135 / 206
第百三十五章
しおりを挟む
第百三十五章
あくる日、ゲッティは屋敷に隣接する商館で多忙な一日を送っていた。
今日最後の荷馬車は無事に到着した。ゲッティは帳簿を片手に荷の数量を調べ、送り状を確かめた。
送り状にはオットーの確かな仕事ぶりが見て取れた。町の食糧事情は今のところ安定していた。それは、この二人が互いに抱く友情と信頼によるところが大きかった。
かつて街道に多くの隊商を疾駆させていたメル族にとって闇の王の災厄が王国を覆う今はことに困難な時代といえた。彼らの富は常に街道の上にあるのだった。街道の上に生まれ、街道の上で増殖し、街道の上で蓄積されるのがメル族の富だった。
黒い目をした闇の獣が跋扈するようになってから街道は寸断され、宿駅は廃れ、商館は無人になってしまった。
そんな中でオットーは出来得る限りの隊商を繰り出してカナ族の町へ食糧を送り込んでくれている。
オットーとその部下のメル族の民はあくまでもメル族であってカナ族ではない。それでも力を惜しまずカナ族のために街道の流通を維持しようとするのは、商人部族の民としての倫理感だろうか。あるいは、もっと大きく王国への義務感だろうか。
いずれにせよ、あらゆる部族の民はそれぞれの生きる道を貫くしかないのだ。
荷さばき場に差す西日に砂ぼこりがきらめき舞っていた。荷役の者たちは袋を肩に担いだり荷車を押したりして町へ荷を送り込むための仕分けをしていた。
ゲッティが見ると、あの襲撃の時、拾ってきたならず者が頭に包帯を巻いた姿で穀物の荷を担いでいた。そんな者は道端へ捨てて来ればよかったと言い放った荷役の長はならず者からじっと目を離さなかった。
ゲッティがひとまず帳簿を閉じると、そばについていた番頭がそれを受け取った。
「穀物はもっと欲しいところだな。オットーさんは尽力してくださっているが、ナホ族は少し前まで虫害に悩まされていたらしいから収穫が十分でないのだろう。まあ、このくらいで満足しなくてはならないか」
番頭はうなずいた。
「旅のご一行もそのようなことをおっしゃっていましたね。黒い虫は闇の王の力が王都から遠く浸透していたからだと」
「恐ろしいことだ。目に見えぬ力が地下深く蠢いているのだろう。もしかすると我らの土地にも」
「しかし、精霊の繁き者がこの地にいるかぎり心配はいらぬのではありませんか。それに、あの青い目のシャーマン」
ゲッティは番頭の言葉を手で制し、そっとあたりを見回した。
「めったやたらなことを口にしてはいかん。誰に聞かれているか分からんのだから」
その時、ゲッティのすぐ後ろから声がかかった。びっくりして振り返ると、そこに立っていたのはあの算術の少年だった。
「ゲッティさん。族長ご夫婦がお見えです。何かお話ししたいことがあるとか」
ゲッティは一瞬、迷惑そうな顔になった。
「族長ご夫婦だと。こんなほこりっぽいところへ何用あってわざわざお運びなのか」
その口ぶりに皮肉なものがあった。番頭が肩をすくめて答えた。
「また夜会のために酒をまわしてくれと言うんじゃありませんか。この間など、オットーさんに頼んで南の蒸留酒を調達してもらってくれないかとおっしゃって。まったく困ったものです」
番頭はひそひそ声になった。
「だけど、あの方たちはなぜそんなことをご存知なんでしょうね。以前、オットーさんが関わっていた帝国相手の裏稼業のことなんか」
番頭はゲッティはもちろんオットーとも付き合いが長かった。この男もまた街道をめぐる裏も表も知り尽くしている。
「おい、めったやたらなことを口にするなと言っただろう。まったく無駄口の多い奴だ。しかたない、お二人を屋敷の方へご案内しろ。少しくらい待たせてもいいだろう。どうせ暇を持て余していらっしゃる方たちだ」
そう言い捨てたゲッティが振り向くと、どこから現れたか、目の前に当のセレンとレニが立っていた。面食らうゲッティに族長夫婦は愛想よく笑みを浮かべて見せた。
セレンは荷役の者たちが穀物の袋を担いでいくのを眺めながら静かに言った。
「ゲッティよ。穀物が足らないのは黒い虫のせいもあるが、それだけじゃない。街道沿いの商館があるね。あそこで物資を横流ししている者がいるんだ。その者はオットーの部下だ」
ゲッティはムッとした顔で族長の横顔をにらんだ。
「でたらめを言うのはよしていただきましょう。物資はすべて帳簿によって管理されています。そうそう数をごまかすことなんかできません」
「帳簿によって管理されているのかい。帳簿係によって管理されているんじゃないのかい。数なんて数え方ひとつでどうにでもできる。数は穀物の粒のように物じゃない。単なる頭の中にある考えに過ぎない」
セレンは真正面からゲッティを見た。その顔はなお穏やかな笑みを浮かべていた。
「帳簿係とあと何人かが仲間になって穀物はかすめ盗られている。いや、穀物だけじゃなく、いろいろな物資がね。これを見てくれ」
セレンは一枚の金貨をゲッティに渡した。
ゲッティはそれを眺めた。手のひらにのせた金貨は夕暮れ時の薄闇の中でもきらめいて見えた。これが何だというのだろう。ゲッティは脇からのぞき込んでくる番頭に金貨を渡した。番頭はそれをひっくり返して裏表、注意深く観察していた。
セレンは言った。
「オットーの部下の一人がそいつを酒場で使っていた。もちろん、博打にさ。商館で働いている者で金貨をポンと博打に投げ出すことのできる者がいるだろうか。それにその金貨は……」
番頭が甲高い声を張り上げた。
「贋金だ。これは偽造金貨ですよ、ゲッティ様」
「なんだと」
驚いたゲッティは番頭から金貨を受け取って眺めた。暮れていく夕日の中で金貨は血のように赤く見えた。
ゲッティにはその金貨が偽物であると見分けることができなかった。もちろん、ゲッティだって贋金はいくらでも見たことがある。しかし、以前にはこれほどまでに精巧なものはなかった。それでも、経験豊かな番頭がそう言うのだ。間違いなかろう。
「最近、そんな偽金貨が王国の裏稼業の者たちの間で流通しているんだ。出どころはおそらくウラレンシス帝国だろう。確証はないけどね」
族長の言葉にゲッティは、まさかという顔になった。
「横流ししている者が帝国の手先だとおっしゃるのですか」
「それは違うようだね。そんな大物じゃない。ただ、当たり前だけど売り先はまともな相手じゃないね。これ以上は僕の方で調べるより、そちらでことを確かめるのがいいだろう。街道界隈で起こることはそちらが専門なんだからね」
セレンは顔に笑みを浮かべたまま、優雅な手つきで商館の外に広がる荒れ野を指して見せた。
「あなたもオットーも以前の裏稼業からはすっぱりと手を引いたらしいじゃないか。もし、そっちの知り合いが今でもいるなら、このことに気がついていたはずだ。少しはそっちのつながりも残しておくべきだったね」
セレンは呆気にとられている番頭へ顔を向け、ニヤリといたずらっぽい顔をして見せた。
「番頭君、ちょっと前に僕は帝国産の酒を調達してくれるように君からオットーへ頼んでくれないかと言ったはずだ。あれは、その手のいかがわしい調達業者なら横流し物資についても知っているかもしれないと思ったからだよ。そんな連中と友達づきあいしておけば、それとなく忠告してくれたかもしれないし」
ゲッティは戸惑い、ついには怒り出した。
「族長、いったいあなたは何をおっしゃっているんです。そんなことはすべてあなたの妄想じゃないんですか。だいいち、なぜ、あなたがそんなことを知ることができるんです。酒場で浮かれ騒いだり夜会を催しているだけで何が分かるんです」
セレンは言った。
「ゲッティよ、富と宝の使い手よ。僕には友達がいっぱいいるのさ。彼らは贋金じゃない、本物の金貨、本物の宝さ。なあ、そうだろう」
セレンは算術の少年の肩を抱き寄せて微笑みかけた。
それを見た番頭は、あっと手を叩いた。
「なんと、お前は族長様のために働く密偵だったのか。ちょいちょい姿を消すから恋人でもできたのかと思っていたんだ」
少年は顔を赤くして激しくかぶりを振った。
「そんなんじゃありませんよ。やだなあ、番頭さんはもう。ゲッティさん、分かってください。僕はゲッティさんを騙そうとしていたわけじゃありません。僕と同じように王都から逃げてきた人たちを救うために少しでも力になろうとしていたんです。そのために族長様の手助けをしていたんです。僕のようなのが他にもたくさんいるんです」
セレンはうなずいた。
「この子は私の密偵のうちでも最も優秀な一人さ。もう察しがついているだろうが、難民鉱山の警備隊長も仲間だ。もちろん、街道の商館にも常民街の酒場にも仲間はいる。なぜ、私がこんなことをしていると思う」
セレンはやや声を潜めた。笑みは消え、その若い顔は薄暮に沈んでいたが、目だけは確かに輝いていた。
「ゲッティよ、我らの部族は腐敗している。頭が腐れば手足も腐るというだろう。いずれは胴体も腐って崩れ落ち、砂塵となって草も生えぬ荒れ野へ消え去ってしまうことだろう」
族長が言う『頭』とは何を指すか明らかだ。
ゲッティは、参ったという顔で額に手を当てた。族長はその密かな意図を隠すため酒場や夜会にうつつを抜かして見せていたのだ。
セレンは顔に笑みを戻して言った。
「ゲッティよ、私とレニを旅の客人に会わせてくれないか」
「何ですって、あの人たちのことをなぜ。そうか、お前が知らせたのだな」
ゲッティは少年へ指を突きつけ、また、参ったという顔をした。思えば、この少年は王都の出なのだ。ミアレ姫やユーグの顔を知っていてもおかしくはない。
それまで黙っていたレニがゲッティへ笑いかけた。
「旅のお客さまたちは、この地に何かが起こると思っていらっしゃるんじゃないかしら。きっと何かを感じて私たちの土地まで来られたんだわ。青い瞳の女性がいるんでしょう。私、その人とお友だちになりたいわ」
なおも困惑気味のゲッティにセレンは思わず吹き出した。セレンは妻の腕に手をかけて言った。
「そういうレニも何かを感じているのかな」
レニはそれとなくあたりを見まわして口元に微笑を浮かべた。
「ここには精霊たちが集まって来ているわ。私はシャーマンじゃないけれど、そう感じるの」
ゲッティは族長夫婦の顔をかわるがわる眺め、少し考え込む様子だったが、ついにうなずいて言った。
「いいでしょう。いずれにせよ大事なお客さまのことは何もかもご存知のようだ。賢い密偵がいい働きをしたらしい」
少年の頭をポンポンと叩いたゲッティは二人を屋敷へ案内することを承知した。
あくる日、ゲッティは屋敷に隣接する商館で多忙な一日を送っていた。
今日最後の荷馬車は無事に到着した。ゲッティは帳簿を片手に荷の数量を調べ、送り状を確かめた。
送り状にはオットーの確かな仕事ぶりが見て取れた。町の食糧事情は今のところ安定していた。それは、この二人が互いに抱く友情と信頼によるところが大きかった。
かつて街道に多くの隊商を疾駆させていたメル族にとって闇の王の災厄が王国を覆う今はことに困難な時代といえた。彼らの富は常に街道の上にあるのだった。街道の上に生まれ、街道の上で増殖し、街道の上で蓄積されるのがメル族の富だった。
黒い目をした闇の獣が跋扈するようになってから街道は寸断され、宿駅は廃れ、商館は無人になってしまった。
そんな中でオットーは出来得る限りの隊商を繰り出してカナ族の町へ食糧を送り込んでくれている。
オットーとその部下のメル族の民はあくまでもメル族であってカナ族ではない。それでも力を惜しまずカナ族のために街道の流通を維持しようとするのは、商人部族の民としての倫理感だろうか。あるいは、もっと大きく王国への義務感だろうか。
いずれにせよ、あらゆる部族の民はそれぞれの生きる道を貫くしかないのだ。
荷さばき場に差す西日に砂ぼこりがきらめき舞っていた。荷役の者たちは袋を肩に担いだり荷車を押したりして町へ荷を送り込むための仕分けをしていた。
ゲッティが見ると、あの襲撃の時、拾ってきたならず者が頭に包帯を巻いた姿で穀物の荷を担いでいた。そんな者は道端へ捨てて来ればよかったと言い放った荷役の長はならず者からじっと目を離さなかった。
ゲッティがひとまず帳簿を閉じると、そばについていた番頭がそれを受け取った。
「穀物はもっと欲しいところだな。オットーさんは尽力してくださっているが、ナホ族は少し前まで虫害に悩まされていたらしいから収穫が十分でないのだろう。まあ、このくらいで満足しなくてはならないか」
番頭はうなずいた。
「旅のご一行もそのようなことをおっしゃっていましたね。黒い虫は闇の王の力が王都から遠く浸透していたからだと」
「恐ろしいことだ。目に見えぬ力が地下深く蠢いているのだろう。もしかすると我らの土地にも」
「しかし、精霊の繁き者がこの地にいるかぎり心配はいらぬのではありませんか。それに、あの青い目のシャーマン」
ゲッティは番頭の言葉を手で制し、そっとあたりを見回した。
「めったやたらなことを口にしてはいかん。誰に聞かれているか分からんのだから」
その時、ゲッティのすぐ後ろから声がかかった。びっくりして振り返ると、そこに立っていたのはあの算術の少年だった。
「ゲッティさん。族長ご夫婦がお見えです。何かお話ししたいことがあるとか」
ゲッティは一瞬、迷惑そうな顔になった。
「族長ご夫婦だと。こんなほこりっぽいところへ何用あってわざわざお運びなのか」
その口ぶりに皮肉なものがあった。番頭が肩をすくめて答えた。
「また夜会のために酒をまわしてくれと言うんじゃありませんか。この間など、オットーさんに頼んで南の蒸留酒を調達してもらってくれないかとおっしゃって。まったく困ったものです」
番頭はひそひそ声になった。
「だけど、あの方たちはなぜそんなことをご存知なんでしょうね。以前、オットーさんが関わっていた帝国相手の裏稼業のことなんか」
番頭はゲッティはもちろんオットーとも付き合いが長かった。この男もまた街道をめぐる裏も表も知り尽くしている。
「おい、めったやたらなことを口にするなと言っただろう。まったく無駄口の多い奴だ。しかたない、お二人を屋敷の方へご案内しろ。少しくらい待たせてもいいだろう。どうせ暇を持て余していらっしゃる方たちだ」
そう言い捨てたゲッティが振り向くと、どこから現れたか、目の前に当のセレンとレニが立っていた。面食らうゲッティに族長夫婦は愛想よく笑みを浮かべて見せた。
セレンは荷役の者たちが穀物の袋を担いでいくのを眺めながら静かに言った。
「ゲッティよ。穀物が足らないのは黒い虫のせいもあるが、それだけじゃない。街道沿いの商館があるね。あそこで物資を横流ししている者がいるんだ。その者はオットーの部下だ」
ゲッティはムッとした顔で族長の横顔をにらんだ。
「でたらめを言うのはよしていただきましょう。物資はすべて帳簿によって管理されています。そうそう数をごまかすことなんかできません」
「帳簿によって管理されているのかい。帳簿係によって管理されているんじゃないのかい。数なんて数え方ひとつでどうにでもできる。数は穀物の粒のように物じゃない。単なる頭の中にある考えに過ぎない」
セレンは真正面からゲッティを見た。その顔はなお穏やかな笑みを浮かべていた。
「帳簿係とあと何人かが仲間になって穀物はかすめ盗られている。いや、穀物だけじゃなく、いろいろな物資がね。これを見てくれ」
セレンは一枚の金貨をゲッティに渡した。
ゲッティはそれを眺めた。手のひらにのせた金貨は夕暮れ時の薄闇の中でもきらめいて見えた。これが何だというのだろう。ゲッティは脇からのぞき込んでくる番頭に金貨を渡した。番頭はそれをひっくり返して裏表、注意深く観察していた。
セレンは言った。
「オットーの部下の一人がそいつを酒場で使っていた。もちろん、博打にさ。商館で働いている者で金貨をポンと博打に投げ出すことのできる者がいるだろうか。それにその金貨は……」
番頭が甲高い声を張り上げた。
「贋金だ。これは偽造金貨ですよ、ゲッティ様」
「なんだと」
驚いたゲッティは番頭から金貨を受け取って眺めた。暮れていく夕日の中で金貨は血のように赤く見えた。
ゲッティにはその金貨が偽物であると見分けることができなかった。もちろん、ゲッティだって贋金はいくらでも見たことがある。しかし、以前にはこれほどまでに精巧なものはなかった。それでも、経験豊かな番頭がそう言うのだ。間違いなかろう。
「最近、そんな偽金貨が王国の裏稼業の者たちの間で流通しているんだ。出どころはおそらくウラレンシス帝国だろう。確証はないけどね」
族長の言葉にゲッティは、まさかという顔になった。
「横流ししている者が帝国の手先だとおっしゃるのですか」
「それは違うようだね。そんな大物じゃない。ただ、当たり前だけど売り先はまともな相手じゃないね。これ以上は僕の方で調べるより、そちらでことを確かめるのがいいだろう。街道界隈で起こることはそちらが専門なんだからね」
セレンは顔に笑みを浮かべたまま、優雅な手つきで商館の外に広がる荒れ野を指して見せた。
「あなたもオットーも以前の裏稼業からはすっぱりと手を引いたらしいじゃないか。もし、そっちの知り合いが今でもいるなら、このことに気がついていたはずだ。少しはそっちのつながりも残しておくべきだったね」
セレンは呆気にとられている番頭へ顔を向け、ニヤリといたずらっぽい顔をして見せた。
「番頭君、ちょっと前に僕は帝国産の酒を調達してくれるように君からオットーへ頼んでくれないかと言ったはずだ。あれは、その手のいかがわしい調達業者なら横流し物資についても知っているかもしれないと思ったからだよ。そんな連中と友達づきあいしておけば、それとなく忠告してくれたかもしれないし」
ゲッティは戸惑い、ついには怒り出した。
「族長、いったいあなたは何をおっしゃっているんです。そんなことはすべてあなたの妄想じゃないんですか。だいいち、なぜ、あなたがそんなことを知ることができるんです。酒場で浮かれ騒いだり夜会を催しているだけで何が分かるんです」
セレンは言った。
「ゲッティよ、富と宝の使い手よ。僕には友達がいっぱいいるのさ。彼らは贋金じゃない、本物の金貨、本物の宝さ。なあ、そうだろう」
セレンは算術の少年の肩を抱き寄せて微笑みかけた。
それを見た番頭は、あっと手を叩いた。
「なんと、お前は族長様のために働く密偵だったのか。ちょいちょい姿を消すから恋人でもできたのかと思っていたんだ」
少年は顔を赤くして激しくかぶりを振った。
「そんなんじゃありませんよ。やだなあ、番頭さんはもう。ゲッティさん、分かってください。僕はゲッティさんを騙そうとしていたわけじゃありません。僕と同じように王都から逃げてきた人たちを救うために少しでも力になろうとしていたんです。そのために族長様の手助けをしていたんです。僕のようなのが他にもたくさんいるんです」
セレンはうなずいた。
「この子は私の密偵のうちでも最も優秀な一人さ。もう察しがついているだろうが、難民鉱山の警備隊長も仲間だ。もちろん、街道の商館にも常民街の酒場にも仲間はいる。なぜ、私がこんなことをしていると思う」
セレンはやや声を潜めた。笑みは消え、その若い顔は薄暮に沈んでいたが、目だけは確かに輝いていた。
「ゲッティよ、我らの部族は腐敗している。頭が腐れば手足も腐るというだろう。いずれは胴体も腐って崩れ落ち、砂塵となって草も生えぬ荒れ野へ消え去ってしまうことだろう」
族長が言う『頭』とは何を指すか明らかだ。
ゲッティは、参ったという顔で額に手を当てた。族長はその密かな意図を隠すため酒場や夜会にうつつを抜かして見せていたのだ。
セレンは顔に笑みを戻して言った。
「ゲッティよ、私とレニを旅の客人に会わせてくれないか」
「何ですって、あの人たちのことをなぜ。そうか、お前が知らせたのだな」
ゲッティは少年へ指を突きつけ、また、参ったという顔をした。思えば、この少年は王都の出なのだ。ミアレ姫やユーグの顔を知っていてもおかしくはない。
それまで黙っていたレニがゲッティへ笑いかけた。
「旅のお客さまたちは、この地に何かが起こると思っていらっしゃるんじゃないかしら。きっと何かを感じて私たちの土地まで来られたんだわ。青い瞳の女性がいるんでしょう。私、その人とお友だちになりたいわ」
なおも困惑気味のゲッティにセレンは思わず吹き出した。セレンは妻の腕に手をかけて言った。
「そういうレニも何かを感じているのかな」
レニはそれとなくあたりを見まわして口元に微笑を浮かべた。
「ここには精霊たちが集まって来ているわ。私はシャーマンじゃないけれど、そう感じるの」
ゲッティは族長夫婦の顔をかわるがわる眺め、少し考え込む様子だったが、ついにうなずいて言った。
「いいでしょう。いずれにせよ大事なお客さまのことは何もかもご存知のようだ。賢い密偵がいい働きをしたらしい」
少年の頭をポンポンと叩いたゲッティは二人を屋敷へ案内することを承知した。
0
お気に入りに追加
8
あなたにおすすめの小説
絶対に間違えないから
mahiro
恋愛
あれは事故だった。
けれど、その場には彼女と仲の悪かった私がおり、日頃の行いの悪さのせいで彼女を階段から突き落とした犯人は私だと誰もが思ったーーー私の初恋であった貴方さえも。
だから、貴方は彼女を失うことになった私を許さず、私を死へ追いやった………はずだった。
何故か私はあのときの記憶を持ったまま6歳の頃の私に戻ってきたのだ。
どうして戻ってこれたのか分からないが、このチャンスを逃すわけにはいかない。
私はもう彼らとは出会わず、日頃の行いの悪さを見直し、平穏な生活を目指す!そう決めたはずなのに...……。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ユーヤのお気楽異世界転移
暇野無学
ファンタジー
死因は神様の当て逃げです! 地震による事故で死亡したのだが、原因は神社の扁額が当たっての即死。問題の神様は気まずさから俺を輪廻の輪から外し、異世界の神に俺をゆだねた。異世界への移住を渋る俺に、神様特典付きで異世界へ招待されたが・・・ この神様が超適当な健忘症タイプときた。
(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」
音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。
本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。
しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。
*6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。
【書籍化進行中、完結】私だけが知らない
綾雅(要らない悪役令嬢1/7発売)
ファンタジー
書籍化進行中です。詳細はしばらくお待ちください(o´-ω-)o)ペコッ
目が覚めたら何も覚えていなかった。父と兄を名乗る二人は泣きながら謝る。痩せ細った体、痣が残る肌、誰もが過保護に私を気遣う。けれど、誰もが何が起きたのかを語らなかった。
優しい家族、ぬるま湯のような生活、穏やかに過ぎていく日常……その陰で、人々は己の犯した罪を隠しつつ微笑む。私を守るため、そう言いながら真実から遠ざけた。
やがて、すべてを知った私は――ひとつの決断をする。
記憶喪失から始まる物語。冤罪で殺されかけた私は蘇り、陥れようとした者は断罪される。優しい嘘に隠された真実が徐々に明らかになっていく。
【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ
2024/12/26……書籍化確定、公表
2023/12/20……小説家になろう 日間、ファンタジー 27位
2023/12/19……番外編完結
2023/12/11……本編完結(番外編、12/12)
2023/08/27……エブリスタ ファンタジートレンド 1位
2023/08/26……カテゴリー変更「恋愛」⇒「ファンタジー」
2023/08/25……アルファポリス HOT女性向け 13位
2023/08/22……小説家になろう 異世界恋愛、日間 22位
2023/08/21……カクヨム 恋愛週間 17位
2023/08/16……カクヨム 恋愛日間 12位
2023/08/14……連載開始
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる