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53・救急
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~たまには最新作を投稿~
「寝たわ……たぶん」
背中越しに起き上がる彼女の所作で僕も目が覚めた。
僕はまだ寝ぼけまなこの彼女を枕の上で見上げる。
「田村さん……だよね?」
彼女は質問の意味を考えこむように黙り、やがて口を開く。
「私は田村敦子。そう、平凡と言えば平凡過ぎて、昨今の世の中ではかえって際立つほどの名前ですが」
田村さんだったことに安堵する。
「まだ暗いけど、今から配達?」
「ええ。今ではこの時間にきっちり目覚めるわ。それにしても竜崎君、なぜ私はあなたのベッドで眠っていたの」
「覚えてないの? 田村さんがそうしたいって――」
彼女は少し困り顔を見せる。
「そうなのね。最近の私の記憶はどこを彷徨っているのかしら。カレーを食べている時の記憶だけは鮮明なのだけれども」
「バイトの詰めすぎなんだよ。ここのところ、顔色も悪いよ」
言いつつも、僕はその変調が母の意識にあるのだろうかと心配する。
彼女はパジャマ姿で玄関へ向かう。
「では行ってまいります」
「バタバタだろうけど、終わったら朝のコーヒーでも飲みに来てよ。軽く朝食も作るから」
「ええ、楽しみ」
彼女は薄暗いドアの外へ出ていった。まだ眠たげな目で――。
二度寝は得意だ。七時に目覚ましをセットして、もう一度ベッドへもぐる。まだ彼女の温もりが残った布団の中。それは果たして田村さんのものか、母のものか。それを考えながら眠りに落ちた、
目覚ましが鳴る前に、汗だくの田村さんが首にタオルをかけて戻ってきた。。
「ゴメン。すぐ用意するから」
「いいの。コーヒーの準備は私がやるわ。そしてモカの気分」
僕も起き出して顔を洗うとキッチンに立つ。ベーコンのかたまりを細く切り、フライパンでソテーする。その間にプリーツレタスを洗って皿に乗せる。オムレツは焦げつきやすいベーコンの脂を拭きとってからフライパンに流した。
「パンもご飯も準備がなかったから、ラスクで我慢して」
「ラスク――アライグマね」
まだ寝ぼけているのか。
田村さんはドリッパーの高い位置から少しずつお湯を注ぐ。身体が覚え込んだような、すでに手慣れた動きだ。淡いモカの香りがキッチンに流れる。すべてはごく自然に。
僕はいつから彼女のいる生活に慣れてしまったのだろう。思い返す一年前。
同じクラスにいながらも話一つしたことのない彼女と校舎の屋上で出会い、そこから極端に距離が取り払われた。母の仏壇に線香を上げ、麻婆豆腐とはかけ離れた料理を食べさせられ、いつの間にか一緒にコーヒーを飲む仲になった。そこに僕は、人の温もりを探していたのかもしれない。失った母の代理として。
「素敵にコーヒーが入ったわ。あらまあ、こちらも素敵。頂くことにするわ」
彼女はごく自然に椅子を引いて座る。かつて母がいた場所に。
「どうしたの竜崎君。コーヒーは食後がよかったかしら」
「いや――食後は僕が淹れる。食べよう。お疲れ様だったね」
サクリとラスクを食む音が部屋に響く。フォークの音。カップをソーサーへ置く静かな音。それが僕の心を一年前に連れ戻す。母といた、穏やかな朝の風景に記憶を引き戻されてしまう。もう彼女はいないというのに。
「田村さん――」
僕はフォークを皿の縁に置いて崩れたオムレツを見つめる。
「何かしら」
彼女はコーヒーを啜っている。
「田村さんの中に母さんの魂があったとして、田村さんはそのままでいいの?」
「初子さんが決めることだわ。私は何も構わない。嬉しいくらいよ――」
そう答えた瞬間、彼女は白いカップを手から滑らせた。床でカップの割れる音。途端に彼女の上体がテーブルへうつ伏せに叩きつけられる。
「田村さん!」
僕は立ち上がって彼女の身体を支える。完全に意識を失っていた。こんなに軽かったろうかという手応えの中、汚れたシャツも拭わず、僕は彼女をベッドへ運ぶ。救急車のサイレンが聞こえたのはそれから五分足らずだった――。
取るものも取らず病院へ付き添い、冷たい廊下で一時間待った。
そこへ手袋を外しながら白衣の医師が現れた。
「過労か、睡眠不足か、栄養不足でしょう。血圧が低いです。あなたはご友人?」
僕は言いよどむこともなく、
「はい」
そう答えた。
「今、点滴中です。しばらく休んだら目を覚ますでしょう。親御さんへの連絡は取れます? 保険証とか」
僕はポケットの合鍵を握り、
「保険証なら僕が持ってきます。すぐにでも」
医師は疑いもせず、小さく頷く。
「じゃあ、そうしてください。お会計は退院の時に、受けつけの方で」
それだけ言うと廊下の奥へ足音を鳴らして消えた――。
――敦子さん、何でもバッグに詰め込む人だから。きっと漁ればあるわ。
マリィは平気な顔で言うが、女性のバッグはプライバシーのかたまりだ。
――でも、そんなこと言ってる場合じゃないんでしょ。
それはそうなのだ。僕自身、胸の鼓動を止められなかった。明日香の屋敷でも貧血気味になったりはしていたけれど、今回はそれだけではない何かを感じていた。
――そういうのはお財布よ、お財布。入ってるはずよ。
白い二つ折りの、パンパンに膨れ上がった財布を探ると、カードの類がぎっしり詰まっていた。学生証。ポイントカード五枚。キャッシュカード。スーパーの割引券。大量のレシート。諸々を探っていると、それらしきものが見つかった。保険証だ。
が、それを取り出した時に一枚のカードが一緒に落ちてしまった。見る気もなかったが、どうやらかかりつけの病院の診察券だ。裏を見ると、定期的に通っている様子がうかがえた。本人も、不調は感じていたのだろう。
――とにかく見つかったのなら、すぐに行ってあげれば? 私はゴロゴロしてるから。
猫に急かされて、僕はドアを目指す。タクシーを使う余裕もないので、二十分バスに揺られた。
(初ちゃん――僕はどうすればいい)
「寝たわ……たぶん」
背中越しに起き上がる彼女の所作で僕も目が覚めた。
僕はまだ寝ぼけまなこの彼女を枕の上で見上げる。
「田村さん……だよね?」
彼女は質問の意味を考えこむように黙り、やがて口を開く。
「私は田村敦子。そう、平凡と言えば平凡過ぎて、昨今の世の中ではかえって際立つほどの名前ですが」
田村さんだったことに安堵する。
「まだ暗いけど、今から配達?」
「ええ。今ではこの時間にきっちり目覚めるわ。それにしても竜崎君、なぜ私はあなたのベッドで眠っていたの」
「覚えてないの? 田村さんがそうしたいって――」
彼女は少し困り顔を見せる。
「そうなのね。最近の私の記憶はどこを彷徨っているのかしら。カレーを食べている時の記憶だけは鮮明なのだけれども」
「バイトの詰めすぎなんだよ。ここのところ、顔色も悪いよ」
言いつつも、僕はその変調が母の意識にあるのだろうかと心配する。
彼女はパジャマ姿で玄関へ向かう。
「では行ってまいります」
「バタバタだろうけど、終わったら朝のコーヒーでも飲みに来てよ。軽く朝食も作るから」
「ええ、楽しみ」
彼女は薄暗いドアの外へ出ていった。まだ眠たげな目で――。
二度寝は得意だ。七時に目覚ましをセットして、もう一度ベッドへもぐる。まだ彼女の温もりが残った布団の中。それは果たして田村さんのものか、母のものか。それを考えながら眠りに落ちた、
目覚ましが鳴る前に、汗だくの田村さんが首にタオルをかけて戻ってきた。。
「ゴメン。すぐ用意するから」
「いいの。コーヒーの準備は私がやるわ。そしてモカの気分」
僕も起き出して顔を洗うとキッチンに立つ。ベーコンのかたまりを細く切り、フライパンでソテーする。その間にプリーツレタスを洗って皿に乗せる。オムレツは焦げつきやすいベーコンの脂を拭きとってからフライパンに流した。
「パンもご飯も準備がなかったから、ラスクで我慢して」
「ラスク――アライグマね」
まだ寝ぼけているのか。
田村さんはドリッパーの高い位置から少しずつお湯を注ぐ。身体が覚え込んだような、すでに手慣れた動きだ。淡いモカの香りがキッチンに流れる。すべてはごく自然に。
僕はいつから彼女のいる生活に慣れてしまったのだろう。思い返す一年前。
同じクラスにいながらも話一つしたことのない彼女と校舎の屋上で出会い、そこから極端に距離が取り払われた。母の仏壇に線香を上げ、麻婆豆腐とはかけ離れた料理を食べさせられ、いつの間にか一緒にコーヒーを飲む仲になった。そこに僕は、人の温もりを探していたのかもしれない。失った母の代理として。
「素敵にコーヒーが入ったわ。あらまあ、こちらも素敵。頂くことにするわ」
彼女はごく自然に椅子を引いて座る。かつて母がいた場所に。
「どうしたの竜崎君。コーヒーは食後がよかったかしら」
「いや――食後は僕が淹れる。食べよう。お疲れ様だったね」
サクリとラスクを食む音が部屋に響く。フォークの音。カップをソーサーへ置く静かな音。それが僕の心を一年前に連れ戻す。母といた、穏やかな朝の風景に記憶を引き戻されてしまう。もう彼女はいないというのに。
「田村さん――」
僕はフォークを皿の縁に置いて崩れたオムレツを見つめる。
「何かしら」
彼女はコーヒーを啜っている。
「田村さんの中に母さんの魂があったとして、田村さんはそのままでいいの?」
「初子さんが決めることだわ。私は何も構わない。嬉しいくらいよ――」
そう答えた瞬間、彼女は白いカップを手から滑らせた。床でカップの割れる音。途端に彼女の上体がテーブルへうつ伏せに叩きつけられる。
「田村さん!」
僕は立ち上がって彼女の身体を支える。完全に意識を失っていた。こんなに軽かったろうかという手応えの中、汚れたシャツも拭わず、僕は彼女をベッドへ運ぶ。救急車のサイレンが聞こえたのはそれから五分足らずだった――。
取るものも取らず病院へ付き添い、冷たい廊下で一時間待った。
そこへ手袋を外しながら白衣の医師が現れた。
「過労か、睡眠不足か、栄養不足でしょう。血圧が低いです。あなたはご友人?」
僕は言いよどむこともなく、
「はい」
そう答えた。
「今、点滴中です。しばらく休んだら目を覚ますでしょう。親御さんへの連絡は取れます? 保険証とか」
僕はポケットの合鍵を握り、
「保険証なら僕が持ってきます。すぐにでも」
医師は疑いもせず、小さく頷く。
「じゃあ、そうしてください。お会計は退院の時に、受けつけの方で」
それだけ言うと廊下の奥へ足音を鳴らして消えた――。
――敦子さん、何でもバッグに詰め込む人だから。きっと漁ればあるわ。
マリィは平気な顔で言うが、女性のバッグはプライバシーのかたまりだ。
――でも、そんなこと言ってる場合じゃないんでしょ。
それはそうなのだ。僕自身、胸の鼓動を止められなかった。明日香の屋敷でも貧血気味になったりはしていたけれど、今回はそれだけではない何かを感じていた。
――そういうのはお財布よ、お財布。入ってるはずよ。
白い二つ折りの、パンパンに膨れ上がった財布を探ると、カードの類がぎっしり詰まっていた。学生証。ポイントカード五枚。キャッシュカード。スーパーの割引券。大量のレシート。諸々を探っていると、それらしきものが見つかった。保険証だ。
が、それを取り出した時に一枚のカードが一緒に落ちてしまった。見る気もなかったが、どうやらかかりつけの病院の診察券だ。裏を見ると、定期的に通っている様子がうかがえた。本人も、不調は感じていたのだろう。
――とにかく見つかったのなら、すぐに行ってあげれば? 私はゴロゴロしてるから。
猫に急かされて、僕はドアを目指す。タクシーを使う余裕もないので、二十分バスに揺られた。
(初ちゃん――僕はどうすればいい)
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