地の果ての国 イーグル・アイ・サーガ

オノゴロ

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第二百一章

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第二百一章

 カラゲルは眠っていた。眠りを妨げるものがあったとしても、それをものともせず眠れるのでなければ戦の指揮など執れぬだろう。
 作戦室の長椅子にカラゲルはその身体を横たえていた。ここは元は護衛兵の詰所だったところで、梯子で二階に上がると、そこから城壁の上に出られる通路があった。
 すぐそばの卓の上には王宮の見取り図が広げてあった。
 見取り図にはバレルのものらしき書き込みがさかんにされてあった。
 その中に「地下書庫への通路は発見できず。瓦礫を撤去するのは困難」とあった。地下書庫を通って王宮の外へ抜け、運び込めなかった食糧を回収しようというのだろうか。
 また別のところには「このあたりは囲みが薄い。強引に突破はできるだろうが相当数の兵士を失うことになるだろう。ただし夜ならば可能か?」とある。
 カラゲルはふと目覚めて、その見取り図に目を落としているクランを見つけた。うつむく横顔をミアレの花冠が飾っている。
「おお、クランか。まだ朝じゃあるまい。何かあったのか」
「今夜、朝が来る前にお前に頼みたいことがあってな」
 カラゲルは目をこすって起き上がった。
「何だ、言ってみろ」
 カラゲルは長椅子の横に座れと手で示したが、クランは座らなかった。
 クランは見取り図から顔を上げて言った。
「私は今夜、旅に出なくてはならない」
「どこへ行こうというんだ。遠くか」
「限りなく遠く、限りなく近い」
 カラゲルはこの奇妙な言葉に何でもないことのようにうなずいた。
「いいだろう。一応、聞いておくが、それはこの王都の外だろうな」
 クランは口元に薄く笑みを浮かべた。この表情をした時だけは、クランは昔のままだとカラゲルも思うのだった。
「当たり前だ。いちいちふざけた茶々をいれるのはお前の悪い癖だぞ」
 カラゲルは立ち上がり寝ている間に固くなっていた腰を伸ばしてあくびをした。
「いや、シャーマンにとってこの世は地平線の方向にばかり広がっているんじゃなく、地の底や空のてっぺんにまで広がっているらしいからな」
 見取り図にちらりと目を向けたカラゲルはクランの顔を振り向いて口を開いた。
「俺もいろいろ見せてもらった。地の底から巨人が現れるのも見たし、湖の底から神殿が浮かび上がるのも見た。砂嵐の中で青空を仰いでシャーマンが死ぬのを看取ったりもしたな。ついこの間は瓦礫に埋もれてこの足の下のどこかにあるらしい地下納骨堂でミアレ王妃にも会った。そうだ、あの書庫。あれは何かの役に立ちそうか。これはみんなシャーマンの時、シャーマンの場所だ。俺には計り知れないことさ。さて、俺に何ができる。言ってみてくれ」
「包囲を抜けて王都から出られるようにしてもらいたい」
「なるほど。今夜は帝国軍も眠っているし、月もない暗い夜だ。王都脱出には絶好の機会、いい作戦だ。クランよ、お前、シャーマンだけじゃなく軍師もできるのではないのか」
 クランは青い瞳をひときわ濃い紺色にまで沈めて言った。
「私が軍師だったら王国軍は全滅している。シャーマンは運命の前にはひざまずくのみなのだ」
 カラゲルは物怖じもせず、その瞳に見入った。
「王国は滅びるのが運命だと言うのか」
 クランは言った。低く、極めて低く。
「我々は神々にあらがっているのだ。運命を変えるには犠牲が捧げられねばならない」
 カラゲルはクランの顔をまじまじと見つめた。
 これが俺の知っていたクランか。一緒に鷲狩りに行って、帰りには馬で競争した、あのクランだろうか。神々はクランを鷲づかみにし、めちゃくちゃにしてしまった。
 カラゲルは生まれて初めて神々を呪った。
「その犠牲がお前だというのなら俺は手を貸すことはできない。神々にあらがうだと。それならそれで最後の最後まであらがってやろうじゃないか。運命などなんでもありはしない」
 クランはカラゲルの肩をつかんで強く揺さぶった。カラゲルは剣の傷の痛みに顔をしかめた。クランの顔も苦悩にゆがみ、言葉は激した。
「私はイーグル・アイだ。このためにこの世に生まれてきた。この災厄であらゆる者が禁忌を犯し、それを贖った。私もまた贖いのためにこの世にやって来た。人の罪は人が償い、聖地は浄化され、世界は新たに生まれ出る。私だけではない、これから来る何人ものイーグル・アイが同じ道をたどるだろう。人間が人間である限り」
 クランは指先に流れ出るカラゲルの血を感じて肩から手を離した。
 クランはその血で青い目の端にカラゲルと同じ稲妻を描いた。
 カラゲルはクランの手を取り、その血のついた指を使って、まだ刺青のない右目の端に同じ血の稲妻を描いた。
「行こう、クランよ。おふくろがいたら、シャーマンの言うことに逆らっちゃいけないと言うだろうからな」
 しばらくして二人は城壁の上に出た。カラゲルは剣を差しただけの軽装だが、肩には縄梯子があった。クランは城壁の上の通路をカラゲルが導く方へついて行った。
 月は天頂から動かなかった。今夜は見えぬ月がイーグル・アイと王国の運命を見届けようとしているのだ。
 少し進むと、カラゲルはここだと無言のまま手で合図して、城壁の外をのぞきこんだ。そこは見取り図にバレルが書き込んでいた包囲の薄いあたりだった。
 クランも一緒に下を見ると木の生い茂ったところがあって、少し離れたところで帝国の兵士が眠り込んでいる。闇の王に操られている軍勢は見張りを立てるなどということはしていない。
 二人は縄梯子を下ろして王宮の外に出た。夜闇と木の枝とが二人の姿を隠した。
 茂みを抜けると身を屈めて小走りに進み、やがて街路に出た。すでに包囲陣は抜けている。
 そこからは瓦礫の山と成り果てた王都を進んでいく。
 新月の夜、あらゆる色彩は失われ、あらゆる形態はおぼろな影絵と化していた。いまだ生命を持つ者はこの二人、王とイーグル・アイのみ。
 荒れ果てた街路を抜けた二人は大聖堂前の祭りの広場を通り、やがて外郭地域へ出た。この道は闇の王が出現した日、姫やユーグとともに広場から城門へと逃げた道をそのままたどっているのだった。
 ある暗い道にさしかかった時、二人は路上に蠢く影を見た。カラゲルは闇を透かし見て言った。
「おい、まだあんなのがいるぞ。どうも、この路地へ入った時、むかつくような臭いがすると思ったのだ」
 それは死霊兵の残党だった。影は五体。道をふさぐように右往左往して、時々、意味もなく剣を振り回している。
 目配せし合ったカラゲルとクランは剣を抜き、死霊兵に立ち向かった。二人の剣先は同じ横方向の8の字を描いた。
 すでに死霊兵は二人の敵ではなかった。あっという間に骨を砕かれた死霊兵は地にくずおれ、消え失せた。まるでそれらの姿が現実でなく幻覚であったかのように。
 二人は気付いていなかったが、ここはかつて王都を脱出した時、酒場の若夫婦が護衛兵に襲われていたのを助けた、まさにその場所だった。五体の死霊兵どもは、あの護衛兵たちの成れの果てだったのだ。
 二人は先を急いだ。ここまで来れば、王都の外、街道に出る城門まではもうすぐだ。
 やがて二人はあの日くぐったブルクット族の門のところに出た。城門前の広場には瓦礫の山と打ち砕かれた門扉が激戦の跡をとどめていたが、あたりは静まり返って、すべてが夢の中のように夜闇に眠っていた。
 城門にたどり着くとクランはカラゲルを振り返って言った。
「ここまででいい。もう夜が明ける。お前は帰れ」
 クランは礼を言ったりしなかった。何かしてもらったからといっていちいち礼を言い合うような、よそよそしい仲ではない二人だ。
 しかし、クランは礼を言う代わりに別のものを差し出した。腰に差したセレチェンの剣だ。
「もうこの剣はいらない。お前に預けるから、いずれベルーフ峰の聖地へ持っていけ。そこで勇者の弔いを求めるのだ」
 剣を受け取ったカラゲルは城門の外、闇の底に白く伸びる街道へ目を向けた。
「クランよ、何があるにせよ俺も行こう。俺も連れて行ってくれ」
 クランは静かにかぶりを振った。ビーズの飾りが揺れてかすかな音を立てた。
「私はお前を連れて行くことはできない。私が向かうのは地の果ての国だ。お前は地の中心へ向かわねばならない。お前はそこで王になる」
 カラゲルは口をはさまず、ただ黙ってクランの言葉に耳を傾けていた。
 かつては部族の村の幼なじみであって今ではイーグル・アイの運命に身も心も捧げ尽くしている、限りなく遠く、限りなく近い、一人の女の言葉に。
 クランは言った。低く、極めて低く。
「しかし、私が向かう場所も、お前が向かう場所も、表裏一体ひとつなのだ。影と光とが明暗反転すれば本当はひとつであるように」
 二人はじっと見つめ合った。二つの血の稲妻が鏡に映したようだった。
「分かったか、カラゲルよ」
「分かった」
 クランは微かな笑みを浮かべて、本当に分かったのかと問うた。
 カラゲルも笑みを浮かべた。
「実のところ分からん。しかし、クランよ。俺はお前を信じている。ずっと昔から。俺は一度たりともお前を疑ったことはないのだ」
 クランの青い瞳がほのかに光を帯びた。
「お前はいい奴だ。心の清い者だ。私はよく思ったものだ。どうせこの世に生まれてくるのなら、お前のような人間に生まれてくればよかったと」
 クランは半ば身体を城門の外へ向け、髪で隠した横顔越しに言った。
「さらばだ、カラゲル。さらばだ、友よ」
 カラゲルは言葉を返そうとしたが、何も言うことができなかった。
 何か言えば、別れの運命に押しつぶされてしまいそうだった。
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