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75・浴衣

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 木村呉服店に着いたのは午後の一時前。定刻五分前。すぐに若い女性が声をかけてきた。

「どうもいらっしゃいませ。本日はどういったものをお探しでしょうか?」

「控えおろう。ご主人に、このミス・盆踊りの田村が参ったとお伝え願う」

 調子に乗っている時の田村さんだ。


「はい。少々お待ちを」


 しばしして、先日のご主人が現れた。

「いやいや、本日はどうもどうも。私事ながら、なかなかの一品が仕上がりましたので、まずはご拝見を――」

 ご主人が笑顔で言うと、先の女性が長い横棒に吊るされた鮮やかな着物を持って現れた。僕は一瞬、固唾を飲む。想像以上に僕がイメージした初ちゃんのデザインだ。

 田村さんより先に、東横さんが思わず、といった感じで感想を漏らす。

「素敵……」

 続いて田村さんが微笑を口元にたたえて、

「いい出来だわ。さすが私の選んだセクハ――」

 ご主人が慌てて言葉を遮る。

「と、とにかく着付けの方を。信濃さん、お二人にお召し物を準備して」

「はい、かしこまりました。ではお嬢様方、お履き物をお脱ぎになりましたら奥の方へどうぞ」

 声がかかると、二人は無言で従う。田村さんは堂々と、東横さんは静やかに。


 二人が奥へ引っ込むと、当然僕一人が残される。マリィには最小限のミニマムになってもらい、狭いけれど僕のカバンの中に入ってもらっていた。


 手持ち無沙汰な僕へ、ご主人が相好を崩し、話しかけてくる。今回はいかにも呉服屋のご主人という出立で。

「それにしても素晴らしい図柄でした。あれはいったい、どなたの絵で?」

 僕はためらいながらも、

「僕の母の――遺作です」

 余計なことを付け足したと後悔したが遅かった。

 それでもご主人は柔らかな笑みで、

「さようですか。早や五十年、着物というものに触れてきましたが、これほど着付けの楽しみな浴衣はございませんでした。男どもはそこへ掛けて、ゆっくりと待ちましょう」

 僕は促された、横長の赤い布がかけられた長椅子へ座る。ほどなくお茶が出された。冷たいほうじ茶だ。それが似合う、好天候の日和になっている。


 二人分の浴衣の着付けというのはどれくらい時間がかかるのかと膝を軽く揺らしながら待っていると、やがて二人は静々と奥から影を見せた。艶やかな、なのに控えめなブルーに鮮やかな金魚の図柄が揺れ動く。

 真っ先に、胸を強調された姿の田村さんが口元を丸く緩めて、

「どうかしら竜崎氏。お母様のデザインされた浴衣というのは?」

 僕は気づかないうちに息を止めていた。

「……イメージ以上だ。似合ってるよ」

「あら、そこは『かなり』とか『素晴らしく』とか言うべきよ。けれどそれは、お祭り会場へ出るまで取っておきましょう」

 背中に大きくあつらえた、デザインを損なわない程度の朱色の帯に、着物のブルーの下地。あちこちにさり気なさを装った赤い金魚が戯れるように泳いでいる。

 と、東横さんがうつむき加減だ。

「瑞奈、何を小さくなっているの。ここは堂々とその浴衣向きの胸を張って、竜崎君の燃え滾る熱い少年心を刺激するような、乙女の恥じらいを込めたポーズを取るものよ」

 言われた東横さんは心から恥ずかしげに、

「どう――ですか――」

 これぞ日本の浴衣文化だという控えめな所作で、軽く袖を振ってみせた。

「うん、すごくいい。多分、今日のお祭りの主人公は二人で決まりだよ」

 田村さんの指摘を受けて、照れながら称賛した。

「あら、瑞奈には高得点ね。でもいいわ。おっかなびっくり小心者の竜崎君の言葉としては上出来だわ。さあご主人、これに見合う履物というのは?」

 ご主人がニコニコと嬉しそうに、

「ここへご用意させていただいております。どうぞ、お御足を――」

 気がつけば上がりのすぐ下へ、モダンなデザインの下駄が用意されている。まずはゆっくりと田村さんが足を落とす。浴衣の柄を邪魔しない、赤と薄紫の組みひものような鼻緒がきれいだ。

「はあ――」

 ご主人がため息を漏らす。

「お似合いです。着物というものは実は元来引き立て役。それがここまでお似合いになる素材というお客様も久しぶりに拝見いたしました」

 僕もそういうふうに言えればよかったのか。

「ええ、ご主人。でもそれはこちらを拝見なさって今一度――」

 田村さんの流し目を受けて、東横さんがおどおどしながら下駄を履いてみせた。浴衣の裾が理想的な長さで、さすが本職の着付けだと感心した。


「どう――ですか――」


 こちらはしっかりとした青、それから薄桃色が合わさった鼻緒。田村さんとは色を変えている。元々が目立つ田村さんには淡い色、そして大人しい東横さんにはくっきりとしたコントラストの鼻緒だ。下駄の木目色が際立っている。

「東横さん、すごく似合ってるよ」

 僕が言うと彼女は頬を染めて、

「実は浴衣って、初めてなんです――。似合って、ますか?」

 これぞジャパニーズ・ユカタ美人というほど健気な雰囲気がマッチしている。いつも大人しげな彼女が、最も艶やかに見えた一瞬だ。心で思うことだが、また控えめな胸が浴衣を完成させるパーツになっている。

「ふっ。竜崎君の目が蕩けてしまわないうちに、ご主人へはまずお礼を差し上げ、私たちはゆったりとお祭りへ出かけましょう」


 バッグの中でもぞもぞと動くものがある。マリィも早く彼女たちの姿が見たいのだろう。


 長い暖簾をくぐって表へ出ると

「では皆さま、どうぞ楽しく、お祭りを満喫なさってください――と、その前にお二人の姿をぜひ写真に収めたいので、白壁をバックに並んでみてくださいませ」

 ご主人の言葉に怯えたのは東横さんだ。

「写真――ですか」

「ええ。ウチの壁看板にしたいと思いまして。それほどお二人ともお似合いです。苦心して仕上げた甲斐もあるというものです」

「瑞奈、いい機会だわ。お言葉に甘えて、レッドカーペットの上に立った気分でポーズを取りましょう」

「でも――」

 言うか言わぬかの間に、奥の女性がカメラを持って出てきた。

「どうぞ、そちらへお並びください――」

 悩ましい斜め前のポーズ(自分をよく知っている向き)を取った田村さんと、寄り添うように恥ずかし気に立つ東横さん。


 合計三枚の写真をカメラへと収めれば、あとは自由の身だ。そして僕は不安に思う。この二人の浴衣美人を率いて歩けるほどに、僕の心は強くない――。
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