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第一部・眠れる夏のスノーフレーク

視察

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 桜の緑を雨露が濡らして、朝日を一つ一つ閉じ込めるように輝いている。遅刻坂を息を切らして上るのは光晴だ。チャイムが遠くで鳴り響く。

「ミツハル。最近、部活出てるみたいじゃん」

「ミツハだ。大迫さんがうるさいんだよ」

「校内展てやつか? あれ、いつあるんだっけ」

「毎年八月のお盆辺り。土日で父兄も呼んで」

 はあ、と納得したのかしなかったのか、

「でも、そんな先のイベント。今から取りかかるのか」

「何枚も描いて自信作に絞るんだよ。総勢五名の部員で最低二枚ずつ。じゃないと見栄えがしないから」

「まあ、俺たちも八月の地区大会に向けて練習中な訳だから、分からんでもないけど。ああ、一勝でもしたいよなあ。九人ギリギリで」

 古島高校野球部は毎回予選第一試合敗退の常連だ。十七年前に二勝を上げた時は優勝校並みの凱旋パレードだったらしい。部員も二十名はいたという。今の運動部は野球部と卓球部。バレー部はあるが男女混合のミニゲームしか出来ない。試合など出られるはずもなかった。

 何もかもがミニマム化された古島高校にあって、もっとも自由に大胆に振る舞えるのは美術部だけだと光晴は信じている。想像力のまま、個人の才気を生かし、キャンバスだけは無限の世界を描き出せる。それが美術部を選んだ光晴の理由だった。予定調和に満ちた閉塞感への抵抗だったかも知れない。ただしそれも夏雪への恋心で一変した。世界がぐるりと変わったのだ。

「ミツハル。お前、大学決めたのか」

「行かない。この島に残ってなんかやるよ」

「なんかって、漁師か農家か養鶏場しかないだろ。それともあれか、スタバでも作るか。だったら先にケンタッキー作ってくれよ。地区大会の遠征でいちばんの楽しみなんだからさ」

 パルス社の作ったウェブ端末・パルスキャッチャーのお蔭で島の若者は多くの娯楽を手に入れた。その気になれば本土に通わなくとも高校卒業までの授業が受けられる。しかしそれは逆に若者の都会志向を加速させる力にもなった。ウェブ授業を受けていた生徒の七割が一年とせず本土へと生活を移した。どれだけのリアリティを持った複合現実システムでも生の現実には敵わない。どれだけ離れた距離で笑い合えても温もりのある握手は出来ない。島にいる限りハンバーガー一個食べられない。それを食べながらバカのように笑い合う仲間も場所もないのだ。誰もが本土へ向かう。そうやって、島には消極的な若者だけが残ってゆく。燻ってゆく。ごく少数、島の誇りを掲げた若者以外は。

 夏雪の予定は終ったのだろうか――。

 光晴は放課後の部室で筆を握り、連絡を取りたくてたまらなかった。



 夏雪を研究室に残し、相楽はアメリカ本国の視察者を迎えに出た。乗せる車はもちろん大型タクシー。彼は道案内だけだ。

 多賀岬の果てへ辿り着いたのは、研究者のアメリア・オルコット。それからカプセル製作時に相楽と面識のある技術者のトップ、デニー・ヒックスの二名。両名、専門用語も含めて日本語は流暢だ。

「シュンエイ、久しぶりだね。まだ結婚していないのかい」

 アイダホでジャガイモを作っていると言っても疑われない体格のヒックスが気さくに話しかけると、相楽は頭を掻くだけだ。

「それが、恋人でも作ると被験者に嫉妬しかねません。それくらい美しい人です」

 ヒックスはそれを笑顔で流し、

「ミズ・アメリア・オルコットだ。米国でのクーリングシステムプログラムを一手に任されている才女だよ」

 ブロンドの髪を後ろでまとめた彼女は控え目に右手を差し出す。その様子が研究一筋の科学者らしかった。歳は三十一歳と聞いている。

「初めましてミスター・サガラ。お会い出来て光栄です」

 相楽も添えるほどに軽く手を握り返し、

「こちらこそ。それでこちらへの滞在は?」

「ええ。被験者の入眠から三十六時間経過後に本国へ戻るつもりです」

 相楽は表情を曇らせる。

「それが、再入眠は一週間後になりそうでして――」

 ヒックスがいち早くその顔を読む。

「何かトラブルが?」

「いや、トラブルではありません。違う思惑で再入眠を一週間延ばすつもりなんです」

「それはまた、どうして」

 そこへ夏雪が萌黄色のワンピースで、まるで妖精の佇まいで現れた。そのたおやかな仕草に二人が息を飲む。セクシーさを前に出したアメリカンビューティには見られない美しさだ。
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