ユーズド・カー

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第5章 山

5-3

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 田園に囲まれたコンクリートの上を青い軽自動車は今日も颯爽と走り抜ける。雅な浴衣姿から元のラフな格好に戻った瑛莉香の足を、勇太は欲情した眼差しで見つめていた。起床してから昨晩買っておいたコンビニの弁当を胃の中へ収め、エンジンの始動に少々手こずってから盤石なコンクリートの上で車を走らせる今まで、瑛莉香は裸足だった。スラっと伸びた足の指で直接、軽自動車の小さなペダルを奥へと踏み込む様子に心臓は激しく躍動した。
 馬力の弱い車は彼女の快活な性格も相乗してか、アクセルペダルを限界まで押し込まれる度に激しく唸った。女性が裸足で勢いよくペダルを踏み込む様子についつい色欲を覚えてしまう。何故こんなものに興奮してしまうのか分からないまま、ただただ本能のままにその一コマ一コマを脳裏に焼き付けていた。

 平坦な道を走り続け、変化に乏しい風景に退屈を覚えた頃、前方には白いヘルメットを被り青い制服を身に纏った二人の警官が、道路の真ん中に立っている姿が見えた。
 運転席側に立つ警官が赤い誘導棒を横に倒すと、瑛莉香は裸足のままゆっくりとブレーキを踏み込んだ。

「突然すみません、お酒の検問です」
 瑛莉香がガラス窓を開けると、警官は身を屈めて話しかけた。テレビでよく見かける呼気検査だが、湿気の多い夏空の下、清潔な正装姿で毅然とした鋭い眼差しを向けられると不思議と緊張した。
 警官はアルコール濃度を測る機械を瑛莉香の口元に差し出し、彼女は白いストローを咥えて息を数秒間吐き続けた。昨日は花火大会で相当テンションが上がっていたものの一滴も酒を飲んでおらず、アルコール成分が検出されることはない。

「…はい、大丈夫です。ご協力ありがとうございました」
 特に目立った数値が出ることがないことを確認した警官が礼を述べた。前に向き直って運転を再開しようとした瑛莉香の足元に怪訝そうな視線を浮かべた。

「…あれ?お姉さん、裸足で運転してるの?」
「…えっ?…あっ、はい……あっ、すみませ~ん、ダメですよね裸足」
 瑛莉香は頬を赤らめながら足元を隠すように膝をさすった。何気ない会話の中、彼女の裸足に男性陣の視線が集中する瞬間が少し性的だった。

「ダメダメ、裸足での運転は危ないよ。ちゃんと靴履かないと。暑いのは分かるけど」
 警官の口調は至って冷静で正義感溢れる様だった。警察官という存在は、交通秩序の維持や違反の取り締まりを行うためならどんな性の対象でも無情に睨みつけることが出来るのだろう。

「ここらへん事故多いんだから。運転にはくれぐれも気を付けて下さいね。じゃあすみません、ご協力ありがとうございました」
「はい…!すみません、気を付けます…!」
 瑛莉香は恥ずかしそうに唇を結びながら、たった今注意されたその足でアクセルを踏み込み、車を発進させた。



「やだ、注意されちゃった、恥ずかし」
 警官の姿がルームミラーから消え去った頃、瑛莉香がホッと口元を緩めた。

「…でも運転しやすいんだよね~、裸足。昨日の下駄はホント踏みにくかったけど」
 瑛莉香が自分の足元を一瞥した。出会ってから今日まで何食わぬ顔で裸足やサンダルで運転を続けてきた彼女が改めてそのことに言及することに妙に興奮してしまった。このまま彼女の足について、運転について、話を広げてみたい。しかし、当然緊張で口が動かない。喉の奥にストッパーが掛けられたように、押し寄せる言葉が寸でのところで堰き止められていた。

「…ねぇ、そういえば勇太君は免許取らないの?」
「…免許……そうですね…」
 少しばかりの沈黙を挟み、瑛莉香が質問した。女性が運転する姿に幾度となく性的倒錯を起こしてきたせいか、自分自身がそれを行うことには少し抵抗があった。

「…あんまり自信ないです」
「そっか~。まぁ最初はみんな自信ないんじゃないかなぁ。私も最初本当にヤバかったから」
 瑛莉香が噴き出した。見知らぬ土地でスニーカーも履かず器用にハンドルとペダルを操る彼女の姿からは想像がつかなかった。
 不意に、懐に飛び込む腹が決まった。

「…あの…瑛莉香さんって運転お上手ですよね。その……サンダルとかで運転してても大丈夫で…」
 全身の血管が膨張し、血液が体内を駆け巡った。彼女が素足にサンダルで運転していることについて自分から触れるのは初めてだった。興奮と緊張で頬と耳たぶが熱くなり、鼓動がドクドクと脈打った。

「えっ、そんな、いつも運転荒くてごめんねって思ってるよ。でも嬉しいよ。ありがと。…てか、サンダルで運転って普通ダメだよね」
 自分にとっては絶頂の瞬間に思える一場面も、当の瑛莉香にとっては何気ない会話の一部だろう。噴き出した顔の緩みはそのままで、ハンドルを握っていた手を横にひらひらと振って謙遜した。

「まぁ私あんまパンプスとかヒールとか好きじゃなくてさ。サンダルの方が開放感あるし、夏場なんてずっと裸足だから余計に」
「……なるほど……やっぱり瑛莉香さんっていつも素足にサンダルで運転するんですか…?」
「えっ?……まぁ、うん、夏場は大体そうかな。大体は素足でサンダル履いて出かけるかも。たまに、何となく裸足で運転する時もあるけどね。今がそうか」
 話の流れに全身を委ね、触れてみたかった部分に触れられた気がした。掘り下げるようなことでもない話に食いついた自分を見て、彼女はどう感じたのだろうか。僅かな後悔と不安はあったものの、勇太にとっては十分な収穫だった。

「免許取る時はちゃんと靴でやらされるんだけどね。知ってる?教習所にサンダル履いて実技に行くと、わざわざ学校の上履きみたいなの履かされるんだよ?ふふっ、あれすんごいダサくて。でもいざ免許取って…ってなると、ついね。気づいたらサンダル履いてるっていう。…ごめんね、私ほんと女子力低いから」
「あっ…いえ…!いつもありがとうございます…!」
 勇太はギクシャクと言葉を返しながら軽く頭を下げた。瑛莉香にとってはだらしない姿でも、勇太にとってはこれ以上はない程に彼女の格好は女性的だった。爪先を締め付ける履き物が嫌いな彼女らしい、形の整った足の指でペダルを強めに踏み込む仕草からなかなか目が離せず、再び沈黙が訪れた後でも勇太の興奮はなかなか冷めなかった。





 見知らぬ風景を窓ガラス越しに映しながら、車は青々とした草木の繁茂する田んぼ道を走っていた。
 途中、小さな中華屋で昼食をとった。瑛莉香と出会って間もない頃に行った繁華街が随分と前に感じられた。彼女の高い波長に戸惑いながらも口に運んだ赤い麻婆豆腐の辛味は味覚に鮮明に記憶されていた。気前のいい中年の店主が運んできた醤油ラーメンを勢いよくすすり、満足げに微笑む瑛莉香は出会った当初と変わらない輝きを放っている。彼女との1秒1秒を噛み締めるように、ダシの染み込んだ麺をゆっくりと口の中へ運んでいった。

 昼食を終え、瑛莉香とともに店を後にした。青い軽自動車は小さな駐車場で、掛かりそうで掛からないエンジン音を何度か不穏に響かせた後、勢いよく回転数を上げて排気口から黒い煙を吐き出しながら再びアスファルトの上を滑りだした。
 商業施設に囲まれた小さなまちへと差し掛かり、人や車がおだやかな田舎道の中に少しずつ増えていく。人工物の多い景色に都会の血が滑らかに身体を巡り出した。
 瑛莉香は、今日は裸足で過ごしたい気分なのか、外に出る時に履いたビーチサンダルを再び脱いでペダルを踏んでいた。そんな彼女の運転姿を前に脳が飽きる気配もなく、絶妙な高揚感を湛えながら、勇太の視線は糸を張ったようにその足に向かって真っ直ぐに繋ぎ止められた。

 瑛莉香の運転する車は煙を吐き出しながら弱い馬力を最大限まで発揮して走り続けた。裸足のまま頑張ってアクセルをベタ踏みしても、古びたエンジンで出せる速度はせいぜい60㎞ぐらいだった。ブレーキを踏んで車を停めると車体は今にもエンジンが停止しそうな様子でカタカタと小さく振動し、ペットボトルに入れた液体が小刻みに震えていた。
 悠然と道路を走る車に向かって、後ろから甲高いクラクションを叩きつける車がいた。

「わっ…!…なになに?……今鳴らされた…?」
 瑛莉香は怪訝な表情でルームミラーを覗き込んだ。一台の白塗りのセダンが後方を走っていた。

「……んもぉ、運転荒い車だなぁ」
 一抹の不安を浮かべながら、瑛莉香は裸足でアクセルを踏み直して加速を試みた。排気口から吐き出された黒い煙をものともせず、その車は大幅に車間距離に詰めてきた。

「……やっ…!……あぶな…!」
 瑛莉香が眉間に皺を寄せながらルームミラーを見据えた。勇太は訝しげに後続車をミラー越しに見つめた。一人の男が不満そうな顔でハンドルを握る様子が瞳に映った。男の乗る白のセダンは、そのシルエットを何度もミラーの枠いっぱいに拡大させては縮めて、操作に落ち着きがなかった。
 瑛莉香は何度か警戒しつつも、目の前で目まぐるしく変わっていく交通状況に注視した。しかし、助手席に座る勇太は後方が気になって仕方がなかった。彼女の透き通った声が水中でくぐもるように聞こえた。他愛もない話に注意を向けようとしたが、後続車が車間距離を適切に保とうとする気配はない。

 再び信号を手前に、瑛莉香は点滅する歩行者信号に目配せした。青から黄色へと変わることを見越して白線よりも少し手前からブレーキをゆっくり踏み込んだ。
 すると、後方から再び鋭いクラクションの音が浴びせられた。

「えっ、やだ、なに、私なんかした…?」
 裸足でブレーキを踏み押さえながら、瑛莉香が反射的に身を屈めた。そのまま上目遣いで恐る恐るルームミラーを覗き込んだ。ヘッドライトが隠れんばかりに距離を詰め、挑発するようにアクセルを吹かす音が聞こえる。

「……なに?………煽り?」
 信号が青へ変わり、瑛莉香は瞬時にブレーキからアクセルへと踏み替える。車の速度を上げた瞬間、真後ろに続くその車が急速にスピードを上げてきた。

「……えっ、ちょっと、後ろ完全にあおり運転だよね…?」
 あおり運転。運転免許のない勇太でも何回も耳にしている言葉だった。他の車の走行に不満を持ったドライバーが車間距離を詰めたり目の前で急ブレーキをかけたりするなど妨害行為をするもの。比較的馴染みやすい名称からは想像を絶するような凄惨な事故へと発展したニュースは記憶に新しかった。厳罰化が講じられる中でもその被害は続いている中、まさか今、自分が当事者になるとは思ってもいなかった。
 心臓が強く締め付けられるような感覚に陥り、呼吸が浅くなっていく。

「……ちょっと…どうしよ……最近多いよね…」
 瑛莉香の澄み切った表情が瞬く間に黒い雲に覆われ、生温かい風が吹くように吐き出した言葉が通り抜けた。被害の対象になりやすい車の特徴として、青や水色の車体で女性ドライバーが単独のケースだということを勇太は覚えていた。今は車内に自分を含め二人存在するが、こういう冴えない男などは居ないも同然なのだろう。女性らしい鮮やかな色の軽自動車で外装からしても狙いやすいのかもしれない。冷静に分析しようと努めたものの、心臓を叩く音は大きくなるばかりだった。

 後続の車は手を緩めることはなく、衝突寸前まで近づいては離れ、また寸前まで近づくなど不安定な走行を続ける。車内の空気がピンと張りつめ、恐怖で息を殺した。道路の上を走る車の目いっぱいのエンジン音だけが聞こえる。ドライブレコーダーもつけていない中古の軽自動車で、果たしてどこまでこの脅威を制圧できるのか。

「…んもぉ…遅いよぉ…!」
 瑛莉香は悶々とした表情で華奢で長い足指をアクセルにべったりと貼りつけた。奥まで押し込んでもスピードは思い通りに上がらず、性能に勝るセダンを振り切れそうにない。
 行先もよく分からないまま、後方を翻弄するように右折と左折を不規則に繰り返し、瑛莉香は必死にハンドルを裁き続けた。

 車は知らぬ間に商業施設の多い街中を抜け、幅の広い一本道へと繰り出していた。長くうねった山稜を背にしながら、秋の収穫に向けて丁寧に苗を植えられた田園風景が昼下がりの夏日に趣を与えている。人通りはなく、農作業に明け暮れる人の姿も確認できない。古い軽自動車を運転する裸足の女性と助手席に座る頼りない男、攻撃的な運転を止める気配のない小綺麗なセダンの車とが、静穏な空間を台風のごとく掻き乱していった。

「……勇太君…どうしよう…」
 瑛莉香の色白い手が勇太の膝の上に乗っかった。手のひらから伝わる温もりとは裏腹に、大きく開いた瞳は不安と恐怖で黒く濁っていた。
 神経が高ぶり、何も言葉が出てこなかった。十分すぎるほど怖かった。ルームミラーに映る攻撃的な姿やヒステリックに空気を震わせるクラクションの音が襲い掛かり、身の危険を感じた。記憶の片隅にインプットされた無機質なニュースの映像が鮮明に想起され、自分の肉体が派手に弾け飛んでしまうのではないかと強迫観念に駆られた。

「……ねぇ、私のスマホで撮っといてくれない…?車のナンバーとか、ドライバーの顔とか…。証拠になるはずだから」
 瑛莉香が息苦しそうに言葉を繋いだ。スマートフォンを持った手を勇太に差し出し、勇太は震える手でそれを掴んだ。
 画面の端に亀裂が走ったアンドロイドで、電源ボタンを押すと充電が10%を切った状態でロック画面が立ち上がった。

「…あっ、ロック解除はね…えーっと……きゃっ…!」
 番号を言いかけた瞬間、後続のセダンは突如スピードを上げ、目の前に姿を現した。オレンジ色の白線を堂々とはみ出し、前方を塞ぐようにして車を走らせる。ふらふらと走行し、1㎜の立ち入る隙も与えまいとする挑発的な走行が恐怖の中に隠れる怒りや憎悪を刺激された。

「ちょっと…!」
 セダンが不意にブレーキをかけ、瑛莉香もすかさず裸足でブレーキをかける。寸での所で衝突は免れ、車は再び速度を上げていく。下手に逆方向へ逃げて刺激してしまうことを恐れ、瑛莉香はゆっくりとアクセルを踏んで車を動かした。瑛莉香の荒い息遣いと唾を呑み込む音が聞こえ、勇太の不安はますます強くなっていく。

「…お願いだから…やめてよ…」
 今にも泣き出しそうな声で、瑛莉香が前方を見据えながら乞うように漏らした。古くてみすぼらしい軽自動車を翻弄するようにテールランプがしつこく赤に染まり、ハンドルを握る瑛莉香のエネルギーを消耗させていく。アクセルとブレーキを忙しくなく踏む足にも欲情する余裕も消え、出口の見えないトンネルに放り込まれたような閉塞感と絶望感でとてつもない吐き気を覚えた。

「勇太君…どうしよう…」
 海辺で貧弱な腕に全体重を乗せて縋り付いたあの時と同じように、瑛莉香はか細く弱々しい声を出した。凛とした瞳がゆらゆらと波に揺られながら、口を真一文字に結んでどうにかしてダムを決壊させないようにと全身を強張らせていた。守ってあげたい。その一心で今ここに座っている。しかし、美しく壮大な大海を前に彼女のベールが剥がれたあの日とは全く違う。生々しい脅威に晒され続ける果てしない恐怖と、死という現象を以て全てが終止符が打たれ兼ねない絶望が身体を頑なに縛り付ける。

「…あの…瑛莉香さん…」
「きゃっ!!!」
 甲高い瞬間的な声とともに瑛莉香がブレーキを限界まで踏み込み、慣性で前につんのめった状態のまま鈍い衝突音が車内に響いた。吸収されたエネルギーが抵抗する余地を与えないまま猛スピードで押し寄せ、臓器の至るところを殴打されたような衝撃が走った。
 突然の衝撃を身体が理解したのも束の間、たった今何が目の前で起こったのか情報の処理が追いつくと、全身に走った鈍痛をも緩和するほど神経は激しく高ぶった。
 衝撃で左右に激しく揺れたワイパーの奥に、セダンの持ち主の姿が映った。重たそうに後頭部を押さえながら、グレーのスウェット姿にクロックスを突っかけた男が、殺気立った表情で瑛莉香を睨みつけた。
 愛車を傷つけられた男は大股で軽自動車の運転席へと歩み寄り、中指の関節を曲げて挑発的に窓ガラスを叩いた。

「おいコラ!ドア開けろ!」
 無精ひげを生やしながら、窓の外で大声を上げて呼びかけた。自分の身勝手な行為にもかかわらず、その瞳孔は激しい怒りと正義感に満ちており、何らの反論も許さない支配的な欲求が顔面の皺に刻まれていた。

 瑛莉香は恐怖で呼吸を繰り返すことしか出来ない様子だった。衝撃を受けた身体の痛みを感じながら、シートベルトをつけたまま限界まで勇太の方へ上半身を寄せた。
 勇太は男の攻撃的な姿勢に背筋が凍り、全身が硬直した。判断力が極限まで低下し、何一つとして抵抗が出来ない。

「おい!ドア開けろよ!ふざけんじゃねえぞ!」
 唾を窓ガラスに吐きかけながら瑛莉香を睨みつけて大声を発した。側面からわずかに見える瑛莉香の瞳は涙で濡れながらも、底に根差す良心が男を鋭く捉えた。無意識に掴んでいた勇太の腕を力強く握り、長く伸びた爪が皮膚に食い込んだ。

「…な、何なんですか!!警察呼びますよ!警察!!」
 瑛莉香が腹の奥底から大声で訴えた。怒りを湛えながら芯の通った品のある声だった。勇太は慄然としながらも、自分の内側に少しずつ怒りが芽生えてくるのが分かった。
 瑛莉香は何もしていない。何も悪くない。今日まで様々な時間と空間を共にした女性が、何の常識もモラルも品性も感じられない身勝手で危険な行為に巻き込まれ、命の危険に晒されているこの現実が憎たらしかった。思うように声が出ない、援護できない、自分自身にも激しく苛立った。
 男の傲慢な態度に何度も押し返されそうになりながら、勇太は震える手で瑛莉香のスマートフォンをいじり始めた。

「さっさと降りろ!ちんたら走ってんじゃねえよ!!」
 痺れを切らした男が思い切り運転席のドアを蹴った。ゴンと鈍い音がし、勢いに乗った男は同じ箇所を連続的に蹴った。
 瑛莉香は勇太のいじっていたスマートフォンを取り上げ、男の面前へと持って行った。カメラを立ち上げ、動画撮影のモードに切り替えてじっと構えた。
 男は興奮で高ぶりしばらくドアを蹴り続け、「何撮ってんだよ!!ふざけんなクソ!!」と声を荒げた。
激しい息遣いと恐怖に震える指先でスマートフォンを持ち続け、しばらくすると親指で画面を数回タップして耳元に寄せた。外にいる男に聞こえるような大きさで「もしもし!警察の方ですか!?」と早口で話し始めた。直接繋がっていなかったが、一刻も早く男を車から引き離そうと必死の抵抗だった。
 パニック状態での作戦が功を奏したのか、男はバツが悪そうな表情浮かべて周囲にチラチラと目をやると、人目を憚るようにして自分の車へと戻っていった。そのまま勢いよく車を発進させる様子を撮影し続け、へこんだ後部に貼られていたナンバープレートの情報を確たる証拠としてカメラに収めた。



 しばらくの間、瑛莉香は呆然と前を見つめていた。脳の情報処理が限界を超えてオーバーヒートを起こしたように、微動だにしない身体から乱れた息遣いだけが聞こえた。恐怖と絶望を湛えた瞳が鉛色に染まり、天真爛漫な彼女の輝きが沼底へと吸い込まれた。何の変哲もない田園風景。人工のものとは思えないほど丁寧に整備された無機質な景色が、穴底に落ちた自分たちを見物しているかのようだった。

 瑛莉香は覚悟を決めたようにゆっくりとシートベルトを外し、ビーチサンダルに足の指を通して、運転席のドアを開けた。
 振り返ってドアを閉め、男にしつこく蹴られた箇所を不安と怒りに満ちた表情で見つめ、前方に回った。恐る恐る身を屈め、”顔”の部分をじっと見据えて目を細めた。内側から漏れ出す感情を堰き止めるように、唇を噛んだ。
 勇太はその様子をただただ見つめるしかなかった。どのような状態なのかは想像がつかないが、無傷なわけがない。ただ怖かった。突然の脅威に、瑛莉香の絶望に、己の無力さに、ただただ口を閉ざすことしか出来なかった。

 瑛莉香は運転席へと戻り、静かに腰かけた。取り繕うように口角を上げた口元が小刻みに震えていた。

「……怪我は無い?」
「…は、はい……僕は…大丈夫です……でも…」
「うん、良かった。………とりあえず、車出すね」
 憂愁を浮かべた表情で、瑛莉香は停止したエンジンの始動を試みた。幸い、エンジンそのものに損傷はなかったのか、長めにセルが回転した後で素直に掛かった。
 安心したのも束の間、瞳に涙を浮かべ、冷静さを失わないように努める彼女の横顔が映った。いかなる時も見せ続ける気丈さが、勇太の無力感と劣等感を強烈に抉った。
 何も出来なかった。何も助けられなかった。自分の不甲斐なさのせいで、瑛莉香を泣かせてしまった。

「……よし、行こっか」
 瑛莉香は噴き出しそうな感情を必死に抑え込み、喉を締めながら言葉を発した。ビーチサンダルを履いたままゆっくりとアクセルを踏み込み、破損した車を走らせた。
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