ユーズド・カー

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第2章 港湾

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 数日ぶりのシャワーで汗と疲れを排水溝へ見送り、窮屈な車内で眠りに落ちた翌朝、目を覚ますと既に車は次の目的地へと向かってコンクリートの上を滑らかに走っていた。
 隣でハンドルを握る瑛莉香は白い無地のシャツと艶めいた太腿を隠し切らない長さの黒いチノパンツを新しく着ていた。履き慣らしたトングサンダルの鼻緒を足の指で挟みながらペダルを踏み込む姿は3日目も変わらない。朝目覚めると傍らに素足で車を運転する女性がいる。煌々とした日差しが突き刺す容赦ない現実世界に直面しながら、その聖域を目にすると夢の中を未だ彷徨い続けているような感覚だった。

「…おはよ!」
赤信号を前に車のブレーキをかけた時、瑛莉香が勇太に向かって無垢な笑顔を向けた。

「おはようございます…!」
目を覚ましてから朝の一声を発するタイミングを伺っていたが、自然な流れが出来たことに安堵した。慣れた様子で会話を主導する彼女の積極性に今日も早速救われることになった。

「さっきコンビニで朝ご飯買ってきちゃって。良かったら食べて!」
信号が青に切り替わり、瑛莉香がサンダルを履いた足で再びアクセルを踏み込んだ。前を見据えながら運転席と助手席の間に置いたビニール袋を左手でまさぐり、「この中にあるから」と付け加えた。

「あっ、ありがとうございます…!」
勇太はお礼を述べて、袋の中を覗き込んだ。起きた直後で空腹はまだ感じなかったが、勧めてもらった配慮から潔く断ることは出来ず、卵を挟んだサンドイッチの袋を手に取って封を開けた。

 柔らかいパン生地と甘みのあるスクランブルエッグの食感を味わいながら、視線は今日も瑛莉香の足に釘付けになる。真っ直ぐに伸びる整った足指に力を込め、サンダルの上から小さなペダルを的確にとらえていく。そんな彼女の姿に目をやりながら悠長に朝食をとるのは言葉では表しがたい不思議な快感だった。



「…ねえねえ、そういえば勇太君って趣味とかあるんだっけ?」
人通りの多い交差点に差し掛かる頃、瑛莉香が唐突に質問を繰り出した。

「…しゅ、趣味ですか…?」
勇太はぎこちなく応じた。趣味と呼べるものはあったものの、そのマニアックさを許容されるかどうかは分からなかった。

「…一応、レストア動画見たり本読んだりするのが好きです…」
瑛莉香の横顔を見つめながら控えめに答えた。案の定、彼女は「レストア」という単語に引っかかった。

「えと…レストアっていうのは古びた包丁とか車とかそういったものを元の状態まで直していくんですけど、割とそれが技巧的で面白くて…」
一瞥して再び前方へと注意を向けた彼女の頬を見つめ、アパートの自室で見ていた映像を想起しながらたどたどしく説明した。

「へぇ~、そういう動画なんだ!修理していく動画って感じなのかな」
「そうですね…!錆びた包丁とかが元の新品のような状態になったりするので…」
「そうなの~?なにそれ、そんな凄い技術なんだ!」
「はい…!なんだか、それがすごい素敵で好きです…!」
想像していたよりも興味津々な姿勢で食いつかれたことへの嬉しさが全身を駆け巡った。言葉がこぼれるように外の空気に触れ、口内の水分が緊張で蒸発して舌が乾き出した。

「そっか~。私も小学生の頃に10円玉をピカピカにして楽しんでたなぁ。気持ちいいよね、ああいうの」
懐古に浸る眼差しをフロントガラスの外側に向けながら瑛莉香が呟いた。記憶しているものとは違うものの、何となくそれがどういうものなのかはある程度理解されたようだった。

「ちなみに本は何読むの?」
「本ですか…?……一応、高校でやった倫理に関した本とかはいくつか…」
またも語尾を弱め、曖昧な風にして答えた。読書についても容易に同調してもらえるようなジャンルではないものを好んでいる自覚はあった。

「倫理!?うそ、私めっちゃ好きだよ!」
しかし、瑛莉香の意外な反応に勇太は目を見開いて彼女を凝視した。

「ほら、私、一応は法学部にいてさ。法学って法律のことばっかやってるように見えて、案外倫理とか宗教とか哲学とか、そういう話とすんごい関わってくるんだよね。割とそういうのもセットで勉強してて面白いなって思って、ハマっちゃった」
瑛莉香は立て板に水のようにスラスラと言葉を繋げた。勇太の視線は丈夫な糸で結ばれたように彼女の横顔から微動だにしなかった。

「…じゃあ瑛莉香さんも割とそういう本読んだりするんですか…?」
舞い上がる気分を悟られないよう平静を装いながら、勇太は恐る恐る尋ねた。

「うん、前まで結構読んでたよ!ちゃんと覚えてるかビミョーだけどさ」
瑛莉香がどこか飄々とした印象で勇太の質問に答えた。露骨な自慢こそしないものの、徹底的に学習していたであろう様子が伺えた。

 常に眩しい存在であるはずの瑛莉香の輪郭をたった今少しだけ上手く描けた気がした。彼女との数少ない共通点が新たに発見でき、安心感と親近感が勇太の心を包み込んでいく。話の端々に現れる彼女の聡明さには遠く及ぶ気はしなかったが、お互いの好みは分かり合うことが出来そうだ。

 会話を進めていくと、瑛莉香は読書とドライブと音楽とお酒を嗜むのが好きということが分かった。読書については流行りの小説やエッセイ、ビジネス書から大学の学業のために法律、政治、哲学、歴史、宗教に関する専門書をそれぞれいくつか読んでいたらしい。勇太自身も孤独が相まって、同世代の中では読書量が多い方だったが、話を聞いた限りでは瑛莉香の方が1冊に対するペース配分は早かった。それでいて、休日は愛車で友人とドライブや旅行に出かけたり、ある時は居酒屋で大勢で賑やかに酒を酌み交わしたり、暇があれば気に入った曲をリピートしながら一人の作業に没頭するのが心地よいと愉快に語ってみせた。

「…まっ、もう卒業してからは周りがそういう時間もなくなっちゃって」
青春の眩い輝きを中和するように、瑛莉香は濁りのある一言を付け加えた。その濁った一滴は大波の中ですぐにもみ消され、勇太の中に鉛のような情念がふつふつと湧き上がっていく。

「…趣味、結構あるんですね…!」
漠然とした劣等感に包まれながら、自分の趣味に食いつかれた時の余熱で小さな声を絞り出した。

「うん、まぁでも、大したことないよ~。ほとんど大学時代で一時的にハマってたのばっかで、今は……”この子”でドライブすることとお酒飲むことくらいかなぁ」
瑛莉香が記憶の中に潜り込んで遠くを見つめた後に視線を落とすと、左手の指先でハンドルを軽く数回叩いて”この子”を示した。

「…あっ、でも勇太君はお酒まだ飲まないもんね」
「…そ、そうですね…!まだ…」
年齢的にもう1年近くは待たなければならなかったが、それとは別にその場のノリや勢いを好きこのんだ酒豪たちに付き合わされた数少ない社会人経験のせいで飲酒自体に良いイメージもなかった。

「こういう暑い日ってビールが美味しいんだよ!疲れた時とか、グラスいっぱいに注いでグーっと飲むともう最高で…!」
瑛莉香はその爽快感を想像しながら言った後に、「って、おっさんだね私」と吹き出した。勇太にはビールの味も感覚も分からなかったが、瑛莉香のような大人が周りに溢れていればもう少し前向きな先入観を持てたのだろうと何となく思った。



 車は三車線の広々とした公道の一番左端をスムーズに走り、瑛莉香はブレーキを軽く踏んで減速すると左へウィンカーを点滅させてガソリンスタンドへと入っていった。車が古いせいか燃費が悪いようで、出会った当初は満タンに近い状態を示していた燃料計は既に「E」へとかなり接近していた。
 入店に気づいた一人の店員が手招きで適当な位置まで車を誘導し、両方の手のひらを向けて停車を指示すると運転席側へ回り込んだ。

「レギュラー満タンで!」
車のエンジンを切り、瑛莉香が溌溂とした声で店員に伝えた。店員は「かしこまりました」と応じると、乾拭きのタオルを瑛莉香に渡した。

瑛莉香はフロントガラスや運転席側の窓を渦を描くように大雑把に拭き、勇太に手渡した。特に汚れという汚れも目立っていないためどの範囲をどう拭けばよいか分からなかったが、車を「この子」と呼んで愛着を抱いている彼女の様子を慮って、助手席側の窓を手の届く範囲で丁寧に拭いた。

 車にガソリンが最大まで注ぎ込まれ店員が再び運転席の方へ戻ると、瑛莉香はクレジットカードと借りたタオルを渡した。勇太はスタンド内に充満する癖になりそうな独特の臭いに耐えながら彼女がエンジンを掛ける瞬間を待っていた。
 会計が済むと、瑛莉香は財布の中へカードをしまい込んで差し込んであったキーを回した。

 いつものようにセルの音がキュルキュルと弱々しく鳴り響く。しかし1回で始動しなかったのか、瑛莉香はもう一度キーを回した。モーターが音を立てて小刻みに車体を振動させながらエンジンの点火に向けて踏ん張るが、3秒、4秒とそれを続けても掛かる気配がない。
 瑛莉香は再度キーを回したが、エンジンは掛からなかった。

「あれ?」
瑛莉香の表情が曇り始める頃には、勇太の血液は沸騰し心拍数を急激に加速させていた。息遣いは荒さを増していき、緊張と興奮で冷静な状態を取り繕うのが精一杯だった。

「やだ~ほんと気まぐれなんだから…」
瑛莉香が眉間に皺を寄せて呼びかけるようにハンドルをトントン叩いた。再びキーを回してセルが回転するものの、エンジンが入らない。彼女の口振りから察して、一時的に調子が悪くなったのかもしれない。しかし素足にサンダルのままエンジンの始動に手こずる女性ドライバーを前に、車の健康状態を心配する冷静さと正常さなど勇太にはなかった。何の欲情もないかのように、無言のままその成り行きを見守るだけだった。

「…大丈夫ですか?」
一人の店員が運転席へと顔を覗かせた。

「ごめんなさい、ちょっとエンジンが掛からなくて…」
瑛莉香が再度キーをひねるが、エンジンが始動しないことに変わりはなかった。車内が静まり返った後、瑛莉香は肩をストンと落として縦に細めた唇からため息を漏らした。真夏の蒸した外気が車内を侵食し、緊迫感と混ざり合って頭皮から汗が噴き出し始めた。

「あっ…!」
その時、瑛莉香が小さく、何かを閃いたように声を出した。

「レストア動画見てる勇太君に質問なんだけど、車を直す方法とかあったりする?」
「…な…直す方法ですか…?」
彼女にそう聞かれる頃には、勇太の脳内では既に解決できそうな方法が一つだけ浮かんでいた。といってもそれはレストア動画で知ったものではなく、完全に自分自身の性的倒錯を満たす目的で漁っている動画で知ったやり方だった。

「…えと……アクセルを小刻みに踏みながら掛けると掛かりやすくなる気がします…!」
勇太はドクドクと脈打つ心臓に圧し潰されないよう声をなんとか振り絞って答えた。
瑛莉香には何の他意もない透明な回答として耳に届いただろうが、勇太には粘っこい罪悪感と恥じらいが伴った。

「そうなの?なるほど、ちょっとやってみよ…!」
瑛莉香はそう言ってキーを回すと同時に右足をアクセルの上に乗せて一定のリズムで踏み始めた。サンダルを履いた素足でペダルを何度も踏む瑛莉香に、勇太はまたしても強烈な興奮を覚える。頑なに空転を続けるセルモーターの生音と車体から伝わる振動が臨場感を醸し出し、わずか数秒間の情景に向けられた全神経をもって非日常の神髄へと容赦なく引きずり込まれた。

 回転するセルの音はアクセルを奥に押しやる瞬間に合わせて速度を一時的に上げ、程なくしてエンジンが掛かった。
 勢いづいた瑛莉香の右足はそのまま数回アクセルを踏み、その場でエンジンを大きく吹かした。強張った空気が弛緩して彼女に柔らかな笑顔が戻る。
 そのままサイドブレーキを解除してギアを入れ、ブレーキペダルから足を離してゆっくりと車を前進させた。
 「ありがとうございましたぁ!」と威勢の良い砕けた言い方の声で見送られ、車は再び目まぐるしく移り変わる交通状況の波に乗っかっていった。




「ありがとね、勇太君!」
走り出してから間もなく、瑛莉香が陽気な声が車内に響いた。

「…あっ…いえ…全然…!」
勇太は気まずそうに返した。先ほどの光景は早くも記憶の中へ閉じ込められたものの、熱はまだ続いている。性的興奮が故の快感と罪悪感が複雑に絡み合い、感情の整理がつくまでは少しだけ時間が掛かりそうだった。

「この車、私が18の時に初めて買った車で。大学始まってすぐバイトしてお金貯めて、中古でようやく買ったって感じなの。その時点でも結構ボロかったのにそれから4年くらいは乗ってるから余計にオンボロでさ。たまにエンジンが掛かんなくなる時があって…」
勇太の欲情を悟ることもなく、瑛莉香はやんちゃな子どもを前にしたような苦笑いを浮かべて呟いた。

「…まぁ何はともあれ、勇太君の趣味って案外役に立つんだね!」
瑛莉香はそう言ったすぐ後で「ごめん、案外って失礼だね」と吹き出した。

 しかし、勇太にとっては瑛莉香の凛とした、でも少し冗談めいた無邪気な笑顔とその声色にまた救われた気がした。思えば自分の趣味について肯定的な評価をくれた人間に出会った覚えがなかった。人間関係が上手くいかないせいで自分の感性一つで追求したものばかりが趣味になり、周りに置いて行かれているような焦燥感が強かった。その点で、瑛莉香の趣味は品性や知性に富んだ大人びた印象でありながら、どこかアクティブで遊び心が感じられるようなものだった。やはり学業に秀でた人間が集まる世界では趣味もある程度スマートなものになっていくのだろうか。

 容赦なく照りつける日の光を受けながら、車は賑わう街を抜けて細く果てしない湾岸道路へと進入していく。勇太にとって、本田瑛莉香という女性と過ごすこの旅がどのような意味を持っているのか、未だに見当がつかなかった。
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