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第一部・眠れる夏のスノーフレーク

ヌードモデル

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 日曜は朝から雨だった。彼女はローブだけの姿で窓に立ち、霧に煙る港を見下ろしていた。

(まあいいか。明日は上がりそうだし、久しぶりのバイクは明日にでも楽しもう)

 ホテルの朝食はトーストを二枚焼き、コーヒーも二杯飲んだ。エレベーター前の販売機でコーラを買い、部屋に戻る。

 中途覚醒から五日目。生の実感にはまだ遠く及ばない。日差しを浴び、風を受け、食物を取り、潮の匂いに晒され、けれどまだ足りない。心が大きく動くもの。大きく揺り動かされること。それもない中で唯一、なぜか排泄行為だけが肉体に生きている実感を与えるのだった。

 電話が鳴る。光晴みつはからだと彼女がパルサーを手にすると、しかしそれは相楽さがらからだった。

「おはようございます先生。どうなさいました?」

『いえ。その後、目眩はどうかと訊き忘れていたので』

 夏雪なゆきは少し迷う。

「いえ、全然平気です。まったくもって」

 ウソではあった。ただそれまでの生活体験からして、取り立てて騒ぐほどのことでもなかった。

『そうですか。では雨の日曜ですが、よい一日をお楽しみください』

 目眩くらいならば正直に話してもよかった。しかし些細なことでも実験の中止に繋がるのならば言いたくはない。それが彼女の本心だ。何としても実験は継続する。現在の技術進歩の中ではまだ継続してもらう。もらわなければ。

 三十分後。ちょうど十時半に電話が入った。今度こそ光晴だ。

「ミツハ君? 上がってきていいわよ」

 二分するとドアが叩かれた。

「おはようございます」

 彼は大きめのリュックと手に袋を下げて現れた。

「濡れちゃったわね。タオル貸すから拭いて。自転車なんだもんね」

「ありがとうございます。それとこれ――」

 差し出された袋を彼女が手に取ると、白ワインが一本。

「どうしたの、これ」

 彼は頭を拭きながら、

「この前飲んでたのってこれですよね。コンビニで――」

「買ってきたの? 未成年なのに?」

「ああ、島ってその辺ゆるいんです。無理にモデルを頼むんで、これくらいしたいなって思って」

「無理言ったのは私の方よ。ちゃんと払うから――」

 が、光晴はそれを遮る。

「いいんです。その代わり、ヌードを描かせてください」

 思わぬ申し出だった。


 先日と同じ格好で座った彼女はローブに着替え、豊かな胸の谷間を晒している。

「それ、ちょっとこの前より多いですね」

 光晴はワイングラスを指した。

「ああ、これ? 今から飲むの」

 少しだけ楽しいことの始まる予感が夏雪にはあった。

 光晴は道具を準備している。

「ねえ。どうして急にヌードにしたの?」

「それは――キレイだったからです。初めて見た時から」

 質問した本人が照れてしまう答えだった。

「頼むのも見るのもすごく恥ずかしかったんですけど、でも描きたい気持ちが大きくて。すみません」

 言うが早いか、もうスケッチブックを開いている。

「謝らなくていいわ。ミツハ君にはもう三回は見られてるから。私は気にならないわよ」

 彼女はグラスの酒をスイと飲み干す。

「あ、全部飲むと――」
「ああ、ゴメンなさい・午前中からお酒なんて要領がつかめなくて。また入れるから」

 ポーズとグラスの位置が決まり、雨とはいえ明るい自然光の中でデッサンは始まった。

「喋っててもいいの?」

「ええ、いいですよ」

「明日ね、向こうの研究者たちが来るんですって。どうせいろいろ検査されるんでしょうけど、知らない人って苦手なのよねえ」

 ローブの襟から微かに栗色――その髪と同じ色の先端を見せて、夏雪は息を吐く。

「僕も、知らない人を描くのは出来ません。かといって知ってる人を描くのも照れ臭いんです。だからいつも風景とか静物ばっかりになって」

 それだけ言うと彼はまた無口に鉛筆を動かし始めた。夏雪とスケッチブックを忙しく目で追い、四十分が経った。

「すみません、疲れましたよね。休憩しましょう」

「そう? 私が動いちゃうとまた面倒だから冷蔵庫空けて。コーラ入ってるから」

「ありがとうございます」

 椅子へ戻った彼を前に、彼女はまたもや楽しそうにグラスを空ける。

「ミツハ君は、本土の高校に行こうと思わなかったの?」

「いえ。っていうか、まだ下に妹が二人いるんです。下が小学校三年生で、上が中学校に入るタイミングと一緒だったんで。来年はもっとひどいですよ。ウチ、そんなお金もないですし」

「ちょうど三つずつ離れてるんだ。じゃあ今度はミツハ君の大学受験と妹さんの高校受験、それに中学入学か。親御さん、大変ね」

 夏雪は空いたグラスへワインを注ぐ。

「親は妹たちに甘いんです。けどその分過保護なんで妹は古島高校しか選べませんけどね。ただ島の子供の人口から、もう閉校は決まってるんです。再来年から受験生は迎えずに、妹が卒業したら終わる学校なんです。だから末っ子は本土に行くことになります。ギリギリ、ジェットフォイルで通える距離なんで」

「ミツハ君は、大学どうするの」

 彼は考える間もなく、

「大学はあきらめて、相楽先生の研究の手伝いをしたいんです。ホントは理系の大学に行ければよかったんですけど、文系なんで。そのためにいつも研究室に顔出してるんです」

「そう……。それでも大学は出とくべきじゃないのかな」

「なんですけどね。でもそしたら夏雪さんのこと見れなくなりますから。夏雪さんはいつまで実験に参加するんですか」

 彼女には本当のことが言えない。もうじき自分が十年の冬眠に入るのだとは。
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