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第百三十二章
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第百三十二章
その夜、鴉に化身したコルウスは町の上空を飛び回っていた。
濃紺の空に星は瞬きもせず、無限の遠方を見つめる死者の瞳のようだった。鴉のコルウスは漆黒のシルエットと化して夜闇を横切っていった。
鉱山で王の血脈の一行を見かけたのは全くの偶然に過ぎなかった。コルウスは鉱夫たちを扇動して暴動を起こしてやろうと坑道の奥で密かに工作中だったのだ。
(いよいよ、この土地に何か起こりそうだぜ。龍が掘り出されたかと思うとシャーマンとブンド族が入り込んできた。闇の旦那は何かを恐れてる。そこへとうとう王の血脈までお出ましとは。さて、ギザギザの欠片がガチッと噛み合った時、何が起こるか……こりゃあ見ものだぜ、なあ、闇の旦那よ……)
コルウスの喉からしわがれた叫び声がほとばしった。まったくこの声だけはうんざりだ。我が身の地獄を嘆くような哀れっぽさがある。
コルウスは翼を反らして風を切り、地上へ向かって身をひるがえした。
眼下に広がる常民街。その外れにある商館に隣接して、ひときわ目立つゲッティの屋敷が見えた。ミアレ姫以下、旅の一行がそこに滞在しているのはすでに知っていた。鉱山から帰る馬車を空から追って、行き先を確かめておいたのだ。
急降下したコルウスは音もさせずに黒い翼で滑空し、幾つも並んだ窓の前を飛んで探りを入れた。
とある部屋の中に旅の一行の姿を見つけたコルウスは部屋の明かりが届いていない暗い窓枠にそっと足の爪を下ろした。
ミアレ姫はじめ、ユーグ、カラゲル、クラン、そして、この屋敷の主ゲッティが長い卓を囲んで座っていた。
あのブンド族たちはここにはいないようだ。石造の建物の中などは草原を放浪する部族の民にとっては棺の中にでもいる気分だろう。
一行は鉱山で見た難民たちのことを話していた。どうやら一行は王都から流れてきた難民たちの現状を知ろうと、この土地へ来たらしい。
(難民か、まったく哀れなもんだぜ。あいつらは王国中で爪弾きにされている。かく言う俺だって難民だろう。長く故郷を離れて王都と街道を行き来して暮らしてきたんだから。つまり根無し草さ。王都が闇の旦那のものになっちまったら、王都の住人は立つ瀬がねえ。どこかの部族の民に親族でもいれば別だが。しかしよ、今じゃ、あの姫さまだって難民じゃねえのか。王宮っていう帰る家がないんだからな。おっと、連中、龍の話を始めたぜ。旅芸人どもに何か聞いたのかな……)
鴉のコルウスは窓枠に身じろぎもせず一行の声に耳を傾けた。その姿は背後の闇に溶け込んで見分けがつかなくなった。
「バレルの話とブンド族たちの話を総合すると、こういうことだ……」
一口すすった茶碗を卓に置いて、ユーグは話し出した。
「長老ジルコンは難民鉱山で発掘された黒水晶の龍を蘇生させようとしてシャーマンを呼び寄せた。シャーマンは蘇生はできぬと言ったが、帝国の龍軍団の軍団長とその妻は……この女がどうも臭いが……龍を蘇生させ、武力として使う術を教えようと言ってきた。軍団長の妻はバレルを使ってイーグル・アイを呼び寄せようとした。この企ては失敗したわけだが、さて、長老ジルコンは龍を使って何をしようとしているのか……」
ユーグはゲッティへ目を向けて尋ねた。
「ゲッティよ、どうだ。部族の長老のことだ、同族のお前の意見を聞きたい」
ランプの明かりを受けたゲッティの横顔は苦悩にゆがんでいた。
「長老ジルコン様は日頃より極めて野心旺盛なお方。我が部族についても、また、王国についても……」
口ごもるゲッティへ、カラゲルは言った。
「ゲッティよ、遠慮はいらない。ジルコンは王に成り代わろうとしていると、そう言ってしまってかまわないだろう。俺たちが大変な目にあった部族戦争の時だってカナ族の軍勢が真っ先に突っ込んで来たのだ。ことは明白だ。いざとなれば闇の王とだって手を結ぼうというのだから」
あからさまに過ぎるカラゲルの言葉にゲッティは困惑の表情になった。
「王に成り代わるなどと、そんな……王の血脈の御前でそのようなことを口にするなど滅相もないことです。しかし、そうです、ジルコン様のこのところのお振る舞いはそのような野心を隠そうともされていません。それに聞くところではメル族長老のリンチ様も宮殿にご滞在中とか」
「いよいよ怪しいな。この闇の王のどさくさまぎれにカナ族とメル族と組んで王国を我が物にしようというのだろう。そのために龍の力を利用しようと、そういう魂胆だ。見え透いている」
ユーグがカラゲルを手で制した。
「結論を急いではいけない。ただ、以前から王国の統治について二人の長老たちが不満を抱いていたのは私も知っている。彼らはシュメル王の独断と気まぐれによる統治に危惧を抱いていると、ことに触れ公言していた」
かぶりを振ったカラゲルは卓をこぶしで叩いた。
「そんな生ぬるいことではないぞ。ユーグよ、かつての王都であれこれ陰謀をめぐらしていたのは誰だ。まだ子供だった頃のシュメル王をかくまっていた時、そこへ刺客を放ったのは誰だ。それはカナ族の者だったという言葉を俺は聞いたことがある」
ゲッティは頭を抱え、卓に肘をついてうつむいてしまった。
椅子から腰を浮かしたユーグは先刻から無言のままのミアレ姫の横顔をうかがった。動揺している様子はないが、カラゲルの言葉は王族の胸にこたえたはずだ。
「カラゲルよ、口を慎め。いったい誰がそんなことを」
カラゲルも椅子から腰を浮かし、背後の石壁の刀架に掛けられているクランの剣を指差した。
「その者の魂はあの剣に入っている。セレチェンさ。セレチェンはこのことは誰にも言ってはいけないと言ったが、このことには確信があるようだった。確かな証拠があるわけではないらしかったがな。メル族も怪しいが、手を下したのはカナ族の刺客だろうと言っていた。クラン、お前もこのことは聞いただろう」
クランは無言のまま何事か考え込んでいるようだった。青い瞳にランプの光が宿って遠く思い巡らす色を浮かべていた。
苦い顔になったユーグはどさりと椅子に腰を下ろした。ユーグには昔の思い出がまだ生々しい。思えば、その因果の蛇の頭はいくつにも枝分かれして王国中をのたうちまわっているのだ。
カラゲルが言った。
「ゲッティよ、お前のところの族長はいったい何をしているのだ。長老のやりたい放題にさせているようではないか。どういうつもりなのだ」
「我が部族の族長は、まったくあてにならぬお方でして……しかし、それも無理からぬところがあります……」
ゲッティは重い口ぶりで話しだした。
族長セレンはまだ若いが、まぎれもない族長の家の血族だった。先代の族長、すなわち、セレンの父は若くして亡くなった。暗殺されたのだという者もいる。
セレンには兄弟姉妹がいたが、それも次々に病死し、セレンひとりだけが残された。 セレンは幼少の頃から病弱のうえ極めて神経質で、ちょっとした物音にも飛び上がって人の嘲笑の的にされていた。
そんなセレンだけが生き残ったのは皮肉なものだと部族の民は言い合った。いや、そんなだからこそ生き残れたのかもしれない。
一方、セレンの妻レニは長老ジルコンの娘。若い妾に産ませた子でジルコンはレニを溺愛していた。セレンにレニを娶せたのは当然ながらジルコンだった。そこにも我が手で部族を牛耳ろうという野望が透けて見える。
「ジルコン様は若いお二人には部族の政治向きのことなどは一切、おさせにならないのです。そこで族長夫婦は毎日、遊びまわっているばかり。その小遣いはみなジルコン様の懐から出ているというわけです」
カラゲルはフンと鼻で笑い飛ばした。
「見え透いている。ジルコンは面倒そうな者は毒を盛るなり何なりして始末してしまって、言いなりになりそうな、ひ弱でおとなしいのを残した。そして、自分のお気に入りの娘をひっつけておいて自分が族長に成り代わろうというわけだ。そして、お次は……」
カラゲルはミアレ姫の鼻先へ指をつきつけた。ジルコンが狙っているのは、王の地位、そして王国そのものだぞというつもりだ。
顔をしかめたミアレ姫はその手を払い除けた。
「確証のないことを話していても仕方ありません。私は龍のことが気になります。胸騒ぎがすると言うか。もしや闇の王に関わることでは。ユーグよ、黒水晶の龍とはいったい何なのです」
ユーグはかぶりを振り、存じませんとややそっけなく答えた。
ミアレ姫は少し笑って言った。
「あら、センセイでも知らないことがあるのですね。私、ちょっと安心しました」
「からかってはいけません。そもそも、龍はナビ教の領分ではありません。私は龍に出会ったこともない。その存在すら疑問に思っているのです。姫さま、これはシャーマンの領分です」
「それなら、我らのシャーマンに尋ねましょう。クラン、黒水晶の龍って何です」
軽い調子で尋ねた姫に対し、クランはとっさに顔をそむけ、歯の間からシュッと息を吐く音をさせた。
ユーグが驚きの表情を浮かべた。
「禁忌か。それはつまり、シャーマンにとっての禁忌だな。クランよ、姫さまはただの好奇心で聞かれているのではない。これが王国と闇の王の行く末に関わることではないかと案じておられるのだ。王の血脈の問いである。答えよ」
カラゲルがユーグに食ってかかった。
「おい、禁忌を無理強いするとは何事だ。たとえ王であろうと、そんなことは許されないぞ」
その時、ユーグがカラゲルを手で制した。ユーグはクランの様子を見つめていた。
クランは顔をそむけたまま短くいにしえの言葉の朗唱をしたあと、低くささやくように言った。それは、これまで聞いたことのない厳かな口調だった。
「王の血脈よ、精霊の繁き者よ。シャーマンの口を切り開くならば、王の御名と血においてお命じあれ……」
ミアレ姫は戸惑う表情になり、我が師傅へ、これはと問う目を向けた。
ユーグは背を屈め、王の血脈へ耳打ちした。クランは絶え間なく朗唱を続けていた。低く、極めて低く。
姫はユーグの言葉にうなずき、クランの横顔を見つめた。
「シャーマンよ、精霊の口寄せよ。私は王ではないが、王の血を承けし者。王の血脈の名と血において命じる……」
ユーグがナイフを差し出した。姫はその刃先に指を当て、傷口の血をクランの唇に塗った。
「黒水晶の龍とは何か、答えよ」
クランは袖口で口元を隠しながら、血のついた唇を王の血脈の耳元へ寄せた。クランはささやくような声で話し出した。
黒水晶の龍の物語。それはこのようなものだった。
そもそも、黒水晶の龍が漆黒に沈んでいるのは、尋常でなく強い光を受けたからであった。
尋常でなく強い光とは、神々の力のこと。人はそれを見ることはできぬとされている。見たが最後、人は死に至るのだ。
黒水晶の龍は黒く変色する前は透き通る水晶の龍であった。それは極めて高度に結晶した不可視の龍だった。
それは、琥珀の龍、翡翠の龍、石英の龍のように劫を経ることによって成ったのでなく、精霊を精霊たらしめる、地上を浮遊する元素霊とでも呼ぶべきものが凝り固まってできた龍だった。
闇の王と闘うため神々の光によって灼かれた龍は黒水晶の龍と化身して闇の王に立ち向かった。
しかし、闇の王との闘いが果ててのちも黒水晶の龍は地上を暴れまわり続けた。
戦いの道具とはそのようなものだ。そのうえ、龍は不死の者である。
イーグル・アイはやむを得ず、黒水晶の龍を眠らせるため、『耳の根舌の根』を引き抜き、龍を山の奥へ埋めた。
これら、『シャーマンの言葉』の知識、なかでも禁忌に触れる事柄は決して話してはならない掟だった。
ただ一人、王をのぞいては。
王のみは血の儀式を経た後ならば、それらの禁じられた知識を共有してさしつかえなかった。
ただし、王はそれを他言してはならない。王の胸の内にのみ秘めておくことが決まりだった。
イーグル・アイによってシャーマンの禁忌が明かされている間、王の血脈その者を除く他の者たちは、口をつぐみ、顔を伏せ、静まり返っていた。ユーグが身振りでそう指示したからだ。
一方、窓辺では闇とひとつになっていた鴉のコルウスがクランの声を聞き取ろうと焦っていた。
(いったい、何を話していやがるんだ。鳥の耳になっていても聴こえねえとは……せめて唇を読めればいいんだが……)
窓から中へ頭を突っ込もうとして、コルウスの漆黒の輪郭がゆらいだ。
その瞬間、空中から急降下してきたものが、その翼を打った。オローだ。
オローが鋭く鳴いて警告すると、クランはすぐに血のついた唇を閉じた。すでに語るべきことは語り終えていた。
黒い羽を散らした鴉のコルウスは醜い鳴き声を上げ、翼を鳴らして飛び立った。その姿は夜空に吸い込まれるように消えた。
その異様な物音に部屋の中の者たちは窓辺へ駆け寄った。
カラゲルだけは飛び去る鴉の姿をかろうじて目にすることができた。
「見ろ、ユーグよ。あれはコルウスだ。どうしてこんなところに」
「もしや、龍に引き寄せられて現れたか。それほどに力の強い者なのか、その龍は」
ユーグは夜空を目で探ったが、無表情に青白く光る星の他は何も見て取ることはできなかった。
その夜、鴉に化身したコルウスは町の上空を飛び回っていた。
濃紺の空に星は瞬きもせず、無限の遠方を見つめる死者の瞳のようだった。鴉のコルウスは漆黒のシルエットと化して夜闇を横切っていった。
鉱山で王の血脈の一行を見かけたのは全くの偶然に過ぎなかった。コルウスは鉱夫たちを扇動して暴動を起こしてやろうと坑道の奥で密かに工作中だったのだ。
(いよいよ、この土地に何か起こりそうだぜ。龍が掘り出されたかと思うとシャーマンとブンド族が入り込んできた。闇の旦那は何かを恐れてる。そこへとうとう王の血脈までお出ましとは。さて、ギザギザの欠片がガチッと噛み合った時、何が起こるか……こりゃあ見ものだぜ、なあ、闇の旦那よ……)
コルウスの喉からしわがれた叫び声がほとばしった。まったくこの声だけはうんざりだ。我が身の地獄を嘆くような哀れっぽさがある。
コルウスは翼を反らして風を切り、地上へ向かって身をひるがえした。
眼下に広がる常民街。その外れにある商館に隣接して、ひときわ目立つゲッティの屋敷が見えた。ミアレ姫以下、旅の一行がそこに滞在しているのはすでに知っていた。鉱山から帰る馬車を空から追って、行き先を確かめておいたのだ。
急降下したコルウスは音もさせずに黒い翼で滑空し、幾つも並んだ窓の前を飛んで探りを入れた。
とある部屋の中に旅の一行の姿を見つけたコルウスは部屋の明かりが届いていない暗い窓枠にそっと足の爪を下ろした。
ミアレ姫はじめ、ユーグ、カラゲル、クラン、そして、この屋敷の主ゲッティが長い卓を囲んで座っていた。
あのブンド族たちはここにはいないようだ。石造の建物の中などは草原を放浪する部族の民にとっては棺の中にでもいる気分だろう。
一行は鉱山で見た難民たちのことを話していた。どうやら一行は王都から流れてきた難民たちの現状を知ろうと、この土地へ来たらしい。
(難民か、まったく哀れなもんだぜ。あいつらは王国中で爪弾きにされている。かく言う俺だって難民だろう。長く故郷を離れて王都と街道を行き来して暮らしてきたんだから。つまり根無し草さ。王都が闇の旦那のものになっちまったら、王都の住人は立つ瀬がねえ。どこかの部族の民に親族でもいれば別だが。しかしよ、今じゃ、あの姫さまだって難民じゃねえのか。王宮っていう帰る家がないんだからな。おっと、連中、龍の話を始めたぜ。旅芸人どもに何か聞いたのかな……)
鴉のコルウスは窓枠に身じろぎもせず一行の声に耳を傾けた。その姿は背後の闇に溶け込んで見分けがつかなくなった。
「バレルの話とブンド族たちの話を総合すると、こういうことだ……」
一口すすった茶碗を卓に置いて、ユーグは話し出した。
「長老ジルコンは難民鉱山で発掘された黒水晶の龍を蘇生させようとしてシャーマンを呼び寄せた。シャーマンは蘇生はできぬと言ったが、帝国の龍軍団の軍団長とその妻は……この女がどうも臭いが……龍を蘇生させ、武力として使う術を教えようと言ってきた。軍団長の妻はバレルを使ってイーグル・アイを呼び寄せようとした。この企ては失敗したわけだが、さて、長老ジルコンは龍を使って何をしようとしているのか……」
ユーグはゲッティへ目を向けて尋ねた。
「ゲッティよ、どうだ。部族の長老のことだ、同族のお前の意見を聞きたい」
ランプの明かりを受けたゲッティの横顔は苦悩にゆがんでいた。
「長老ジルコン様は日頃より極めて野心旺盛なお方。我が部族についても、また、王国についても……」
口ごもるゲッティへ、カラゲルは言った。
「ゲッティよ、遠慮はいらない。ジルコンは王に成り代わろうとしていると、そう言ってしまってかまわないだろう。俺たちが大変な目にあった部族戦争の時だってカナ族の軍勢が真っ先に突っ込んで来たのだ。ことは明白だ。いざとなれば闇の王とだって手を結ぼうというのだから」
あからさまに過ぎるカラゲルの言葉にゲッティは困惑の表情になった。
「王に成り代わるなどと、そんな……王の血脈の御前でそのようなことを口にするなど滅相もないことです。しかし、そうです、ジルコン様のこのところのお振る舞いはそのような野心を隠そうともされていません。それに聞くところではメル族長老のリンチ様も宮殿にご滞在中とか」
「いよいよ怪しいな。この闇の王のどさくさまぎれにカナ族とメル族と組んで王国を我が物にしようというのだろう。そのために龍の力を利用しようと、そういう魂胆だ。見え透いている」
ユーグがカラゲルを手で制した。
「結論を急いではいけない。ただ、以前から王国の統治について二人の長老たちが不満を抱いていたのは私も知っている。彼らはシュメル王の独断と気まぐれによる統治に危惧を抱いていると、ことに触れ公言していた」
かぶりを振ったカラゲルは卓をこぶしで叩いた。
「そんな生ぬるいことではないぞ。ユーグよ、かつての王都であれこれ陰謀をめぐらしていたのは誰だ。まだ子供だった頃のシュメル王をかくまっていた時、そこへ刺客を放ったのは誰だ。それはカナ族の者だったという言葉を俺は聞いたことがある」
ゲッティは頭を抱え、卓に肘をついてうつむいてしまった。
椅子から腰を浮かしたユーグは先刻から無言のままのミアレ姫の横顔をうかがった。動揺している様子はないが、カラゲルの言葉は王族の胸にこたえたはずだ。
「カラゲルよ、口を慎め。いったい誰がそんなことを」
カラゲルも椅子から腰を浮かし、背後の石壁の刀架に掛けられているクランの剣を指差した。
「その者の魂はあの剣に入っている。セレチェンさ。セレチェンはこのことは誰にも言ってはいけないと言ったが、このことには確信があるようだった。確かな証拠があるわけではないらしかったがな。メル族も怪しいが、手を下したのはカナ族の刺客だろうと言っていた。クラン、お前もこのことは聞いただろう」
クランは無言のまま何事か考え込んでいるようだった。青い瞳にランプの光が宿って遠く思い巡らす色を浮かべていた。
苦い顔になったユーグはどさりと椅子に腰を下ろした。ユーグには昔の思い出がまだ生々しい。思えば、その因果の蛇の頭はいくつにも枝分かれして王国中をのたうちまわっているのだ。
カラゲルが言った。
「ゲッティよ、お前のところの族長はいったい何をしているのだ。長老のやりたい放題にさせているようではないか。どういうつもりなのだ」
「我が部族の族長は、まったくあてにならぬお方でして……しかし、それも無理からぬところがあります……」
ゲッティは重い口ぶりで話しだした。
族長セレンはまだ若いが、まぎれもない族長の家の血族だった。先代の族長、すなわち、セレンの父は若くして亡くなった。暗殺されたのだという者もいる。
セレンには兄弟姉妹がいたが、それも次々に病死し、セレンひとりだけが残された。 セレンは幼少の頃から病弱のうえ極めて神経質で、ちょっとした物音にも飛び上がって人の嘲笑の的にされていた。
そんなセレンだけが生き残ったのは皮肉なものだと部族の民は言い合った。いや、そんなだからこそ生き残れたのかもしれない。
一方、セレンの妻レニは長老ジルコンの娘。若い妾に産ませた子でジルコンはレニを溺愛していた。セレンにレニを娶せたのは当然ながらジルコンだった。そこにも我が手で部族を牛耳ろうという野望が透けて見える。
「ジルコン様は若いお二人には部族の政治向きのことなどは一切、おさせにならないのです。そこで族長夫婦は毎日、遊びまわっているばかり。その小遣いはみなジルコン様の懐から出ているというわけです」
カラゲルはフンと鼻で笑い飛ばした。
「見え透いている。ジルコンは面倒そうな者は毒を盛るなり何なりして始末してしまって、言いなりになりそうな、ひ弱でおとなしいのを残した。そして、自分のお気に入りの娘をひっつけておいて自分が族長に成り代わろうというわけだ。そして、お次は……」
カラゲルはミアレ姫の鼻先へ指をつきつけた。ジルコンが狙っているのは、王の地位、そして王国そのものだぞというつもりだ。
顔をしかめたミアレ姫はその手を払い除けた。
「確証のないことを話していても仕方ありません。私は龍のことが気になります。胸騒ぎがすると言うか。もしや闇の王に関わることでは。ユーグよ、黒水晶の龍とはいったい何なのです」
ユーグはかぶりを振り、存じませんとややそっけなく答えた。
ミアレ姫は少し笑って言った。
「あら、センセイでも知らないことがあるのですね。私、ちょっと安心しました」
「からかってはいけません。そもそも、龍はナビ教の領分ではありません。私は龍に出会ったこともない。その存在すら疑問に思っているのです。姫さま、これはシャーマンの領分です」
「それなら、我らのシャーマンに尋ねましょう。クラン、黒水晶の龍って何です」
軽い調子で尋ねた姫に対し、クランはとっさに顔をそむけ、歯の間からシュッと息を吐く音をさせた。
ユーグが驚きの表情を浮かべた。
「禁忌か。それはつまり、シャーマンにとっての禁忌だな。クランよ、姫さまはただの好奇心で聞かれているのではない。これが王国と闇の王の行く末に関わることではないかと案じておられるのだ。王の血脈の問いである。答えよ」
カラゲルがユーグに食ってかかった。
「おい、禁忌を無理強いするとは何事だ。たとえ王であろうと、そんなことは許されないぞ」
その時、ユーグがカラゲルを手で制した。ユーグはクランの様子を見つめていた。
クランは顔をそむけたまま短くいにしえの言葉の朗唱をしたあと、低くささやくように言った。それは、これまで聞いたことのない厳かな口調だった。
「王の血脈よ、精霊の繁き者よ。シャーマンの口を切り開くならば、王の御名と血においてお命じあれ……」
ミアレ姫は戸惑う表情になり、我が師傅へ、これはと問う目を向けた。
ユーグは背を屈め、王の血脈へ耳打ちした。クランは絶え間なく朗唱を続けていた。低く、極めて低く。
姫はユーグの言葉にうなずき、クランの横顔を見つめた。
「シャーマンよ、精霊の口寄せよ。私は王ではないが、王の血を承けし者。王の血脈の名と血において命じる……」
ユーグがナイフを差し出した。姫はその刃先に指を当て、傷口の血をクランの唇に塗った。
「黒水晶の龍とは何か、答えよ」
クランは袖口で口元を隠しながら、血のついた唇を王の血脈の耳元へ寄せた。クランはささやくような声で話し出した。
黒水晶の龍の物語。それはこのようなものだった。
そもそも、黒水晶の龍が漆黒に沈んでいるのは、尋常でなく強い光を受けたからであった。
尋常でなく強い光とは、神々の力のこと。人はそれを見ることはできぬとされている。見たが最後、人は死に至るのだ。
黒水晶の龍は黒く変色する前は透き通る水晶の龍であった。それは極めて高度に結晶した不可視の龍だった。
それは、琥珀の龍、翡翠の龍、石英の龍のように劫を経ることによって成ったのでなく、精霊を精霊たらしめる、地上を浮遊する元素霊とでも呼ぶべきものが凝り固まってできた龍だった。
闇の王と闘うため神々の光によって灼かれた龍は黒水晶の龍と化身して闇の王に立ち向かった。
しかし、闇の王との闘いが果ててのちも黒水晶の龍は地上を暴れまわり続けた。
戦いの道具とはそのようなものだ。そのうえ、龍は不死の者である。
イーグル・アイはやむを得ず、黒水晶の龍を眠らせるため、『耳の根舌の根』を引き抜き、龍を山の奥へ埋めた。
これら、『シャーマンの言葉』の知識、なかでも禁忌に触れる事柄は決して話してはならない掟だった。
ただ一人、王をのぞいては。
王のみは血の儀式を経た後ならば、それらの禁じられた知識を共有してさしつかえなかった。
ただし、王はそれを他言してはならない。王の胸の内にのみ秘めておくことが決まりだった。
イーグル・アイによってシャーマンの禁忌が明かされている間、王の血脈その者を除く他の者たちは、口をつぐみ、顔を伏せ、静まり返っていた。ユーグが身振りでそう指示したからだ。
一方、窓辺では闇とひとつになっていた鴉のコルウスがクランの声を聞き取ろうと焦っていた。
(いったい、何を話していやがるんだ。鳥の耳になっていても聴こえねえとは……せめて唇を読めればいいんだが……)
窓から中へ頭を突っ込もうとして、コルウスの漆黒の輪郭がゆらいだ。
その瞬間、空中から急降下してきたものが、その翼を打った。オローだ。
オローが鋭く鳴いて警告すると、クランはすぐに血のついた唇を閉じた。すでに語るべきことは語り終えていた。
黒い羽を散らした鴉のコルウスは醜い鳴き声を上げ、翼を鳴らして飛び立った。その姿は夜空に吸い込まれるように消えた。
その異様な物音に部屋の中の者たちは窓辺へ駆け寄った。
カラゲルだけは飛び去る鴉の姿をかろうじて目にすることができた。
「見ろ、ユーグよ。あれはコルウスだ。どうしてこんなところに」
「もしや、龍に引き寄せられて現れたか。それほどに力の強い者なのか、その龍は」
ユーグは夜空を目で探ったが、無表情に青白く光る星の他は何も見て取ることはできなかった。
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