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決戦

雨音

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 翌朝、ユイは会社を休むことにした。

 熱が出てしまったのだ。ひどく気分が悪く頭痛がする。体が戦っている相手は、ウイルスなどではないのはユイにもわかっていた。


「少し、夢を見たよ。私ユメクイを、見たよ」


 夢について訊こうとしたユイだが、シュウはそれを制した。


「本当に、夢で見たことは気にしないでくださいね。できれば忘れてください。それにしても……、やっぱり、夢を見てしまいましたか……」


「うん……。でも、あの、シュウ……」


 ユイはシュウが心配で仕方なかった。でも熱のせいか、うまく考えがまとまらない。

 とりあえず、シュウも私もなにか食べなきゃ。ユイはキッチンに立とうとした。足元がふらつく。


「もし、差支えなかったら、私がごはんを作りますよ。簡単なものしかできないですけど。どうか横になっていてください」


 大丈夫、私がごはんくらい作るよ、とユイは言いたかったが、体がどうにもいうことを聞かない。

 シュウは、朝にはおかゆ、昼には野菜炒めを作った。普段から料理を作っているのだろう、手慣れた感じだった。野菜はきちんと切り揃えられ火の通りも絶妙、丁寧に盛りつけられ、そしてもちろん味も非常においしかった。

 ユイの心と身体が必要としていた栄養分すべてがたっぷりと含まれているようだった。一口ごとに、ユイの体の奥深くまでゆっくり染みわたっていくようだ。


「とってもおいしい。本当にありがとう。元気になれる気がするよ」


「今日はゆっくり寝ていてくださいね」


 朝からずっと弱い雨が降っている。


 ユイは眠り続けた。音楽が聞こえてきた――ピアノだ。たぶん、夢なのだろう――とユイは思った。ショパンの「夜想曲第2番変ホ長調」だった。

 ユイの両親は、音楽が大好きだ。特に、父がクラシックをこよなく愛していた。ユイの実家では日常にクラシック音楽が流れている。ユイが母親のおなかの中にいたとき、胎教としてもよくショパンやモーツァルト、バッハなどを聴かせていた。

 ユイが幼い頃、両親はユイにピアノを習わせようと試みた。ユイは音楽を聴くのは大好きになったけれど、ピアノを弾くのは好きになれなかった。向いていない、というのもあったが、たまたま通っていたピアノ教室や先生の雰囲気がユイには合わなかった。雨の日、ピアノ教室に行くのが嫌で、ひどく泣いて嫌がったのをユイは覚えている。結局続かずすぐに辞めてしまった。両親は仕方ないね、と顔を見合わせて苦笑した。

 外の雨は少し強く降りだしていた。

 ユイは浅い眠りの中にいた。


 ――ピアノ教室を辞めちゃったけど、おとうさんは笑ってた。おとうさんは、ユイにはたまたまピアノを弾くのは合わなかったみたいだけど、もっと好きなこと、夢中になれることがこれからどんどん出てくるよ、楽しんで一緒に探そうね、と優しく頭を撫でてくれたっけ――。


 雨の音が少し静かになった。いつのまにかまた弱い雨に変わっていた。

 夢と覚醒の狭間で、今度は高熱を出して学校を休んだ日のことが思い出された。あの日も一日雨が降っていた。


 ――パートに出ていたおかあさんが、仕事を休んでずっと側についていてくれた。自分ではもうすっかり「いいおねえちゃん」だったと思うけど、この日はおかあさんを堂々と一人占めできた。髪を優しく撫で、手を握っていてくれたっけ。おかあさんは、おやつにプリンを作ってくれた。いつも素敵なことはなんでも先におとうとに譲ってあげて、おとうとが一番優先だったけど、あの日は私が一番最初に食べるんだ! って嬉しかった。学校から帰ったおとうとは、雨でずぶ濡れだった。おねえちゃんが早く元気になるようにって、雨の中四つ葉のクローバーを探して持ってきてくれたんだ。すっごく嬉しかった。……その後、今度は弟が風邪をひいたってオチがついてしまったけど……。弟はおいしいって大喜びでおかあさんのプリンを食べてた。プリンを食べるの一番最初! って嬉しかったけど、やっぱりみんなで一緒に食べた方がいいなって思ったっけ。おかあさんのプリン。最高においしい。家族みんなが笑顔になるおかあさんのプリン。今でもときおり無性に食べたくなる。


 雨音がリズミカルに聞こえる。車の通りがいつもより少ない静かな午後。


 ――小さい頃、おとうととは手をつないでよく近所の小川のほとりや公園に遊びに行ったっけ。青い小さな花の「わすれな草」や、四つ葉のクローバー探しに私が夢中になっているとき、おとうとは小さな生き物をたくさん捕まえていた。優しくしてあげなきゃだめだよって何度も注意した。小雨が降ってきた。帰りも仲よく手をつないで帰った。……さっきカエルやミミズを思いっきりつかんでたよね……、って思ったけど、私を信頼して握ってくる小さな手のひらのぬくもりが嬉しかった――。


 雨は降り続ける。今も、誰かが側についていてくれている。手を握ってくれている。汗で額に張り付いた髪を指でそっと払い、髪を撫でてくれる優しい誰かがいる。


 ――おとうとでも、おかあさんでも、おとうさんでも、ない。


「シュウ、好きだよ」


 ユイはそれと知らず声に出していた。想いが現実に言葉として生み出されてしまったこと、シュウがその美しい言葉を聞いていることなどユイは知らないままだ。

 雨は優しく木や草花を潤し続ける。大地はこぼれ落ちる雫を静かに受け取り、深くゆっくり飲みこんでいった。
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