かくされた姫

葉月葵

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序章

壱:その誕生

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慶長二十年五月、豊臣秀頼と淀殿の自害を以て大坂夏の陣は終結した。

「殿、千姫様が到着なされました」

遠くからでも分かるほどに激しく燃え盛る大坂城を本陣から眺めていた徳川秀忠は、飛び込んできた伝令の兵の報告に慌てて振り向いた。兵の後ろから幕が持ち上がり、数人の侍女に支えられて一人の女性が姿を見せる。

「千!」

十二年前に江戸から輿入れを見送って以来の再会だ。すっかり美しく成長した娘に、秀忠はその無事を喜んで駆け寄った。

「父上……」

どこか虚ろな表情を浮かべていた千は、父の呼びかけにその瞳を震わせた。たちまち大粒の涙が流れ落ちる。怒りとも憎しみとも、悲しみともとれる複雑な感情がないまぜになった表情を浮かべる千の白い手を、秀忠はそっと取った。

「すまぬ、千。秀頼殿と淀殿を助けてやれず……私を恨んでよい、私はそなたに恨まれて当然だ」

大野治長だけでなく、千からも秀頼と淀の助命嘆願は成されていた。家康は最終判断を秀忠に委ね、秀忠はその嘆願を拒んだのだ。それを受けた徳川勢は二人がこもる蔵に鉄砲を撃ち込み、やがて蔵からは激しい炎が立ち上ったと秀忠と千はそれぞれ聞かされている。

「父上のせいではありませぬ。秀頼様も義母上様も、聞き届けられないことは分かっておりました。戦に敗れて生き延びたとて、残されている道は徳川に従う屈辱のみにございます。お二人は、豊臣の誇りを持ってご立派に死を選ばれたのです」

父の言葉に、千は涙を流しながらそう言った。その凛とした眼差しは母親である江よりも、義母であり伯母である淀を彷彿とさせる。

「……ですが、父上」

千はそっと秀忠の手を離し、己の腹部に手を当てる。

「私に悪いと思うのであれば、どうか私の願いをお聞き届けください。秀頼様のお子を、豊臣の子をお助けください」

千の行動と言葉の意味が一瞬分からず、秀忠はすぐに返答ができない。けれどすぐに、千が手を添えたその腹部が膨らみを帯びていることに気づく。一瞬でその顔が青ざめた。




数日後、徳川家康の陣にて。

「許さぬ」

報告に訪れた秀忠の願いを家康は一蹴した。

「豊臣の血は絶やさねばならぬ。特に、秀頼の血を引く者を生かすわけにはいかぬのじゃ」

すでにこのとき家康は側室が産んだ秀頼の息子を捕らえ処刑していた。同じく側室が産んだ娘もすでに捕縛され、その処遇をどうするのか家臣たちとの間で話し合いが重ねられていた。

「ですが父上、千の腹の子は徳川の子です。父上は己の曾孫すら手にかけるのですか」

秀忠はそう言った。だが、家康には響かない。何しろ彼には己の嫡男や正室を自害に追いやった過去があるのだ。もちろん心は痛かったが、そうしなければこの戦国の世を生き延びることはできなかった。
だが、秀忠とてそんな父の気持ちは承知している。

「父上。豊臣が滅んだ今、この国を統べるのは徳川なのです。豊臣の血を引いていようが、千が産んだ子は徳川の子にございます」
「徳川の血を引いていても、秀頼の子であることは変わらぬ。生かしておけば、必ず豊臣の残党が担ぎ上げて謀反を企てる。危険の芽は摘んでおくべきじゃ」

きっぱりと言い切る家康に、秀忠は言い返す言葉を思い浮かべることができない。父の言う通りなのだ。千から懐妊を告げられたとき、秀忠自身もその子を生かしておくわけにはいかないと一瞬思ったのだから。だが、子を持つ親として、我が子を守りたい千の気持ちは痛いほどに分かった。
そのとき、にわかに天幕の向こうがざわついた。姫様、と呼ぶ声がする。まさかと秀忠が目を瞠るのと同時に、幕が持ち上がり千が飛び込んできた。その手には短刀が握られている。

「千!?」

秀忠が制止する間もなく、千は短刀の切っ先をまっすぐに己の喉へ突きつけた。

「何の真似じゃ、千」

家康は孫娘の突然の行動にも動じなかった。祖父の冷ややかな声に、千も負けず劣らず冷たい声で返す。

「私は豊臣秀頼の妻にございます。我が祖母・市のように、夫に殉じたく存じます」
「千! ならぬ!」

秀忠は叫ぶが、千は父の顔を見もしなかった。ただまっすぐに家康を見つめている。

「秀頼様の子である吾子を生かさぬと申すのであれば、秀頼様の妻である私のことも殺してくださりませ。それがおじい様の望みなのでしょう?」

まっすぐな強い瞳。その瞳に、家康は若き日に数回顔を合わせた市の面影を見た。この子にはどうやら、織田家の血が強く出たようだ。

「この子だけではありません。奈阿なあのことも私の子としてお助けくださいませ」

千が口にしたのは秀頼が側室に産ませた姫の名前だ。己の子でない姫のことも、千は助けようとしていた。

「幼き命に罪はありませぬ。謀反を恐れるのであれば、仏門に入れさせればよいでしょう。私も、吾子と奈阿とともに寺に参ります」

そこまで言われては、と家康も白旗をあげざるを得なかった。





元号が慶長から元和に改まり、九月。
伏見城にて、千は秘密裏に姫を産み落とした。出産に携わった者は大金と引き換えに口を噤み、子の存在を決して公にしないと誓った。

「千。父上が、そなたと子を江戸に連れてゆくよう命じられた」

生まれたばかりの子を愛おしげに見ていた千は、見舞いに訪れた秀忠の言葉に驚いた。
すでに奈阿は東慶寺に預けられ、そこでの生活に馴染んでから出家することになっている。千も出産後はそこに移ることに決まっていたのだが、なぜ今になって――。

「そなたの気性はどうやら江に似たようだな」

秀忠は苦笑を浮かべてそう言った。

「そなたの懐妊を聞いた江が、父上に直談判の文を送ったらしい。千と暮らせたのはわずか六年だったのだから、これからはともに暮らしたいとな。仏門に入れるのであれば腹を切るとまで言ったらしい」

御台所ともあろうものがとんでもない発言である。家康は義娘にまで半ば脅され、仕方なく二人の俗世での暮らしを許したらしい。

「ふふ……母上らしいですね」

千は思わず微笑んだ。六歳までしか一緒に暮らせなかったが、母の気の強さは分かっている。淀もよく「江は気の強い娘だった」と幼い頃の姉妹の思い出話をしてくれた。
久しぶりに見る千の笑顔に、秀忠の表情も自然と和らぐ。

「竹千代と国松と和子もそなたに会うのを楽しみにしているからな。身体の具合がよくなったら私とともに江戸に戻ろう」
「はい」

秀頼のもとに嫁いだとき、母は千にとって三人目の妹となる初を懐妊中だった。つまり、千は竹千代と国松、和子とは会ったことがない。たまに届く母からの手紙でぼんやりとした像は浮かんでいるが。

「……そういえば、その子の名だが……江が、候補をいくつか送ってきていてな。その中からそなたに選ばせてやってほしいとのことだ」

秀忠は懐から書状を出して千に渡す。受け取って開くと、そこには若君の名と姫君の名がいくつか書いてあった。皆素敵な名であったが、千はすぐに吾子の名を決めた。一目見た瞬間、これしかないと思った。この子が、秀頼の子である証だと。


「この子の名は茶々……茶々姫にございます」


祖母の幼名を与えられ、その血脈を隠された姫。茶々姫。これは、彼女の物語である。
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