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63・対峙

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「あら――」

 初ちゃんとして覚醒した田村さんがマリィを見つめる。

「いつも敦子ちゃんの独り言だと思っていたけれど、あなたと話していたのね」

 ――ということは、あなたは敦子さんが覚醒している間は私の声が聞こえないと?

「そういうことになるわね。初めましてマリィ」


 マリィは起き出してきて、テーブルの下まで近づくと、不意に天板の上に飛び乗った。珍しい、猫っぽい仕草だ。

 ――初子さん、この際だから言っておくわ。どうやらあなたが成仏してくれないと、敦子さんの身体はどんどん弱っていくの。

 初ちゃんは何も答えない。むしろ、その忠告を無視するように僕のパソコンをのぞき込んだ。

「私の絵、役に立ってるかしら?」

 気やすい調子で、僕の両肩を背中から抱いた。僕には黙り込むしかない。まるで初ちゃんの温もりそのままだったからだ。


 その代わりに、マリィが話し始める。

 ――霊魂、という存在を私は確かめたことがない。千四百年、いわゆる幽霊やお化けの類にも出くわしたことがないわ。それでも今のあなたを見ると、私には色が違って見える。あなたは青い色が好き。けれど、今のあなたは限りなく透明に近い白。輪郭がぼやけて見えるわ。何かが消えかかっている、というより、依り代がないと話ができないプログラムのようなもの。言ってしまえば記憶の残骸。酷い言い方だけど、消えてしまうべき存在なのよ。実際、最近の敦子さんは現実的に困憊している。病院へ入院する程なのよ? それをあなたはどう思っているの?

 そこまで言われると初ちゃんも黙っていられなかったようで、ゆっくりと語り始めた。

「そうね……。できることなら私もそうしてあげたいの。けれどこれは、私が望んで起こっている現象ではないの。敦子ちゃんが弱っていくのを見るのは私もつらいわ。なのに私は自分の意志でこの身体から出てゆくことができないでいるの」

 マリィは即答する。

 ――それは本当に信じていいのかしら?

 初ちゃんの表情は、僕からは見えない。ただ、苦しげな声で、

「信じてもらえないのは仕方がないわ。でも、それが現実――」

 ――素直なところ、あなたはまだ竜崎君に未練があるのよ。成仏できない魂は皆そうだと口を揃えて言うわ。何よりあなたはそこまで現世に未練を残して、可愛い息子を残して、どうして死んでしまったの?

 根源的な問いを、マリィが口にした。僕さえも訊ねられなかったことを。

 もちろん、といった風に、彼女は再び黙る。と、僕の背中に滴るものが感じられた。

 ――これは第三者の私にしか訊けないことだと思うの。竜崎君も敦子さんも口に出せないこと。だから私は代わりに鬼になって訊ねるわ。あなたはなぜ、自ら死を選んだの?

 僕の背中が絶え間なく濡れてゆく。

「私は……真二を愛し過ぎた……。この子の成長を見るのが何よりも楽しみだった。けれど……」

 その先はなかなか続かない。マリィもそこはじっと待っている。

「私は……」

 そこからの言葉が出ない。彼女は何度もそう呟いて、やがてこう言った。

「真二がこれ以上成長してゆくのを見たくなかった……。成長すれば、この子は広い世界を知る。そうなればきっと私の手元から離れてゆく。それがつらかったの……。ならばいっそ――」

 そう言った彼女を振り払い、僕は向き直った。

「そんなの勝手だよ! 初ちゃんは初ちゃんのままで、僕のそばにいてくれればよかったんだ! どうしてそのひと言を、僕に聞かせてくれなかったのさ!」

「真二……それは、まだ幼いあなたにとって理解の及ばないことだった。これは老いてゆく自分の姿を描ける歳にならなければ分からない。私とあなたには、破滅の道しか残っていなかった。だからせめて、私の代わりになる誰かが欲しかった。あなたを幸せにできる誰かが。そんな時、敦子ちゃんの話を耳にしたわ。自殺未遂で保護されたという、あなたのクラスの一人の少女。運命を感じたわ。死と対峙する少女、生にしがみつく私。どうしても敦子ちゃんの話を聞いてみたかった」

 僕は彼女と同じように涙をこぼしながら、

「それがどうして? 田村さんが初ちゃんの代わりになるって、そんなこと本気で思ったの?」

「分からない……。でも、その時の私には真二と敦子ちゃんがどこか心の深いところで出会う予感がしていた。そして、実際にそうなった。だから私はもう消えなくちゃいけないの! けれど、その方法が私にも分からない! 私は……私は……」


 すすり泣く二つの声。それだけが部屋を埋める。


 ――私だって、そんなことは分からないわ。でも初子さん、あなたができることはあるはずよ。もう二度と、竜崎君のことを思わないこと。そうすれば、少しなりとも敦子さんの身体は彼女の意志だけで動く。抜け出し方が分からない、というのならそうすればいい。これは最大限の譲歩よ。

 マリィが言い終える前に、初ちゃんの身体――田村さんの身体がふらりと傾いた。僕は椅子を立って、その身体を支える。その身体はぐったりとして、もう動かなかった。





 ――思ったよりも子どもだったのね、初子さんって。

 マリィはテーブルに乗ったまま呟きとも鳴き声ともつかない声でそう言った。どこか、呆れたような感じもする。

「初ちゃんは――強い人だったよ。ウソじゃない」

 ――例えば?

「仕事が詰まって大変な時も泣き言なんか言わなかったし、父さんにつらく当たられても平気な顔してた」

 ――後者を詳しく聞きたいわ。さっきの話からするに、竜崎君と初子さんは親子の仲を超えていたんじゃなくて? それをお父さんは知っていた。分かっていた。だったらその矛先が初子さんに向くのは当然のことよ。初子さんは禁を破ったんだから。


 それは違う。


「違うんだ。始まりは僕からだったんだ。僕は小学生の頃から初ちゃんに憧れていた。それが行動に移った時、初ちゃんは仕方なく僕を受け入れてくれたんだ。初ちゃんを追い詰めて苦しめたのは、僕なんだ――」

 そうね、と、今度は優しくなだめるようにマリィが言った。

 ――子どもはね、ある時期になると母親や父親に異性として憧れるものよ。それは一般的にファザコン、マザコンと呼ばれるけれど、普通は一過性のもの。第二次性徴が始まる頃にはそこに違和感を感じ始めるの。話は長いわよ。竜崎君、大丈夫?

 僕は静かに頷く。今夜はどれだけ長くなってもいい。
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