2 / 8
序章
弐:江戸城にて
しおりを挟む
元和二年一月。体調が安定した千は茶々を連れて江戸へとやってきた。輿を降りた千はきょろきょろと周囲を見渡す。
江戸城は千の記憶からずいぶん様変わりしていた。千が嫁いでから大規模な改修工事が行われたとは聞いていたが、朧げな記憶のなかにある江戸城とは比べ物にならない華やかさだ。これがこの国を統べる徳川家の居城なのだ。
「御台様! 走ってはなりませぬ!!」
バタバタという慌ただしい足音、咎める声。はっとしてそちらを向くと、打掛を翻した女性がものすごい勢いでこちらに駆けてくるのが見えた。
「千! ああ、千……よくぞ無事であった……!」
彼女――江は涙を流しながら叫び、千を抱きしめた。懐かしい香の匂い、母の匂いに、千の目からも涙が溢れる。
「はは、うえ……母上……!」
まるで子供のようにしがみついて、千は大声で泣いた。
「母上、申し訳ございません……!」
江の居室にて。千は母の前に伏して詫びた。
義母は、淀は、江にとって実の姉だ。幼いうちに両親を失っている江にとって、淀は姉であり母だったはずだ。徳川と豊臣の絆を繋ぐ架け橋となるために千は秀頼に嫁いだのに、絆を繋ぐどころか二人を死なせてしまった。
「千が謝ることではない。きっと姉上は、豊臣の誇りを胸に逝ったのじゃ。徳川に下り生きるよりも、誇りをもって死ぬ道を選んだ……母上と同じようにな」
泣き伏して詫びる娘に、江はそう言って微笑んだ。そして立ち上がり、娘の前に跪いてその手を優しくとる。
「私こそ、そなたに詫びねばならぬ。まだ幼かったそなたに、私は重い責を負わせた……」
江戸城を発つ前日。江はまだ幼かった千を抱きしめて言ったのだ。
『よいか、千。そなたは徳川と豊臣を繋ぐ架け橋となる役目をもって、豊臣に嫁ぐのじゃ。それを忘れるでないぞ』
あの頃から、徳川と豊臣の間には溝が生まれ始めていた。大好きな姉と敵味方になるのは、戦が起こるのは、江にとって何よりも耐えがたいことだった。千が嫁ぐことで、姉の徳川への不信感も和らいでくれるといい。千と秀頼、二人の間に子が生まれれば、両家の絆は強くなって戦は避けられるかもしれない。そう思っていたのだ。
「私は愚かな母であった……まだ三つであった珠を義父上様によって前田家に輿入れさせられたとき、娘を政の道具にされることに反発したというに。結局私は、そなたを徳川と豊臣を繋ぐ道具のようにしてしまった。義父上様と同じじゃな……」
「母上は愚かではございませぬ! 母上のお言葉があったからこそ、私は秀頼様と深く想い合うことができたのです。秀頼様と想い合えたからこそ、茶々を授かることができたのです」
「……そうか……」
千の言葉に、江の表情が少し和らぐ。
「千。そなたの子を抱かせてはくれぬか?」
そう言われて千は涙を拭いながら「はい」と頷く。後ろに控えていた乳母に目をやって合図をすると、彼女はすっと一礼して部屋を後にする。そしてすぐに赤子を抱いて戻ってきた。
「母上、私の子にございます。茶々と申します」
「……茶々……」
赤子の名前を聞いた江の瞳が揺れる。自分が候補に挙げた名とはいえ、本当に姉の幼名を選んでくれるとは思わなかった。
「この子が、私と秀頼様の子である証にございます。出生を明かすわけにはまいりませんから……せめて、豊臣の姫であることを名に残したかったのです」
「そう……そうか。ありがとう、千」
千の説明に、江は嬉しげに目を細めた。千の乳母から茶々を受け取り、愛おしそうに見つめる。
「可愛らしいのう……」
ほう、と息を吐いて言う母の姿に千も嬉しくなる。江は孫娘のふっくらした頬をまるで慈しむような優しい手つきで撫でた。
「茶々。茶々……そなたは望まれて生まれてきたのじゃ。徳川も豊臣も関係ない……泰平の、安寧の世で、健やかに幸福に生きておくれ」
それは、心からの願いだった。孫娘の健やかな満ち足りた未来を、江は心から祈った。
江戸城は千の記憶からずいぶん様変わりしていた。千が嫁いでから大規模な改修工事が行われたとは聞いていたが、朧げな記憶のなかにある江戸城とは比べ物にならない華やかさだ。これがこの国を統べる徳川家の居城なのだ。
「御台様! 走ってはなりませぬ!!」
バタバタという慌ただしい足音、咎める声。はっとしてそちらを向くと、打掛を翻した女性がものすごい勢いでこちらに駆けてくるのが見えた。
「千! ああ、千……よくぞ無事であった……!」
彼女――江は涙を流しながら叫び、千を抱きしめた。懐かしい香の匂い、母の匂いに、千の目からも涙が溢れる。
「はは、うえ……母上……!」
まるで子供のようにしがみついて、千は大声で泣いた。
「母上、申し訳ございません……!」
江の居室にて。千は母の前に伏して詫びた。
義母は、淀は、江にとって実の姉だ。幼いうちに両親を失っている江にとって、淀は姉であり母だったはずだ。徳川と豊臣の絆を繋ぐ架け橋となるために千は秀頼に嫁いだのに、絆を繋ぐどころか二人を死なせてしまった。
「千が謝ることではない。きっと姉上は、豊臣の誇りを胸に逝ったのじゃ。徳川に下り生きるよりも、誇りをもって死ぬ道を選んだ……母上と同じようにな」
泣き伏して詫びる娘に、江はそう言って微笑んだ。そして立ち上がり、娘の前に跪いてその手を優しくとる。
「私こそ、そなたに詫びねばならぬ。まだ幼かったそなたに、私は重い責を負わせた……」
江戸城を発つ前日。江はまだ幼かった千を抱きしめて言ったのだ。
『よいか、千。そなたは徳川と豊臣を繋ぐ架け橋となる役目をもって、豊臣に嫁ぐのじゃ。それを忘れるでないぞ』
あの頃から、徳川と豊臣の間には溝が生まれ始めていた。大好きな姉と敵味方になるのは、戦が起こるのは、江にとって何よりも耐えがたいことだった。千が嫁ぐことで、姉の徳川への不信感も和らいでくれるといい。千と秀頼、二人の間に子が生まれれば、両家の絆は強くなって戦は避けられるかもしれない。そう思っていたのだ。
「私は愚かな母であった……まだ三つであった珠を義父上様によって前田家に輿入れさせられたとき、娘を政の道具にされることに反発したというに。結局私は、そなたを徳川と豊臣を繋ぐ道具のようにしてしまった。義父上様と同じじゃな……」
「母上は愚かではございませぬ! 母上のお言葉があったからこそ、私は秀頼様と深く想い合うことができたのです。秀頼様と想い合えたからこそ、茶々を授かることができたのです」
「……そうか……」
千の言葉に、江の表情が少し和らぐ。
「千。そなたの子を抱かせてはくれぬか?」
そう言われて千は涙を拭いながら「はい」と頷く。後ろに控えていた乳母に目をやって合図をすると、彼女はすっと一礼して部屋を後にする。そしてすぐに赤子を抱いて戻ってきた。
「母上、私の子にございます。茶々と申します」
「……茶々……」
赤子の名前を聞いた江の瞳が揺れる。自分が候補に挙げた名とはいえ、本当に姉の幼名を選んでくれるとは思わなかった。
「この子が、私と秀頼様の子である証にございます。出生を明かすわけにはまいりませんから……せめて、豊臣の姫であることを名に残したかったのです」
「そう……そうか。ありがとう、千」
千の説明に、江は嬉しげに目を細めた。千の乳母から茶々を受け取り、愛おしそうに見つめる。
「可愛らしいのう……」
ほう、と息を吐いて言う母の姿に千も嬉しくなる。江は孫娘のふっくらした頬をまるで慈しむような優しい手つきで撫でた。
「茶々。茶々……そなたは望まれて生まれてきたのじゃ。徳川も豊臣も関係ない……泰平の、安寧の世で、健やかに幸福に生きておくれ」
それは、心からの願いだった。孫娘の健やかな満ち足りた未来を、江は心から祈った。
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説

日は沈まず
ミリタリー好きの人
歴史・時代
1929年世界恐慌により大日本帝國も含め世界は大恐慌に陥る。これに対し大日本帝國は満州事変で満州を勢力圏に置き、積極的に工場や造船所などを建造し、経済再建と大幅な軍備拡張に成功する。そして1937年大日本帝國は志那事変をきっかけに戦争の道に走っていくことになる。当初、帝國軍は順調に進撃していたが、英米の援蔣ルートによる援助と和平の断念により戦争は泥沼化していくことになった。さらに1941年には英米とも戦争は避けられなくなっていた・・・あくまでも趣味の範囲での制作です。なので文章がおかしい場合もあります。
また参考資料も乏しいので設定がおかしい場合がありますがご了承ください。また、おかしな部分を次々に直していくので最初見た時から内容がかなり変わっている場合がありますので何か前の話と一致していないところがあった場合前の話を見直して見てください。おかしなところがあったら感想でお伝えしてもらえると幸いです。表紙は自作です。

奇妙丸
0002
歴史・時代
信忠が本能寺の変から甲州征伐の前に戻り歴史を変えていく。登場人物の名前は通称、時には新しい名前、また年月日は現代のものに。if満載、本能寺の変は黒幕説、作者のご都合主義のお話。

近衛文麿奇譚
高鉢 健太
歴史・時代
日本史上最悪の宰相といわれる近衛文麿。
日本憲政史上ただ一人、関白という令外官によって大権を手にした異色の人物にはミステリアスな話が多い。
彼は果たして未来からの転生者であったのだろうか?
※なろうにも掲載

本能のままに
揚羽
歴史・時代
1582年本能寺にて織田信長は明智光秀の謀反により亡くなる…はずだった
もし信長が生きていたらどうなっていたのだろうか…というifストーリーです!もしよかったら見ていってください!
※更新は不定期になると思います。
融女寛好 腹切り融川の後始末
仁獅寺永雪
歴史・時代
江戸後期の文化八年(一八一一年)、幕府奥絵師が急死する。悲報を受けた若き天才女絵師が、根結いの垂髪を揺らして江戸の町を駆け抜ける。彼女は、事件の謎を解き、恩師の名誉と一門の将来を守ることが出来るのか。
「良工の手段、俗目の知るところにあらず」
師が遺したこの言葉の真の意味は?
これは、男社会の江戸画壇にあって、百人を超す門弟を持ち、今にも残る堂々たる足跡を残した実在の女絵師の若き日の物語。最後までお楽しみいただければ幸いです。
旧式戦艦はつせ
古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。
楽将伝
九情承太郎
歴史・時代
三人の天下人と、最も遊んだ楽将・金森長近(ながちか)のスチャラカ戦国物語
織田信長の親衛隊は
気楽な稼業と
きたもんだ(嘘)
戦国史上、最もブラックな職場
「織田信長の親衛隊」
そこで働きながらも、マイペースを貫く、趣味の人がいた
金森可近(ありちか)、後の長近(ながちか)
天下人さえ遊びに来る、趣味の達人の物語を、ご賞味ください!!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる