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43・流星

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 大きな浴場とは聞いていたが、まさか露天風呂とは思ってもみなかった。脱衣所で平気な顔をして服を脱いでゆく渚君に後れを取り、僕も裸になってゆく。最後の砦と、腰に頼りなくタオルを巻いて。

「隣は竹垣越しに女湯とつながっているんだ。じきに騒がしい声が聞こえてくるよ」

 彼はおもむろに腰のタオルを取るとしゃがみ込み、ていねいにかけ湯を始めた。

「いい温度だよ。天然ではないけど効用はある。光明石といってね、鉱物の成分が溶け出ている。さあ、真二君も」

 言いつつ彼は背中を向けて岩風呂へと足を入れた。その動作には迷いがない。恥ずかしがっている僕の方がおかしいのだろうか。

「お湯に浸かったらタオルを外すのは礼儀だからね」

 涼しげな顔で言うと、彼はたたんだタオルを頭に乗せた。僕は恐る恐るかけ湯を身体に流し、ギリギリまでタオルを前に当てて湯船へ入った。少し温めの、心地いい温度だった。彼と同じようにタオルを頭に乗せる。

「こうやって友達と温泉に浸かれる幸せというのは、明日香に感謝すべきことだね」

 渚君は手のひらを上に向けてお湯をすくってみせる。

「僕は――こういうの初めてで」

「何でも初めてが楽しいんだ。思い切り楽しめばいい。まとわりつく温泉の感触。背にした岩の質感。微かに聞こえてくる虫の声。それに――」

 言いかけた時、突然隣で勢いよく引き戸が開いた。

「瑞奈! 温泉で恥ずかしがっててどうするのよ! てか、そっちは少しぐらい隠しなさい!」

 女性陣登場だ。明日香の言葉でそれぞれの画が浮かぶ。

「言った通りだ。明日香は温泉に厳しいから」

 渚君はお湯をひとすくい、手のひらで顔を洗う。濡れた銀髪からしずくが滴る。どこか中性的な顔立ちの彼の鎖骨の辺りでお湯が波打つ。僕は下を向いて女湯のはしゃいだ声を聞いていた。

「竜崎君、そちらのお湯加減はどう」

 竹垣の向こうから田村さんの声がする。

「どうって、繋がってるんだから同じだよ」

「そうかしら。こちらはライオンの口から絶えず熱いお湯が出ているわ。こちらの熱いお湯が女ダシとなって男湯に流れ込んでいるのよ」

 女ダシとか言うな。

「それにしても、瑞奈は着やせするタイプなのね。それに引き換え――」

「ちょ! どこ見てんのよ! 私はトータルプロポーションがウリなんだから! あっちが大きいとかこっちが小さいとか気にしてないの!」

 田村さんの話術にはまり、明日香が何もかもぶちまけた。

「皆さん――もう少し静かに入りませんか……」

 東横さんの声が聞こえると木桶の小気味よい音が響き、しばし水音と虫の鳴く音だけになった。高冷地ではもう、セミの鳴き声より虫の声が盛んだ。

 お湯から上がって身体を洗っていると、また隣から明日香の大きな声がする。

「清治―。そろそろいいんじゃない?」

 そうだね、と渚君がザブリと立ち上がる。そして湯船を上がると、

「こっちで消そう。女性陣は湯船で静かにしててください――」

 そう言って露天の壁に近づいた。すると辺りを照らしていた明かりがフッと消えた。一瞬にして露天風呂は暗闇になる。僕は身体を洗っていた手を止め、辺りを探る。

「渚君、危ないよ――」

「いいんだ真二君。君もそのまま空を見上げてごらん」

 空を――。周囲に木が茂っているのが微かに見えるだけで真っ暗だ。

「真っ暗だよ」

「そうでもないさ。すぐに目が慣れる」

 女性側でも物音は聞こえない。そのうち東横さんの声で、

「すごい……」

 感嘆の声が上がった。その意味を数秒後に理解する僕。

 露天風呂から見渡せる夜空を、数限りない星が埋め尽くしていた。色もはっきりと、白い星、赤い星、青みがかった星。それに――。

「清治! 今流れたわ!」

 明日香の興奮した声。

 渚君は驚いた様子もなく、

「ふたご座流星群のピークがこれからなんだ。皆、しばらく眺めてみるといいよ」

 言っている間にも、星はいくつも流れる。一分間に三つほど。右に左に、真上に上がってゆくものまで見える。流れ星の乱舞ショーだ。

 思わず僕も口にする。

「すごいや。ウチの町でもけっこう田舎で、星なんていくつでも見えるって思ってたけど――」

「本当は上弦の月が沈んでからの方が空の明かりも落ちて、星が見えやすいんだけど。ほら、もっと目が慣れてくる――」

 言われると、空には大小限りない星。そこへ流れ星が飛び交う。一種、異様な光景だ。ありがたみさえ薄れてしまうほどの。

 あ、今のすごかったです、と東横さんの声。ウチの別荘の名物なんだから、とは明日香の言葉。田村さんの声は最後まで聞こえなかった――。




 温泉と天体ショーに満足して部屋へ戻る。着ているのは浴衣だ。その裾を気にしながら渚君と階段を上る。

 部屋の前に着くと鍵も回さぬうちに、

「僕はしばらく女性陣と語らってくるよ。君はしばらくここで話をすればいい。猫と女の子と一緒にね」

 ドアを開けると窓際に浴衣姿の田村さんが髪を濡らして立っていた。腕の中にはマリィ。その影が振り返り、僕の目をとらえる。

「渚君――別に僕――」

「いいから。二人で十分に話をすればいい。では田村さん、真二君をよろしく」

 言うと、彼は首からタオルをかけて廊下の端へと歩いていった。僕は半開きのドアを開ける。

「渚君に、頼んだの?」

 田村さんはマリィを床に放して、

「ええ。そう。大事な話というのは、こういう時にするものだから――」
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