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第4章 平野
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激しい雨音と荒れ狂う暴風に晒されながら、青い軽自動車は瑛莉香の慎重な運転によって緩やかに走行を続けていた。摩擦力の低下したタイヤが雨水を敷いたコンクリートの上を頼りなく滑り、ワイパーの悠長な動きが視界を頻繁に遮る。不安と恐怖が心の奥底で絡み合う嵐の道中で、勇太は一つの非日常的空間に身を埋めていた。
勇太は後部座席に座る一人の女性が気がかりで仕方がなかった。セミロングの濃い茶髪に白い無地のシャツとデニムのジーパン、雨を吸い込んだ黒のスニーカーを履いた女性は勇太の真後ろに華奢な身体を埋めている。無造作に置かれた二人の持ち物に触れぬよう窮屈そうに身体を捩じりながら、持っていたフェイスタオルで全身にまとわりついた水滴を丁寧に拭き取った。突風で破壊されたビニール傘と背負っていた黒いリュックサックを座席の下に収め、身を乗り出す形で口を開いた。
「…あっ…あの、すみません、わざわざ拾ってもらっちゃって…」
「…ああ!いえ!気にしないで!…ずっとヒッチハイクしてた……んですか?」
瑛莉香は彼女の風貌からして敬語にしようか一瞬だけ迷ったようだった。
「あっ…なんか道に迷っちゃって、地元の人に道を尋ねようかと思ってたんですけど、全然車が通らなくて…やっと通ってもスルーされたりで…」
女性は恥ずかしそうに笑顔を浮かべた。ミラー越しに不安と緊張に満ちた表情が少しずつ柔らいでいった様子が伺えた。
「……あの…お二人は地元の方ですか?」
「いや、私たちは県外から来てて。…なんていうか、旅みたいな?」
前方に注視しながら瑛莉香が曖昧に答えた。女性に自分の存在を認知されたことに勇太は思わずドキッとした。彼女からすればただの同乗者に過ぎないが、二人だけだったはずの車内に別の誰かが乗っていることに緊張を抑えられずにいた。
「旅………観光とかですか?」
「うーん、なんて感じだろうなぁ。…こう、日常の、なんか色々なことから抜け出そう、みたいな?うん」
瑛莉香の答えた通り、この旅にハッキリとした目的はなかった。ただ今までの日常生活の鬱屈から逃れたいがために見知らぬ者同士が知り合って、一つの車で各地を巡っているに過ぎなかった。女性がどういう印象を抱くかは分からなかったが、それは決して外部の人間に向けて発信するためでもない、本当にただ自分たちだけで作り上げて満足するだけの小さな世界であることは揺るぎなかった。
「なるほど…なんか、いいですね。私もそんな感じで一人で色々と巡ってました」
女性は顔を綻ばせながら物腰の柔らかい声で返した。
彼女は都内に住む大学生であることが分かった。昨年受けた試験に合格し、専攻分野は観光学だった。期末試験が終わって大学での学業が一区切りつき、夏休み期間を利用して密かな憧れだった一人旅をしようと思い立ったという。長期休暇を利用して国内外を観光し、将来は国際的な観光に関係する仕事に就きたいと考えているらしい。来年には海外留学も予定し、英語の勉強に力を入れているとのことだ。模範的なキャンパスライフをありありと見せつけられ、勇太はつい自分の境遇と比較してしまった。冴えない無職の高卒として日常生活に戻る時、どれほどの可能性が残されていると言えるのだろうか。名門の国立大学を卒業し性的にも人格的にも多くの魅力を備えた瑛莉香とは事情が違っていた。誰かの人生を覗く度、自分の不甲斐なさが残酷に映し出されるようで、根本的には相変わらず自信が持てなかった。
窓から見える荒れ模様と対比するように、車内は温かく落ち着いた空気が漂った。心細くハンドルを握りしめていた瑛莉香も、時間が経つにつれいつもの饒舌さを取り戻した。勇太はせいぜい聞かれたことに簡単に答えるぐらいでしか反応できなかったが、女性二人に囲まれながら身を預けるシートの座り心地は不思議と悪くなかった。
車は女性の目指す駅へと向かっていた。駅と言っても特定の駅ではなく、とりあえず軌道修正するためにどこかの駅にたどり着ければよいとのことだった。土地勘もなく、ましてや暴風雨の吹き荒れる中でカーナビもついていない車を瑛莉香は気丈に振る舞いながら走らせ続けた。目印という目印もなく、山々の稜線と重苦しい黒雲が果てしなく続く外の景色から、少しでもそれらしき場所を見つけようと勇太も度々目を凝らして探した。
「…んー、全然分かんない。……ちょっと地図確認しよ」
しばらく走行を続け、瑛莉香が不意に呟いた。視界を遮るような豪雨の最中でも通信機器を使わないという旅のルールを忠実に守り、道路地図の本を艶やかな色白い膝の上に置き、停車が可能な場所を探し始めた。
「……あっ、ここ停めちゃお」
視界の悪い中、左手側に簡易駐車場を見つけた。付近に小さな病院が建っており、来院者用に設けた駐車場のようだった。人影はなく室内の電灯も点いておらず、休診日だというのが見て取れた。瑛莉香はハンドルを切り、無防備に開かれた駐車場へ車を進入させた。雨粒に削られた柔らかい土の凹凸で車は上下にガタガタと揺れ始める。見づらそうに目を細めながらも器用に車を切り返して、今来た道を目前に据えた状態で車を停めた。
一息つく時間を確保出来たおかげか、溜め込んだ疲れがドッと押し寄せた。シートに深く座りながら、瑛莉香は細長い人差し指で天候が悪化する前の道から順になぞっていった。バックミラー越しに見える女性は恐る恐る身を乗り出しながら瑛莉香の指を目で追い、どこか軌道を戻せる良いルートはないか探っていた。
ガソリンがもったいないからとエンジンを切られた車内には雨粒の音が一層大きく響き渡る。掛かりが悪いにもかかわらずマメに車のエンジンを切る瑛莉香に勇太はまたしても変な期待を寄せてしまう。クーラーとラジオはつけたままで、またしてもすぐに掛かりそうにないことはなんとなく想像がついた。気を遣うように瑛莉香の真剣な表情に目配せしながらも、無言のまま次の展開を待ち望んでいた。
10分程経った頃、女性二人が一つの結論に至ったようだった。走っていたルートは瑛莉香の中で描いていた地図とはさほど狂いはなく、駅にもそれほど遠くはないようだった。
「よし、じゃあとりあえずこのまま走れば良さそうかな」
瑛莉香は安堵の表情を浮かべ、裸足でブレーキを踏み押さえてキーを捻った。ラジオの音が止まり、セルがキュルキュルと回転し始める。やはり1発では掛かりそうになく、瑛莉香は再度キーを回した。
「…エンジン掛からないんですか…?」
セルが空転する音と車体を揺らす振動が伝わり続け、訝しく思った女性が不安げに尋ねた。ごく自然なリアクションが勇太の性的興奮に拍車をかけた。
「ああ、大丈夫です…!いつものことなんで…!」
瑛莉香は朗らかに取り繕いながら再びキーを回した。足指でとらえたアクセルペダルの煽りが功を奏し、エンジンが間もなく始動した。
見慣れた光景を見届け、勇太は張りつめた神経を弛ませて前へ向き直った。瑛莉香の右足がアクセルペダルを奥まで押しやり、車が大きな唸り声をあげる。そのまま前進すると思った瞬間だった。突如車がガクガクと小刻みに振動し、まるで何かに繋ぎ止められているかのようにその場から動かなかった。
「…んっ?」
瑛莉香が違和感を覚え、裸足のままもう一度アクセルを踏み直す。エンジン音が鳴り響きタコメーターが勢いよく振り上がるも、車はその場に留まったまま三人の下半身に力強い振動を伝え続けた。
勇太の心拍数が瞬間的に跳ね上がり、興奮で身体中の血液が暴れ出した。瑛莉香の車が駐車場の柔らかい土で立ち往生してしまっている。大雨に打たれ続けた地面が腑抜け、上手く摩擦が起こせない車輪がその場で空回りしているらしい。
「あれ…?なんで…?」
瑛莉香が根気強くアクセルを踏み直すも、車は回転数を上げるだけで一向に進もうとしなかった。勇太は彼女が裸足のまま思わず立ち往生したその様子を興奮気味に見つめ、絶頂の快楽に浸った。
「…えっ?…まさか嵌まっちゃった…?」
瑛莉香は額をガラスに押し付けて輪郭のぼやける車輪を見据えた。アクセルを踏み込むと後方で勢いよく泥が噴き上がった。
「……大丈夫ですか…?」
女性が静かに尋ねた。密やかに興奮する勇太とは対照的に、トラブルへの不安と冷静さを交える落ち着いた声色だった。
「ごめんなさい、タイヤが嵌まっちゃったみたいで…」
瑛莉香は足指でアクセルを力強くベタ踏みするが、エンジンの回転音が響き渡るだけで車は前進する気配がなかった。勇太は息遣いが荒くなり、アクセルを必死に踏む瑛莉香の右足から目が離せなかった。
「…後ろから押しましょうか?」
「あっ、そんな、乗っててもらって大丈夫ですよ!なんとか出せると思うので…」
表情に疲労を残す彼女の様子を考慮してか、瑛莉香は丁重に断った。勇太にとって今その誠実さはこの上ない好都合だった。
雨は降り止む気配はなく、時折強い閃光とともに雷鳴が天高く響き渡った。異常なまでに発達した低気圧は猛威をふるい続け、立ち往生する一台の軽自動車に容赦なく暴風雨を吹き付けた。
瑛莉香は汗を滲ませながら、度々ギアをドライブとバックに入れ替えながら何度も裸足でアクセルを踏み込んだ。車は重たそうに車体を小刻みに揺らしてドライバーの無茶な要求に応えようと擦り減ったタイヤを最大限まで回転させる。勇太は大雨の中で泥しぶきを上げて空回りする車輪と隣で裸足のまま根気強くアクセルを踏み込む彼女の姿を交互に味わった。車内に緊張感が漂う中、勇太にとっては至高の時間と空間だった。忌々しい天候は思わぬ方へ運命を転がし、コンクリートの上では決して目撃することの出来ない光景を勇太にまざまざと見せつけた。裸足の女性が車の立ち往生に手こずるシチュエーションをこれほどにも生々しく堪能したことはない。後部座席の女性を憚りながらも、勇太は瑛莉香の色白い足や眉間に皺を寄せる端正な横顔、空転する車輪など一つ一つに神経を集中させて目に焼き付けようとした。
「はぁ…」
数分ほど粘った後、静かにブレーキを踏み押さえた瑛莉香の口から溜め息が漏れた。車の馬力のみで押し切ろうとしても脱出できそうになかった。無力感に満ちた車内には雨音が存在感を増し、しばらくの沈黙が続いた。
「ん~…どうしよ、ほんとに…」
困惑とイライラで顔の筋肉を歪ませながら、雨粒が跳ねるフロントガラスを茫然と見つめた。
「…あの、押しましょうか?私は全然大丈夫ですので…」
女性はそう言い終わらないうちにもシートベルトを外してドアの方へ身を寄せた。瑛莉香も何も対策を打たないままの脱出は不可能と悟ったのか、観念するように「ああ、ごめんなさい、お願いします」と返事した。勇太も続くべきだと思ったものの、やはり立ち往生した車を操作する瑛莉香をまだ堪能していたかった。シートベルトに手を掛けたところで身体がそれ以上動かず、後部座席から抜け出して雨の中へ飛び込んだ女性の姿を見届けるだけだった。
「行きまーす!」
瑛莉香が運転席のドアを瞬間的に開けて後方に向かって叫んだ。吹き荒ぶ風とともに大粒の雨水が入り込み、たった一瞬の間で運転席をびしょびしょに濡らした。急いでドアを閉め、瑛莉香が再び足指でアクセルペダルを捉えて勢いよく踏み込む。エンジンが回転数を上げて咆哮し、タイヤが泥を巻き上げてその場でギュルギュルと回った。車は一向に動く気配はなかったが、今までよりも少し前へ押し出されるような感覚が伝わった。ミラー越しには、雨風に打たれながらも態勢を前に倒して全体重を乗せるように車を押す女性の姿が見えた。後方に目を配りながらもアクセルを力一杯に踏み込む瑛莉香となりふり構わず車をぬかるみから押し出そうとする女性の冷静かつ懸命な様子に勇太は無情にも興奮し続けた。ベタ踏みしては力を緩める瑛莉香の右足と泥濘に捕らわれて小刻みに震える車体の振動に刺激され、股間から手が離せなかった。
「はぁ…………ねえねえ、勇太君も手伝って?」
少しの間格闘したところで、瑛莉香が勇太に向かって口を開いた。脱出が叶わない状況にやきもきしているのか、女性一人に負担を押し付けている状況になっているせいなのか、彼女の口調には苛立ちの色が目立った。一方的に欲情していただけに、我に返るように全身に緊張が走った。
「あっ…す、すみません…!」
勇太はすぐさまシートベルトを外してドアを開け、降りしきる雨の中へ身を投じた。外へ出た瞬間に暴風雨が殴りかかり、思わず身体が吹き飛ばされそうになった。足場にするには頼りないぬかるみをぎこちなく踏み歩いて女性のいる後方へと向かっていった。
勇太の姿を見るや否や、雨粒で全身を濡らした彼女がホッとしたように微笑して軽く頭を下げた。スニーカーとパンツには後輪が勢いよく巻き上げた泥しぶきが無数に飛び散っていた。
勇太は申し訳なさそうに彼女と距離を詰めながら、そのままトランクの左側に手を押し当てて身体を前屈させた。
「では…!せーの…!」
女性が再び態勢を整えて勇太に呼びかけた。瑛莉香がアクセルを踏み始めるとまたしても車輪が空転し始めた。黒い排気ガスが漏れ、タイヤが嵌まった溝から粘ついた泥濘が機関銃のごとく高速で勇太の足元めがけて連射した。柔らかい足場のせいで上手く力を入れることが出来なかったが、勇太は車体を持ち上げるような感覚で車を押し続ける。瑛莉香のアクセルを一層強く踏み込む様子がエンジン音で表現され、大粒の雨水を受ける中にあっても彼女の運転姿を妄想せずにはいられなかった。勇太が加勢したことで車が徐々に前へと進みだし、その手応えを感じながらも油断することなく車輪を溝の外側へと押し切った。
間もなく車は前方へ滑り出し、勇太は勢い余って転びそうになった。視線の先は散々に削られた深い窪みがあった。車輪の執拗な空転を受け止めた地面は不規則な凹凸を並べ、足掻けば足?くほど自力で抜け出せなくなる蟻地獄と化していた。勇太は女性と顔を見合わせた。安堵の表情を浮かべる女性にぎこちない笑顔で答え、腑抜けた泥を踏みながら車へと戻っていった。
「ごめんなさい二人とも…!びしょ濡れだよね…!」
瑛莉香が申し訳なさそうに眉を曲げて二人を交互に見やった。勇太と女性は全身を濡らした状態で座席に戻り、フェイスタオルで全身に染み込んだ雨水を拭き取ろうと衣服を擦った。
瑛莉香は再び裸足でアクセルを踏み込んだ。溝から抜け出したとはいえ地面が柔らかいせいか、踏み込んだ深さに比して車の進みは悪かった。タイヤが必要以上に回転している様子がミラー越しに確認できたが車は少しずつ前進し、ようやくコンクリートの上へと泥まみれのタイヤを乗せることが出来た。
「はぁ~、一時はどうなるかと思った~」
雨水を湛えた平坦なコンクリートに戻り、瑛莉香が安堵の溜め息をついた。視界は相変わらずだったが、車のスピードはドライバーの高い波長に合わせるように上がっていた。旅ならではの突発的なトラブルに女性は満更ではない様子だった。勇太は身体に溜まった熱を徐々に放出しながらも、立ち往生に手こずった瑛莉香の姿が頭から離れなかった。
「あと少しで駅に着けると思うんで!」
「いやほんと、ありがとうございました…!」
女性は深々と頭を下げた。窓の外の景色も徐々に変わり始め、暴風雨の中を果敢に歩く地域住民の姿が確認できた。
「…そういえば、お二人はどういうご関係なんですか?」
後部座席から飛び込んできた質問に、勇太は思わずドキッとした。何気ない質問だったが、明確に回答できる自信はどこにもなかった。
少しだけ迷った後、瑛莉香が先に口を開いた。
「…私たちは、なんだろう、あの…掲示板っていうか……まぁ掲示板か。そこで、『非日常の旅』をしようみたいなので出会って…。んー、まぁ本当にただ遊んでるだけって言えばそれまでなんですけど……そういうちょっとしたきっかけで知り合った者…同士で……そんな感じで今も二人で遊んでる…関係です。なんて」
立て板に水の瑛莉香が久々に言葉を選んでぎくしゃくと答えた。ちょっとしたきっかけ、決して間違ってはいなかった。ただ、今の関係性を一言で表すのは何か困難に思えた。海を前に肩を寄せ合ったあの日から、彼女との距離は急速に縮まった気がした。そして、刹那に蘇る昨夜のキス。瑛莉香の口からはまだ何も聞かされていない。ただ、柔らかい感触が今もこの乾いた唇に確かな電流を伝える。瑛莉香は変わらず凛々しくサッパリした笑顔でハンドルを握り続けるが、そのぎこちない返答はどこか動揺しているように思えた。
「へぇ~、そうだったんですか…!やっぱSNS繋がりでの出会いって良いですよね~」
女性の素直な反応に救われたような気がした。瑛莉香は相槌を打って、今まで巡ってきた場所や食べたものなど、
他愛もない話を次々と重ねていった。
車は順調に走り続け、古びた小さな駅舎が大雨の中に姿を現した。瑛莉香はブレーキを踏んで速度を落とし、雨合羽を身に纏った歩行者に注意を払いながら、駅の出入り口に一時停止した。
「はい、到着!ここで大丈夫ですか?」
「あっ、はい!ありがとうございます…!」
女性が丁寧に頭を下げて、壊れた傘と雨水の染み込んだリュックサックを手に取った。
「気を付けてくださいね!」
「はい!ありがとうございます!…お二人も、良い旅を続けてください…!」
女性は満面の笑みで二人の顔を交互に見た後、強く降り続ける雨の中へと身体を晒した。駅舎の中へ小走りで向かい、最後にもう一度運転席側から深々と背中を曲げた。
瑛莉香は左右に振った手をハンドルへと戻し、ブレーキからアクセルへ踏み変えて車を出した。車内には再び二人だけの空間が戻り、ラジオから流れる聞き慣れない洋楽が小さく鳴り響いていた。
「…さて…次スタックした時は、よろしくね」
瑛莉香が微笑を浮かべながら勇太に告げた。やはり勇太がすぐに動かなったことを気にかけているようだった。そして瑛莉香が「スタック」という表現を知っていることが意外に思えた。
「あっ…はい…!」
勇太は申し訳なさそうな表情で答えた。思えば、瑛莉香は自分が旅に参加した真の目的を知らない。助手席からその端麗で形の整った素足に幾度となく向けてきた性的な視線を、彼女がどこまで気付いているのか分からない。瑛莉香との距離感がここに来て掴めなくなっていた。彼女に人としての信頼を置きながら、どこか姑息な武器を隠し持っているような自分がそこにいた。
大雨に打たれるフロントガラスを瞳の上に浮かべながら思いに耽った。誰にも言ったことのない旅の目的を、瑛莉香にいずれカミングアウトしなければならない気がした。
勇太は後部座席に座る一人の女性が気がかりで仕方がなかった。セミロングの濃い茶髪に白い無地のシャツとデニムのジーパン、雨を吸い込んだ黒のスニーカーを履いた女性は勇太の真後ろに華奢な身体を埋めている。無造作に置かれた二人の持ち物に触れぬよう窮屈そうに身体を捩じりながら、持っていたフェイスタオルで全身にまとわりついた水滴を丁寧に拭き取った。突風で破壊されたビニール傘と背負っていた黒いリュックサックを座席の下に収め、身を乗り出す形で口を開いた。
「…あっ…あの、すみません、わざわざ拾ってもらっちゃって…」
「…ああ!いえ!気にしないで!…ずっとヒッチハイクしてた……んですか?」
瑛莉香は彼女の風貌からして敬語にしようか一瞬だけ迷ったようだった。
「あっ…なんか道に迷っちゃって、地元の人に道を尋ねようかと思ってたんですけど、全然車が通らなくて…やっと通ってもスルーされたりで…」
女性は恥ずかしそうに笑顔を浮かべた。ミラー越しに不安と緊張に満ちた表情が少しずつ柔らいでいった様子が伺えた。
「……あの…お二人は地元の方ですか?」
「いや、私たちは県外から来てて。…なんていうか、旅みたいな?」
前方に注視しながら瑛莉香が曖昧に答えた。女性に自分の存在を認知されたことに勇太は思わずドキッとした。彼女からすればただの同乗者に過ぎないが、二人だけだったはずの車内に別の誰かが乗っていることに緊張を抑えられずにいた。
「旅………観光とかですか?」
「うーん、なんて感じだろうなぁ。…こう、日常の、なんか色々なことから抜け出そう、みたいな?うん」
瑛莉香の答えた通り、この旅にハッキリとした目的はなかった。ただ今までの日常生活の鬱屈から逃れたいがために見知らぬ者同士が知り合って、一つの車で各地を巡っているに過ぎなかった。女性がどういう印象を抱くかは分からなかったが、それは決して外部の人間に向けて発信するためでもない、本当にただ自分たちだけで作り上げて満足するだけの小さな世界であることは揺るぎなかった。
「なるほど…なんか、いいですね。私もそんな感じで一人で色々と巡ってました」
女性は顔を綻ばせながら物腰の柔らかい声で返した。
彼女は都内に住む大学生であることが分かった。昨年受けた試験に合格し、専攻分野は観光学だった。期末試験が終わって大学での学業が一区切りつき、夏休み期間を利用して密かな憧れだった一人旅をしようと思い立ったという。長期休暇を利用して国内外を観光し、将来は国際的な観光に関係する仕事に就きたいと考えているらしい。来年には海外留学も予定し、英語の勉強に力を入れているとのことだ。模範的なキャンパスライフをありありと見せつけられ、勇太はつい自分の境遇と比較してしまった。冴えない無職の高卒として日常生活に戻る時、どれほどの可能性が残されていると言えるのだろうか。名門の国立大学を卒業し性的にも人格的にも多くの魅力を備えた瑛莉香とは事情が違っていた。誰かの人生を覗く度、自分の不甲斐なさが残酷に映し出されるようで、根本的には相変わらず自信が持てなかった。
窓から見える荒れ模様と対比するように、車内は温かく落ち着いた空気が漂った。心細くハンドルを握りしめていた瑛莉香も、時間が経つにつれいつもの饒舌さを取り戻した。勇太はせいぜい聞かれたことに簡単に答えるぐらいでしか反応できなかったが、女性二人に囲まれながら身を預けるシートの座り心地は不思議と悪くなかった。
車は女性の目指す駅へと向かっていた。駅と言っても特定の駅ではなく、とりあえず軌道修正するためにどこかの駅にたどり着ければよいとのことだった。土地勘もなく、ましてや暴風雨の吹き荒れる中でカーナビもついていない車を瑛莉香は気丈に振る舞いながら走らせ続けた。目印という目印もなく、山々の稜線と重苦しい黒雲が果てしなく続く外の景色から、少しでもそれらしき場所を見つけようと勇太も度々目を凝らして探した。
「…んー、全然分かんない。……ちょっと地図確認しよ」
しばらく走行を続け、瑛莉香が不意に呟いた。視界を遮るような豪雨の最中でも通信機器を使わないという旅のルールを忠実に守り、道路地図の本を艶やかな色白い膝の上に置き、停車が可能な場所を探し始めた。
「……あっ、ここ停めちゃお」
視界の悪い中、左手側に簡易駐車場を見つけた。付近に小さな病院が建っており、来院者用に設けた駐車場のようだった。人影はなく室内の電灯も点いておらず、休診日だというのが見て取れた。瑛莉香はハンドルを切り、無防備に開かれた駐車場へ車を進入させた。雨粒に削られた柔らかい土の凹凸で車は上下にガタガタと揺れ始める。見づらそうに目を細めながらも器用に車を切り返して、今来た道を目前に据えた状態で車を停めた。
一息つく時間を確保出来たおかげか、溜め込んだ疲れがドッと押し寄せた。シートに深く座りながら、瑛莉香は細長い人差し指で天候が悪化する前の道から順になぞっていった。バックミラー越しに見える女性は恐る恐る身を乗り出しながら瑛莉香の指を目で追い、どこか軌道を戻せる良いルートはないか探っていた。
ガソリンがもったいないからとエンジンを切られた車内には雨粒の音が一層大きく響き渡る。掛かりが悪いにもかかわらずマメに車のエンジンを切る瑛莉香に勇太はまたしても変な期待を寄せてしまう。クーラーとラジオはつけたままで、またしてもすぐに掛かりそうにないことはなんとなく想像がついた。気を遣うように瑛莉香の真剣な表情に目配せしながらも、無言のまま次の展開を待ち望んでいた。
10分程経った頃、女性二人が一つの結論に至ったようだった。走っていたルートは瑛莉香の中で描いていた地図とはさほど狂いはなく、駅にもそれほど遠くはないようだった。
「よし、じゃあとりあえずこのまま走れば良さそうかな」
瑛莉香は安堵の表情を浮かべ、裸足でブレーキを踏み押さえてキーを捻った。ラジオの音が止まり、セルがキュルキュルと回転し始める。やはり1発では掛かりそうになく、瑛莉香は再度キーを回した。
「…エンジン掛からないんですか…?」
セルが空転する音と車体を揺らす振動が伝わり続け、訝しく思った女性が不安げに尋ねた。ごく自然なリアクションが勇太の性的興奮に拍車をかけた。
「ああ、大丈夫です…!いつものことなんで…!」
瑛莉香は朗らかに取り繕いながら再びキーを回した。足指でとらえたアクセルペダルの煽りが功を奏し、エンジンが間もなく始動した。
見慣れた光景を見届け、勇太は張りつめた神経を弛ませて前へ向き直った。瑛莉香の右足がアクセルペダルを奥まで押しやり、車が大きな唸り声をあげる。そのまま前進すると思った瞬間だった。突如車がガクガクと小刻みに振動し、まるで何かに繋ぎ止められているかのようにその場から動かなかった。
「…んっ?」
瑛莉香が違和感を覚え、裸足のままもう一度アクセルを踏み直す。エンジン音が鳴り響きタコメーターが勢いよく振り上がるも、車はその場に留まったまま三人の下半身に力強い振動を伝え続けた。
勇太の心拍数が瞬間的に跳ね上がり、興奮で身体中の血液が暴れ出した。瑛莉香の車が駐車場の柔らかい土で立ち往生してしまっている。大雨に打たれ続けた地面が腑抜け、上手く摩擦が起こせない車輪がその場で空回りしているらしい。
「あれ…?なんで…?」
瑛莉香が根気強くアクセルを踏み直すも、車は回転数を上げるだけで一向に進もうとしなかった。勇太は彼女が裸足のまま思わず立ち往生したその様子を興奮気味に見つめ、絶頂の快楽に浸った。
「…えっ?…まさか嵌まっちゃった…?」
瑛莉香は額をガラスに押し付けて輪郭のぼやける車輪を見据えた。アクセルを踏み込むと後方で勢いよく泥が噴き上がった。
「……大丈夫ですか…?」
女性が静かに尋ねた。密やかに興奮する勇太とは対照的に、トラブルへの不安と冷静さを交える落ち着いた声色だった。
「ごめんなさい、タイヤが嵌まっちゃったみたいで…」
瑛莉香は足指でアクセルを力強くベタ踏みするが、エンジンの回転音が響き渡るだけで車は前進する気配がなかった。勇太は息遣いが荒くなり、アクセルを必死に踏む瑛莉香の右足から目が離せなかった。
「…後ろから押しましょうか?」
「あっ、そんな、乗っててもらって大丈夫ですよ!なんとか出せると思うので…」
表情に疲労を残す彼女の様子を考慮してか、瑛莉香は丁重に断った。勇太にとって今その誠実さはこの上ない好都合だった。
雨は降り止む気配はなく、時折強い閃光とともに雷鳴が天高く響き渡った。異常なまでに発達した低気圧は猛威をふるい続け、立ち往生する一台の軽自動車に容赦なく暴風雨を吹き付けた。
瑛莉香は汗を滲ませながら、度々ギアをドライブとバックに入れ替えながら何度も裸足でアクセルを踏み込んだ。車は重たそうに車体を小刻みに揺らしてドライバーの無茶な要求に応えようと擦り減ったタイヤを最大限まで回転させる。勇太は大雨の中で泥しぶきを上げて空回りする車輪と隣で裸足のまま根気強くアクセルを踏み込む彼女の姿を交互に味わった。車内に緊張感が漂う中、勇太にとっては至高の時間と空間だった。忌々しい天候は思わぬ方へ運命を転がし、コンクリートの上では決して目撃することの出来ない光景を勇太にまざまざと見せつけた。裸足の女性が車の立ち往生に手こずるシチュエーションをこれほどにも生々しく堪能したことはない。後部座席の女性を憚りながらも、勇太は瑛莉香の色白い足や眉間に皺を寄せる端正な横顔、空転する車輪など一つ一つに神経を集中させて目に焼き付けようとした。
「はぁ…」
数分ほど粘った後、静かにブレーキを踏み押さえた瑛莉香の口から溜め息が漏れた。車の馬力のみで押し切ろうとしても脱出できそうになかった。無力感に満ちた車内には雨音が存在感を増し、しばらくの沈黙が続いた。
「ん~…どうしよ、ほんとに…」
困惑とイライラで顔の筋肉を歪ませながら、雨粒が跳ねるフロントガラスを茫然と見つめた。
「…あの、押しましょうか?私は全然大丈夫ですので…」
女性はそう言い終わらないうちにもシートベルトを外してドアの方へ身を寄せた。瑛莉香も何も対策を打たないままの脱出は不可能と悟ったのか、観念するように「ああ、ごめんなさい、お願いします」と返事した。勇太も続くべきだと思ったものの、やはり立ち往生した車を操作する瑛莉香をまだ堪能していたかった。シートベルトに手を掛けたところで身体がそれ以上動かず、後部座席から抜け出して雨の中へ飛び込んだ女性の姿を見届けるだけだった。
「行きまーす!」
瑛莉香が運転席のドアを瞬間的に開けて後方に向かって叫んだ。吹き荒ぶ風とともに大粒の雨水が入り込み、たった一瞬の間で運転席をびしょびしょに濡らした。急いでドアを閉め、瑛莉香が再び足指でアクセルペダルを捉えて勢いよく踏み込む。エンジンが回転数を上げて咆哮し、タイヤが泥を巻き上げてその場でギュルギュルと回った。車は一向に動く気配はなかったが、今までよりも少し前へ押し出されるような感覚が伝わった。ミラー越しには、雨風に打たれながらも態勢を前に倒して全体重を乗せるように車を押す女性の姿が見えた。後方に目を配りながらもアクセルを力一杯に踏み込む瑛莉香となりふり構わず車をぬかるみから押し出そうとする女性の冷静かつ懸命な様子に勇太は無情にも興奮し続けた。ベタ踏みしては力を緩める瑛莉香の右足と泥濘に捕らわれて小刻みに震える車体の振動に刺激され、股間から手が離せなかった。
「はぁ…………ねえねえ、勇太君も手伝って?」
少しの間格闘したところで、瑛莉香が勇太に向かって口を開いた。脱出が叶わない状況にやきもきしているのか、女性一人に負担を押し付けている状況になっているせいなのか、彼女の口調には苛立ちの色が目立った。一方的に欲情していただけに、我に返るように全身に緊張が走った。
「あっ…す、すみません…!」
勇太はすぐさまシートベルトを外してドアを開け、降りしきる雨の中へ身を投じた。外へ出た瞬間に暴風雨が殴りかかり、思わず身体が吹き飛ばされそうになった。足場にするには頼りないぬかるみをぎこちなく踏み歩いて女性のいる後方へと向かっていった。
勇太の姿を見るや否や、雨粒で全身を濡らした彼女がホッとしたように微笑して軽く頭を下げた。スニーカーとパンツには後輪が勢いよく巻き上げた泥しぶきが無数に飛び散っていた。
勇太は申し訳なさそうに彼女と距離を詰めながら、そのままトランクの左側に手を押し当てて身体を前屈させた。
「では…!せーの…!」
女性が再び態勢を整えて勇太に呼びかけた。瑛莉香がアクセルを踏み始めるとまたしても車輪が空転し始めた。黒い排気ガスが漏れ、タイヤが嵌まった溝から粘ついた泥濘が機関銃のごとく高速で勇太の足元めがけて連射した。柔らかい足場のせいで上手く力を入れることが出来なかったが、勇太は車体を持ち上げるような感覚で車を押し続ける。瑛莉香のアクセルを一層強く踏み込む様子がエンジン音で表現され、大粒の雨水を受ける中にあっても彼女の運転姿を妄想せずにはいられなかった。勇太が加勢したことで車が徐々に前へと進みだし、その手応えを感じながらも油断することなく車輪を溝の外側へと押し切った。
間もなく車は前方へ滑り出し、勇太は勢い余って転びそうになった。視線の先は散々に削られた深い窪みがあった。車輪の執拗な空転を受け止めた地面は不規則な凹凸を並べ、足掻けば足?くほど自力で抜け出せなくなる蟻地獄と化していた。勇太は女性と顔を見合わせた。安堵の表情を浮かべる女性にぎこちない笑顔で答え、腑抜けた泥を踏みながら車へと戻っていった。
「ごめんなさい二人とも…!びしょ濡れだよね…!」
瑛莉香が申し訳なさそうに眉を曲げて二人を交互に見やった。勇太と女性は全身を濡らした状態で座席に戻り、フェイスタオルで全身に染み込んだ雨水を拭き取ろうと衣服を擦った。
瑛莉香は再び裸足でアクセルを踏み込んだ。溝から抜け出したとはいえ地面が柔らかいせいか、踏み込んだ深さに比して車の進みは悪かった。タイヤが必要以上に回転している様子がミラー越しに確認できたが車は少しずつ前進し、ようやくコンクリートの上へと泥まみれのタイヤを乗せることが出来た。
「はぁ~、一時はどうなるかと思った~」
雨水を湛えた平坦なコンクリートに戻り、瑛莉香が安堵の溜め息をついた。視界は相変わらずだったが、車のスピードはドライバーの高い波長に合わせるように上がっていた。旅ならではの突発的なトラブルに女性は満更ではない様子だった。勇太は身体に溜まった熱を徐々に放出しながらも、立ち往生に手こずった瑛莉香の姿が頭から離れなかった。
「あと少しで駅に着けると思うんで!」
「いやほんと、ありがとうございました…!」
女性は深々と頭を下げた。窓の外の景色も徐々に変わり始め、暴風雨の中を果敢に歩く地域住民の姿が確認できた。
「…そういえば、お二人はどういうご関係なんですか?」
後部座席から飛び込んできた質問に、勇太は思わずドキッとした。何気ない質問だったが、明確に回答できる自信はどこにもなかった。
少しだけ迷った後、瑛莉香が先に口を開いた。
「…私たちは、なんだろう、あの…掲示板っていうか……まぁ掲示板か。そこで、『非日常の旅』をしようみたいなので出会って…。んー、まぁ本当にただ遊んでるだけって言えばそれまでなんですけど……そういうちょっとしたきっかけで知り合った者…同士で……そんな感じで今も二人で遊んでる…関係です。なんて」
立て板に水の瑛莉香が久々に言葉を選んでぎくしゃくと答えた。ちょっとしたきっかけ、決して間違ってはいなかった。ただ、今の関係性を一言で表すのは何か困難に思えた。海を前に肩を寄せ合ったあの日から、彼女との距離は急速に縮まった気がした。そして、刹那に蘇る昨夜のキス。瑛莉香の口からはまだ何も聞かされていない。ただ、柔らかい感触が今もこの乾いた唇に確かな電流を伝える。瑛莉香は変わらず凛々しくサッパリした笑顔でハンドルを握り続けるが、そのぎこちない返答はどこか動揺しているように思えた。
「へぇ~、そうだったんですか…!やっぱSNS繋がりでの出会いって良いですよね~」
女性の素直な反応に救われたような気がした。瑛莉香は相槌を打って、今まで巡ってきた場所や食べたものなど、
他愛もない話を次々と重ねていった。
車は順調に走り続け、古びた小さな駅舎が大雨の中に姿を現した。瑛莉香はブレーキを踏んで速度を落とし、雨合羽を身に纏った歩行者に注意を払いながら、駅の出入り口に一時停止した。
「はい、到着!ここで大丈夫ですか?」
「あっ、はい!ありがとうございます…!」
女性が丁寧に頭を下げて、壊れた傘と雨水の染み込んだリュックサックを手に取った。
「気を付けてくださいね!」
「はい!ありがとうございます!…お二人も、良い旅を続けてください…!」
女性は満面の笑みで二人の顔を交互に見た後、強く降り続ける雨の中へと身体を晒した。駅舎の中へ小走りで向かい、最後にもう一度運転席側から深々と背中を曲げた。
瑛莉香は左右に振った手をハンドルへと戻し、ブレーキからアクセルへ踏み変えて車を出した。車内には再び二人だけの空間が戻り、ラジオから流れる聞き慣れない洋楽が小さく鳴り響いていた。
「…さて…次スタックした時は、よろしくね」
瑛莉香が微笑を浮かべながら勇太に告げた。やはり勇太がすぐに動かなったことを気にかけているようだった。そして瑛莉香が「スタック」という表現を知っていることが意外に思えた。
「あっ…はい…!」
勇太は申し訳なさそうな表情で答えた。思えば、瑛莉香は自分が旅に参加した真の目的を知らない。助手席からその端麗で形の整った素足に幾度となく向けてきた性的な視線を、彼女がどこまで気付いているのか分からない。瑛莉香との距離感がここに来て掴めなくなっていた。彼女に人としての信頼を置きながら、どこか姑息な武器を隠し持っているような自分がそこにいた。
大雨に打たれるフロントガラスを瞳の上に浮かべながら思いに耽った。誰にも言ったことのない旅の目的を、瑛莉香にいずれカミングアウトしなければならない気がした。
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