ユーズド・カー

ACE

文字の大きさ
上 下
10 / 28
第2章 港湾

2-4

しおりを挟む
 夕暮れを迎え、湿気で淀んだ闇夜が辺り一面をどっぷりと包み込んだ。橙色の街灯が夜道を淑やかに照らし、瑛莉香の運転する車は雑居ビルや商業施設の立ち並ぶ活気ある車道を走り抜ける。

 平日の遊園地において女性と二人きりで遊んだ記憶をまだ冷静に処理し切れないまま、助手席に全身を預けて眠りそうにない街の賑わいをぼんやりと眺めていた。遊び疲れたせいか、身体が少し重かった。決して後味の悪い疲労ではないが、緊張感から解放されたせいか鈍痛が一定のリズムを刻みながら神経を刺激していた。

 瑛莉香は疲れた表情一つ見せることなく、間断なく変化していく交通状況を大きな瞳で正確にとらえながら古びた愛車を安全かつ滑らかに操作する。太陽が沈んだ今は彼女の下半身が影に隠れて何も見えず、束の間に飛び込む街灯の光がペダルを踏む足の上を容易く転がっていく様子にもどかしさを感じた。

「お腹空いたねー」
瑛莉香が話しかけるようにして小さく呟いた。勇太も小さな声で単調な相槌を打った。

「てか、昨日はヘンテコなご飯でごめんね!今日は美味しいもの食べよ!」
瑛莉香が昨夜の弁当のことを自虐した。勇太にとっては味の旨み以上の付加価値がついた食事として記憶されていたが、自信が溢れるが故の彼女らしい遜りだと理解した。

「美味しいものですか…?」
「そう!この先に中華街があって、そこ行ってみたいな~って。沢山食べられそうだし!」
瑛莉香は前方を覗き込むようにして言った。一人暮らしの生活でさしたる贅沢も出来ないでいた勇太にとって、胃袋を余すことなく満たすことの出来るような食事は久々だった。何より、女性と二人きりでしっかりとした外食は初めてだ。

「あっ、苦手なものとかある?大丈夫?」
瑛莉香がさりげなく気にかけた。勇太は「中華は好きなので…」と一言付け加えて差し障りない旨を返した。

「よーし、決まりだね!」
高揚する気分に伴うかのように彼女は勢いよく車を加速させた。



 コインパーキングに車が停められ、勇太は瑛莉香の横に並んで中華街へと足を進めた。
 交差点に差し掛かると、目の前には見上げるほどの大きな門が構えられていた。関帝廟とも呼ばれる門は、鮮やかな赤色の漆が幾重にも塗られた四本の柱が黄金の瓦を敷き詰めた屋根を支え、天井に施された華やかな曼荼羅の模様や咆哮するごとく攻撃的に大口を開けた龍の飾りが印象的だった。

 横断歩道を渡り、荘重たる祖廟に圧倒されながら一歩一歩近づいて行った。ありふれた都会の風景を呑み込まんとするかのような荘厳かつ迫力あるその入り口は、中華の世界への好奇心と期待感を湛えた人々を瞬く間に吸い込んでいく。
 日常の余韻を残しながら眼前に広がる異世界に身を委ね、勇太は瑛莉香とともに門をくぐった。

 通りは目が冴えるほどの眩いネオンで囲まれ、多くの人々でごった返していた。頭上に吊るされた提灯の中に紅蓮の炎が盛り、蒸した闇夜を焦がすように照らしている。立ち並ぶ店の外装は金色に光る派手な塗装がなされ、見慣れない組み合わせの漢字が書かれた看板が我こそはと言わんばかりに三々五々に歩く人々を引き込んでいった。

「うわ~、すご~い」
周囲に忙しく目線をやりながら、瑛莉香が感嘆した。

「ねえねえ、どういうの食べたい?」
「…あっ…えと…」
瑛莉香の質問に、勇太は少し迷った。馴染みのある中華料理がいくつか頭の中に浮かんだが、何を選ぶのが適切なのかが分からない。次の言葉を待つ彼女の真っ直ぐな視線を直視できずに目が泳いだ。

「んー、そうだなぁ……とりあえず色々揃ってそうなとこ行こっか!」
いまいち決めきれない勇太をフォローするように、瑛莉香が早速提案した。



「…ここ良さげじゃない?」
しばらく歩いて、瑛莉香が1軒の店の前で足を止めた。赤い楕円の柱を両脇に添えた古風な外装の料理店。派手な電飾はなく、店の左端にメインメニューが写真付きで掲載されていた。ご飯ものからデザートまで、幅広く扱っているようだ。勇太は即座に同意し、瑛莉香とともに店内へ入った。

 店員に二人用の席へと案内されて、黒いクッションが埋め込まれた木製の椅子に腰かけた。
 木材のテーブルの上に小さい氷を浮かべたお冷が届き、暑さで奪われた水分を取り戻すように勇太はコップの半分以上を一気に飲み干した。
 瑛莉香は水を一口喉へと流し込むと、ダークブラウンの長い髪をゴムで結い一束にまとめた。脇に置かれたメニューをさっと取り出して、勇太にも見やすいように横に向けてテーブルの上に置いた。

「へぇ~、色々あるね~」
瑛莉香はページの角を指先でつまみながら隅から隅まで目をやった。掲載されたメニューは八宝菜や小籠包、担担麺などスタンダードなものが揃っていた。汁物の写真は唐辛子で濃い赤に染まっているものばかりで、辛味はそれなりに効いていそうだ。

「勇太君、何にする?決まった?」
「…あっ、はい…!僕はこれで…」
勇太は麻婆豆腐を指さした。ライスとスープのついたセットメニューだった。

「おっ、美味しそう!あと小籠包も一緒に食べない?一人前のやつ二人で分ければ丁度良さそうだし」
期待に満ちた眼差しを向ける彼女の提案に、勇太はすぐさま賛同した。

 店員を呼び出して注文を終え、瑛莉香がメニューを元あった場所に戻した。テーブルを挟んで近距離で向かい合うのは出会って間もなく入ったカフェ以来だ。猛暑が続く時期にもかかわらず艶のある透明な素肌は瑞々しく、高い鼻に二重まぶたの大きな瞳が勇太の意識を対極同士の磁石のように引き寄せた。

 間もなくして、勇太の注文した料理がテーブルに届いた。白い湯気を天井へ伸ばす唐辛子で汁を赤く染めた麻婆豆腐が目の前に置かれた。茶碗に目いっぱい盛られた白米の潤いと鶏肋で取った出汁に浮かぶわかめや白胡麻がセットで並ぶやいなや、空腹で飢えた胃袋が食欲をそそられてより一層奥へと沈んでいくような感覚がした。

「美味しそ~。……あっ、いいよ先に食べちゃって!」
瑛莉香は覗き込みながらそう呟くと、気を遣わせまいと素早く促した。

「…すみません、じゃあ…いただきます…!」
勇太はぎこちなく両手を出して軽く手のひらを合わせた。いちいち感謝の意を述べるほど律儀に教育されてきたわけでもなかったが、しっかり者の彼女に対する自意識から恥ずかしながらも体裁だけ整えてみた。

 華やかな柄が刻まれた陶製の散蓮華の中に汁を流し込んで豆腐を浮かべ、口先で息を数回吹きかけて熱を放散させると、余すことなく口の中に放り込んだ。いとも容易く砕ける豆腐の心地よい食感と舌の上を飛び跳ねる辛味が渇いた口内を優雅に刺激する。
 思わず白飯に気移りし、余韻が覚めないうちに箸に持ち替えて少し多めに掬い取って一粒一粒を噛み砕いた。

「どう?美味しい?」
まだ注文した料理が届いていないまま、瑛莉香は煌びやかな眼差しを向けて問いかけた。

「…は、はい…!すごく美味しいです…!」
勇太が素直に答えると、彼女は「そっか!良かった!」と嬉しそうに返した。

少し間隔が空いて瑛莉香の注文した料理と小籠包がテーブルに置かれていく。
彼女も定食にしたようで、大皿にはエビチリが盛られていた。

「来た来た…!」
瑛莉香は待ちきれない様子で箸を手に取り、橙色のチリソースで味付けされたエビを一つ口へ運んだ。勇太は思わず緊張した。彼女の食事姿を真正面から見るのは今日が初めてだった。心を開くまでに長い時間を費やしてしまう勇太にとって、旅を始めて間もないうちに距離が接近していくことに妙なプレッシャーがあった。

 中を余すことなく蒸した小籠包を半分ほど引きちぎって口の中に入れた瞬間、熱を帯びた汁が一気になだれ込んだ。高温に熱した肉汁が舌の上に広がって思わずこぼれ出そうになったが、品の無い真似はするまいとすぐには呑み込まずに熱を逃がしながらゆっくりと噛み砕いた。涙で視界を滲ませながらも、脂の乗った挽肉の旨みを喉の奥までしっかりと流し込んだ。

「あっく…!」
瑛莉香は上を向きながら口先を尖らせるように開いた。つま先をパタパタと交互に動かしながら悶える彼女の茶目っ気ある様子に心が惹かれた。毅然とした振る舞いが常でありながら、時折見せる天真爛漫な姿が思わず癖になる。

「んー!美味しい~!」
ヒリヒリと痛む舌で感じ取った味を全身で堪能するように、純真な笑みを浮かべて感想をこぼした。勇太は小皿に置いたもう半分の小籠包を丁寧に冷まして、再度口の中へと放り込んだ。「結構熱いよね」と苦笑いする彼女に向けて、同じような表情を浮かべて返した。




 注文した料理を全て胃の中に収め、容器を空にして会計を済ませた。クレジットカードを取り出して支払いをする瑛莉香にスマートな印象を抱きながらも、彼女にほとんど奢ってもらっている事実に申し訳なさを感じた。自分のために惜しげもなくお金を払ってくれる女性を家族以外では誰も知らない。年上としての使命感なのか、何の意図でもない澄み切った気遣いなのか、思わずその真意を知りたくなってしまう。物理的な距離を縮めても、彼女のことを根本から信用するにはまだ程遠い自分がいるということに気づいた。



 駐車場に到着し、中華街のネオンを断ち切った暗い車内へと戻った。瑛莉香が料金を精算し、運転席のドアを開けてシートに腰をかける。

「…さてと、銭湯でも行こっか!汗掻いたでしょ?」
瑛莉香はそう呟いて車のキーを回した。

「あっ…そうですね…!」
弱々しく空転するセルモーターの音に鼓動を速めながら、勇太は軽く返事した。エンジンの点火まで数秒ほど空回りが続いたものの、今回は1発で掛かったみたいだ。暗闇の中、瑛莉香がサンダルを突っ掛けた足でアクセルを何度か吹かす音が聞こえた。

「それじゃ、しゅっぱーつ!」
彼女の合図とともに、濃密な1日の終わりへと車が動き出した。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

完全なる飼育

浅野浩二
恋愛
完全なる飼育です。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

アイドルグループの裏の顔 新人アイドルの洗礼

甲乙夫
恋愛
清純な新人アイドルが、先輩アイドルから、強引に性的な責めを受ける話です。

兄の悪戯

廣瀬純一
大衆娯楽
悪戯好きな兄が弟と妹に催眠術をかける話

憧れの先輩とイケナイ状況に!?

暗黒神ゼブラ
恋愛
今日私は憧れの先輩とご飯を食べに行くことになっちゃった!?

処理中です...