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49・憑依
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――憑依、というのは意外とあることよ。
ぐったりとベッドで眠っている田村さんを気にする様子もなく、マリィが話しかけてきた。僕はソファーに座って呆然としていた。
「でも――そんなことあるはずないよ」
口では否定しても心は裏腹だった。
――透明水彩というのを知っているかしら。絵描きの息子さん。
僕は何も答えない。マリィの質問の意図が分からない。
彼女は勝手に話を続ける。
――あれは筆を重ねるごとに色が濃くなってゆくものよ。いつか竜崎君を空の青だと例えたの、覚えてる? 私はあの時、敦子さんの色を海の青――深い青だと言った。そうね、青いフィルムへさらに青いフィルムを重ねるとどうなると思う? 人の魂も同じこと。重ねるごとに色濃くなってゆく。思えばあの時からすでに、敦子さんの魂には初子さんの魂が重なっていたのね。世の中には、青、朱《あか》、白、玄《くろ》の四種類の人がいる。例えば瑞奈は白、渚君も白、明日香は朱ね。
マリィの声は、退屈な講義を受けるように耳をすり抜けてゆく。
――黙ってないで、何か言ったら?
僕はソファーで膝を抱く。
「そんなはずない……。母さんは死んだんだ」
――けれど魂の存在を人は否定できないでしょ。
「なら――それは僕の中に入ってくれればよかったんだ。一生、一緒にいられるのに」
――バカね、竜崎君。それじゃあ相手を抱きしめることもできないじゃない。初子さんは選んだのよ。あなたが迷わずに抱きしめられる相手を。
マリィは小皿に残ったアップルパイを舐め取っている。母が本当に魂を残したとして、それを田村さんに託した理由はなんだろう。
――「私の代わりに真二をよろしく」って。そう言ったんでしょ?
母が彼女に告げたというその言葉。よすがはそれしかない。けれど、それを信じるには一から始めなければならない。僕が田村さんとあの屋上で言葉を交わしたことから。
母はどうして田村さんに興味を持ったのだろう。本当に、自殺騒動で興味を持っただけなのだろうか。
マリィが静かになったと思ったら、いつの間に田村さんが寝室から起き出してきていた。
「眠ってしまったわ。なぜだか。竜崎君、お姫様抱っこでベッドまで運んでくれたのかしら。それ以前に紅茶へ睡眠薬を――」
その軽口は紛れもない田村さんだ。母の匂いはどこにもない。
「気分とか、悪くないの?」
「そう。いつにも増してボンヤリしているわ。ボンヤリスト・コンクールがあれば入賞は確実」
やっぱり田村さんだ。しかもさっきまでの記憶が抜け落ちているようだった。
「それにしても変な時間に寝ると牛乳配達に響くわ。そろそろマリィを連れて部屋に戻るわね」
マリィがひと鳴きして彼女の足下へ寄ってゆく――。
「旅の疲れかしら。すごく眠いのよ。明日からはバイトも始まるし、今日はこれでおさらばするわ。マリィ、行きましょう」
テーブルの上には紙包み。
「アップルパイは?」
「明日の牛乳配達あとにでも。朝メシ替わりにするから、つまみ食いはもっての外よ。では」
言い残して、何もなかった顔で帰っていった。
それから僕は女々しいことに、彼女が温めたベッドへ顔を埋めた。一年ぶりに嗅ぐ母の香り、同じ匂い。それはいやが上にも、頭の中に閉じ込めた記憶を一つずつ引っ張り出してくる。
(初ちゃん――僕はどうすればいい――)
枕を抱いて天井を見上げる。すべてを信じることはできないけれど、マリィの言葉は胸に重かった。田村さんの唇を借りて、母の言葉をはっきりと聞いた僕はどうすればいいのか。一年間の空白を埋める一ピースが舞い落ちてきたのだとしたら、運命に身を任すほかはない。なぜなら、僕の心はそんなに強くない――。
夕食も抜き、深く眠れない夜を過ごしていたら、いつの間にか眠っていた。と思えば朝のピカピカ。眠気は抜けない。
「田村さん、配達終わったの?」
『ええ。休んでる間に三軒も契約が増えてたわ。さすがは店長の手腕ね。今すぐ駆け出してそちらへ行――』
驚くべき早さでドアが開いた。語尾の方は聞き取れず、首にはタオル。
「移動しながら電話していたのよ。携帯電話というのは昔、移動電話と呼んでいたのだわ。それが『ながら』だろうと何だろうと正しい使用法ね」
ホイルで包み、オーブンで温め直したアップルパイを二つの皿に並べた。
「二日目のアップルパイもいいものね。ちなみにカレーは二日目の方が美味しいという人がいるけれど、私も前に言ったけれども、あれには雑菌がウヨウヨと蔓延っているの。しっかり火を通さなければいけないのよ。私はカレーにもカビが生えるという事実を小学四年の夏に知ったわ。それから十年」
食べている時にはいらない豆知識だ。それより――。
「田村さん。昨夜、母さんの夢とか見た?」
彼女はフォークを動かしながら、
「いいえ。見ていないわ。どうして?」
珍しく語尾を上げて、興味深そうに訊ね返されてしまった。
「いや――僕が見たから」
「そうなの。夢の中の初子さんは元気だった?」
「元気っていうか――いい香りがしたよ」
田村さんは紅茶を啜り、
「匂いつきの夢ね。いいわね」
また珍しく言葉少なに頷いた。その目は愁いに満ちていて、それ以上は何も言えなかった。
ぐったりとベッドで眠っている田村さんを気にする様子もなく、マリィが話しかけてきた。僕はソファーに座って呆然としていた。
「でも――そんなことあるはずないよ」
口では否定しても心は裏腹だった。
――透明水彩というのを知っているかしら。絵描きの息子さん。
僕は何も答えない。マリィの質問の意図が分からない。
彼女は勝手に話を続ける。
――あれは筆を重ねるごとに色が濃くなってゆくものよ。いつか竜崎君を空の青だと例えたの、覚えてる? 私はあの時、敦子さんの色を海の青――深い青だと言った。そうね、青いフィルムへさらに青いフィルムを重ねるとどうなると思う? 人の魂も同じこと。重ねるごとに色濃くなってゆく。思えばあの時からすでに、敦子さんの魂には初子さんの魂が重なっていたのね。世の中には、青、朱《あか》、白、玄《くろ》の四種類の人がいる。例えば瑞奈は白、渚君も白、明日香は朱ね。
マリィの声は、退屈な講義を受けるように耳をすり抜けてゆく。
――黙ってないで、何か言ったら?
僕はソファーで膝を抱く。
「そんなはずない……。母さんは死んだんだ」
――けれど魂の存在を人は否定できないでしょ。
「なら――それは僕の中に入ってくれればよかったんだ。一生、一緒にいられるのに」
――バカね、竜崎君。それじゃあ相手を抱きしめることもできないじゃない。初子さんは選んだのよ。あなたが迷わずに抱きしめられる相手を。
マリィは小皿に残ったアップルパイを舐め取っている。母が本当に魂を残したとして、それを田村さんに託した理由はなんだろう。
――「私の代わりに真二をよろしく」って。そう言ったんでしょ?
母が彼女に告げたというその言葉。よすがはそれしかない。けれど、それを信じるには一から始めなければならない。僕が田村さんとあの屋上で言葉を交わしたことから。
母はどうして田村さんに興味を持ったのだろう。本当に、自殺騒動で興味を持っただけなのだろうか。
マリィが静かになったと思ったら、いつの間に田村さんが寝室から起き出してきていた。
「眠ってしまったわ。なぜだか。竜崎君、お姫様抱っこでベッドまで運んでくれたのかしら。それ以前に紅茶へ睡眠薬を――」
その軽口は紛れもない田村さんだ。母の匂いはどこにもない。
「気分とか、悪くないの?」
「そう。いつにも増してボンヤリしているわ。ボンヤリスト・コンクールがあれば入賞は確実」
やっぱり田村さんだ。しかもさっきまでの記憶が抜け落ちているようだった。
「それにしても変な時間に寝ると牛乳配達に響くわ。そろそろマリィを連れて部屋に戻るわね」
マリィがひと鳴きして彼女の足下へ寄ってゆく――。
「旅の疲れかしら。すごく眠いのよ。明日からはバイトも始まるし、今日はこれでおさらばするわ。マリィ、行きましょう」
テーブルの上には紙包み。
「アップルパイは?」
「明日の牛乳配達あとにでも。朝メシ替わりにするから、つまみ食いはもっての外よ。では」
言い残して、何もなかった顔で帰っていった。
それから僕は女々しいことに、彼女が温めたベッドへ顔を埋めた。一年ぶりに嗅ぐ母の香り、同じ匂い。それはいやが上にも、頭の中に閉じ込めた記憶を一つずつ引っ張り出してくる。
(初ちゃん――僕はどうすればいい――)
枕を抱いて天井を見上げる。すべてを信じることはできないけれど、マリィの言葉は胸に重かった。田村さんの唇を借りて、母の言葉をはっきりと聞いた僕はどうすればいいのか。一年間の空白を埋める一ピースが舞い落ちてきたのだとしたら、運命に身を任すほかはない。なぜなら、僕の心はそんなに強くない――。
夕食も抜き、深く眠れない夜を過ごしていたら、いつの間にか眠っていた。と思えば朝のピカピカ。眠気は抜けない。
「田村さん、配達終わったの?」
『ええ。休んでる間に三軒も契約が増えてたわ。さすがは店長の手腕ね。今すぐ駆け出してそちらへ行――』
驚くべき早さでドアが開いた。語尾の方は聞き取れず、首にはタオル。
「移動しながら電話していたのよ。携帯電話というのは昔、移動電話と呼んでいたのだわ。それが『ながら』だろうと何だろうと正しい使用法ね」
ホイルで包み、オーブンで温め直したアップルパイを二つの皿に並べた。
「二日目のアップルパイもいいものね。ちなみにカレーは二日目の方が美味しいという人がいるけれど、私も前に言ったけれども、あれには雑菌がウヨウヨと蔓延っているの。しっかり火を通さなければいけないのよ。私はカレーにもカビが生えるという事実を小学四年の夏に知ったわ。それから十年」
食べている時にはいらない豆知識だ。それより――。
「田村さん。昨夜、母さんの夢とか見た?」
彼女はフォークを動かしながら、
「いいえ。見ていないわ。どうして?」
珍しく語尾を上げて、興味深そうに訊ね返されてしまった。
「いや――僕が見たから」
「そうなの。夢の中の初子さんは元気だった?」
「元気っていうか――いい香りがしたよ」
田村さんは紅茶を啜り、
「匂いつきの夢ね。いいわね」
また珍しく言葉少なに頷いた。その目は愁いに満ちていて、それ以上は何も言えなかった。
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