かくされた姫

葉月葵

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序章

伍:母と娘

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完子さだこ。江が二人目の夫・豊臣秀勝との間に成した一人娘である。江が秀忠に嫁ぐにあたり伯母である淀の養女となり豊臣家に残り、千が秀頼に輿入れして一年ほどして五摂家の一つ九条家の嫡男・忠栄に嫁いでいった。身近に年の近い相手が秀頼しかいなかった完子は異父妹である千を可愛がってくれたし、妹しかいなかった千も異父姉である完子を「姉上」と呼んで慕った。一緒に過ごした時間は短かったが、今でも折に触れ文のやりとりをしている。


「秀忠様に嫁ぐと決まったとき、義父上様はあの子を徳川に連れてきてよいと言ってくださった。しかし、秀吉公と姉上がそれをお許しにならなかったのじゃ」

当時のことを思い出しているのか、江はどこか遠い目でそう語った。

「その少し前に、秀吉公は甥である秀次様とその一族をあらぬ罪で皆殺しにしてしまっていた。秀頼と完子しか、豊臣家に幼子はいなかったのじゃ。想像もしたくないが、もしこの先秀頼に何かあれば豊臣を継げるのは完子だけ……あの子を徳川の人間にするわけにはいかぬと言うて、完子を置いていくよう命じた」
「……」
「私はもちろん拒んだ。今のそなたにとって茶々が何よりも大切であると同じく、あのときの私にとって完子はすべてであった。秀勝様が残してくださった大切な吾子を、この手にとどめておきたかった」
「それは私も同じにございます……! 秀頼様が残してくださった茶々を、この手に……」
「千」

静かな声で江は娘の叫びを遮った。

「だが結果として、私は完子を豊臣に残してきてよかったと思っておる。もしあの子を連れてきていたら、豊臣の子として蔑まれたであろう。九条家に嫁ぐという良縁にも恵まれずに辛い思いをさせたはずじゃ」
「っ……ですが、豊臣の血を引くのは茶々も同じにございます! 徳川にいては茶々も……」
「されど、茶々はそなたの子じゃ。秀忠様の子であり、徳川の姫であるそなたのな。あの子に流れる徳川の血が、豊臣の血を隠して余りある。完子は私の連れ子であって、徳川の血は引いていなかった」

完子と茶々の違いはそこだった。すべてが母の言う通りで、千は反論する言葉を失い黙り込むしかない。

「千。そなたにどれほど惨いことを言うておるか、分かっておる。されど……そなたと茶々を守るにはこの道しかないのじゃ」
「……」

黙り込んでしまう千。江はそんな娘の様子を見て小さく息を吐き、立ち上がった。

「今はまだ心の整理もつくまい。まだ輿入れまでは時間がある……ゆっくりと考えるがよい」

そのまま部屋を出て行こうとした江を、千が「母上」と蚊の鳴くような声で呼び止めた。驚いて振り返ると、千は目に大粒の涙を浮かべて江を見上げていた。

「……徳川に残していけば、茶々は本当に守られるのですか? 私の分も、父上と母上は茶々を守っていただけますか? 茶々を……幸せにしていただけますか?」
「当然じゃ。我が子と思うて、大切にする。必ず幸せにする。そなたがそばにいてやれぬ分も、私があの子を大切に愛していく」

きっぱりと言い切る江。千は目を揺らし、そのまま畳に手をついて母に向けて頭を下げた。

「……ならば、母上……どうか茶々を、よろしくお願いいたします」
「千……!」

江は娘に駆け寄り、その顔を上げさせた。

「辛い思いをさせてすまぬ、千……遠く離れていても、茶々はそなたの娘じゃ。あの子の成長は文でそなたに伝えるし、もし江戸に来ることがあれば会いに来るがよい。姉と妹としてではあるが、ともに過ごせるようにする」
「いえ、母上……もし江戸に来たとしても、茶々には会いませぬ。もう、二度と会いませぬ……そう思わなければ、茶々と離れることなどっ……」

それ以上言葉が続かなかった千を、江は抱きしめる。かつて完子を残して行くとき、今は亡き姉に同じようなことを言ったのを思い出した。今の千の思いが痛いほどに分かる。本当は同じ思いをさせたくなどなかった。母として、千の幸せを守ってやりたかった。

「すまぬ……許せ、千……」

それしか言えない。泣きじゃくる千を、江はただ抱きしめた。




元和二年九月。
桑名への出立の時間が刻一刻と近づく中、千は茶々を抱いたうめと向き合っていた。

「うめ。茶々を頼む」
「はい、お方様……この身にかえましても、姫様をお守りいたします」

うめは千の言葉に涙を浮かべながら頷く。夫を失い、夫が遺してくれた我が子と離れなければならない千の胸中を思うと胸が痛かった。
千は微笑んで立ち上がる。そのままうめと茶々のほうを振り向かず、輿が準備されている外へと歩き出した。

「!?」

そのとき、突如茶々が泣き出した。それまで大人しくお眠りになっていたのに、とうめは慌てる。だが、千は振り向かなかった。そのまま部屋を出て行く。さらに茶々の泣き声が大きくなった。

「……お方様」

茶々の泣き声に背を向けて歩いて行く千の後ろに続きながら、みねは胸が抉られそうな思いだった。茶々の泣き声など聞こえないように振る舞っている千が、主君が、涙をこらえていることに気づいていたから。
秀忠と江、そして和子との挨拶は済んでいる。輿に乗り込み、千はそこでようやく顔を覆って声を殺して泣いた。

「茶々……茶々……」

もう二度と会わない、会えない、愛しい子。どうか健やかで幸福な未来を――そう願うしかなかった。
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