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特別編

15,000pt 達成記念特別編「田村敦子の日常」

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 女はパジャマのまま起き出すと、まずは布団の端で足を滑らせる。毎朝だ。いい加減に学習をすればいいのだが、今朝も滑った。


 毎朝といえば彼女には日課がある。カーテンを開け、眩しく昇る朝日を睨み、恨み、手にしたミラースタンドでターゲットを補足する。狙いは向かいに位置するマンションヴィラ・711号室。

 やや東北東から上がる朝日を的確に目標へ反射させるのは難しい。マンションの周辺近隣を迷惑に巻き込みながら、最近ようやく上手い角度が決まってきた。日々ずれてゆく夜明けの太陽に地球の公転を思い、八分十五秒遅れで届く陽の光に畏敬の念を抱く。

 今日も角度が決まった。半端にカーテンを閉めた彼の寝室へ向けて一日の始まりの朝日を反射させる。カーテンの隙間から絶妙に光が漏れるであろう位置。イライラする位置。指先の震えで小刻みに動く長方形の光を固定させ、今日は少し変化をつけてみた。


 そんな嫌がらせを続けていると、やがて左手に持った携帯が鳴る。彼女は鏡をベランダの柵に置くと電話を取った。

「おはよう、竜崎君――」

 丁寧な挨拶で呼びかけると、電話の相手は不機嫌な声を返す。

『お願いだから、毎朝嫌がらせみたいに鏡で起こすのやめてくれないかな』
「そう。けれど今日は少し変化をつけたわ。最近、モールス信号を覚えたの。今朝のはSOSの信号よ。ちなみにそれしか知らないわ」

『どうでもいいよ。コーヒー飲みたいんだったら三十分後にこっち来て』

 切れた電話を胸に抱き、彼女は部屋へ戻ると顔を洗う。
 彼のマンションへは道路を挟んで十二メートル。自室マンションのエレベーターで降りると、梳かした髪を風に舞わせて彼の部屋へと向かう。


 今度はエレベーターを上がり、711号室のドアへ向かう。ドアチャイムは鳴らさない。ノックもしない。そしておもむろにドアノブを握ると、カチャリという鍵の開く音と共にノブを右へ回す。彼女が触れた鍵はたちまちその意味を失くすのだ。その理由は彼女にも分かっていない。分かっていないが彼女は毛ほども気にしない。要するに、それは彼女にとってどうでもよいことなのだ。


 彼女はドアを開け、サンダルを脱ぐと勝手に廊下へ上がってゆく。

「あらためておはよう、竜崎君」

 竜崎真二。彼女と同じ大学に在籍する生徒で十八歳。高校では三年時に同じクラスだった。高校時代、彼女が最も言葉を交わした男子生徒だ。だからといって女子生徒ともあまり話していない。

「田村さんさ。ホントに迷惑なんだけど」

 言いつつ、彼はキッチンでコーヒーのいい香りを立てている。彼女は勝手にこの場所を『カフェー竜崎』と名づけている。自宅よりも落ち着ける場所として。

「今日も美味しいコーヒーで一日が始まるわ。その前に――」

 言うと彼女は彼の母親の仕事部屋に向かって仏壇の前へ座り、りんを鳴らして手を合わせる。

 真二の母は一年前、謎を含んだ転落死によって命を失った。彼女は彼の母親から聞いた「私の代わりに真二のことをよろしく」という言葉のみを胸に、彼の母と入れ替わるようにして、真二の家へと足を踏み入れる毎日が続いていた。父親とは確執があり、もうかなり会っていないという。

「コーヒー。今日はキリマンジャロ」

 真二から出されるのは、彼の母が好きだったという温かなコーヒー。

 彼女自身はといえばコーヒーは苦手で、真二の家で飲むようになってから美味しさが分かった。それは例えば、親密な二人の無言の隙間を埋めてくれるような飲み物だった。なので一人で飲もうとは思わない。

「ところで竜崎君。高校時代を覚えている」

 疑問文なのだが、彼女はあまり語尾を上げずに訊ねてくる。

 彼は思い出したくないものも一緒に思い出したのか、

「ほんの数か月前だし。覚えてないことの方が少ないよ。特に田村さんと会ってからは」

「そう――私はあまり覚えていないわ。自分がかつて高校生だったという事実が、漠然としているの。高校というシステムに属しているというよりは、学校の方が私に属していたわ。私という自己の中にいくつも存在する多源性の中で、それは中途半端なものだったの。ナルトの三十枚入ったラーメンみたいな。ラーメンが主役かナルトが主役か分からないような」

「その例えが分からないよ。それよりコーヒー飲んだら帰ってよ、まだ着替えもすんでないんだから」
 彼女は真二の言葉に軽く頷き、コーヒーの最後のひと口を啜った――。

 そうして部屋に戻ると、彼女は必ず五分間泣く。
 部屋の真ん中で両足を投げ出し、天井を見つめ、ボロボロと涙を流す。そのことは誰も知らない。知る由もない。そこには淋しさも悲しさもなく、独りきりの侘しさもなく、さながらそういった病気のようにして、ただ泣くのだ。
彼女は涙が連れてくる頬の温かさに落ち着くと、手のひらで顔を覆い、日常に戻る。


 一限目から授業を取る彼女は、午前七時半のバスに揺られると四十分かけて大学へ向かう。青駿国際情報大学・情報デザイン科。特に意味があって選んだ学科ではなく、大学そのものがどうでもいいものだった。校区時代から成績だけは上位で、母親に難関校を勧められていた彼女は、竜崎真二が受験するという理由だけでこの大学を選んだ。勢いだ。彼に対する恋愛感情というものは、彼女にとって曖昧だ。彼女は十九歳という若さ溢れる歳で、恋愛をあまり理解していなかった。あるのは親愛の情に近かった。
学校へ着くと、同じコースの渚清治と顔を合わせる。

「おはよう田村さん。今日の調子は?」

 この大学で初めて知り合った彼に、彼女は素早い答えを返す。

「朝はいつでも好調よ。不調になるのは午後から」

「それでもいい一日にしようよ。せっかく与えられた一日だ」

「そうね。学食でカレーを食べる頃には今日の指針が決まるわ」

「そうかい。じゃあ、あとで」


 教室に入るとあらゆるテキストとノートを詰め込んだバッグから一限目の情報リテラシー基礎のテキストとノートを取り出す。ノートは春から数えて二か月で四冊になった。

 講義の取り方が悪かったのか、ぽっかりと穴の開く二時限目を学食のテラスで過ごす。携帯を出して真二へ電話を入れると、

『バス降りたばっかりで急いでるんだよ。用事があるなら学食で』

 露骨に嫌がられた。かといって彼女は、彼がいない時の退屈の埋め合わせがない訳でもない。

 春先に真二の部屋で開いた懇親会。渚清治とその恋人、二郷木明日香を招き、しっちゃかめっちゃかな料理を出して、結局デリバリーのピザを頼んだこと。そういうことを思い出し、あれこれ夢想する。自分の生活には昔からそういった他人との交流がなかったことと、真二を介するとそれが容易になると気づいたこと。そのことは彼女にとって大いなる進歩だった――。




「え、田村さんバイトするの?」

 ある日の午後。真二の部屋で二人。

「ええ。私の偏った調理スキル『キャベツ千切り女王の刃ブラックマジック・センギリスト』を活かして居酒屋とかどうかしら」

 親の反対を振り切って入った大学で、家賃と心ばかりの援助以外は望めない。奨学金が下り始めるとして、収入が必要だった。


 日中の学校と深夜のアルバイト。それだけで埋められ始めた日常の中で、彼女の心を占めるのは真二とコーヒーを分かち合える瞬間だけだった。

 ところで彼女は真二にウソをついていた。高校時代のことならば数限りなく覚えている。夏の花火も、すくえなかった金魚も、文化祭もスキー合宿の雪山の遭難も、肌を寄せて眠った日も、卒業式の日に必死で駆け回ったフェンス越しのわずか五十センチ幅のコンクリートの上も。何もかも覚えている。真二へとつながる記憶ならばすべて。
彼女は多忙の中、いつも考える。自己相似の中に身を置くフラクタルの毎日の中で、何もかもに全力でありたいと。
無駄なものも、有益なものも、すべてが自分の人生の縮図なのだと。

 彼女はアルバイトから帰ると、卵を抱えるように丸くなって眠る。いつかその卵が孵るならば何が生まれるだろう。それを未来と名づけることに抵抗はあっても、あらゆる思いのかたまりとして受け止めては眠りにつく。
 明日も真二を嫌がらせで起こさなければと――。
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