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特別編
25,000pt突破特別編「初子と真二」
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「真二い。コーヒー淹れてえ」
リビングを抜けて、僕の部屋へと、母の気の抜けた声が届く。朝から作業部屋へこもって八時間だった。
僕は宿題を投げ出して部屋を出る。すでにソファーで崩れ落ちそうになっている母がいた。
「豆は?」
僕はキッチンでお湯を沸かし始めると訊ねる。
「うーん。マンダリンかな。はあ、もうこんな時間?」
僕はドリッパーをデキャンタにセットしながら、
「朝ご飯もそこそこですぐだもん。お昼ご飯、どうする?」
「そーだなあ。パニーニ」
「ないよ。サンドイッチでいい?」
「しょうがないなあ。ホットサンドメーカー、買おうかな。あ、ネットで調べてみよ」
急にフットワークが軽くなってスマホを取りに行った。僕はサンドイッチの具材を冷蔵庫に探し始める――。
レタスとトマトとチーズ。シンプルなサンドイッチをつまみながら、母はテーブルでスマホを眺めてゆく。
「あそこのパン屋さん、パニーニの――なんだっけ。あ、そうだ。チャパタってあったかしら。チーズの溶けたヤツ、食べたいんだな」
まだあきらめていない。けれど、上手く話をそらしてゆけば、母がすぐに飽きてしまうことを僕は知っている。仕事のこと以外には、熱しやすく冷めやすいのだ。
「それで、仕事は片付いたの? 締め切り明日なんでしょ?」
僕がテーブルから皿を引きながら言うと、母は二杯目のコーヒーをソファーで飲みつつ、
「今夜中かな。ギリギリで飛び込んでくるんだもん。取材抜きの作品は不本意なんだけど。たまたま図鑑があったから」
一度、大きなあくびを見せて、そう答えた――。
季節は秋。母は三十七歳、僕は十七歳の高校二年生。父はもうその頃から家には戻らなくなっていた。
作業部屋へ戻った母は仕事の続きに取りかかる。もう三時間すると夕食の支度だなと、きっと作品の完成を見ないと戻らない彼女のためにキッチンへ立つ。今夜は僕も試験勉強で手が外せない。簡単にパスタくらいがいいかと、もう一度冷蔵庫をのぞく。明日は二人で買い出しだ。
試験勉強の合間にベッドへ転がると、この生活がいつまでも続いてゆく錯覚に包まれる。初ちゃん――僕は母をそう呼んでいた――と二人きりの、混じり物の何もない世界。生活。暮らし。そんなものに僕は満足していた。初めて母と結ばれた二年前の、不用意な子どもの気持ちのまま、僕のこの溢れそうな思いがやがて母を苦しめてゆくとも知らず。文字のごとく子供だった。
机でシャーペンを動かしていると、ノックもなくドアが開く。
「真二い、お風呂入りたあい」
僕は手を止めて、
「仕事、終わったの?」
「へとへと」
「バスタブ、お湯張るから――」
彼女がお風呂から上がるのを見計らって、調理に取りかかる。初ちゃんは頭にタオルを巻いて、珍しく缶ビールを開けた。きっと、絵は上手くいったのだろう。
「アスパラってたまに食べると美味しいわね。栄養素のことは知らないけれど、謎のビタミンがにじみ出てくる感じ」
母はフォークを動かしてゆく。
「軽く塩ゆでしようと思ったんだけど、水っぽくなるから焼き目をつけてみた」
「エノキも美味しい」
「ベーコンがなかったから、ベーコンビッツでごまかしたけど、それなりにはなったよ」
「それなり、ね。いい言葉だわ」
食事が終わり、僕もお風呂へ入る。今日のすべてが終わると、二人で広いベッドへ潜りこむ。一年前には、父が眠っていた場所へ――。
「フラクタル――」
そして母はいつもの口癖を呟く。
「今日は、何の話?」
僕は、まだまどろんでいたい頭の中で問いかける。
母は、夢見がちな少女の声で語り始める。
「高層圏から見下ろした地球を思い浮かべるの。地表の大陸は様々な海岸線で縁取られている。それをさらに降下して観察すると、海岸線は形を見せてくるわ。ギザギザと尖った岩場に砂地。そこからもっとミクロに――普段見かける地図と同じくらいに距離を落とす。そこにはまた海岸線が姿を見せる。もっともっと近づいてゆくと、車で走れる距離の海岸線――そして足もとを濡らすほどの距離。そこでは皆、ひと欠片の小石さえ同じ海岸線の姿を見せるわ。全体が一部を、そしてまた一部がその全体を現わしてるような」
小難しい話が始まった。
「それは、どんな結末に落ち着くの? 前に言ってたスケッチブックの黄金比と同じ話?」
「いいえ。それはどこまでも外へ広がるフラクタル。私が今、伝えているのは、原子レベルまでフラクタルは届かないという話。ミクロの世界では、どこかでフラクタルの構造が崩れてしまう。原子レベルまで拡大した目線は、ただの波動を観測するだけ。真二は昔、ポテトサラダまで温まってしまうコンビニのお弁当を嫌がったけれど、それは人類の英知によって越えてゆけるかもしれないもの。人は人を超えてゆく。それは人類の進化。人類はいつも進化してきた。けれど元をたどれば同じ人の形を保っている。私はね、人の心の中にもフラクタルが存在すると思うの。私たちは進化の過程でどこまでも続く海岸線を手に入れた――。あ、今度はボルチーに茸の入ったグラタンが食べたいわ」
初ちゃんの話はいつも、取りとめのない言葉で締めくくられる。そして甘やかなキス。
「真二は遠いフラクタルを目指す勇気がある? 数学的根拠を保ったままの、果てしない未来――この世界の外側へ――」
その時僕は、いかにも子供っぽいセリフを呟いた。それだけは覚えている。
「僕は……初ちゃんと一緒にいられるなら今のままでいいよ」
母は、
「そう――」
眠たげな声で天井を仰ぎ、僕の左手を握った。僕にはそれだけでよかった。世界のすべてだった。一年後、彼女が自ら命を落とすまでは――。
リビングを抜けて、僕の部屋へと、母の気の抜けた声が届く。朝から作業部屋へこもって八時間だった。
僕は宿題を投げ出して部屋を出る。すでにソファーで崩れ落ちそうになっている母がいた。
「豆は?」
僕はキッチンでお湯を沸かし始めると訊ねる。
「うーん。マンダリンかな。はあ、もうこんな時間?」
僕はドリッパーをデキャンタにセットしながら、
「朝ご飯もそこそこですぐだもん。お昼ご飯、どうする?」
「そーだなあ。パニーニ」
「ないよ。サンドイッチでいい?」
「しょうがないなあ。ホットサンドメーカー、買おうかな。あ、ネットで調べてみよ」
急にフットワークが軽くなってスマホを取りに行った。僕はサンドイッチの具材を冷蔵庫に探し始める――。
レタスとトマトとチーズ。シンプルなサンドイッチをつまみながら、母はテーブルでスマホを眺めてゆく。
「あそこのパン屋さん、パニーニの――なんだっけ。あ、そうだ。チャパタってあったかしら。チーズの溶けたヤツ、食べたいんだな」
まだあきらめていない。けれど、上手く話をそらしてゆけば、母がすぐに飽きてしまうことを僕は知っている。仕事のこと以外には、熱しやすく冷めやすいのだ。
「それで、仕事は片付いたの? 締め切り明日なんでしょ?」
僕がテーブルから皿を引きながら言うと、母は二杯目のコーヒーをソファーで飲みつつ、
「今夜中かな。ギリギリで飛び込んでくるんだもん。取材抜きの作品は不本意なんだけど。たまたま図鑑があったから」
一度、大きなあくびを見せて、そう答えた――。
季節は秋。母は三十七歳、僕は十七歳の高校二年生。父はもうその頃から家には戻らなくなっていた。
作業部屋へ戻った母は仕事の続きに取りかかる。もう三時間すると夕食の支度だなと、きっと作品の完成を見ないと戻らない彼女のためにキッチンへ立つ。今夜は僕も試験勉強で手が外せない。簡単にパスタくらいがいいかと、もう一度冷蔵庫をのぞく。明日は二人で買い出しだ。
試験勉強の合間にベッドへ転がると、この生活がいつまでも続いてゆく錯覚に包まれる。初ちゃん――僕は母をそう呼んでいた――と二人きりの、混じり物の何もない世界。生活。暮らし。そんなものに僕は満足していた。初めて母と結ばれた二年前の、不用意な子どもの気持ちのまま、僕のこの溢れそうな思いがやがて母を苦しめてゆくとも知らず。文字のごとく子供だった。
机でシャーペンを動かしていると、ノックもなくドアが開く。
「真二い、お風呂入りたあい」
僕は手を止めて、
「仕事、終わったの?」
「へとへと」
「バスタブ、お湯張るから――」
彼女がお風呂から上がるのを見計らって、調理に取りかかる。初ちゃんは頭にタオルを巻いて、珍しく缶ビールを開けた。きっと、絵は上手くいったのだろう。
「アスパラってたまに食べると美味しいわね。栄養素のことは知らないけれど、謎のビタミンがにじみ出てくる感じ」
母はフォークを動かしてゆく。
「軽く塩ゆでしようと思ったんだけど、水っぽくなるから焼き目をつけてみた」
「エノキも美味しい」
「ベーコンがなかったから、ベーコンビッツでごまかしたけど、それなりにはなったよ」
「それなり、ね。いい言葉だわ」
食事が終わり、僕もお風呂へ入る。今日のすべてが終わると、二人で広いベッドへ潜りこむ。一年前には、父が眠っていた場所へ――。
「フラクタル――」
そして母はいつもの口癖を呟く。
「今日は、何の話?」
僕は、まだまどろんでいたい頭の中で問いかける。
母は、夢見がちな少女の声で語り始める。
「高層圏から見下ろした地球を思い浮かべるの。地表の大陸は様々な海岸線で縁取られている。それをさらに降下して観察すると、海岸線は形を見せてくるわ。ギザギザと尖った岩場に砂地。そこからもっとミクロに――普段見かける地図と同じくらいに距離を落とす。そこにはまた海岸線が姿を見せる。もっともっと近づいてゆくと、車で走れる距離の海岸線――そして足もとを濡らすほどの距離。そこでは皆、ひと欠片の小石さえ同じ海岸線の姿を見せるわ。全体が一部を、そしてまた一部がその全体を現わしてるような」
小難しい話が始まった。
「それは、どんな結末に落ち着くの? 前に言ってたスケッチブックの黄金比と同じ話?」
「いいえ。それはどこまでも外へ広がるフラクタル。私が今、伝えているのは、原子レベルまでフラクタルは届かないという話。ミクロの世界では、どこかでフラクタルの構造が崩れてしまう。原子レベルまで拡大した目線は、ただの波動を観測するだけ。真二は昔、ポテトサラダまで温まってしまうコンビニのお弁当を嫌がったけれど、それは人類の英知によって越えてゆけるかもしれないもの。人は人を超えてゆく。それは人類の進化。人類はいつも進化してきた。けれど元をたどれば同じ人の形を保っている。私はね、人の心の中にもフラクタルが存在すると思うの。私たちは進化の過程でどこまでも続く海岸線を手に入れた――。あ、今度はボルチーに茸の入ったグラタンが食べたいわ」
初ちゃんの話はいつも、取りとめのない言葉で締めくくられる。そして甘やかなキス。
「真二は遠いフラクタルを目指す勇気がある? 数学的根拠を保ったままの、果てしない未来――この世界の外側へ――」
その時僕は、いかにも子供っぽいセリフを呟いた。それだけは覚えている。
「僕は……初ちゃんと一緒にいられるなら今のままでいいよ」
母は、
「そう――」
眠たげな声で天井を仰ぎ、僕の左手を握った。僕にはそれだけでよかった。世界のすべてだった。一年後、彼女が自ら命を落とすまでは――。
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76 を読んで
田村さんの場合、ストーンと落ちてしまうのかな 🐈⬛
◌乳とは言っていませんよ、田村さん 😨
>るしあんさん
久々の投稿にご感想ありがとうございます。
田村さんの胸は大宇宙のように不思議で包まれてます。
70
早い朝がくる。バイトへ向かう彼女は昨夜の姿のままだ。
「
田村さん、大丈夫?」
その程度しか~
「 の位置がズレています。
報告なので、確認後に却下してくださいね。
>るしあんさん
ありがとうございます!
こんにちは。
68 を読んで、
ブランケット症候群と云う奴ですね。
依存と云うのは、なかなか脱け出せないものですから、シンジ君がどう頑張るか ?
続きを楽しみにしています。
>るしあんさん
毎度のご感想ありがとうございます。
「初子編」とも言うべき今回の流れは重いものがありまして。
書き切った時には、すっきりしたいですね。
更新、遅れますが、またよろしくお願いします。