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55・退院
しおりを挟む学校が始まって六日。田村さんは出席していない。僕は毎朝ベランダに立って向かいの窓を眺める。見舞いには行っていない。ただ毎日、マリィのエサだけは用意するために彼女の部屋へ忍び込んでいた。それが土曜日の夕方――。
ちょうどマンションを下りたところでタクシーが一台止まった。降りてきたのは田村さんだった。
「田村さん!」
僕は道の向かいへ駆け寄る。彼女が少し驚いたようにこちらを見る。両手には大きな紙袋。
「竜崎君。心配かけたわね。それとも迷惑の方が大きかったかしら」
顔色は、いいとは言えない。ただそれが田村さんであったことに胸をなで下ろす。
僕は一メートル手前で立ち止まり、
「もういいの? お医者さん、何だって?」
彼女はそれに答えず、稀に見せる笑顔で、
「マリィのこと、よくしてくれたかしら」
「大丈夫。毎日エサも水もあげてたから」
「そう。感謝するわ。部屋へ上がるの、無理でなければついて来てくれるかしら」
僕は両手の荷物を抱えてあげるとエレベーターへ向かった。
「大したものは届いてないわね――」
彼女は一階のポストを開けて、どんどんゴミ箱へ投げてゆく。手紙が二通残った。
「行きましょう。マリィにも会いたいわ」
エレベーターを開けてドアの前に立つと、彼女はドアノブにバッグから出した鍵を差す。いつもなら平然と鍵もなしに開けてみせるのに。
「ああ。ウチの匂い。落ち着くわ」
旅行から帰ったような口ぶりで、そのまま部屋へ入ってゆく。
マリィが待ち侘びていたように、彼女の足下へ鳴きもせずにすり寄る。
「竜崎君、荷物をありがとう。汚れ物ばかりだから、その辺へ置いておいて。それより熱いコーヒーが飲みたいわ。病院では禁止されていたから」
僕は荷物をクローゼットの前へ置いて、
「僕が淹れるよ。田村さんは座ってていいから。病み上がりなんだし」
「そう――ありがとう。甘えるわ」
言って、彼女はクッションに座り、マリィを膝に乗せた。その姿は一気に歳を取った老婆のようで、心がしめつけられた。
お湯が沸くまでの間に、田村さんは僕へ告げる。
「牛乳配達のバイトはやめたわ。それは連絡した。赤たぬきの方は、どうしても辞めてほしくないらしくて――まだ続けるつもり。それより学校ね。学校は――」
言いよどんで、結果、先が続かなかった。
「コーヒー、豆が少なかったからブラジルとキリマンジャロのブレンドにしてみた」
テーブルにカップを並べる。彼女はいとおしそうにマグカップを撫で、口をつけた。
「ああ、シャバの味ね。病院てば、人を病人扱いして、食事も変な味のものばかり」
「だって、病人だったんだから」
僕もコーヒーに口をつける。ブラジルが少し強めで、キリマンジャロの甘みが消されていた。
「悪いところはないって言うんですもの。毎日、検温と血圧測定と点滴。それに、テレビを見るのにお金がいるのよ。見ないけれど」
僕はそんな話を聞き流しながら、田村さんが途中でやめた学校の話を気にしていた。
明日香の屋敷で、彼女は確かに「学校を辞める」と宣言した。しかも彼女の父親の勧めであった鶏成女子大を受験し直すと言った。その話をしたかったのだろうか――。
「竜崎君。このまま二人で――マリィも一緒にどこかへ消えてなくなりたくなるわ。病院で、そんな夢を見てたのよ。そんな夢ばかり。そこには初子さんもいて、一面の花畑で、面白いことにマリィが言葉を話して、素敵な夢だったわ。ねえ、そういう実現できない涙が止まらないほどの幸せな夢を振り払って暮らしを続けるには、私はどうしたらいいの。分からないの」
僕にも分からない。そんな夢が叶うならば、僕ですらその夢から抜け出したくはない。
なのに、僕の問いかけは残酷だ。
「田村さん。学校、ホントに辞めるの?」
彼女はマグカップを軽く頬に当てて、
「最後に、見届けたいものがあるの。それが終わったら――」
「見届けたいものって?」
「竜崎君の制作。それを見ることができれば、私はいつ退学してもいいの。見たいのよ、竜崎君と瑞奈の合作」
「それは――東横さんがOKくれたらの話で」
「ノリノリだったじゃない。決定事項よ」
彼女はコーヒーを飲み干して窓の外を見た。
月曜日の朝。窓越しの雨音の中、鏡のピカピカはない。電話もない。
昨夜はボンヤリと過ごしていて風呂にも入っていない。タオルを持ってシャワーへ向かう。
水音の中、シャンプーを泡立てながら様々なことが頭をよぎる。冬前の制作のこと。田村さんを通して語りかける母の言葉。田村さんの体調と退学のこと。それから忘れ去りそうになっていた、このマンションの引き渡しのこと。それらすべてをシャワーで流してしまうようにコックを強く開けた。
髪を乾かしてベランダへ出るも、田村さんの部屋のカーテンは開いていない。今日も学校には出ないのだろうか。どこかで気の抜けてゆく自分を奮い立たせて学校へと向かった――。
「やあ真二君、おはようございます」
「ああ、渡君おはよう。明日香は?」
渡君は何も気にしない顔で、
「今後は一緒の車で送ってもらうことを辞退したよ。授業の組み方が変則的だという理由でね。田村さんは――今日も?」
「うん――出る気はないみたいだよ。このまま本当に辞めるのかって心配なんだけど」
「鶏成女子へって言ってましたね。田村さんの学力なら十二分でしょうし、それが元々の親御さんの意向なら外野が口を挟む余地はないでしょう。竜崎君を除いてはね」
そうだろうか。僕にそんな権限があるだろうか。
思っていると、
「竜崎さん、おはようございます」
背後にぴったりと張りついた東横さんがいた。気配も何もなかった。
「あ、ああ。おはよう」
僕が振り返ると東横さんは及び腰で、
「あの、田村さんから電話がありました。竜崎さんへ伝えてほしいと」
僕は少しだけ苛立つ。僕に直接言えばいいのにと。
「それで、何だって?」
「ええ。今夜七時、私と一緒に部屋へ来てほしいと。その――作戦会議だとか」
言っている本人も意味が分かっていない様子で、彼女は困り顔を見せる。
いつものおふざけか、大事な話なのか。どちらにしろ、僕に選べる道は一つだ。
「行くって伝えておいて――」
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