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第百五十四章

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第百五十四章

 カナ族の町のほとんどは壊滅状態になっていたが、常民街の町外れに近いあたりやその外側に点在する貧民窟はそのままだった。
 コルウスにせよ、龍にせよ、この薄汚れた界隈は壊す価値がないと見たのかもしれない。
 永遠を望んで天高くそびえていた黒大理石と金の塔ではなく、地を這うような常民街や貧民窟が残ったのは不思議とも言えたが、当然とも言えた。
 彼らの棲家は永遠など望まず植物のように地に生い茂って広がり、寿命が来れば崩れて生まれ変わる。つまり絶えず土に還ろうとしているのだ。
 この世に永遠があるとしたら、それは大地の他にない。彼らの棲家は土に近く、大地に近い。すなわち永遠の移り変わりのもとにあるのだ。
 ゲッティの商館は町外れにあって無事だった。荷さばき場の周囲には多くの天幕が立ち並び、町から逃れて来た者たちが肩を寄せ合うように暮らしていた。
「荷馬車隊が着いたぞ。荷役の者どもを集めろ!」
 荷役の長が怒鳴るような大声を上げると屈強な男たちが荷を満載した荷馬車へ群がった。
 荷馬車は二十台以上もあった。メル族のオットーが指揮する荷馬車隊が調達できるかぎりの食糧を運び込んできたのだった。商館は一気に活気づいた。
 バレルの一味に加わっていたならず者もいつの間にか仲間に溶け込んでいて、穀物の袋を背負って働いていた。ゲッティがこの男を救ってやったのは間違いではなかったらしい。
「やはり穀物は横流しされていましたよ。連中は偽金貨も持っていて、ゲッティさんが教えてくれなかったら大変なことになるところでした」
 荷馬車から降りてきたオットーはゲッティに感謝した。ゲッティはかぶりを振って言った。
「いや、あれは族長ご夫婦から教えてもらったことです。まったくうかつだった。私やあなたをペテンにかけようなんて、これが昔なら……」
 ゲッティは声を潜めてオットーと笑い合った。
 ゲッティのところの算術の少年が帳面を片手に山積みの荷の間を駆けまわっていた。いつまで続くか分からないが、今のところ食べるには困らないだろう。あとは平等な分配が問題だった。
「穀物は決まりの大きな枡で量ってください。数を帳面につけておかなくちゃいけないから」
 男たちも女たちも、子どもたちまで総出で働いていた。その様子はあの部族戦争の時の難民たちのようだった。いまや王国きっての富裕な部族が難民になりかけているのだった。
 セレンとレニが密偵の集合場所として使っていた常民街の酒場も難を逃れていた。みすぼらしい場所だが、今はここが族長夫婦の居場所となっていた。密偵たちは町の再建のため族長の指示を受けて飛びまわっていた。
 あの難民鉱山は崩壊し、消滅したが、他の鉱山はまだ残っている。住まいや食糧さえ確保できれば操業は十分可能だ。
「警備隊長、長老になる気はないかい。優民街の名家の連中はみんな落胆して気力をなくしているものでどうにもならないんだ」
 族長セレンの言葉に警備隊長は目を丸くして叫んだ。
「俺が長老だって。馬鹿いうなよ。いくらなんでも無茶だぜ」
「あら、隊長だったら部族のみんなも信頼してついていくわよ」
 レニがちょっとからかうように言って笑った。
「冗談じゃねえ、長老なんてよ。それより、ヤマはどうするんだ。人員さえ割り当てれば操業を再開できる。天幕にこもってばかりじゃ始まらないぜ」
 セレンは酒場の円卓に肘を突いて考え込んでいたが、警備隊長の顔を見上げて尋ねた。
「鉱山長はどうしてる。生きてるんだろう」
「ああ、生きてるさ。でも、あまりのことに腑抜けみたいになっちまってる」
「そうか、じゃあ、今から君が鉱山長だ。監督官のできる者を集めて鉱山を早急に再開してくれ。今、任命書を書くから……」
「ちょっ、ちょっと待ってくれ。警備隊長がいきなり鉱山長になるなんて、ドブネズミが熊になるようなもんだぜ」
 泡を食っている隊長へレニが片頬にえくぼを作って微笑を見せた。
「面白いたとえね。これからは鉱山長も面白い人がいいわ」
 セレンが族長の署名の入った書付を作って警備隊長に押し付けた。
「早速かかってくれ。人選は任せるけど監督官の名簿ができたら僕のところへ報告してくれ。じゃ、よろしく頼む」
 書付を手に呆然としていた警備隊長はいったん酒場の外へ出て行きかけたが、すぐに戻ってきてカウンターで龍の舌を一杯あおった。
「こりゃあ、一杯やらなきゃやってられねえぜ」
 警備隊長がドカドカ長靴を鳴らして出ていくのと入れ違いにカラゲルが酒場へ入ってきた。
「どうしたんだ、隊長は。真っ赤な顔して、えらい意気込みじゃないか」
 すでにカラゲルは警備隊長と親しくなっていた。酔っ払って取っ組み合いの喧嘩までしたほどだ。
 その後からミアレ姫とユーグも入ってきた。酒場の外にはそれぞれの馬が繋いであった。この三人はカナ族の土地をひとまわり見てまわってきたところだった。
 セレンとレニが座っている丸テーブルの前に来たカラゲルは頼みがあると切り出した。
「なんだい。カラゲルの頼みならぜひ聞かなくちゃならないな」
 セレンは族長としての威厳よりも、あらゆる者たちの声が耳に入ってくるように気軽であけっぴろげな態度を大事にしていた。
 カラゲルは言った。
「いずれ、我々は王国の部族の民を結集して闇の王に挑まなくてはならない。王都からいちばん近くの部族の土地といえばここだ」
「確かに。夜明けに出て街道に馬を飛ばせば、夜には到着できる距離だ。ただし街道はここのところ放置されていて荒れているがね」
 セレンは真面目な態度になって戦士の部族の稲妻の刺青を見上げた。
 カラゲルは見回ってきたこの地の状況を脳裏に浮かべていた。
「この土地は鉱山の山並みを背後に開けた場所があるという状況だ。そこで、ここを王都への軍勢の集結場所にし、進軍の時には物資補給の砦にしたい」
「なるほど、それはいい考えだ。我が部族の土地が役に立つとは光栄だよ」
 レニが頼もしげにカラゲルを見た。
「きっとカラゲルの頭の中には、もう砦の図面が引かれているんでしょうね」
 それを言われるとカラゲルはやや困惑の表情になった。
「いや、実を言うとそうでもないんだ。こういうことはバレルが得意なはずなんだが、ついカッとなって殴ってしまったものだから……」
 怒りにかられてバレルを追い払ってしまったことを、ここへ来る馬の上で後悔していたカラゲルだった。
 その後ろでミアレ姫とユーグは顔を見合わせて笑っていた。カラゲルの性分は長旅のうちに十二分に承知している二人だった。
 セレンはカラゲルを力づけるようにうなずいて見せた。
「砦の建設か。そうと決まれば具合案を練ろう。ゲッティのところへ行って話さなくちゃならない。人手と資材が必要だ。それに補給経路の確保だ。こっちはオットーが頼りだな」
 カラゲルたち三人はすぐに酒場を出ていった。
 酒場の隅にクランの姿があった。クランはカラゲルたちから見回りに誘われたが行かなかった。しばらく天幕に寝込んでいて起きてきたばかりだったのだ。
 窓の外へ虚ろな目をやっているクランの横顔はやや憔悴の色を見せていた。銀灰色に変わった髪の下の顔は蒼白で青い瞳にも光が失われていた。
 同じ卓には老シャーマンがクランと同じ方を向いて座っていた。
 窓の外の通りには透き通る青空から明るい日光が降り注いでいた。人々は町の再建のため忙しく行き来して、シャーマンたちの卓のまわりとは違った時に属しているように見えた。
 クランは老シャーマンに尋ねた。シャーマン同士にしかできない話をしようという静かな口ぶりだった。
「私が蘇らせた龍はこの町を壊滅させた。シャーマンよ、シャーマンの力とは何だ。それは人のためにあるのではないのか。人を救うためにあるのではないのか」
 老シャーマンはうなずいて答えた。
「イーグル・アイよ、お前は並外れて大きな時の中にある。それは精霊の時であり、神々の時だ」
 二人のシャーマンは窓の外へ目を向けたままだった。
「お前はその厳しい時に耐えてきたはずだ。道はまだ時の彼方へ続いている。お前はその道をたどらねばならぬ。お前は不可視の龍の加護を得たはずだ。それはシャーマンにしか見えぬ不可視の道だ」
「シャーマンよ、私はこれからどこへ向かうべきなのだ」
「言うまでもない。王都よ」
 老シャーマンの口ぶりが少しだけ高ぶった。
「お前は王の血脈とともに王都を奪い返し、王妃の頭蓋骨をあるべきところへ返すのだ。しかし、シャーマンが最後に向かうところは決まっている。地の果て、シャーマンの樹だ。シャーマンの道はすべてそこへ向かっている。シャーマンの旅はそこで始まり、そこで終わる」
 その時、外の道から酒場へ入ってきた者がいた。ココだ。
 ココは洞窟で頭を殴られて卒倒してから、ロウデンととともに宮殿の牢獄に捕らえられていたが、あの夜の騒ぎに乗じて脱出していた。
 ココは窓の外にいたはずなのに耳ざとく二人のシャーマンの話を聞いていた。
 つかつかと母の老シャーマンに歩み寄ると、ココはその横顔に目を当てたまま言った。
「あんた、またそんな話をしているのかい。イーグル・アイを王の血脈のために人柱にしようって言うんだろう。いい加減にしな。人の命を何だと思っているんだい」
 ココはもう怒鳴ることはしなかった。口では反発していても、それがシャーマンのやり方だと分かっていたからだ。
 奇妙で曲がりくねっていて矛盾しているシャーマンの道。それでいて、どこか秘めやかなところで筋が通っている道。
 老シャーマンは娘の顔へ目もくれなかった。
「シャーマンの命はひとつだ。王国には多くのシャーマンが生きているが、その命はひとつだ。シャーマンの樹の枝は多くても、それらのすべてが繋がっている。そのように多にして一なのだ」
 老シャーマンは、その言葉から流れるようにいしにえの言葉の朗唱に移った。そこから先は、いにしえの言葉でしか語れぬとでもいうように。
 ココはそれを無視して話した。
「そんなごたくはたくさんだ。私はもうここを出ていくよ。いっそ王国を出ていくのもいいね。あのロウデンって詐欺師は帝国にいたこともあるって言っていたから道案内ぐらいにはなるかも知れない」
 ココは老シャーマンとイーグル・アイの二人に向かって言った。
「ただ、ここを去る前に教えてあげるよ。この地から死霊が去っていくのが分かるかい。私には分かる」
 手のひらの上で小さな火球を浮かせたココはその弱々しく揺らぐ光に見入っていた。建物の中だというのに火は荒れ野の焚き火のように風に吹かれていた。
「代わりに精霊が入ってきているようだね。これはあんたたちにも分かるだろう。それはいいが、死霊の行き先、これが問題だよ。私にもはっきりしたことが言えないけど、どうやら王都へ向かっているような気がするね」
 火球を消したココは口元を歪めて笑った。
「つまり、闇の王のいる方角さ。あんたらみたいなお人好しには分からないかも知れないけど悪い奴ってのは怒らせると見境がつかなくなるんだよ。気をつけな、イーグル・アイよ。もうあんたに会うこともないだろうね」
 ココは長衣の裾を払って酒場を出て行った。
 ココに代わって二人のシャーマンに歩み寄ったのはセレンとレニだった。
「シャーマンよ、イーグル・アイよ。我が部族の民の救い主よ。あなたがたのおかげで我がカナ族は救われました。お礼を申し上げます」
 族長夫婦がクランに会うのは久しぶりだった。
 クランは椅子にかけたまま二人を見上げた。
「強要されたとは言え、龍は私が蘇らせたのだぞ」
 セレンは両手を広げ、穏やかな笑みを浮かべていた。
「すべては時のしからしめるところ。これは我が部族が生まれ変わる良い機会です。常民街と優民街を隔てる壁は壊され、私欲を去って皆が皆のために働こうとしています。ゲッティがその良い手本となってくれることでしょう」
 妻のレニもまた静かに言った。
「いずれ信仰も蘇るのではないかしら。シャーマンとブンド族を追い払ったのは我が部族の間違いだったと、今ではみんなが思っているはずよ」
 老シャーマンはうなずいた。
「お前たちはシャーマンの言うことを夢のようなものだと思っていたはずだ。夢の持つ力を知りもせずに。人の世は夢によって組み立てられているのだ。お前たちがありがたがる鉱石や金貨など、夢のまた夢よ」
 セレンとレニは戸惑う顔だったが、やがて気を取り直し明るい声を出した。
「シャーマンよ、イーグル・アイよ。今夜は私たちの新しい宮殿で酒宴が催されます。どうか、ブンド族の皆さまとともに仲間に加わって下さい」
 老シャーマンは皮肉な口ぶりで尋ねた。
「新たな宮殿だと。そんなたいそうなものがどこにある」
 セレンは酒場の中を手で示した。これが我らの宮殿ですよという具合に。
 いっぺんに愉快な表情になった老シャーマンは笑い声を上げた。
「おお、そうか。それはいい。おおいに飲み、おおいに踊ろうぞ。きっと、イーグル・アイの踊りも見られることだろう」
 クランの横顔をのぞき込んだレニが嬉しそうに笑った。
「まあ、素敵。楽しみだわ」
 クランは老シャーマンを横目でにらんだが、老シャーマンは早くも浮かれて両手を宙に舞わせている。
「踊りもできずにシャーマンとは言えぬ。今こそ地を踏み固め、天に精霊を舞わせる時ぞ。よいな、イーグル・アイよ」
 レニが小鳥のような笑い声を上げると他の者たちも笑った。クランもまた。
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