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第壱章
壱:茶々姫
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元和六年。亡き家康の意向で以前から後水尾天皇への入内が決まっていた和子が京に向けて出立することになった。
「父上、母上。長らくお世話になりました」
そう言って深々と礼をする和子を、江は目に涙を浮かべながら見つめる。
とうとうこの子まで輿入れしてしまう。千、珠、勝、初――四人の娘を手放した悲しみを癒してくれた、愛しい末娘。いや、表向きは末娘ではないのだけれど。
「姉上……」
江の横にちょこんと座り、鼻を啜りながら涙声で呟く幼い姫君。数えで六歳になった茶々だ。表向きは両親である祖父母と、表向きは兄姉である叔父叔母に愛され、健やかに成長していた。
ごしごしと目元を拭い、茶々は江を見上げる。江が頷くと、茶々はぱっと立ち上がり和子に飛びついた。
「京などに行ってはいやです、姉上!茶々と、ずっと一緒にいてくださいませ!」
「……茶々」
ぎゅっとしがみついてくる茶々を、和子も抱きしめる。和子にとって茶々は姪ではあるが、姉妹として育てられてきている。そのせいだけではないが、茶々のことは本当の妹のように可愛く、愛おしく思っていた。
「我が儘はならぬぞ、茶々。私は徳川の姫として、この江戸と京の結びつきを強めるために京へ行くのじゃ」
だが、それとこれは別だ。そう諭すと、茶々はぐずぐずと泣き縋りながら「でも……」と呟く。
「茶々、そなたにも役目がある」
「私にも……?」
「そうじゃ。兄上と兄君とともに、父上と母上のおそばで尽くすのじゃ」
和子は、上の兄である竹千代を『兄上』、下の兄である国松を『兄君』と呼ぶ。茶々もそれに倣っていた。
「それがそなたの役目。私や姉上たちの代わりに、父上と母上のそばにいてはくれぬか?」
「姉上のかわりに……」
茶々は目を瞬かせる。幼いなりに、姉の言葉の意味を考えているようだった。やがて「はい」と蚊の鳴くような声で言ってこくりと頷く茶々に、和子は微笑んだ。
「それでよい。――息災でな、茶々。健やかに育てよ」
「姉上っ……」
やはり姉と別れるのは辛い茶々は、和子の首にぎゅっと腕を回してさらに泣いた。
「……行ってしまったか」
和子が乗った輿を見送り、江は寂しげに呟いた。その右横には秀忠が、左横には国松、茶々、竹千代の順で並んで立っている。兄二人に挟まれてそれぞれ手を握られた茶々はまだしゃくりあげている。
「兄上、兄君……姉上にはまた会えますよね?」
涙声で茶々が問いかける。末の妹――正しくは姪だが――の問いに、竹千代と国松は困ったように顔を見合わせる。答えたのは竹千代だった。
「茶々……辛いであろうが、それは分からぬことだ。和子はこれから帝の妃となる……大名に嫁ぐのとはわけが違うのだ。将軍家であろうと、宮にはそう簡単には行けぬ」
「竹千代」
江がやや咎めるような声を長男にかける。竹千代はそんな母に首を横に振ってみせ、さらに茶々に向けて言った。
「されどな、和子がそなたを大切に思っていることはどこにいようと変わらない。茶々も和子のことは大好きであろう?」
「……はい」
「ならば、また会える日が来るまで和子を大好きなままでいるのだ。そして和子の言葉通り、徳川の姫としての役目を我らとともに果たそう。私と、国松と、三人で、父上と母上をお支えしよう。……よいな?」
「はいっ!」
竹千代の言葉に、国松は溌溂とした声でしっかりと答えた。茶々も涙声ではあったが「はい」と返事をした。そんな子供たちを、秀忠は頼もしげに見ていた。
「……竹千代も国松も、茶々も……親である私たちが思っている以上に大きくなっているのですね。竹千代が、あんな風に立派に茶々を諭してくれるなんて」
その数日後、秀忠の私室にて。江は寂しげに呟いた。
乳母である福にほとんどの時間養育されていた竹千代とは、手元で育てた国松と比べるとともに過ごせていない。だからこそ、竹千代の成長に驚かされたのだ。幼い頃は引っ込み思案で内気で、福の背中に隠れ、母であるはずの自分にも委縮して怯えていた竹千代が、あんなにも立派に茶々を諭してくれるとは思わなかった。息子の成長が嬉しいと同時に、心のどこかで竹千代を侮っていた自分に気づいて江は自己嫌悪に陥っていた。
「竹千代も国松ももうすぐ元服じゃ。それほどの時が流れたのだな……」
そんな妻に秀忠はそう返す。江の胸の内にはもちろん気づいていたが、どう言ってやればいいのか分からなかったのだ。
「茶々もずいぶん大きくなりました。……千にも会わせてやりたいですね……」
「ああ。されど、千と茶々を引き裂いたのは我らだ。もう二度と会わぬという決意までさせたのに、今さら会わせようというのも虫の良すぎる話であろうな。再び母となった千に茶々をまた思い出させるのも酷だ」
本多忠刻に嫁いだ千は二年前に長女・勝を、昨年嫡男となる幸千代を産んでいる。そのたびに祝いの品と文を送ったが、敢えて茶々のことには触れなかった。千からの返答にも茶々のことは書かれていない。もう二度と会わないと誓い、悲しみを押し殺して嫁いだのに、また思い出させるのはあまりにも辛い。
「されど、いずれは……母と娘としてではなくとも、姉と妹としてでも構いませぬ。千が江戸城に来た折には……かつて姉上が私に対してそうしてくれたように……」
江もかつて、秀勝との娘完子を豊臣家に残して行った。千と同じく、もう二度と会わないと誓って。それでも淀は、秀吉存命時に江が大坂城に行くとなんだかんだとうまく理由をつけて完子と会わせてくれた。別れたときはまだ幼かった完子は江が母であることを覚えておらず「叔母上」と呼んできたけれど。淀を母と慕う完子の姿を見るのは辛かったが、それでも会えるだけで嬉しかった。そして完子は、千が秀頼に輿入れすると決まったときに文を送ってきた。淀から真実を聞いたこと、九条家への輿入れが決まったことなどが書かれていた。そして、
『母上が私を想って豊臣に残してくださったこと、ありがたく思っております』
完子が「母上」と呼んでくれたこと。それが嬉しかった。
そこに、ばたばたと廊下を駆ける幼い足音が聞こえる。うめの「姫様、お待ちくださいませ!」という慌てた声も。
「父上、母上!」
襖が開き、茶々が駆け込んできた。そのまま江に飛びつく。
「茶々、どうしたのじゃ?」
江は優しい母の顔になって孫娘を抱きかかえ膝に乗せる。茶々は嬉しげに笑って江を見上げた。
「京の姉上に文を書きたいのです! 母上も一緒に書きませんか?」
「! そうじゃな……和子もきっと喜ぶであろう」
茶々の無邪気な笑顔と言葉に、江は心の奥にある塊が少し和らぐのを感じた。
「されど、その前にそなたに言うべきことがあるようじゃな」
「……はい」
江の声が叱る色を帯びたのを感じたのか、茶々はぱっと江の膝から離れてぴしっと居住まいを正す。
「廊下は駆けてはならぬ。それと、部屋に入るときは必ず伺いをたてねばらなぬ。徳川の姫として以前に、武士の娘としての作法じゃ。それを破ってはならぬぞ」
「……はい、母上」
しゅんとして項垂れる茶々。その姿を、存在を、江は心底愛おしく思うのだった。
「父上、母上。長らくお世話になりました」
そう言って深々と礼をする和子を、江は目に涙を浮かべながら見つめる。
とうとうこの子まで輿入れしてしまう。千、珠、勝、初――四人の娘を手放した悲しみを癒してくれた、愛しい末娘。いや、表向きは末娘ではないのだけれど。
「姉上……」
江の横にちょこんと座り、鼻を啜りながら涙声で呟く幼い姫君。数えで六歳になった茶々だ。表向きは両親である祖父母と、表向きは兄姉である叔父叔母に愛され、健やかに成長していた。
ごしごしと目元を拭い、茶々は江を見上げる。江が頷くと、茶々はぱっと立ち上がり和子に飛びついた。
「京などに行ってはいやです、姉上!茶々と、ずっと一緒にいてくださいませ!」
「……茶々」
ぎゅっとしがみついてくる茶々を、和子も抱きしめる。和子にとって茶々は姪ではあるが、姉妹として育てられてきている。そのせいだけではないが、茶々のことは本当の妹のように可愛く、愛おしく思っていた。
「我が儘はならぬぞ、茶々。私は徳川の姫として、この江戸と京の結びつきを強めるために京へ行くのじゃ」
だが、それとこれは別だ。そう諭すと、茶々はぐずぐずと泣き縋りながら「でも……」と呟く。
「茶々、そなたにも役目がある」
「私にも……?」
「そうじゃ。兄上と兄君とともに、父上と母上のおそばで尽くすのじゃ」
和子は、上の兄である竹千代を『兄上』、下の兄である国松を『兄君』と呼ぶ。茶々もそれに倣っていた。
「それがそなたの役目。私や姉上たちの代わりに、父上と母上のそばにいてはくれぬか?」
「姉上のかわりに……」
茶々は目を瞬かせる。幼いなりに、姉の言葉の意味を考えているようだった。やがて「はい」と蚊の鳴くような声で言ってこくりと頷く茶々に、和子は微笑んだ。
「それでよい。――息災でな、茶々。健やかに育てよ」
「姉上っ……」
やはり姉と別れるのは辛い茶々は、和子の首にぎゅっと腕を回してさらに泣いた。
「……行ってしまったか」
和子が乗った輿を見送り、江は寂しげに呟いた。その右横には秀忠が、左横には国松、茶々、竹千代の順で並んで立っている。兄二人に挟まれてそれぞれ手を握られた茶々はまだしゃくりあげている。
「兄上、兄君……姉上にはまた会えますよね?」
涙声で茶々が問いかける。末の妹――正しくは姪だが――の問いに、竹千代と国松は困ったように顔を見合わせる。答えたのは竹千代だった。
「茶々……辛いであろうが、それは分からぬことだ。和子はこれから帝の妃となる……大名に嫁ぐのとはわけが違うのだ。将軍家であろうと、宮にはそう簡単には行けぬ」
「竹千代」
江がやや咎めるような声を長男にかける。竹千代はそんな母に首を横に振ってみせ、さらに茶々に向けて言った。
「されどな、和子がそなたを大切に思っていることはどこにいようと変わらない。茶々も和子のことは大好きであろう?」
「……はい」
「ならば、また会える日が来るまで和子を大好きなままでいるのだ。そして和子の言葉通り、徳川の姫としての役目を我らとともに果たそう。私と、国松と、三人で、父上と母上をお支えしよう。……よいな?」
「はいっ!」
竹千代の言葉に、国松は溌溂とした声でしっかりと答えた。茶々も涙声ではあったが「はい」と返事をした。そんな子供たちを、秀忠は頼もしげに見ていた。
「……竹千代も国松も、茶々も……親である私たちが思っている以上に大きくなっているのですね。竹千代が、あんな風に立派に茶々を諭してくれるなんて」
その数日後、秀忠の私室にて。江は寂しげに呟いた。
乳母である福にほとんどの時間養育されていた竹千代とは、手元で育てた国松と比べるとともに過ごせていない。だからこそ、竹千代の成長に驚かされたのだ。幼い頃は引っ込み思案で内気で、福の背中に隠れ、母であるはずの自分にも委縮して怯えていた竹千代が、あんなにも立派に茶々を諭してくれるとは思わなかった。息子の成長が嬉しいと同時に、心のどこかで竹千代を侮っていた自分に気づいて江は自己嫌悪に陥っていた。
「竹千代も国松ももうすぐ元服じゃ。それほどの時が流れたのだな……」
そんな妻に秀忠はそう返す。江の胸の内にはもちろん気づいていたが、どう言ってやればいいのか分からなかったのだ。
「茶々もずいぶん大きくなりました。……千にも会わせてやりたいですね……」
「ああ。されど、千と茶々を引き裂いたのは我らだ。もう二度と会わぬという決意までさせたのに、今さら会わせようというのも虫の良すぎる話であろうな。再び母となった千に茶々をまた思い出させるのも酷だ」
本多忠刻に嫁いだ千は二年前に長女・勝を、昨年嫡男となる幸千代を産んでいる。そのたびに祝いの品と文を送ったが、敢えて茶々のことには触れなかった。千からの返答にも茶々のことは書かれていない。もう二度と会わないと誓い、悲しみを押し殺して嫁いだのに、また思い出させるのはあまりにも辛い。
「されど、いずれは……母と娘としてではなくとも、姉と妹としてでも構いませぬ。千が江戸城に来た折には……かつて姉上が私に対してそうしてくれたように……」
江もかつて、秀勝との娘完子を豊臣家に残して行った。千と同じく、もう二度と会わないと誓って。それでも淀は、秀吉存命時に江が大坂城に行くとなんだかんだとうまく理由をつけて完子と会わせてくれた。別れたときはまだ幼かった完子は江が母であることを覚えておらず「叔母上」と呼んできたけれど。淀を母と慕う完子の姿を見るのは辛かったが、それでも会えるだけで嬉しかった。そして完子は、千が秀頼に輿入れすると決まったときに文を送ってきた。淀から真実を聞いたこと、九条家への輿入れが決まったことなどが書かれていた。そして、
『母上が私を想って豊臣に残してくださったこと、ありがたく思っております』
完子が「母上」と呼んでくれたこと。それが嬉しかった。
そこに、ばたばたと廊下を駆ける幼い足音が聞こえる。うめの「姫様、お待ちくださいませ!」という慌てた声も。
「父上、母上!」
襖が開き、茶々が駆け込んできた。そのまま江に飛びつく。
「茶々、どうしたのじゃ?」
江は優しい母の顔になって孫娘を抱きかかえ膝に乗せる。茶々は嬉しげに笑って江を見上げた。
「京の姉上に文を書きたいのです! 母上も一緒に書きませんか?」
「! そうじゃな……和子もきっと喜ぶであろう」
茶々の無邪気な笑顔と言葉に、江は心の奥にある塊が少し和らぐのを感じた。
「されど、その前にそなたに言うべきことがあるようじゃな」
「……はい」
江の声が叱る色を帯びたのを感じたのか、茶々はぱっと江の膝から離れてぴしっと居住まいを正す。
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