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第1章 都市
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街は今日も普通ではない暑さの朝を迎えた。
連日続く猛暑日。夏を告げるセミの鳴き声も、蚊に刺された痕の煩わしい痒みもまだ訪れていない。湿気が混じる濁った青空に大胆に描かれた入道雲だけが唯一の夏らしい景色だ。それすらも、力を蓄えるようにグングンと雲の先端を伸ばし、やがてゲリラ雷雨となって人々に襲い掛かる。趣のある親しまれた風景が人の命を奪いかねない地獄絵図に豹変することは、ここ数年で何度もあった。
現実世界のそんな皮肉を、海野勇太は自分と重ね合わせるように感じた。
去年の春、3年間過ごした高校を卒業して保険会社に入社。しかし、職場の雰囲気に馴染めずに1年ほどで退職してしまった。地元から離れたい一心でアパートの一室を借りて一人暮らしを続けているが、自己都合で退職をして実家に帰る決心も付かず、僅かな貯金と親からの情け深い仕送りでなんとかこの数か月をやり過ごしていた。
不甲斐ない気持ちに拉げられそうになりつつも、同時に妙な安心感もあった。躓くことは自分らしく思えなくもなかった。今も、昔も。
学生時代、勉強はさほど出来ずにスポーツも苦手。中学では部活がほとんどスポーツ系で固められていたため、
「勉学に励むため」などともっともらしい理由をつけて帰宅部を選んだ。しかし成績は伸び悩み、苦手意識がどんどん募る一方だった。高校受験で現役合格は果たせたものの、地元の人間ですらよくは知らない名の知れぬ偏差値の低い高校になんとか進路が決まったという感じだった。
追い討ちをかけるように人間関係にも悩まされていた。元々内気な性格だったこともあり、友達と自信を持って呼べる人間をほとんど作ることが出来なかった。
小学生時代のあだ名は『うんこ』。由来は、苗字の「うんの」から来ている。今思えば幼稚でバカバカしいものだと一笑に付すことが出来るのだろうが、多感な時期に下らない呼ばれ方で茶化された古傷をなかったことにするのは簡単なようで難しい。その記憶を消した時、きっと自分は自分でなくなる。皮肉な話ではあるが。
ある時の放課後、その当時一番仲の良かった男子がクラスメイトの女子に廊下で「海野君と仲良いの?友達?」と聞かれているところに遭遇したことがあった。周囲の視線や評判に敏感だったせいか、耳だけは良かった。防火扉の後ろに身を隠し、たそがれているフリをして聞き耳を立てた。
「いや、俺は友達とは思ってないよ。勝手についてきてるだけ」
「まさに”金魚のフン”って感じ(笑)」
と嘲笑うような声が聞こえたのは間もなくのことだった。放課後の静穏で神聖な空間にくすんだ塵埃が運び込まれ、気管を針のごとく突き刺した。
それからだ。人を信じ切ることが出来なくなったのは。
日本人はこぞって「みんな仲良く」と言う。しかし、結局そこで言われる「みんな」とは「村人」のことだ。ある程度のテンションや会話の速度、ノリの良さ、話題性、雰囲気の明るさ等々が一致する「同じ村の仲間」が暗黙のうちに前提とされる。そこからあぶれた「よそもの」など仲良くされるはずがない。中学の運動会で、クラス全員で好成績を残すために「絆」だの「団結」だの言っていたクラスのムードメーカー的存在だった女子が、午後の部に入る直前の昼休みでデザートをツマミに気に食わないクラスメイトの陰口を仲間内で叩いていた姿は今でも忘れられない。
自分も謳歌できると信じてやまなかった「普通の生活」は、瞬く間に雹の混じる大粒の雨によって洗い流されてしまった。異常気象は学校という狭い箱の中から抜け出してからも一向に収まることはなかった。
高校3年の秋にもらった保険会社の内定。売り手市場と呼ばれる中での就活はそこまで苦しいものではなかったが、コミュニケーションが上手くもなく、部活や勉強で何か結果を残したわけでもない勇太にとっては誠意と礼儀でなんとか押し切っての結果だった。
期待と不安を胸に社会へ飛び込むも、やはりそこは「普通の人間」の集まり。しかも、いわゆる”体育会系”も多かった。健全な精神状態を維持できた人間ならではの生態だ。案の定、「飲みニケーション」と称した酒豪たちに囲まれて、未成年でありながら深夜遅くまで居酒屋の梯子に付き合わされたことは少なくなかった。クタクタのまま平日を迎えれば湯水のごとくエネルギーが湧いて出るような化け物たちと歩調を合わせなくてはならず、元々脆くか弱い魂は更に小さく削られていった。
訪れた新天地も結局は現在の延長線上でしかないことを痛いほど思い知らされた。どうしようもないものは何をしてもどうしようもなくて、変わらないものは変わらない。どこに行っても自分は相変わらずあの頃の自分と同じなのだ、と。
「………」
クーラーのタイマーが切れて蒸し風呂と化した部屋で、勇太は虚ろな眼差しを天井についたシミに向けていた。意識と共に、負債となった虚無感が目を覚ます。これといった友人もパートナーもいない。挙句、唯一の免罪符にもなり得た”職”まで失った。青年らしさを象徴する全てが断ち切られた暮らしに、惰性以外の要素が入り込むスペースは残っていない。
ただ、彼を刺激する一つの出来事があった。
「来た…!」
静寂に包まれた部屋の中に砂利を削る足音がほんの微かに入り込んだ瞬間、勇太は勢いよく布団から飛び起きた。
普通じゃない一日が、今日もこうして始まりを告げることとなる。
連日続く猛暑日。夏を告げるセミの鳴き声も、蚊に刺された痕の煩わしい痒みもまだ訪れていない。湿気が混じる濁った青空に大胆に描かれた入道雲だけが唯一の夏らしい景色だ。それすらも、力を蓄えるようにグングンと雲の先端を伸ばし、やがてゲリラ雷雨となって人々に襲い掛かる。趣のある親しまれた風景が人の命を奪いかねない地獄絵図に豹変することは、ここ数年で何度もあった。
現実世界のそんな皮肉を、海野勇太は自分と重ね合わせるように感じた。
去年の春、3年間過ごした高校を卒業して保険会社に入社。しかし、職場の雰囲気に馴染めずに1年ほどで退職してしまった。地元から離れたい一心でアパートの一室を借りて一人暮らしを続けているが、自己都合で退職をして実家に帰る決心も付かず、僅かな貯金と親からの情け深い仕送りでなんとかこの数か月をやり過ごしていた。
不甲斐ない気持ちに拉げられそうになりつつも、同時に妙な安心感もあった。躓くことは自分らしく思えなくもなかった。今も、昔も。
学生時代、勉強はさほど出来ずにスポーツも苦手。中学では部活がほとんどスポーツ系で固められていたため、
「勉学に励むため」などともっともらしい理由をつけて帰宅部を選んだ。しかし成績は伸び悩み、苦手意識がどんどん募る一方だった。高校受験で現役合格は果たせたものの、地元の人間ですらよくは知らない名の知れぬ偏差値の低い高校になんとか進路が決まったという感じだった。
追い討ちをかけるように人間関係にも悩まされていた。元々内気な性格だったこともあり、友達と自信を持って呼べる人間をほとんど作ることが出来なかった。
小学生時代のあだ名は『うんこ』。由来は、苗字の「うんの」から来ている。今思えば幼稚でバカバカしいものだと一笑に付すことが出来るのだろうが、多感な時期に下らない呼ばれ方で茶化された古傷をなかったことにするのは簡単なようで難しい。その記憶を消した時、きっと自分は自分でなくなる。皮肉な話ではあるが。
ある時の放課後、その当時一番仲の良かった男子がクラスメイトの女子に廊下で「海野君と仲良いの?友達?」と聞かれているところに遭遇したことがあった。周囲の視線や評判に敏感だったせいか、耳だけは良かった。防火扉の後ろに身を隠し、たそがれているフリをして聞き耳を立てた。
「いや、俺は友達とは思ってないよ。勝手についてきてるだけ」
「まさに”金魚のフン”って感じ(笑)」
と嘲笑うような声が聞こえたのは間もなくのことだった。放課後の静穏で神聖な空間にくすんだ塵埃が運び込まれ、気管を針のごとく突き刺した。
それからだ。人を信じ切ることが出来なくなったのは。
日本人はこぞって「みんな仲良く」と言う。しかし、結局そこで言われる「みんな」とは「村人」のことだ。ある程度のテンションや会話の速度、ノリの良さ、話題性、雰囲気の明るさ等々が一致する「同じ村の仲間」が暗黙のうちに前提とされる。そこからあぶれた「よそもの」など仲良くされるはずがない。中学の運動会で、クラス全員で好成績を残すために「絆」だの「団結」だの言っていたクラスのムードメーカー的存在だった女子が、午後の部に入る直前の昼休みでデザートをツマミに気に食わないクラスメイトの陰口を仲間内で叩いていた姿は今でも忘れられない。
自分も謳歌できると信じてやまなかった「普通の生活」は、瞬く間に雹の混じる大粒の雨によって洗い流されてしまった。異常気象は学校という狭い箱の中から抜け出してからも一向に収まることはなかった。
高校3年の秋にもらった保険会社の内定。売り手市場と呼ばれる中での就活はそこまで苦しいものではなかったが、コミュニケーションが上手くもなく、部活や勉強で何か結果を残したわけでもない勇太にとっては誠意と礼儀でなんとか押し切っての結果だった。
期待と不安を胸に社会へ飛び込むも、やはりそこは「普通の人間」の集まり。しかも、いわゆる”体育会系”も多かった。健全な精神状態を維持できた人間ならではの生態だ。案の定、「飲みニケーション」と称した酒豪たちに囲まれて、未成年でありながら深夜遅くまで居酒屋の梯子に付き合わされたことは少なくなかった。クタクタのまま平日を迎えれば湯水のごとくエネルギーが湧いて出るような化け物たちと歩調を合わせなくてはならず、元々脆くか弱い魂は更に小さく削られていった。
訪れた新天地も結局は現在の延長線上でしかないことを痛いほど思い知らされた。どうしようもないものは何をしてもどうしようもなくて、変わらないものは変わらない。どこに行っても自分は相変わらずあの頃の自分と同じなのだ、と。
「………」
クーラーのタイマーが切れて蒸し風呂と化した部屋で、勇太は虚ろな眼差しを天井についたシミに向けていた。意識と共に、負債となった虚無感が目を覚ます。これといった友人もパートナーもいない。挙句、唯一の免罪符にもなり得た”職”まで失った。青年らしさを象徴する全てが断ち切られた暮らしに、惰性以外の要素が入り込むスペースは残っていない。
ただ、彼を刺激する一つの出来事があった。
「来た…!」
静寂に包まれた部屋の中に砂利を削る足音がほんの微かに入り込んだ瞬間、勇太は勢いよく布団から飛び起きた。
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