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第2章 港湾
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あれから脳は興奮状態から抜け出せず、しばらくは彼女の微かな寝息を耳にして時間だけが過ぎていった。しかし一瞬だけ記憶が途切れた後で再び外部の音に鼓膜を揺らされて目を開けると、雲一つない澄んだ空と青々と繁茂する木々がガラス越しに映り込んだ。
ふと隣に顔を向けても瑛莉香の姿はなかったが、間もなくして小屋の形をした公衆トイレから歯ブラシと小物入れを手に車へと戻ってきた。
「おはよっ!」
瑛莉香が凛々しい笑顔を勇太に向けた。
「お、おはようございます…!」
眠気がしっかりと取れないまま、勇太が身を起こして挨拶を返した。
「あっ、そうそう。洗顔はあそこのトイレで出来そうだよ!
他の人が入ってくる時はちょっと恥ずかしいけど…」
瑛莉香がアメニティの入ったポーチの中身を整理しながら教えた。
自分のカバンから歯ブラシと歯磨き粉、洗顔料を持って男子トイレに入った。均等の長さに揃えられた小さな丸太を敷き詰めたログ風のつくり。人影は見当たらなかった。垢が点々とした鏡の前に立ち、周りの様子を伺いながら歯磨きと洗顔を始めた。
緊張感に包まれながらも朝の日課をこなしていると、不意に胸が更なる緊張を呼び起こした。瑛莉香が車のエンジンを掛け終えてしまわないかが心配になった。朝の1発目はまだエンジンが冷え切っている状態だ。特に冬場などは気温の低さによって素直に始動しないことがよく起こりうる。バッテリーの弱った彼女の車は夏場とはいえ朝一番はきっと掛かりが悪いはずだ。要らぬ妄想で自らの鼓動を加速させながらも、その様子をこの目で焼き付けずにはいられなかった。
少々雑に済ませ、訝しげに見られないような速度で早歩きをして車の助手席へと向かった。アイドリングをする音はまだ聞こえず、エアコンだけを起動しているようだった。
「お帰り~」
勇太の胸の高鳴りなど知る由もなく、瑛莉香は微笑した。バッグの中へ持ち物を戻し、毛布を四つ折りに畳んで後部座席へと丁寧に置いた。
「さーて、今日も走るよ~」
瑛莉香がシートベルトをしながらキリッと引き締まった目で前方を見据えた。勇太も続くようにシートベルトを締め、緊張した面持ちで助手席に身を沈める。
間髪入れず、瑛莉香は車のキーを指先で掴んで素早く右に回した。温度の上がり始めた車内に、眠っていたセルモーターの音が低くこもって鳴り響く。3,4秒ほどキュルキュルと音を立てるも、エンジンは1発で掛からない。
瑛莉香がキーを回し直すと、再び車体を小刻みに揺らしながらモーターの回転する音が鳴る。昨日知る限りではいつも2発目でエンジンが点いたが、やはり朝は違った。またも3,4秒ほどの長い回転を続けたものの、エンジンの点火までたどり着かなかった。
勇太の呼吸はメーターを振り切らんばかりに速度を最大まで上げる。なんとなく予想できたものの、言葉で形容し難い興奮が瞬く間に湧きおこった。体中の血液が沸騰し、何もかもを蹴散らすように血管の中を駆け巡る。
興奮する勇太を横に、瑛莉香はもう一度キーをひねる。錆びた歯車を強引に回すようにモーターが少し長めに回転を続け、3回目にしてようやくエンジンが始動した。
瑛莉香は真一文字の結んだ口の筋肉を緩ませ、エンジンを安定させようとアクセルを数回ほど踏んだ。サンダルを履いた素足でさりげなくペダルを踏む女性を目の前に、何も思わずにはいられなかった。
「…勇太君って彼女とかいるの?」
国道を走る車の中、唐突な質問だった。勇太は思わず動揺した。
「あっ…えっと…いたことないです…」
緊張も相まって堂々とは答えられなかった。瑛莉香は「そうなんだ!?」と大げさにリアクションしたが、どことなく納得感のある目つきに変わった瞬間を、勇太は敏感に読み取った。
「まぁ最近は割と一人でいるのが好きな人も増えてるしね~」
前方をまっすぐ向きながら瑛莉香は悠長に呟いた。自分から積極的に一人を選んでいるように表現したのは彼女なりのフォローだろうと思った。
その時、ふと気になった。瑛莉香は今、彼氏はいるのだろうか。雰囲気や振る舞いからして経験は豊富だと思われるが。会話は途切れ、勢いよく回転するエンジン音が車内に低く鳴り響く。隙を伺って質問をしたいが、喉に蓋をされた感覚で声が思うように出てこない。
「……もしかして異性は苦手?」
歯切れの悪い会話が連続したせいか、瑛莉香が悪戯っぽい笑みを浮かべた。勇太は彼女に何もかも見透かされたような恥ずかしさを覚える。
「…えっと…あの…なんていうか…あんま話したことなくて…」
ぎこちない返しがまた羞恥心と劣等感に拍車をかけた。
「そっかそっか。まぁ慣れてないと緊張するよね~。
でも、全然いいからね。私なんかに気を遣わなくて」
瑛莉香が自嘲を繰り返す。自信に溢れる彼女の謙遜とは分かっていながら、さりげない気遣いは勇太の張り詰めた心を緩ませた。空気が温まったこの瞬間を狙って、質問を投げかけてみた。
「…あの…瑛莉香さんって恋人いるんですか…?」
震える声で聞いてみた。こんな質問ですら過度に緊張してしまう自分に嫌気が差した。
「私?………ううん、いないよ!」
彼女は一瞬だけ意表を突かれた表情を浮かべたが、頬を綻ばせて明るい声で返した。
「……過去には…」
緊張を抑え、思い切って追撃する。
「あ~、高校と大学で数回…かな?大学で付き合ってた彼氏とは去年の春先に別れたの」
特段気にすることもなく、瑛莉香は記憶を辿りながらゆっくりと答えた。
「なるほど…」
彼氏と付き合っていたことを告白した彼女に対し、勇太はまたも劣等感が募っていく。なんとなく予想はついたものの、実際にそれが認められるとどこか落ち着かなくなる。
恋愛経験の有無は思春期から気にかけていることだった。恋人のいる人間は外見も性格もコミュニケーション能力も、全てにおいて一定の水準を保持できる存在だった。それは同時に、その領域にまで達することが出来ていない自分が”影”として存在し続けることを示す証左にもなっていた。
「まぁ時期的に就活だったんだけど、向こうがすごい焦ってて。私は就活とかあんま気にしてなくてさ。だから、温度差って言うのかな?なんか4年に上がるぐらいですごいギクシャクしちゃって、結局別れたの」
瑛莉香の口から言葉が次々こぼれる。大学での就活の様子はよく分からないものの、大学院でも行かない限りは最後の学生生活ということもあって、シビアなものなのだろうと漠然と理解した。
「まあでも、付き合ってたらこんなこと出来てないし、しょうがないかなって」
流れを牽制するように、さっぱりとした表情で言い切った。
勇太は胸が圧迫されるような感覚に陥った。例え強がりであれ潔く「しょうがない」と割り切ってしまう瑛莉香の凛とした笑顔を直視できない。
やはり、「普通の人間」とはこういうものなのだと。
自分自身だけが波に呑まれるだけで、「普通の人間」は軽々とその波をサーフしてアトラクションのようにひと時の刺激を何回も謳歌するのだろう。忌々しい日常を抜け出したはずの風景に、辛酸をなめさせられた嫌な記憶が侵食し始める。
出会って間もないうちに”同士”を見つけて縄張りをつくり、独特の文化を築いて勢いよく交流。授業にケチをつけ、教師をあだ名で蔑み、近くもない机を向かい合わせて飯を食い、何の実にもならない話で笑い合う。思春期を抜け出す頃には一人の異性をものにし、大人へと一歩近づけた優越感と安心感を浮かべた眼差しで性的な話題で盛り上がる。
その輝きの中で自分だけが常に避けられ、からかわれ、バカにされ、日陰の中に植えられた種のような印象だった。風に煽られれば一瞬で千切れてしまいそうな弱々しい存在。根っこを張り巡らしても渇き切った地面からは何も汲めず、遠くで活き活きと咲き誇る仲間の晴れ姿を、ただ指をくわえて見つめるだけしか出来なかった。
今、自分の横で真剣にハンドルを握る彼女も、きっと「青春」の象徴だ。強烈なバックグラウンドがあるからこそ、初対面の男に対しても堂々と言葉に出来るのだろう。彼女の見せる悠々自適な笑みと自虐的な口調は、内側から際限なく湧き出でる自信と誇りを表している。自分にとっての「非日常」は瑛莉香にとっての「日常」なのだろうと考えると、彼女がこの旅で本当にどこを目指しているのかがますます分からなくなった。そのゴールに自分がいても良いのだろうか。
「…ねぇねぇ、片思いとかしたことないの?」
勇太の心情を知る由もなく、瑛莉香は無邪気に尋ねた。朧気だった意識が再び車の中へと連れ戻される。
「…えっと……何回か…あります…」
勇太は顔色を伺うように恐る恐る返した。瑛莉香が瞳孔を開いて詳細を聞いてくる。
「中学の時にクラスの人に一目惚れしたことがあって…。
上手く行かなかったんですけど…」
覚束ない口調で勇太は簡潔に言った。
「へぇ~そうなんだ~!…なんだぁ、青春してんじゃ~ん」
瑛莉香が左肘で勇太の腕を小突いた。勇太は苦笑いして謙遜をしながらも、実らなかったことをバカにされずにホッとした。
「片思い辛いよねー。私もあるけど、なかなか叶わないもんだよね」
前方を見つめながら、どこか懐古に浸るような眼差しで言った。ただ、勇太の思う「辛い」「叶わない」ではないような気がした。
「でも勇太君モテそうな気もするんだけどな~」
瑛莉香がフォローを繰り返す。彼女らしい気遣いだと理解したものの、複雑な気持ちになった。女性が恋愛対象ではない男性に対して向けてしまう言葉だというのは、どこかで学んだことがある。
「全然です…。女子と何かするとか自信なくて…」
勇太は控えめな様子で答えた。何もかも自分と真逆に思えるほどの女性が隣でハンドルを握っているこの現実を、未だにどこかで信じ切れていない。
「うそ~?それでよく返事くれたよね~」
瑛莉香は苦笑しながら冗談っぽく返した。もちろん動機を堂々とカミングアウトすることは出来ない。
「…まぁでも、私は楽しいよ!まだ2日目だけど、いい旅に出来そう!」
瑛莉香は期待で胸を膨らましながら溌溂と言った。
勇太は当たり障りなく相槌を打ったが、期待と不安が交互に押し寄せてきた。本田瑛莉香という一人のほぼ完璧な女性を、この地盤の緩い脆弱な土台で支えられるだろうか。非日常的な刺激を匂わせる空間の中、不必要に摩擦を生じさせてしまわないか心配になった。
国道を走る車はいつの間にか、住宅の立ち並ぶ賑やかな街並みを眼前にしていた。瑛莉香がどこに向かっているのかは未だに分からないが、アクセルとブレーキを滑らかに踏みかえる素足を見つめられることだけが唯一の確信だった。
ふと隣に顔を向けても瑛莉香の姿はなかったが、間もなくして小屋の形をした公衆トイレから歯ブラシと小物入れを手に車へと戻ってきた。
「おはよっ!」
瑛莉香が凛々しい笑顔を勇太に向けた。
「お、おはようございます…!」
眠気がしっかりと取れないまま、勇太が身を起こして挨拶を返した。
「あっ、そうそう。洗顔はあそこのトイレで出来そうだよ!
他の人が入ってくる時はちょっと恥ずかしいけど…」
瑛莉香がアメニティの入ったポーチの中身を整理しながら教えた。
自分のカバンから歯ブラシと歯磨き粉、洗顔料を持って男子トイレに入った。均等の長さに揃えられた小さな丸太を敷き詰めたログ風のつくり。人影は見当たらなかった。垢が点々とした鏡の前に立ち、周りの様子を伺いながら歯磨きと洗顔を始めた。
緊張感に包まれながらも朝の日課をこなしていると、不意に胸が更なる緊張を呼び起こした。瑛莉香が車のエンジンを掛け終えてしまわないかが心配になった。朝の1発目はまだエンジンが冷え切っている状態だ。特に冬場などは気温の低さによって素直に始動しないことがよく起こりうる。バッテリーの弱った彼女の車は夏場とはいえ朝一番はきっと掛かりが悪いはずだ。要らぬ妄想で自らの鼓動を加速させながらも、その様子をこの目で焼き付けずにはいられなかった。
少々雑に済ませ、訝しげに見られないような速度で早歩きをして車の助手席へと向かった。アイドリングをする音はまだ聞こえず、エアコンだけを起動しているようだった。
「お帰り~」
勇太の胸の高鳴りなど知る由もなく、瑛莉香は微笑した。バッグの中へ持ち物を戻し、毛布を四つ折りに畳んで後部座席へと丁寧に置いた。
「さーて、今日も走るよ~」
瑛莉香がシートベルトをしながらキリッと引き締まった目で前方を見据えた。勇太も続くようにシートベルトを締め、緊張した面持ちで助手席に身を沈める。
間髪入れず、瑛莉香は車のキーを指先で掴んで素早く右に回した。温度の上がり始めた車内に、眠っていたセルモーターの音が低くこもって鳴り響く。3,4秒ほどキュルキュルと音を立てるも、エンジンは1発で掛からない。
瑛莉香がキーを回し直すと、再び車体を小刻みに揺らしながらモーターの回転する音が鳴る。昨日知る限りではいつも2発目でエンジンが点いたが、やはり朝は違った。またも3,4秒ほどの長い回転を続けたものの、エンジンの点火までたどり着かなかった。
勇太の呼吸はメーターを振り切らんばかりに速度を最大まで上げる。なんとなく予想できたものの、言葉で形容し難い興奮が瞬く間に湧きおこった。体中の血液が沸騰し、何もかもを蹴散らすように血管の中を駆け巡る。
興奮する勇太を横に、瑛莉香はもう一度キーをひねる。錆びた歯車を強引に回すようにモーターが少し長めに回転を続け、3回目にしてようやくエンジンが始動した。
瑛莉香は真一文字の結んだ口の筋肉を緩ませ、エンジンを安定させようとアクセルを数回ほど踏んだ。サンダルを履いた素足でさりげなくペダルを踏む女性を目の前に、何も思わずにはいられなかった。
「…勇太君って彼女とかいるの?」
国道を走る車の中、唐突な質問だった。勇太は思わず動揺した。
「あっ…えっと…いたことないです…」
緊張も相まって堂々とは答えられなかった。瑛莉香は「そうなんだ!?」と大げさにリアクションしたが、どことなく納得感のある目つきに変わった瞬間を、勇太は敏感に読み取った。
「まぁ最近は割と一人でいるのが好きな人も増えてるしね~」
前方をまっすぐ向きながら瑛莉香は悠長に呟いた。自分から積極的に一人を選んでいるように表現したのは彼女なりのフォローだろうと思った。
その時、ふと気になった。瑛莉香は今、彼氏はいるのだろうか。雰囲気や振る舞いからして経験は豊富だと思われるが。会話は途切れ、勢いよく回転するエンジン音が車内に低く鳴り響く。隙を伺って質問をしたいが、喉に蓋をされた感覚で声が思うように出てこない。
「……もしかして異性は苦手?」
歯切れの悪い会話が連続したせいか、瑛莉香が悪戯っぽい笑みを浮かべた。勇太は彼女に何もかも見透かされたような恥ずかしさを覚える。
「…えっと…あの…なんていうか…あんま話したことなくて…」
ぎこちない返しがまた羞恥心と劣等感に拍車をかけた。
「そっかそっか。まぁ慣れてないと緊張するよね~。
でも、全然いいからね。私なんかに気を遣わなくて」
瑛莉香が自嘲を繰り返す。自信に溢れる彼女の謙遜とは分かっていながら、さりげない気遣いは勇太の張り詰めた心を緩ませた。空気が温まったこの瞬間を狙って、質問を投げかけてみた。
「…あの…瑛莉香さんって恋人いるんですか…?」
震える声で聞いてみた。こんな質問ですら過度に緊張してしまう自分に嫌気が差した。
「私?………ううん、いないよ!」
彼女は一瞬だけ意表を突かれた表情を浮かべたが、頬を綻ばせて明るい声で返した。
「……過去には…」
緊張を抑え、思い切って追撃する。
「あ~、高校と大学で数回…かな?大学で付き合ってた彼氏とは去年の春先に別れたの」
特段気にすることもなく、瑛莉香は記憶を辿りながらゆっくりと答えた。
「なるほど…」
彼氏と付き合っていたことを告白した彼女に対し、勇太はまたも劣等感が募っていく。なんとなく予想はついたものの、実際にそれが認められるとどこか落ち着かなくなる。
恋愛経験の有無は思春期から気にかけていることだった。恋人のいる人間は外見も性格もコミュニケーション能力も、全てにおいて一定の水準を保持できる存在だった。それは同時に、その領域にまで達することが出来ていない自分が”影”として存在し続けることを示す証左にもなっていた。
「まぁ時期的に就活だったんだけど、向こうがすごい焦ってて。私は就活とかあんま気にしてなくてさ。だから、温度差って言うのかな?なんか4年に上がるぐらいですごいギクシャクしちゃって、結局別れたの」
瑛莉香の口から言葉が次々こぼれる。大学での就活の様子はよく分からないものの、大学院でも行かない限りは最後の学生生活ということもあって、シビアなものなのだろうと漠然と理解した。
「まあでも、付き合ってたらこんなこと出来てないし、しょうがないかなって」
流れを牽制するように、さっぱりとした表情で言い切った。
勇太は胸が圧迫されるような感覚に陥った。例え強がりであれ潔く「しょうがない」と割り切ってしまう瑛莉香の凛とした笑顔を直視できない。
やはり、「普通の人間」とはこういうものなのだと。
自分自身だけが波に呑まれるだけで、「普通の人間」は軽々とその波をサーフしてアトラクションのようにひと時の刺激を何回も謳歌するのだろう。忌々しい日常を抜け出したはずの風景に、辛酸をなめさせられた嫌な記憶が侵食し始める。
出会って間もないうちに”同士”を見つけて縄張りをつくり、独特の文化を築いて勢いよく交流。授業にケチをつけ、教師をあだ名で蔑み、近くもない机を向かい合わせて飯を食い、何の実にもならない話で笑い合う。思春期を抜け出す頃には一人の異性をものにし、大人へと一歩近づけた優越感と安心感を浮かべた眼差しで性的な話題で盛り上がる。
その輝きの中で自分だけが常に避けられ、からかわれ、バカにされ、日陰の中に植えられた種のような印象だった。風に煽られれば一瞬で千切れてしまいそうな弱々しい存在。根っこを張り巡らしても渇き切った地面からは何も汲めず、遠くで活き活きと咲き誇る仲間の晴れ姿を、ただ指をくわえて見つめるだけしか出来なかった。
今、自分の横で真剣にハンドルを握る彼女も、きっと「青春」の象徴だ。強烈なバックグラウンドがあるからこそ、初対面の男に対しても堂々と言葉に出来るのだろう。彼女の見せる悠々自適な笑みと自虐的な口調は、内側から際限なく湧き出でる自信と誇りを表している。自分にとっての「非日常」は瑛莉香にとっての「日常」なのだろうと考えると、彼女がこの旅で本当にどこを目指しているのかがますます分からなくなった。そのゴールに自分がいても良いのだろうか。
「…ねぇねぇ、片思いとかしたことないの?」
勇太の心情を知る由もなく、瑛莉香は無邪気に尋ねた。朧気だった意識が再び車の中へと連れ戻される。
「…えっと……何回か…あります…」
勇太は顔色を伺うように恐る恐る返した。瑛莉香が瞳孔を開いて詳細を聞いてくる。
「中学の時にクラスの人に一目惚れしたことがあって…。
上手く行かなかったんですけど…」
覚束ない口調で勇太は簡潔に言った。
「へぇ~そうなんだ~!…なんだぁ、青春してんじゃ~ん」
瑛莉香が左肘で勇太の腕を小突いた。勇太は苦笑いして謙遜をしながらも、実らなかったことをバカにされずにホッとした。
「片思い辛いよねー。私もあるけど、なかなか叶わないもんだよね」
前方を見つめながら、どこか懐古に浸るような眼差しで言った。ただ、勇太の思う「辛い」「叶わない」ではないような気がした。
「でも勇太君モテそうな気もするんだけどな~」
瑛莉香がフォローを繰り返す。彼女らしい気遣いだと理解したものの、複雑な気持ちになった。女性が恋愛対象ではない男性に対して向けてしまう言葉だというのは、どこかで学んだことがある。
「全然です…。女子と何かするとか自信なくて…」
勇太は控えめな様子で答えた。何もかも自分と真逆に思えるほどの女性が隣でハンドルを握っているこの現実を、未だにどこかで信じ切れていない。
「うそ~?それでよく返事くれたよね~」
瑛莉香は苦笑しながら冗談っぽく返した。もちろん動機を堂々とカミングアウトすることは出来ない。
「…まぁでも、私は楽しいよ!まだ2日目だけど、いい旅に出来そう!」
瑛莉香は期待で胸を膨らましながら溌溂と言った。
勇太は当たり障りなく相槌を打ったが、期待と不安が交互に押し寄せてきた。本田瑛莉香という一人のほぼ完璧な女性を、この地盤の緩い脆弱な土台で支えられるだろうか。非日常的な刺激を匂わせる空間の中、不必要に摩擦を生じさせてしまわないか心配になった。
国道を走る車はいつの間にか、住宅の立ち並ぶ賑やかな街並みを眼前にしていた。瑛莉香がどこに向かっているのかは未だに分からないが、アクセルとブレーキを滑らかに踏みかえる素足を見つめられることだけが唯一の確信だった。
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