ユーズド・カー

ACE

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エピローグ

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 狭いアパートの一室で、海野勇太は深い眠りから目を覚ました。カーテンを閉めた室内は清々しい日の光を遮り、静寂で厳かな雰囲気を醸出していた。
 朝方とは言い難い時刻を示す時計の針を一瞥し、重たい身体をゆっくりと起こした。粘ついた口内を舌で突きながら、気怠そうに布団を畳み始めた。隣接する月極駐車場に停められた、エンジンの掛かりづらい女性オーナーの車も、いつの間にか新品に変わっていた。

 そんな、変哲のない普通の一日が、今日もこうして始まりを告げることとなる。

 今日は日曜日。浮ついた気持ちを湛えた街並みが小高いアパートの面前に広がる。特段、誰かと会うわけでもなければ一人で出かける予定もない。何となく始めたアルバイトで稼いだ僅かな給料と、変わらず送られる両親からの仕送りで、自分が生きていくために必要な住処と食料を淡々と確保していく。

 胃袋が目を覚まし、いつもの活力を取り戻し、自然と食欲が湧いてくる。棚から取り出したカップ麺に沸かしたお湯を薄い線まで注いで放置。程よく経った頃に蓋を開け、熱した麺を勢いよく啜って噛み砕き、冷めないまま食道へと流し込む。大量の塩分を摂取することに逡巡することなく、麺を全て出し切った後でスープを飲み干した。

 食欲を満たし、おもむろにパソコンを立ち上げた。決まって開くサイトと言えば、TwitterやYouTubeぐらいだ。物思いに耽った結果の主義主張を書き殴り、興味本位で開いた動画を真剣に見つめたり容赦なく遮断したりする。ただそれを繰り返すだけで、何分、何時間と過ぎていくのだから、孤独で何の取り柄も無い自分に唯一与えられた贅沢だと言ってもいい。

 そんな変わり映えのない日常の中で、いつも考えることがある。

 本田瑛莉香は今、どこで何をしているのだろうか。

 非日常の旅と称した逃避行を終え、現実世界に満を持して舞い戻ってきた日から、彼女の存在を片時も忘れることは無かった。しかし、あれ以来、掲示板を毎日覗いても、Erikaの名前はおろか、それを思わせるようなスレッドも全く立たなかった。かつて彼女とやり取りした唯一のスレッドにも、あの時の日付のまま時が止まっている。教わったメールアドレスに何度か返信してみたが、今日まで全く音沙汰は無い。彼女が設けた旅のルールに忠実に従い、写真は1枚も残していない。記憶の中にだけ残るあの凛々しい笑顔と天真爛漫な振る舞い、女性らしい淑やかな匂い、物腰の柔らかい声色、そして絶えず車のペダルを踏んできた形の整った素足、エンジンの掛かりが悪い愛車のプレオ。夢を見ていたかのように、自分が手に取って触れられる景色の中でも、それだけが特別に輝き続けていた。
 それほど、言い換えればその日々を塗り替えられるような日常を、到底自分の中で作れている気がしなかった。経済情勢が芳しくない状態の中、再就職は案の定上手くいかなかった。学歴も資格もなく、人間関係が理由で1年ちょっとで自己都合退職をしたパッとしない男に、人事の合理的な判断は容赦なかった。選ばなければ沢山の選択肢があるとは思いながらも、いざ己の責任で働くと考えれば、それなりに選り好みをしてしまうのが人間の性だろう。比較的気軽に始められる、アルバイトという形態で、少しずつ自信と結果を積み上げていこうと、覚束ない足取りで歩いてきた。
 やはり、どこまで行っても現実は現実なのだろうか。人生を変えることは、なかなか実現できるものではないのだろうか。

 ただ、そんな時に、彼女の言葉が頭の中に聞こえてくる。


「ハンドルがあれば、エンジンがあれば、オンボロだって、どこにでも行けるんだから」


 自分は今、エンジンの錆びついた頼りない中古車だ。ボロボロで、滑稽で、安全とは思えないほど沢山の傷が残っている。人よりも速く走れず、スタートも常に手こずり、走り出したとしても途中でバテてしまい、それでいて掛かるコストはとんでもなく高い。
 しかし、まだエンジンはしっかりと積まれている。握るハンドルだってある。奥まで踏み込めるペダルも壊れていない。心臓は絶えず脈を叩き、血液が体中を巡り、吸い込んだ空気を吐き出し、ラベンダーの香りに引き込まれた嗅覚が働き、不器用ながら感情を紡ぐ口があり、一人の女性に強く包み込まれた肉体がある。

 きっと、走れる。どこまでいけるかは分からくても、中古車は今日もどこかで必ず走っている。






 平穏な街の昼下がり、海野勇太は履き慣らしたスニーカーで歩道を歩いていた。都会の喧噪には慣れたつもりだったが、それでも耳を劈くようなクラクションの音を聞けば身体は怯んでしまう。
 カップルが、高齢者が、家族連れが、三々五々。ごく普通の日常の中で、刻一刻と時間は刻まれていく。




「勇太君、大丈夫だよ。こっち向いて」




 冴えなくてもいい。無様でもいい。エンジンとハンドルはまだ錆びついてはいない。肩を撫でるように通り過ぎた風はいつもよりも優しい。
 オンボロでも、必ず走れる。走ってみせる。そしてまた、知ることのなかった世界で存分に旅をしようじゃないか。




「勇太君の姿はきっとこれからも沢山の人を勇気づけて、幸せに導いていくんだって信じてるよ」




 見慣れた街並みの中、通り過ぎるはずの景色にふと目が止まった。胸が高揚し、コンクリートを踏みつける足の歩幅が大きくなっていく。
 幸せはもう始まっている。日常の僅かなズレを重ねた先に、思いもよらない日々が待っている。





「……私がその一人だからね」





 路肩に停まる一台の古びた軽自動車。ボンネットを開いて様子を探る人は、都会の洒落た雰囲気に似合うスレンダーな女性。踵の高い黒色のサンダルを色白い素足で履き、高身長の身体を不安定に揺らしている。
 勇太は速まる鼓動を身体の奥底で感じながら、勇気を振り絞って声を発した。



「…あ、あの…!大丈夫ですか…?」
「すみません、車が故障しちゃって…!……あっ…!」


 その声に気づいた女性は、ボンネットからゆっくりと顔を上げ、優しく勇太に微笑んだ。




~FIN~
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