かくされた姫

葉月葵

文字の大きさ
上 下
6 / 8
第壱章

壱:茶々姫

しおりを挟む
元和六年。亡き家康の意向で以前から後水尾天皇への入内が決まっていた和子が京に向けて出立することになった。

「父上、母上。長らくお世話になりました」

そう言って深々と礼をする和子を、江は目に涙を浮かべながら見つめる。
とうとうこの子まで輿入れしてしまう。千、珠、勝、初――四人の娘を手放した悲しみを癒してくれた、愛しい末娘。いや、表向きは末娘ではないのだけれど。

「姉上……」

江の横にちょこんと座り、鼻を啜りながら涙声で呟く幼い姫君。数えで六歳になった茶々だ。表向きは両親である祖父母と、表向きは兄姉である叔父叔母に愛され、健やかに成長していた。
ごしごしと目元を拭い、茶々は江を見上げる。江が頷くと、茶々はぱっと立ち上がり和子に飛びついた。

「京などに行ってはいやです、姉上!茶々と、ずっと一緒にいてくださいませ!」
「……茶々」

ぎゅっとしがみついてくる茶々を、和子も抱きしめる。和子にとって茶々は姪ではあるが、姉妹として育てられてきている。そのせいだけではないが、茶々のことは本当の妹のように可愛く、愛おしく思っていた。

「我が儘はならぬぞ、茶々。私は徳川の姫として、この江戸と京の結びつきを強めるために京へ行くのじゃ」

だが、それとこれは別だ。そう諭すと、茶々はぐずぐずと泣き縋りながら「でも……」と呟く。

「茶々、そなたにも役目がある」
「私にも……?」
「そうじゃ。兄上と兄君とともに、父上と母上のおそばで尽くすのじゃ」

和子は、上の兄である竹千代を『兄上』、下の兄である国松を『兄君』と呼ぶ。茶々もそれに倣っていた。

「それがそなたの役目。私や姉上たちの代わりに、父上と母上のそばにいてはくれぬか?」
「姉上のかわりに……」

茶々は目を瞬かせる。幼いなりに、姉の言葉の意味を考えているようだった。やがて「はい」と蚊の鳴くような声で言ってこくりと頷く茶々に、和子は微笑んだ。

「それでよい。――息災でな、茶々。健やかに育てよ」
「姉上っ……」

やはり姉と別れるのは辛い茶々は、和子の首にぎゅっと腕を回してさらに泣いた。




「……行ってしまったか」

和子が乗った輿を見送り、江は寂しげに呟いた。その右横には秀忠が、左横には国松、茶々、竹千代の順で並んで立っている。兄二人に挟まれてそれぞれ手を握られた茶々はまだしゃくりあげている。

「兄上、兄君……姉上にはまた会えますよね?」

涙声で茶々が問いかける。末の妹――正しくは姪だが――の問いに、竹千代と国松は困ったように顔を見合わせる。答えたのは竹千代だった。

「茶々……辛いであろうが、それは分からぬことだ。和子はこれから帝の妃となる……大名に嫁ぐのとはわけが違うのだ。将軍家であろうと、宮にはそう簡単には行けぬ」
「竹千代」

江がやや咎めるような声を長男にかける。竹千代はそんな母に首を横に振ってみせ、さらに茶々に向けて言った。

「されどな、和子がそなたを大切に思っていることはどこにいようと変わらない。茶々も和子のことは大好きであろう?」
「……はい」
「ならば、また会える日が来るまで和子を大好きなままでいるのだ。そして和子の言葉通り、徳川の姫としての役目を我らとともに果たそう。私と、国松と、三人で、父上と母上をお支えしよう。……よいな?」
「はいっ!」

竹千代の言葉に、国松は溌溂とした声でしっかりと答えた。茶々も涙声ではあったが「はい」と返事をした。そんな子供たちを、秀忠は頼もしげに見ていた。


「……竹千代も国松も、茶々も……親である私たちが思っている以上に大きくなっているのですね。竹千代が、あんな風に立派に茶々を諭してくれるなんて」

その数日後、秀忠の私室にて。江は寂しげに呟いた。
乳母である福にほとんどの時間養育されていた竹千代とは、手元で育てた国松と比べるとともに過ごせていない。だからこそ、竹千代の成長に驚かされたのだ。幼い頃は引っ込み思案で内気で、福の背中に隠れ、母であるはずの自分にも委縮して怯えていた竹千代が、あんなにも立派に茶々を諭してくれるとは思わなかった。息子の成長が嬉しいと同時に、心のどこかで竹千代を侮っていた自分に気づいて江は自己嫌悪に陥っていた。

「竹千代も国松ももうすぐ元服じゃ。それほどの時が流れたのだな……」

そんな妻に秀忠はそう返す。江の胸の内にはもちろん気づいていたが、どう言ってやればいいのか分からなかったのだ。

「茶々もずいぶん大きくなりました。……千にも会わせてやりたいですね……」
「ああ。されど、千と茶々を引き裂いたのは我らだ。もう二度と会わぬという決意までさせたのに、今さら会わせようというのも虫の良すぎる話であろうな。再び母となった千に茶々をまた思い出させるのも酷だ」

本多忠刻に嫁いだ千は二年前に長女・勝を、昨年嫡男となる幸千代を産んでいる。そのたびに祝いの品と文を送ったが、敢えて茶々のことには触れなかった。千からの返答にも茶々のことは書かれていない。もう二度と会わないと誓い、悲しみを押し殺して嫁いだのに、また思い出させるのはあまりにも辛い。

「されど、いずれは……母と娘としてではなくとも、姉と妹としてでも構いませぬ。千が江戸城に来た折には……かつて姉上が私に対してそうしてくれたように……」

江もかつて、秀勝との娘完子を豊臣家に残して行った。千と同じく、もう二度と会わないと誓って。それでも淀は、秀吉存命時に江が大坂城に行くとなんだかんだとうまく理由をつけて完子と会わせてくれた。別れたときはまだ幼かった完子は江が母であることを覚えておらず「叔母上」と呼んできたけれど。淀を母と慕う完子の姿を見るのは辛かったが、それでも会えるだけで嬉しかった。そして完子は、千が秀頼に輿入れすると決まったときに文を送ってきた。淀から真実を聞いたこと、九条家への輿入れが決まったことなどが書かれていた。そして、

『母上が私を想って豊臣に残してくださったこと、ありがたく思っております』

完子が「母上」と呼んでくれたこと。それが嬉しかった。
そこに、ばたばたと廊下を駆ける幼い足音が聞こえる。うめの「姫様、お待ちくださいませ!」という慌てた声も。

「父上、母上!」

襖が開き、茶々が駆け込んできた。そのまま江に飛びつく。

「茶々、どうしたのじゃ?」

江は優しい母の顔になって孫娘を抱きかかえ膝に乗せる。茶々は嬉しげに笑って江を見上げた。

「京の姉上に文を書きたいのです! 母上も一緒に書きませんか?」
「! そうじゃな……和子もきっと喜ぶであろう」

茶々の無邪気な笑顔と言葉に、江は心の奥にある塊が少し和らぐのを感じた。

「されど、その前にそなたに言うべきことがあるようじゃな」
「……はい」

江の声が叱る色を帯びたのを感じたのか、茶々はぱっと江の膝から離れてぴしっと居住まいを正す。

「廊下は駆けてはならぬ。それと、部屋に入るときは必ず伺いをたてねばらなぬ。徳川の姫として以前に、武士の娘としての作法じゃ。それを破ってはならぬぞ」
「……はい、母上」

しゅんとして項垂れる茶々。その姿を、存在を、江は心底愛おしく思うのだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

峽の剣

Shikuu
歴史・時代
阿波國の山塊にある小さな集落で失われた霊剣を探すために、山を下りた若者の出会いと試練の物語です。

日は沈まず

ミリタリー好きの人
歴史・時代
1929年世界恐慌により大日本帝國も含め世界は大恐慌に陥る。これに対し大日本帝國は満州事変で満州を勢力圏に置き、積極的に工場や造船所などを建造し、経済再建と大幅な軍備拡張に成功する。そして1937年大日本帝國は志那事変をきっかけに戦争の道に走っていくことになる。当初、帝國軍は順調に進撃していたが、英米の援蔣ルートによる援助と和平の断念により戦争は泥沼化していくことになった。さらに1941年には英米とも戦争は避けられなくなっていた・・・あくまでも趣味の範囲での制作です。なので文章がおかしい場合もあります。 また参考資料も乏しいので設定がおかしい場合がありますがご了承ください。また、おかしな部分を次々に直していくので最初見た時から内容がかなり変わっている場合がありますので何か前の話と一致していないところがあった場合前の話を見直して見てください。おかしなところがあったら感想でお伝えしてもらえると幸いです。表紙は自作です。

奇妙丸

0002
歴史・時代
信忠が本能寺の変から甲州征伐の前に戻り歴史を変えていく。登場人物の名前は通称、時には新しい名前、また年月日は現代のものに。if満載、本能寺の変は黒幕説、作者のご都合主義のお話。

近衛文麿奇譚

高鉢 健太
歴史・時代
日本史上最悪の宰相といわれる近衛文麿。 日本憲政史上ただ一人、関白という令外官によって大権を手にした異色の人物にはミステリアスな話が多い。 彼は果たして未来からの転生者であったのだろうか? ※なろうにも掲載

本能のままに

揚羽
歴史・時代
1582年本能寺にて織田信長は明智光秀の謀反により亡くなる…はずだった もし信長が生きていたらどうなっていたのだろうか…というifストーリーです!もしよかったら見ていってください! ※更新は不定期になると思います。

融女寛好 腹切り融川の後始末

仁獅寺永雪
歴史・時代
 江戸後期の文化八年(一八一一年)、幕府奥絵師が急死する。悲報を受けた若き天才女絵師が、根結いの垂髪を揺らして江戸の町を駆け抜ける。彼女は、事件の謎を解き、恩師の名誉と一門の将来を守ることが出来るのか。 「良工の手段、俗目の知るところにあらず」  師が遺したこの言葉の真の意味は?  これは、男社会の江戸画壇にあって、百人を超す門弟を持ち、今にも残る堂々たる足跡を残した実在の女絵師の若き日の物語。最後までお楽しみいただければ幸いです。

旧式戦艦はつせ

古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。

楽将伝

九情承太郎
歴史・時代
三人の天下人と、最も遊んだ楽将・金森長近(ながちか)のスチャラカ戦国物語 織田信長の親衛隊は 気楽な稼業と きたもんだ(嘘) 戦国史上、最もブラックな職場 「織田信長の親衛隊」 そこで働きながらも、マイペースを貫く、趣味の人がいた 金森可近(ありちか)、後の長近(ながちか) 天下人さえ遊びに来る、趣味の達人の物語を、ご賞味ください!!

処理中です...