。
「よいか、茶々。そなたは徳川の姫として、この国にいる姫すべての手本となるのじゃ」
そう語り掛けながら、江は数日前に夫とかわした会話を思い出していた。
「おそらくあの子をどこかに嫁がせることはできぬ」
「……そうでありましょうね」
茶々は表向きは秀忠と江の六人目の娘とされているが、実際は千が豊臣秀頼との間にもうけた一人娘である。豊臣の直系は豊臣国松の処刑と奈阿姫の出家によって絶えたことになっている以上、茶々の本来の血筋を知られるわけにはいかない。最悪の場合茶々の命が危ぶまれる。だからこそ、自分たちの娘として手元に置くことで守ろうとしたのだ。家光が将軍になったあとも将軍の妹という立場があれば守られるだろうし、家光が茶々を無碍には扱うまいという信頼もあった。
そうなる以上、茶々を他家に嫁がせるわけにはいかないのだ。どんなに気をつけていようと、自分たちの目の届かないところでひょんなことから血筋が露呈するかもしれない。茶々の本当の親が誰であるか知られないためにも、徳川宗家から出すわけにはいかないのだ。
「ならばせめて、あの子が徳川で生きる理由を与えなければな」
その秀忠の言葉が、茶々に『この国のすべての姫の鑑であれ』という役目を与えることに繋がったのだ。
「徳川の姫として気高くあれ。この国における姫の手本として、鑑として、強くあるのじゃ」
江のまっすぐな眼差しに、茶々は息を飲む。母の表情はどこか切なくて、でも凛々しく美しかった。
「よいな、茶々」
「……はい」
母の静かな勢いに気圧されるように、茶々は頷くのだった。
近頃茶々の機嫌がすこぶる悪い。乳母であるうめは主君の不機嫌とわがままに困り果てていた。
「嫌じゃ!とにかく嫌じゃっ!」
新しい着物を仕立てるために江が取寄せてくれた反物を畳の上にぶちまけて、茶々は泣きわめいていた。
「姫様、駄々をこねてはなりませぬ。お母上がせっかく取寄せてくださったのですから」
「嫌じゃ!茶々はもう子供ではない!母上と同じ着物がよい!」
子供ではないと言われても、茶々はまだ六歳である。それに、将軍の正室である江と姫君である茶々が同じ着物を着るにはなかなかに無理があった。だが、うめは頭ごなしにこの幼い姫君を叱ることはできない。主君であるというのもあるが、茶々がなぜこんな風になったかもわかっているからだ。
茶々は寂しいのだ。和子は輿入れして江戸を離れ、家光と忠長は元服して秀忠の政務を手伝うようになった。これまで一緒に遊んでくれた兄や姉と過ごす時間がなくなり、一人でいるのが辛く寂しいのだ。だから、構ってほしくてこうやって駄々をこねるのだ。乳母であるため己も子を持つうめは、茶々の気持ちが分かった。
「何の騒ぎじゃ?」
そこに、すっと襖が開いて江が入ってきた。茶々が母の姿を見てぱっと表情を明るくしすぐさま居住まいを正す。江は室内にぶちまけられた反物と、うめの疲れ切った表情、そして茶々の頬に残る涙の痕を見て大体の状況を察した。
「茶々。またうめを困らせておるのか?」
「……」
厳しい声音に、茶々はむすっとした表情になって俯いた。図星だったからだろう。
ここ最近の茶々の機嫌が悪く、我が儘を言ってうめや侍女たちを困らせている話は秀忠と江、そして家光と忠長の耳にも入っていた。その理由も察しがついていたし、一人で寂しい茶々の気持ちも分かっていた。だが、
「和子が嫁ぎ、家光と忠長とも遊べなくなって寂しい思いをさせているのは私も承知している、そなたにはすまぬと思うておる。……されど、だからといって我が儘を申してはならぬぞ」
江はそう言った。
「そなたは徳川の姫じゃ。この国のすべての姫の鑑でなくてはならぬ」
「お方様……それは姫様には酷では」
うめは控えめにそう進言した。そばでお世話をしてきて、幼い姫の寂しさを分かっているからの発言だった。しかも、茶々はまだ六歳。姫の鑑であれというのはさすがに酷だ。
しかし江は小さく首を横に振り、茶々の前にそっと座った。
「和子も申していたであろう?徳川の姫としての役目があると」
「……はい。兄上と兄君とともに、父上と母上をお支えすると……」
「そうじゃな。されど、私はそなたにもう一つ徳川の姫としての役目を授けようと思うておる」
江はそう言って茶々の小さな手を取る。
「よいか、茶々。そなたは徳川の姫として、この国にいる姫すべての手本となるのじゃ」
そう語り掛けながら、江は数日前に夫とかわした会話を思い出していた。
「おそらくあの子をどこかに嫁がせることはできぬ」
「……そうでありましょうね」
茶々は表向きは秀忠と江の六人目の娘とされているが、実際は千が豊臣秀頼との間にもうけた一人娘である。豊臣の直系は豊臣国松の処刑と奈阿姫の出家によって絶えたことになっている以上、茶々の本来の血筋を知られるわけにはいかない。最悪の場合茶々の命が危ぶまれる。だからこそ、自分たちの娘として手元に置くことで守ろうとしたのだ。家光が将軍になったあとも将軍の妹という立場があれば守られるだろうし、家光が茶々を無碍には扱うまいという信頼もあった。
そうなる以上、茶々を他家に嫁がせるわけにはいかないのだ。どんなに気をつけていようと、自分たちの目の届かないところでひょんなことから血筋が露呈するかもしれない。茶々の本当の親が誰であるか知られないためにも、徳川宗家から出すわけにはいかないのだ。
「ならばせめて、あの子が徳川で生きる理由を与えなければな」
その秀忠の言葉が、茶々に『この国のすべての姫の鑑であれ』という役目を与えることに繋がったのだ。
「徳川の姫として気高くあれ。この国における姫の手本として、鑑として、強くあるのじゃ」
江のまっすぐな眼差しに、茶々は息を飲む。母の表情はどこか切なくて、でも凛々しく美しかった。
「よいな、茶々」
「……はい」
母の静かな勢いに気圧されるように、茶々は頷くのだった。
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