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第一部・眠れる夏のスノーフレーク

セントラルホテル

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「秋庭君」

 光晴みつはが放課後の廊下へ出ると、白衣を脱いだ相楽の声がした。

「相楽先生――」

 振り返るとポケットから紙片を出し、

夏雪なゆきさんは今ここに泊まっている。電話番号は書いておいた。彼女も暇だろうからたまには連絡してあげてくれ。本人には承諾を取ってある」

 それだけ言うと廊下を戻って行った。開いた紙には、セントラルホテル古島こじまあ、と書いてあった。ホテル。

 昨夜の電話通り、嫌々を隠して美術室へ顔を出すと、大迫が待ち構えていた。

「来ましたね! 皆注目―。この人が三年の秋庭先輩でーす。去年の春からサボりっぱなしなんで二年の私にもレアキャラでーす。秋庭先輩、後輩に挨拶してくださいよ」

 新入生合せて四名の部室の入り口で固まった。それでも全校生徒の一割だ。

「っと、三年一組。秋庭光晴です。新一年生は石膏デッサンに励んでもらう時期なので夏休みの校内展に向けて頑張ってください」

 数秒後、大人しそうな顔立ちの男女がパラパラと拍手を鳴らした。

「で、大迫さん。僕、今日は急ぐからこれで」

「ちょっと先輩!」

 追いかける声を振り切って階段へ向かった。

「ミツハルじゃん」

「ミツハだよ」

 校舎裏の駐輪場から自転車を出しているとクラスメイトの鷺池さぎいけ幸二こうじが野球部のユニフォームで現れた。

「ホントさ。お前いつもさっさと帰って何してんの。二年に入ってすっげえ変わったろ」

 光晴は取り澄ました顔で答える。

「何って、ネットゲーム。今ギルドのナンバーツーなんだよ。責任重大で」

「ま、恋愛関係じゃないことだけ確実だし。いいけどさ」

 言うと、金属音の響くグラウンドへ走って行った。この学校の恋愛関係は一週間と経たず公になる。それを思えばあの先輩たちはどうやって小さな愛を育んでいたのだろうと光晴は彼らのことを思う。二人とも本土の大学へ進んだと聞いたが、それぞれ遠く離れた場所だった。

 校門から自転車にまたがり、軽い下り坂を今日は港へ抜ける。ホテル。どんなところだろうと、その響きだけで十代の高校生を身構えさせる。

 十分の後、港へ着くと、

(セントラルホテル――)

 ホテルの前で彼女の名前を読み上げて認証タップする。耳元へ電話を近づけ、右耳をふさいだ。

『もしもし? ミツハ君?』

 いきなり分かったらしい。

「あ、はい。今セントラルホテルの前にいるんですけど」

『学校終わったのね。こっちも今終わったとこで、中に入って椅子にでもかけてて』

 それだけで電話は切れた。

(と言われても――)

 ホテルの入り口を見る。受け付けのようなところに女性が立ってこちらを窺っているようだった。

 なんとなくプレッシャーを受け、光晴は中へ入るのをあきらめて彼女が用事を終えてやって来るのを外で待った。その間、七分。パルサーを眺め続けて時計だけ気にしていた。

「ミツハ君、ゴメン」

 来た、と声の方を見て違和感が襲った。彼女の姿がない。けれど確かに声は自分を呼んだ。代わりに彼女と背格好の似たサングラスの女性が歩いて来る。

「お待たせ」

 彼女だった。

「夏雪さん、髪切ったんですか」

 軽く衝撃だった。着ている服も見たことのない真っ赤な花柄のワンピースだ。

「ちょっとね。切ってみたくなったの。すっごい軽い。イメチェンかな」

 そう言ってサングラスを外した。

 いつかテレビで「女が髪を切るのは特に理由はなく衝動的なものだ」と言っていたが、その通りなのかと驚きを通り越して感心した。

「何か買って行く? 中に販売機もあるけど」

「いえ、別に何も」

「高校生が遠慮しないの。コーヒーと炭酸どっちがいい?」

「じゃあ、炭酸で――」

 自動ドアを抜けて中へ入るとさっき目が合ったカウンターの女性が笑顔で迎えた。

「お帰りなさいませ」

 カウンターの上へ鍵を置く。彼女はそれを手に取り、

「知り合いなの」

 言うとエレベーター前へ向かった。

「ごゆっくりどうぞ」

 そのやり取りを見ていると、光晴は自分が少しだけ大人に近づいた気がした。いつか一人でホテルに泊まる時には同じように振る舞おうと。

「コーラでいい?」

「あ、はい」

 夏雪は販売機でコーラのペットボトルを買うと彼へ手渡した。

 乗り込めば当然のように無言だったエレベーターは五階で止まった。
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