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37・黒歴史

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 金曜日の早朝。汗ばんだ顔で首からタオルを下げた田村さんがマンションへやってきた。約束の朝食だ。

「すまぬ。シャワーを浴びる時間すら惜しければこその――」
「気にしなくていいよ。サンドイッチ作ってるから、今日は紅茶を淹れてみる」
「あら、心変わりなのかしら。男心に夏の空――」
「パンを買う時のベーカリーで売ってたんだ。ライ麦パンに合うって。ティーバッグだけど」

 ケトルの湯をポットに注いでダージリンの香りを立てる。いつもと違う朝に、嫌な思いは消し去りたくなった。一週間後は明日香の別荘。楽しいことだけを考えよう。

 テーブルに並べたのは母の好きだったチーズレタスサンド。そして初挑戦のタマゴサンド。タマゴサンドは関西育ちの羽白に教わった厚焼きの玉子を挟んだもの。田村さんはそれをいたく気に入った。

「これは私にも作れそうだわ。失敗したオムレツをごまかすのにちょうどいい」

 真面目な顔でそう言った。

 ライ麦のほのかな酸味を口に残して朝食は終わる――。

「今から戻って勉強?」

「そうね。シャワーを浴びて、短く切って楽になった髪を乾かして、マリィと少し遊んでから勉強にするわ。瑞奈も明日には戻るから、今夜もマリィをお願いね」

「分かってる。じゃあ、夕方に――」

 田村さんを見送ると一気に静かな部屋へと戻る。彼女が猫を飼いたがった気持ちが分かる気がした。希薄になってゆく母の香りの中、僕にはもう田村さんしかいないのだ。





 ――ところで瑞奈は旅行に誘わないの

 夕方。田村さんを見送った部屋で、ドアが閉まる音を聞いてマリィが言った。お気に入りのクッションから下りて、辺りをウロウロしている。そのまま静かにトイレへ向かった。見てはいけない行為に思えてキッチンへ立ってコーヒーを淹れる準備をする。そういえば最近、田村さんは僕の家でコーヒーを淹れない。カフェー竜崎の専属マイスター、とまで言っていたのに。

 それはまあバイトの忙しさでしんどいのだろうとスルーしている。だからこそ、たまにここで飲む彼女のコーヒーはレアな楽しみだ。

 ――で、瑞奈は呼ばないの?

 マリィはクッションへ戻る。

「それは本人に訊いてみなきゃ――」
 ――そういうのは訊ねるんじゃなくて誘うものよ。ランチ友だちなんでしょ。
「ただ、東横さんの性格からして、そういう集団行動って苦手かなって。お昼以外は皆と一緒にならないし」
 ――ダメね。誘ったら来るに決まってるわ。

 マリィはそう言うと、あとは黙ってただの猫に戻る。自分で考えろと言うのだろう。しかし、本人にその気があっても都合は明日香の方にある。明日香が誘うことがなければ東横さんは来ないだろう。

 ところで夏休みの友が進まない。絵日記ですむのなら毎日黒猫の絵を描いていればいいのだが。それからコーヒーカップ。

(明日、それとなく訊いてみようか――明日香の方に)





生活は劇的には変わらない。牛乳配達後のピカピカが眩しい。そしてすぐにマリィを連れてやってきた。

「――はあ、お水をちょうだい。朝から二十八度という酷暑の中、売り物に手を出しそうになったわ。ところで冷房をお忘れ? 殺す気でしょうか」

 汗を拭き拭き帰ってきた彼女に、僕はキッチンではなく、冷蔵庫にむかった、

「はい、今日はコーラ」

 手渡すと彼女の瞳が震えた。

「真夏のコーラ――黒歴史であると同時に、一生消えない思い出。ベランダへ出ましょう。
そしてぶっかけ合い――」
「ません。素直に飲もうよ。いい天気だよ」

 午前八時のベランダへ出ると、西向きの影の中、夏の風が一陣吹き抜けた。

「コーラは炎天下に限るわ。屋上へ出ましょう」
「ダメだよ。管理人に叱られるって」

 チェッ、と口にして彼女はボトルを開ける。すぐに動く白い喉元――。

「ぷはあっ! しびれるわね」
「そんな生ビールみたいな感想、いらないから」

 けど――と彼女は続ける。

「懐かしいわ。あの頃の景色とはちっとも似ていないのに、コーラを飲むと高揚感と共に安心感がある」
「手すりがあるからね」

 そこで黙った。二人して。転落した母のことを思い出したのだ。それが気まずくて、

「ねえ、例の旅行。東横さんも誘えるかな――」

 言うと、

「何を言っているの竜崎君。それなら二郷木さんが契約済みよ。完売よ」

 あまりにも唐突で白けた。

「そうなんだ……あのぶっきらぼうな明日香が――」

 正直、信じられない思いで感心していた。というか四人も呼んで部屋数は大丈夫なのだろうか。別荘――限りなく広い邸宅を思い浮かべる。そして執事はクロード。

 ぼんやりとコーラを開ける。瞬間、勢いよく炭酸の手応えが指を震わせる。のどに流すと、確かに夏の味がした。田村さんと繰り広げた高校の屋上での日々。帰らない時。戻れない瞬間。

 田村さんが青空を見上げて呟く。

「夏――それもまた永遠のフラクタル――」
「よく言ってたよね――母さんも言ってた」
「フィボナッチの曲線は外へ向かうほど限りない直線へと近くなってゆくのよ。この夏はどうかしら。いったいフラクタルのどこを指し示すかしら。例えば永遠のひまわり畑。かき氷。去年の夏の打ち上げ花火。すくえなかった金魚。それらもまた循環してゆくのかしら。大きな輪を描いて」

 目を細めて言うと、コーラのボトルを傾けた。
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