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48・初子

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 紅茶の用意をしていると、ドアがカチャリと開いて彼女がやってきた。その手にはマリィとアップルパイ。

「僕がもらった分で足りたのに。四分の一っていっても意外と大きかったから」

「離れ離れのアップルパイの再会なのに、淋しいこと言わないで」

 田村さんは紙包みをテーブルの上へ置くと、キッチンへ回り込んで僕を背中からそっと抱いてきた。

「危ないよ。お湯沸かしてるのに」

「いいの。どうしてだか我慢ができなかった。この六日間ずっと。離れ離れのアップルパイみたいに。その気持ちを説明する前に、まずはしばらくこうしていて。させていて」

 僕は蒸気を上げるケトルの火を小さくして、胸の前で組まれた彼女の手に自分の手のひらを重ねた。

「人はすべての偶然を必然と呼ぶわ。竜崎君と私は偶然出会った。何の因果かこの町に住んでいて、私は中学から一年遅れで高校に通って、同じクラスになって、ものすごく高い確率で偶然出会ったの。その縁を強めてくれたのが初子さん。初子さんがいなければ、私とあなたはいつまでもフェンス越しですれ違っていた。そうよね」

 僕の指先を握る彼女に、言えることは少ない。いつも冗談ばかりでごまかしていた心を、試される時が来ているのだろう。

「母さんがいなくても――僕は田村さんに声をかけたよ。実際、そうだった」

「その時の私はきっと、竜崎君にとってただの変わり者だった。今だってそうかもしれないわ。でもそれでいい。それでいいから、もう私のそばから離れないでちょうだい――」

 僕は覚悟を決める。

「離れるとか離れないとか、そういうのはどうでもいいよ。僕は田村さんのことが好きなんだし。田村さんも同じ気持ちだったらいいなって思ってるだけで」

 すると彼女は絡めた指に力を込めて答える。

「なら私は――私はその二倍好き。竜崎君が思ってくれる二倍好きよ。二人分」

 彼女は不意に指をほどき、リビングへ向かった。そしてソファーへ座ると、

「お茶にして、真二――」

 まるで母のように笑った。



 アップルパイはさっくりとした生地にコンポートされたリンゴが甘酸っぱくて美味しかった。紅茶にしたのは正解だ。床に置いた皿で、マリィにも少しだけおすそ分けだ、賢い猫なので、食べられないものなら口をつけないだろう。


「美味しかったわ――」

 その割に憂うつな顔を見せて田村さんがカップを置いた。

「この前は、悪かったわ。取り乱してしまって」

 旅行前の話だ。

「いいよ。僕の言い方も悪かったし」

 すると、彼女は重い口調で返してきた。

「竜崎君は、もし私が隠し事をしていて、それを隠されたままだったら嫌な気分になる?」

「いっそ、その質問こそ聞きたくないよ。まるで隠し事があるみたいで」

「それが、あるの――」

 言って、彼女は白磁のティーカップを手にする。

「言いたくないならいいよ。黙ってて」

「違うの。言い出したくてたまらないの。初子さんのことよ。だからこそ隠したかったし、伝えたくもあった」

 彼女はそれだけ言うと、うつむいて黙った。

「母さんのことって――こないだ言ってた夢のこと?」

 田村さんは苦悩の顔を見せて、小さく首を左右に振った。

「言えない……。つら過ぎて、竜崎君には伝えきれない」

「そこまで言って、それはないよ。きちんと話してくれるのが筋じゃない?」

 ティーカップを握る指を震わせて、彼女は顔を上げた。

「私の中に――初子さんの魂が宿ったの」

 ティーカップが床に落ちた――。



 過呼吸なのか、混乱した田村さんをなだめるのにしばらく時間がかかった。もちろん、その言葉の意味は上手くすくい取れないままだ。上手く乗せたと思った瞬間に逃げてしまう、赤い金魚のように。

「田村さん。横になっていいから。寝室に来て」

 彼女は言う。

「そしたら、真二も一緒に来てくれるの?」

 背筋が凍った。その言葉にではなく、そう答えた彼女がまるで母に見えたからだ。

「――いいから、ベッドに横になって」

 手を取って立ち上がらせると、彼女の身体を支えて寝室へ向かった。そこで強い力が僕を抱く。そのまま二人でベッドへ倒れ込んだ。

「真二――」

 僕を仰向けに押さえ込んだ形で、田村さんが耳に囁く。

「真二、フラクタルの先には何もないわ。無限の繰り返し、空しいだけよ」

 声も言葉も、まるで母のものだ。落ち着こうと息を大きく吸い込んだが、逆効果だった。鼻腔を通ったその甘い香りは母の匂いそのもので頭が眩んだ。どれだけ部屋中をフレグランスで色づけても再現できなかったその香りが、まさに今よみがえっている。

「田村さん――ちょっと――」

 彼女は甘い香りと声で僕を誘う。

「いつもみたいに呼んで。初ちゃんって。それだけでこの身体も心もあなたの元へ帰るの。フラクタルの断片だけを切り取るように、私と過ごした十七年を思い出して、私の名前を呼んでみて――」

 今度は僕が混乱する番だった。錯覚にしても信じられないほど、母が帰ってきた気持ちになってしまう。胸が大きく上下する。柔らかな身体が僕を組み敷く。耳元には生き写しの母の声。あれから狂おしいほどに求め続けた温もりそのままに、もう一度、声が僕の名前を呼ぶ。僕は耐えきれず、のどから自然と声が出た。

「初ちゃん……」

 両腕を彼女の背中に回すと、温かな涙が溢れて止まらなかった。
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