18 / 24
決戦
雨音
しおりを挟む
翌朝、ユイは会社を休むことにした。
熱が出てしまったのだ。ひどく気分が悪く頭痛がする。体が戦っている相手は、ウイルスなどではないのはユイにもわかっていた。
「少し、夢を見たよ。私ユメクイを、見たよ」
夢について訊こうとしたユイだが、シュウはそれを制した。
「本当に、夢で見たことは気にしないでくださいね。できれば忘れてください。それにしても……、やっぱり、夢を見てしまいましたか……」
「うん……。でも、あの、シュウ……」
ユイはシュウが心配で仕方なかった。でも熱のせいか、うまく考えがまとまらない。
とりあえず、シュウも私もなにか食べなきゃ。ユイはキッチンに立とうとした。足元がふらつく。
「もし、差支えなかったら、私がごはんを作りますよ。簡単なものしかできないですけど。どうか横になっていてください」
大丈夫、私がごはんくらい作るよ、とユイは言いたかったが、体がどうにもいうことを聞かない。
シュウは、朝にはおかゆ、昼には野菜炒めを作った。普段から料理を作っているのだろう、手慣れた感じだった。野菜はきちんと切り揃えられ火の通りも絶妙、丁寧に盛りつけられ、そしてもちろん味も非常においしかった。
ユイの心と身体が必要としていた栄養分すべてがたっぷりと含まれているようだった。一口ごとに、ユイの体の奥深くまでゆっくり染みわたっていくようだ。
「とってもおいしい。本当にありがとう。元気になれる気がするよ」
「今日はゆっくり寝ていてくださいね」
朝からずっと弱い雨が降っている。
ユイは眠り続けた。音楽が聞こえてきた――ピアノだ。たぶん、夢なのだろう――とユイは思った。ショパンの「夜想曲第2番変ホ長調」だった。
ユイの両親は、音楽が大好きだ。特に、父がクラシックをこよなく愛していた。ユイの実家では日常にクラシック音楽が流れている。ユイが母親のおなかの中にいたとき、胎教としてもよくショパンやモーツァルト、バッハなどを聴かせていた。
ユイが幼い頃、両親はユイにピアノを習わせようと試みた。ユイは音楽を聴くのは大好きになったけれど、ピアノを弾くのは好きになれなかった。向いていない、というのもあったが、たまたま通っていたピアノ教室や先生の雰囲気がユイには合わなかった。雨の日、ピアノ教室に行くのが嫌で、ひどく泣いて嫌がったのをユイは覚えている。結局続かずすぐに辞めてしまった。両親は仕方ないね、と顔を見合わせて苦笑した。
外の雨は少し強く降りだしていた。
ユイは浅い眠りの中にいた。
――ピアノ教室を辞めちゃったけど、おとうさんは笑ってた。おとうさんは、ユイにはたまたまピアノを弾くのは合わなかったみたいだけど、もっと好きなこと、夢中になれることがこれからどんどん出てくるよ、楽しんで一緒に探そうね、と優しく頭を撫でてくれたっけ――。
雨の音が少し静かになった。いつのまにかまた弱い雨に変わっていた。
夢と覚醒の狭間で、今度は高熱を出して学校を休んだ日のことが思い出された。あの日も一日雨が降っていた。
――パートに出ていたおかあさんが、仕事を休んでずっと側についていてくれた。自分ではもうすっかり「いいおねえちゃん」だったと思うけど、この日はおかあさんを堂々と一人占めできた。髪を優しく撫で、手を握っていてくれたっけ。おかあさんは、おやつにプリンを作ってくれた。いつも素敵なことはなんでも先におとうとに譲ってあげて、おとうとが一番優先だったけど、あの日は私が一番最初に食べるんだ! って嬉しかった。学校から帰ったおとうとは、雨でずぶ濡れだった。おねえちゃんが早く元気になるようにって、雨の中四つ葉のクローバーを探して持ってきてくれたんだ。すっごく嬉しかった。……その後、今度は弟が風邪をひいたってオチがついてしまったけど……。弟はおいしいって大喜びでおかあさんのプリンを食べてた。プリンを食べるの一番最初! って嬉しかったけど、やっぱりみんなで一緒に食べた方がいいなって思ったっけ。おかあさんのプリン。最高においしい。家族みんなが笑顔になるおかあさんのプリン。今でもときおり無性に食べたくなる。
雨音がリズミカルに聞こえる。車の通りがいつもより少ない静かな午後。
――小さい頃、おとうととは手をつないでよく近所の小川のほとりや公園に遊びに行ったっけ。青い小さな花の「わすれな草」や、四つ葉のクローバー探しに私が夢中になっているとき、おとうとは小さな生き物をたくさん捕まえていた。優しくしてあげなきゃだめだよって何度も注意した。小雨が降ってきた。帰りも仲よく手をつないで帰った。……さっきカエルやミミズを思いっきりつかんでたよね……、って思ったけど、私を信頼して握ってくる小さな手のひらのぬくもりが嬉しかった――。
雨は降り続ける。今も、誰かが側についていてくれている。手を握ってくれている。汗で額に張り付いた髪を指でそっと払い、髪を撫でてくれる優しい誰かがいる。
――おとうとでも、おかあさんでも、おとうさんでも、ない。
「シュウ、好きだよ」
ユイはそれと知らず声に出していた。想いが現実に言葉として生み出されてしまったこと、シュウがその美しい言葉を聞いていることなどユイは知らないままだ。
雨は優しく木や草花を潤し続ける。大地はこぼれ落ちる雫を静かに受け取り、深くゆっくり飲みこんでいった。
熱が出てしまったのだ。ひどく気分が悪く頭痛がする。体が戦っている相手は、ウイルスなどではないのはユイにもわかっていた。
「少し、夢を見たよ。私ユメクイを、見たよ」
夢について訊こうとしたユイだが、シュウはそれを制した。
「本当に、夢で見たことは気にしないでくださいね。できれば忘れてください。それにしても……、やっぱり、夢を見てしまいましたか……」
「うん……。でも、あの、シュウ……」
ユイはシュウが心配で仕方なかった。でも熱のせいか、うまく考えがまとまらない。
とりあえず、シュウも私もなにか食べなきゃ。ユイはキッチンに立とうとした。足元がふらつく。
「もし、差支えなかったら、私がごはんを作りますよ。簡単なものしかできないですけど。どうか横になっていてください」
大丈夫、私がごはんくらい作るよ、とユイは言いたかったが、体がどうにもいうことを聞かない。
シュウは、朝にはおかゆ、昼には野菜炒めを作った。普段から料理を作っているのだろう、手慣れた感じだった。野菜はきちんと切り揃えられ火の通りも絶妙、丁寧に盛りつけられ、そしてもちろん味も非常においしかった。
ユイの心と身体が必要としていた栄養分すべてがたっぷりと含まれているようだった。一口ごとに、ユイの体の奥深くまでゆっくり染みわたっていくようだ。
「とってもおいしい。本当にありがとう。元気になれる気がするよ」
「今日はゆっくり寝ていてくださいね」
朝からずっと弱い雨が降っている。
ユイは眠り続けた。音楽が聞こえてきた――ピアノだ。たぶん、夢なのだろう――とユイは思った。ショパンの「夜想曲第2番変ホ長調」だった。
ユイの両親は、音楽が大好きだ。特に、父がクラシックをこよなく愛していた。ユイの実家では日常にクラシック音楽が流れている。ユイが母親のおなかの中にいたとき、胎教としてもよくショパンやモーツァルト、バッハなどを聴かせていた。
ユイが幼い頃、両親はユイにピアノを習わせようと試みた。ユイは音楽を聴くのは大好きになったけれど、ピアノを弾くのは好きになれなかった。向いていない、というのもあったが、たまたま通っていたピアノ教室や先生の雰囲気がユイには合わなかった。雨の日、ピアノ教室に行くのが嫌で、ひどく泣いて嫌がったのをユイは覚えている。結局続かずすぐに辞めてしまった。両親は仕方ないね、と顔を見合わせて苦笑した。
外の雨は少し強く降りだしていた。
ユイは浅い眠りの中にいた。
――ピアノ教室を辞めちゃったけど、おとうさんは笑ってた。おとうさんは、ユイにはたまたまピアノを弾くのは合わなかったみたいだけど、もっと好きなこと、夢中になれることがこれからどんどん出てくるよ、楽しんで一緒に探そうね、と優しく頭を撫でてくれたっけ――。
雨の音が少し静かになった。いつのまにかまた弱い雨に変わっていた。
夢と覚醒の狭間で、今度は高熱を出して学校を休んだ日のことが思い出された。あの日も一日雨が降っていた。
――パートに出ていたおかあさんが、仕事を休んでずっと側についていてくれた。自分ではもうすっかり「いいおねえちゃん」だったと思うけど、この日はおかあさんを堂々と一人占めできた。髪を優しく撫で、手を握っていてくれたっけ。おかあさんは、おやつにプリンを作ってくれた。いつも素敵なことはなんでも先におとうとに譲ってあげて、おとうとが一番優先だったけど、あの日は私が一番最初に食べるんだ! って嬉しかった。学校から帰ったおとうとは、雨でずぶ濡れだった。おねえちゃんが早く元気になるようにって、雨の中四つ葉のクローバーを探して持ってきてくれたんだ。すっごく嬉しかった。……その後、今度は弟が風邪をひいたってオチがついてしまったけど……。弟はおいしいって大喜びでおかあさんのプリンを食べてた。プリンを食べるの一番最初! って嬉しかったけど、やっぱりみんなで一緒に食べた方がいいなって思ったっけ。おかあさんのプリン。最高においしい。家族みんなが笑顔になるおかあさんのプリン。今でもときおり無性に食べたくなる。
雨音がリズミカルに聞こえる。車の通りがいつもより少ない静かな午後。
――小さい頃、おとうととは手をつないでよく近所の小川のほとりや公園に遊びに行ったっけ。青い小さな花の「わすれな草」や、四つ葉のクローバー探しに私が夢中になっているとき、おとうとは小さな生き物をたくさん捕まえていた。優しくしてあげなきゃだめだよって何度も注意した。小雨が降ってきた。帰りも仲よく手をつないで帰った。……さっきカエルやミミズを思いっきりつかんでたよね……、って思ったけど、私を信頼して握ってくる小さな手のひらのぬくもりが嬉しかった――。
雨は降り続ける。今も、誰かが側についていてくれている。手を握ってくれている。汗で額に張り付いた髪を指でそっと払い、髪を撫でてくれる優しい誰かがいる。
――おとうとでも、おかあさんでも、おとうさんでも、ない。
「シュウ、好きだよ」
ユイはそれと知らず声に出していた。想いが現実に言葉として生み出されてしまったこと、シュウがその美しい言葉を聞いていることなどユイは知らないままだ。
雨は優しく木や草花を潤し続ける。大地はこぼれ落ちる雫を静かに受け取り、深くゆっくり飲みこんでいった。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
夫を愛することはやめました。
杉本凪咲
恋愛
私はただ夫に好かれたかった。毎日多くの時間をかけて丹念に化粧を施し、豊富な教養も身につけた。しかし夫は私を愛することはなく、別の女性へと愛を向けた。夫と彼女の不倫現場を目撃した時、私は強いショックを受けて、自分が隣国の王女であった時の記憶が蘇る。それを知った夫は手のひらを返したように愛を囁くが、もう既に彼への愛は尽きていた。
選ばれたのは美人の親友
杉本凪咲
恋愛
侯爵令息ルドガーの妻となったエルは、良き妻になろうと奮闘していた。しかし突然にルドガーはエルに離婚を宣言し、あろうことかエルの親友であるレベッカと関係を持った。悔しさと怒りで泣き叫ぶエルだが、最後には離婚を決意して縁を切る。程なくして、そんな彼女に新しい縁談が舞い込んできたが、縁を切ったはずのレベッカが現れる。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
夫が寵姫に夢中ですので、私は離宮で気ままに暮らします
希猫 ゆうみ
恋愛
王妃フランチェスカは見切りをつけた。
国王である夫ゴドウィンは踊り子上がりの寵姫マルベルに夢中で、先に男児を産ませて寵姫の子を王太子にするとまで嘯いている。
隣国王女であったフランチェスカの莫大な持参金と、結婚による同盟が国を支えてるというのに、恩知らずも甚だしい。
「勝手にやってください。私は離宮で気ままに暮らしますので」
【完結】忘れてください
仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
愛していた。
貴方はそうでないと知りながら、私は貴方だけを愛していた。
夫の恋人に子供ができたと教えられても、私は貴方との未来を信じていたのに。
貴方から離婚届を渡されて、私の心は粉々に砕け散った。
もういいの。
私は貴方を解放する覚悟を決めた。
貴方が気づいていない小さな鼓動を守りながら、ここを離れます。
私の事は忘れてください。
※6月26日初回完結
7月12日2回目完結しました。
お読みいただきありがとうございます。
後宮にて、あなたを想う
じじ
キャラ文芸
真国の皇后として後宮に迎え入れられた蔡怜。美しく優しげな容姿と穏やかな物言いで、一見人当たりよく見える彼女だが、実は後宮なんて面倒なところに来たくなかった、という邪魔くさがり屋。
家柄のせいでら渋々嫁がざるを得なかった蔡怜が少しでも、自分の生活を穏やかに暮らすため、嫌々ながらも後宮のトラブルを解決します!
富豪外科医は、モテモテだが結婚しない?
青夜
キャラ文芸
東大医学部卒。今は港区の大病院に外科医として勤める主人公。
親友夫婦が突然の事故で亡くなった。主人公は遺された四人の子どもたちを引き取り、一緒に暮らすことになった。
資産は十分にある。
子どもたちは、主人公に懐いてくれる。
しかし、何の因果か、驚天動地の事件ばかりが起きる。
幼く美しい巨大財閥令嬢 ⇒ 主人公にベタベタです。
暗殺拳の美しい跡取り ⇒ 昔から主人公にベタ惚れです。
元レディースの超美しいナース ⇒ 主人公にいろんな意味でベタベタです。
大精霊 ⇒ お花を咲かせる類人猿です。
主人公の美しい長女 ⇒ もちろん主人公にベタベタですが、最強です。
主人公の長男 ⇒ 主人公を神の如く尊敬します。
主人公の双子の娘 ⇒ 主人公が大好きですが、大事件ばかり起こします。
その他美しい女たちと美しいゲイの青年 ⇒ みんなベタベタです。
伝説のヤクザ ⇒ 主人公の舎弟になります。
大妖怪 ⇒ 舎弟になります。
守り神ヘビ ⇒ 主人公が大好きです。
おおきな猫 ⇒ 主人公が超好きです。
女子会 ⇒ 無事に終わったことはありません。
理解不能な方は、是非本編へ。
決して後悔させません!
捧腹絶倒、涙流しまくりの世界へようこそ。
ちょっと過激な暴力描写もあります。
苦手な方は読み飛ばして下さい。
性描写は控えめなつもりです。
どんなに読んでもゼロカロリーです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる