銀のリボンを結んで

吉岡果音

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面影

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「嘘! こんなの嘘よ! ミルゼ!」


 ――嘘よ! こんな、嘘よ……!


「いやあああああーっ!」


 凛子は、泣いた。まだぬくもりの残る衣服とバングル、そして巻き角を強く胸に抱きしめた――。そうすることで、またミルゼが戻る、そう考えようとした。


 ――そんな……! さっきまで笑っていたじゃない! 私を助けてくれたじゃない……! どうしていないの!? どこに行ってしまったの!? ミルゼ……!


 凛子はミルゼの面影を抱きしめていた――。いくら強く抱きしめても、いくら涙を流しても、ミルゼは戻らなかった――。


 どのくらいそうしていただろう。長い時間だったのかもしれないし、まだ短い時間だったのかもしれない。繰り返す波の音。凛子には永遠のように感じられた。


 黒いギルウが優しい瞳で凛子を見つめ、頬の涙をぺろぺろと舐めた。リールの放った炎の鳥も、凛子のすぐ傍で心配そうに見つめている。


 ――ギルウ……。私を助けてくれた鳥さん――。


 凛子はゆっくりと顔を上げた。海はどこまでも青く、穏やかだった。


 ――そうだ……早く戻らなくちゃ。リールとディゼムが待っている――。


 いつまでもミルゼを独り占めしてはいけない、そんなことを凛子は思った。リールもディゼムも知りたくないだろうけれど、伝えなければならない――。


 言葉は必要なかった。凛子の姿――泣きはらした顔、腕にはミルゼの衣服、バングル、そして両角を抱えていた――を見て、二人はすべてを理解した。


「凛子……!」


 リールが凛子を抱きしめた。


「辛かったね……! ごめんね、一人にしてしまって……!」


「凛子……。本当にすまない。一撃で仕留めていればこんなことには――」


 凛子は激しく首を振った。


「ごめんなさい! リール、ディゼム! 私のせいで、ミルゼが……!」


「凛子! 違うわ! ミルゼには責任があった。異界から呼び寄せたあなたを、安全に帰す義務があったの」


「義務……」


「それに」


「それに……?」


「ミルゼは、凛子、あなたを助けたかったの。どうしても、あなたを助けたかったの。そうしたいからそうしたの。だから、凛子、あなたは絶対に自分を責めたりしちゃだめよ。そんなことを考えていたら、ミルゼが悲しむわ」


 リールもディゼムも涙をこらえきれなかった。ディゼムは後ろを向いて、きつく拳を握りしめていた――。血が出るのではないかと思うほどに――。


 光る小さな人影が見えた。


「あっ……! あれは……?」


「妖精だよ。皆で大量に魔力を使ったから、さっきまでわんさか集まっていたよ。もうほとんどどっかに行っちまったけどね」


 吐き捨てるようにディゼムが答えた。


「妖精さん……! お願い! ミルゼを返して! ミルゼを連れて行かないで!」


 凛子の悲痛な叫び声。森の静寂を切り裂くような魂からの叫び。


「無駄だよ、凛子! 妖精がミルゼを連れて行ったわけじゃない。それに、やつらとは意思の疎通はできないんだ」


 それは、トンボのような羽根の生えた、光る小さな妖精だった。凛子をじっと見つめていたが、そのうち空高く飛んで行った。


「ミルゼ……」


 その後のことは、断片的にしか凛子は覚えていない。


「ミルゼも話したと思うけど、このキノコはね、大変貴重な薬になるのよ。これで大勢の人が助かるの。それに――」


「もしかしたら、なんだけど、俺たちギフトを貰った人間にも、なにか特別で有効な成分があるかもしれないって話なんだ」


 三人でキノコを採集した。ミルゼがいなくなってしまったから、とてもそんな気分になれなかったけれど、黙々とキノコを集めた。採り始めてみると、少しだけ気が紛れた。単純作業に救われた気がした。

 街に戻り、キノコを取引している場所に行った。キノコは宝石に換算されるという。やはり、かなりの価値があるようだった。


「これが、凛子の取り分よ」


 宝石は、均等に四等分された。ミルゼが受け取るはずだった報酬分は、薬の研究開発をしている機関に寄付しようということになった。


「私の分は、いりません」


 凛子は宝石を受け取ることを辞退した。


「凛子の世界でもちゃんと通用する宝石よ」


「いえ……。私はいいです。私の分も、寄付してください。そちらの世界の人々のために、どうかお役立てください」


 でも、とリールが凛子にちゃんと自分の分の報酬を取るように勧めたが、凛子の考えは変わらなかった。


 ――きっと、そのほうがミルゼも喜んでくれるはず――。


「ありがとう。凛子。本当にいいの?」


「はい」


 ――少しでも、誰かが助かるならそのほうがいい――。


「それから凛子……。実は、ミルゼには家族がいないの。だから、これは凛子が持っていて」


 リールは、凛子にミルゼの銀のバングルを手渡した。


「そうだな。凛子が持ってたほうがミルゼも喜ぶな」


 ディゼムが寂しそうに笑った。


「ありがとうございます――」


 凛子は銀のバングルをしっかりと胸に抱いた。そして、リールとディゼムに深々と頭を下げた。


「それから、凛子――。契約書、いる?」


 ミルゼと交わした羊皮紙の契約書。


「あ……! 欲しいです!」


「そう言うと思った。ミルゼの手書きだからね。凛子から見たらわかんないだろうけど、ミルゼは字が上手いのよ」


 ――ミルゼの、文字――。


 そっと指でなぞってみる。丁寧にしたためられたミルゼの、痕跡――。


 また涙が溢れてきた。リールも目を潤ませていた。ディゼムは黙ってそっぽを向いていたけど、泣いているのはすぐに分かった。


「さようなら。凛子」


「え……」


「もうそろそろ、戻ったほうがいいわよね。凛子の大切な人たちも、だんだん心配し始める頃だろうし」


「ありがとな。凛子。またいつか、会えるといいな」


 ディゼムが凛子の頭をわしわしと撫でた。大きな、あったかい手。


「リール、ディゼム……」


「凛子。ありがとう。元気でね。あまり引き止めるとますます別れが辛くなっちゃう」


「ふふふ。実は俺もリールも寂しがり屋なんだよ」


「別れは、笑顔がいいわよね?」


 そう言って、リールが凛子をぎゅうっと抱きしめた。薔薇の花のような、よい香りに包まれる。


 もう少しだけ、ここにいたい、みんなと一緒にいたい、凛子はそう言おうとした。


「あ……」


 気が付けば、毎朝通る通学路。四季の花咲く家の角を曲がったところ。


「ここは……」


 呆然と立ち尽くす。時計を見ると、完全なる遅刻であったが、凛子が学校に来ていないことを騒ぐほどの時間はまだ経っていなかった。


 立ち尽くしたまま、涙が溢れてきた。


 ――ミルゼ……。リール……。ディゼム……!


 学校には登校途中で気分が悪くなったということを電話し、家に帰った。両親ともすでに仕事に出ていて家には誰もいなかった。凛子は部屋に閉じこもり、声をあげて泣いた。


『泣かないでください』


 ミルゼの優しい声が頭に浮かんだ。涙をそっと拭ってくれた細く美しい指を思い出した。


 ――でも、もうミルゼはどこにもいないんだ――。


 ただ名前を呼んだだけで、とても嬉しそうな笑顔を浮かべていたミルゼ。凛子は何度もミルゼの名を呼んだ。あのまるで子供のような無邪気な笑顔も、穏やかな声も、もう返ってこない。


『泣かないでください』


 記憶の中のミルゼは、優しく微笑んでいた――。
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