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64・胸の内

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 ベッドに田村さんを寝かせて、話は続く。

 ――明日は学校へは?

「土曜日だから」

 ――お休みね

 しかし、言葉少なだ。部屋の空気が固まっている。


「コーヒー、淹れていいかな」

 ――どうぞ。

 僕は立ち上がる。


 お湯を沸かす背中に、

 ――初子さんと敦子さん、竜崎君はどちらが好きなの?

「そんなこと急に言われても――」

 ――言い方が悪かったわ。どちらが大切なの?

 マリィは執拗に訊ねてくる。その理由は分かる。彼女にとって大切なのは飼い主の田村さんの方に決まっているのだから。

 ――人間、時に苦渋の決断を迫られる時もあるわ。猫だってそう。

 僕はコーヒーを淹れる。マリィにもミルクを温めた。

 ――ありがと 頂くわ

 マリィはテーブルの上に置いた皿をピチャピチャと舐め取る。

 しばらくその音と、僕のコーヒーを啜る音だけになる。


 ――竜崎君は、自己の成長をどう客観的に見つめてゆけるかしら。他人との比較、評価、そういうもの?

「…………」

 ――いいの、答えなくとも。それはやがて自分で理解してゆくものだから。それでもね、自分の身の回りにある大切なものに順番をつけてゆくのは重要なことよ。『そんなこと選べない』って言ってるうちは子どものまま。私ならこう言うわ。『自分がいちばん大切』と。自分を大切にできない人間は誰も幸せにできない。そういう人間は、周りに心配をかけるだけよ。

「僕は――周りの誰も不幸にしたくない」

 ――じゃあ、あなた自身がいつも幸せであることね。それを初子さんは分かってるかしら――分かっていたかしら。自分の不幸を嘆いては、あなたまで巻き込んでしまったことを。


 胸の内を語るのは苦手だ。マリィのようには言葉がスラスラと出てこない。それでも僕は考えているのだ。懸命に。


「初ちゃんは『自分は消えなくちゃいけない』って言った。でもそれは少し違う。消すのは、僕からの初ちゃんへの思いだけなんだ。きっとそれが彼女を田村さんの身体に繋ぎ止めている。初ちゃんと別れたくない、僕の気持ちがそうさせているんだ」

 マリィはミルクを舐め取り、

 ――そうね……分かってるのね。だから彼女は最後まで自分を責めた。自分のせいなのだと。それに、あなたたちは愛し過ぎた訳じゃない。形に見えないものを恐れただけ。人は幸せを形にしてその手で触れなければ安心できないものよ。

 そうだ。僕はあの頃、抱きしめて口づけて肌で感じられることの幸せばかり追いかけていた。

「それじゃ……僕はどうしたらいいの……」

 マリィは見えない左目を無性に気にしている様子だった。

 ――月並みだけど、思い出に変える、ということに尽きるかしら。それ以上は残酷で、私には言えないし、言う資格もない。

「いいよ、教えてよ。今の苦しさから逃げ出せるなら何でも聞く」

 ――時をかけて、混ざり切った心のおりを水底に沈めること。そして――あなたは今よりも敦子さんを愛すること。適当にごまかしてつき合っている素振りに振り回されている敦子さんの気持ちを、竜崎君、あなたは知っているかしら? 彼女があの小さな部屋でいつも泣いていたのは、あなたの煮え切れない態度が原因なのよ。『私の愛が足りない』って、敦子さんはいつも自分を責めているの。そんなこと、知らなかったでしょう? 思いもしなかったでしょう? あなたはね、まだ敦子さんに心を開ききっていないのよ。子どもが慣れた古い毛布から、新しい毛布に心を移せていないのと同じ。新しい愛の手触りに慣れていないだけ。

 新しい愛の手触り――。僕は田村さんの滑らかな肌の感触を思い浮かべる。それは決して初ちゃんの身体と重なるものではなかった。彼女の身体は彼女だけのものだ。僕はそこに何を望むだろう。信じればいいだろう。大切なものを失くしてしまう不安から逃れられるだろう。

「もう嫌なんだ……誰かが死んだり、いなくなったり……」

 ――ふざけないでちょうだい! 敦子さんはあなたを心から愛している。それに応えてあげなくてどうするの? あなたは、敦子さんが大切じゃないの? それとも敦子さんのことは誰かと代わりの利く、ただの親しい知り合いなの?」

 そんなことはない。田村さんは今や僕の心の支えだ。

「彼女のいない生活なんて、今は考えられないよ……」

 ――じゃあ、そう言えばいいのよ。言葉にして、形にして。それがどれほど敦子さんの救いになることか。

 マリィはそう言うと床にトンと下りて、部屋の隅へ向かった。長い尻尾を丸めて身体も丸くなる。

 ――あとは自分で考えなさいな。それとも敦子さんの隣で寄り添ってあげる? 私としては、それが今夜の幕引きにちょうどいいと思っているけれど。

 僕は金魚の泳ぐパソコンモニターを眺めて答える。

「もう少し……考えさせて。今ベッドに向かうと、そこにいるのが田村さんなのか初ちゃんなのか混乱するんだ」

 ――混乱、ね。混乱は一時的なもの。だったら心配しなくてもすぐに収まるわ。大事なのは迷いへの判断。自分の決断が及ぼすあらゆるものへの覚悟。まあ、それができないのが十代なのだけども。一生懸命、考えなさい。苦しむことも時には必要よ。それが、大人になるってことなんだから。思えば竜崎君より敦子さんより、瑞奈の方がずっと大人だわ。話してて、すぐに分かるもの。聡明な子よ。時には頼りにしてみるのもいいんじゃないかしら。友達なんですもの。

 そういうことは考えてもみなかった。東横さんは、僕と田村さんのことを勘違いしていると思っていたけれど、勘違いしていたのは僕の方かもしれない。僕は今まで田村さんのことを蔑ろにしてきたんじゃないのか。人前ではごまかしてきたんじゃないだろうか。


 田村さんとのことは、どこかで二人だけの秘密にしておきたかった。渚君に問い詰められても、明日香に突かれても、上辺の言葉で取り繕ってきた。でも、それじゃいけないところまで現実は動いている。この僕が態度をはっきりしなければ、これ以上の解決は見込めない。

 僕はパソコンを閉じて立ち上がる。

「マリィ、ありがとう。おやすみ」

 ――ええ。どういたしまして。
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