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6・香月義正

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 翌朝は朝食に下りず、言いつけられた家のことを淡々と片づけていった。洗い物をすませ、洗濯物を干して、掃除機をかけて、そうすることで今の自分のわがままを許してもらおうとするように。


 昨夜の収入。手元の三千円の中から小銭を抜き出して煙草を買いに出かけると、日差しが眩しかった。ニーナの髪と同じ色で空が染まった。

 午後はとにかくギターを弾いた。どの曲も歌詞はすべて頭の中に一字一句間違えずに記憶されている。あとはギターアレンジの問題だ。それも煮詰めてゆくと要領が分かってきて、今日は『十七歳の地図』と『Forget‐me‐not』が唄えそうだった。ニーナのために佐野元春も覚えたかったけれど、今は尾崎の歌が唄いたい。


 夕食用の米をセットしたのが午後三時。僕はギターを担いでバスに乗る――。
 少し雲の広がった空をサングラス越しに見上げると、風に乗る鳥の影が見えた。港が近いのでカモメかもしれない。ウミネコかもしれない。けれど僕は空を見上げている場合じゃない。足元の高架広場を一歩ずつ歩いてゆくだけだ。

 例のベンチには先客がいたので他を探すと、広場中央のど真ん中のベンチしかなかった。弱気な心がその場を嫌った。けれど、躊躇っても仕方がない。今日からはこの場所、この時間がメインになるかもしれないのだから。

 高架広場中央のベンチに座り、ギターケースを隣に立てかけて、まずは煙草を吹かした。買っておいた缶コーヒーを飲めば気楽な大学生風情にでも見えるだろう。僕は時に、自分が十七歳だという現実を本当に忘れてしまうことがある。その辺を警官が歩いていようとも平気になる。

 ギターを手にすると周囲のことはあまり気にならなくなり、何か始まるのかという目で眺めてゆく人々を横目に、ハーモニカを吹いてチューニングにいそしんだ。

「おう少年。やってんじゃないか」

 右前方から現れたのは、確か香月義正さん。先日の大学生だった。

「――こんにちは」

 彼は背中にバッグを抱え、

「ちょっと待ってろ。こないだの約束がまだ果たせてねえ」

 言うなりどこかへ消えた。

 待てと言われても何を待つでなく、『SOMEDAY』をインストで奏でていた。怯まずにケースは目の前だ。

 五分後、香月さんが走って戻ってきた。来るなり、どっかと左側に座って足を組む。

「約束の缶コーヒーだ。あとで俺にもやらせてくれよ」

「その前に、あれから歌も練習したんで聴いてもらっていいですか」

「おう。どんどんやれ」

 僕は持ち歌を順に並べてゆく。その隣で香月さんは通行人を眺めている様子だった。

「おい――ギター貸してくれ」

「え、まだ終わってないですけど――」

「いいからさ。じゃなきゃチャンスが通り過ぎる」

 言うと彼は、半ば強引にギターを奪った。

 ――おいらは街のストリートシンガー
 ――ちょっとおいでよそこの彼女
 ――そんなしょげた顔してないで
 ――とびきりの歌 キミに唄うよ

 と、そこまで陽気に唄うと、突然歌を止めてギターを返してきた。

「どうしたんですか」

「ダメだ。彼氏と待ち合わせだった」

 そういう方向性で近づかれると困るなと、僕は戻ってきたギターを紡ぐ。そこへ制服女子がカバンを下げて三人現れた。香月さんがふたたびギターを奪おうとする。

「ヒロキ! 友達連れてきたよ! こっちがサユで、こっちがミナミ」

 ニーナの隣に並んだ純朴そうな女子生徒が二人、はにかみながら頭を下げた。肩までの髪を揃えて、どこにでもいる女子高生という感じだ。ニーナと並ぶと同い年に見えないほど幼い。

 彼女は僕の横の香月さんを不思議そうに眺め、

「ヒロキ、知ってる人?」

 そう尋ねた。僕が答えあぐねていると、彼がしばらく固まっていた表情を崩す。

「どうも! 俺ね、香月義正! ヒロキの親友。な、ヒロキ」

「そうなんだ。私、ニーナ。ヒロキのマネージャーです」

「へーえ。その――日本語上手いね。留学生? なんていうか、まあどうでもいんだけどさ。ヒロキには、いろいろと歌の手ほどきをやってるって訳なんだけど。聴く? 聴きたい? 仕方ないなあ。おいヒロキ、ギター」

 仕方ないのは僕の方だと、渋々ギターを手渡す。彼は意気揚々とピックを取り出して唄い始めた。


 ――つまらない街でエブリデイ! くだらない毎日さエブリナイト!


 女子高生二人がポカンと口を開けてその様子を見つめている。ニーナが何をどう説明して誘ったのかは分からなかったけれど、期待外れの色がありありと見えた。

 唄い続ける香月さんのギターがやんだのは十分後だった。満足そうな顔の彼がコーヒーを飲み干す。そして拍手もない。その空気を蹴散らすように、ニーナが笑顔で言い放つ。

「私たち、ヒロキの歌を聴きに来たんで。そろそろギター返してあげてもらっていいですか?」

「ああ、そう? だよね? ヒロキ君のギターなんだから、彼に弾いてもらわなきゃね。おいヒロキ、しっかりやれよ」

 背中をバンと叩かれて、ようやくでギターが戻ってくる。

「じゃあ――昨日から練習してるんだけど、『SOMEDAY』の間奏を煮詰めたから。ニーナはそれでいい?」

「いいよ」

 彼女は軽やかに頷く。僕は、こちらも練り上げたイントロからスタートする。弾き込んだだけ、自信はあった。

 ツーコーラスを唄ってもキーがしっくり来ているのか声が上ずらない。調子よく入った間奏もそのままクリアできた。あとはサビの繰り返しだけだ――。

 女子高生三人の拍手をもらい、『街の風景』も唄ってみた。反応は上々だった。その後ろに数人、見物人ができるくらいにはなっていた。

 ミナミ、と紹介された子が照れながら、

「えー、もっと違う感じを想像してたんですけど、プロみたいでした。聴けてよかった」

 次いでサユちゃんが、

「同い年って聞いとったけん。なんか大人っぽかなあって。でも、よかったです。また聴きたいです」

 ニーナは誇らしげに僕の目を見つめ、片目を瞑ってみせた。

「じゃあ私たち、これで帰るね。ヒロキ、夜は出るの?」

「一度帰るけど。気が向いたら――」

「電話する。またね」



 純真な女子高生たちが去ってゆくと、隣で呻きが聞こえた。

「いいなお前は……外国人美女と女子高生にもてはやされて……。ああいう時には五分ごとに俺にも唄わせるのがルールだろ? 自分だけいいとこ持っていきやがって。もうコーヒーおごらない。決めた」

「だって、約束してたんですよ。僕が弾かないことには――」

「いいって、いいって。それよりあの金髪の女の子はなんていうんだ。マネージャー、とかごまかしてたけど、彼女だろ。すっげえ美人じゃねえか」

「ニーナは――そういうのじゃないですよ」

 もしそうだったら、という思いが生まれたのはその時だ。僕が時折、彼女に感じていた胸の痛みは、そういうものだったのだと気づいた――。

 夢、と呼べるものはないけれど、憧れるものはある。すべてを許してくれる何か。すべてを受け入れてくれる誰か。いつまでも一緒にいたいと心から思える誰か。そのすべてを満たしてくれる相手として、僕は彼女を意識し始めていた。



 家に帰ると、いきなり玄関まで聞こえる声で母が叫んだ。

「尋生! 中村さんから電話! もう何回もかかって来とるとに!」

 ギターを二階へ戻す暇もなく、居間の電話を取った。

「もしもし――」

『尋生君……。私、いつまでこげん気持ちでおらんばいけんと? 私のこと、考えてくれとる?』

 僕はニーナの青い瞳を脳裏に浮かべながら答える。

「明日――学校終わったら、長崎駅前まで来て。高架広場。ギター持っとるけんすぐ分かる」

『駅? 長崎駅に行ったら会ってくれると?』

「うん。だけん――話は明日」

『分かった。学校終わったらすぐに行く。部活も休む』

 きっちりとした返事を返したこともあって、電話は素直に切られた。あとはニーナに頼むだけだった――。
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