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第百七章

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第百七章

 一行は島の奥へと進んでいった。
 船着き場から坂道を昇ると素晴らしい眺望が開けて、馬上の一行から感嘆の声がもれた。
 鬱蒼とした森に囲まれた湖。その水面は澄んだ青空の下で宝石のような光をたたえていた。その水面に白絹の帆をかけた小舟が行き来している。
「これは素晴らしい眺めだな。暗い森を抜けてきた後だ。胸がすうっとする」
 カラゲルは目の上に手のひらをかざして、スナ族の島を眺めまわした。
 島もまた深い森に包まれていたが、その緑は生き生きとして鮮やかだった。それに加えて鮮やかなのが果実の明るい色彩で、特にオレンジの輝かしい色が目立った。空気にまで爽やかな果実の香りが混じっているようだ。
 冬とは思えぬ暖かさに、一行は毛皮の縁のついた旅装を場違いなものと感じた。
 そこかしこに部族の民の住むらしい白壁の家が見えた。湖に向かって窓を開けた様子は島の外からくる客人を歓迎しているかのようだ。
 ミアレ姫も笑顔でうなずいた。
「まさに楽園の眺めです。ユーグは良いところに生まれましたね」
「お褒めをいただき、ありがとうございます。我がスナ族は王国でもことに古い部族で古王国の頃から暮らしのありさまは変わっていないと言います。ただ、私の目には草木に勢いがなく、湖の青もやや曇っているように見えます」
 案ずるようなユーグの言葉にカラゲルは驚いた。
「なんだと、こんなに美しいというのに……」
「いや、私も島を出たのはまだほんの子供の頃だった。もしかすると記憶の中で我が故郷を美化しすぎているのかも知れない。しかし……」
 ミアレ姫が気遣うように言った。
「ユーグは亡くなられたお父さまのことが気にかかっているのでしょう」
「ええ、それもあるかと思いますが。いずれ、母や伯父にも会うでしょうし、島の民にも様子を聞いてみなくてはなりません」
 クランが斜面の反対側を見上げて尋ねた。
「ユーグよ、あの大きな建物は何だ」
 一行が見ると、斜面のさらに高いところ、樹木の茂る間にひときわ大きな白壁の建物がそびえていた。
「あれは族長の館だ。かつては族長の一族の住まいであると同時にナビ教の神殿でもあったのだ。それであのように立派な建物になっている」
 クランはまばゆい白壁に目を細めた。
「すると、族長は祭司か」
「王の庇護を失う前まではな。王の庇護を失ったということは、ほとんど禁教に近いことだったのだ。この島はナビ教発祥の地だ。禁教となれば、我が部族が王宮から疎遠になるのも当然のことだ」
「長老もナビ教の徒か」
「いや、そうではない。そもそも、この島には長老と呼ばれる者はいない。代わりにおさと呼ばれる者がいる。私の父は漁師のおさだった。絹織物作りの蚕飼いのおさもいる」
 カラゲルも族長の館を見上げながらユーグに聞いた。
「これからあそこへ行くのか」
「まずは私の母のところへ行こう。伯父が住む森の小屋にいるというが、母に尋ねれば、おおよそ島の様子も知れるだろう」
 尾根を越えた一行は木漏れ日の差す森を抜けて島の反対側へと下っていった。
 ユーグの伯父が住む森へ行くには漁師の村を通り抜ける必要があった。
 この村こそユーグの生まれ故郷であり、漁師のおさであったユーグの父が斬られた地であった。
 ユーグは村の中を抜けるのでなく水辺を進んでいった。その方が近道だからだが、この水辺に多くの想い出があるユーグだった。
 湖水はゆるやかに波打って岸辺へ打ち寄せていた。その水は澄んで美しくきらめていた。ついさっきの湖上の暴風が夢か何かであったように柔らかな風が頬に触れて過ぎる。
 ユーグはもう何十年ぶりだというのに岸辺のそこかしこに追憶の種を発見していた。
 斬られて死んだという父シャールはもう七十は過ぎていたはずだが、ユーグの記憶の中ではまだ若く、当然ながら、今のユーグ自身よりもずっと若いのだった。
 スナ族は極めて長命な部族だった。たいていの者は八十、九十まで生き、百を越す者も珍しくはない。となれば、七十やそこらで死ぬのは寿命を全うしたとはいえない。
 しかし、その死は名誉の死であると言っていいだろう。漁師のおさであった男にふさわしい死と言えるだろう。
 ユーグは物思いにふけりつつ馬の脚を進めていった。
 漁師の村が見えてきた。岸辺に座り込んで網をつくろっている女がいた。女は背中に赤ん坊をくくりつけて、時々、それをあやしながら手を動かしている。白い粗布の衣服は粗末なものでなく、どことなくユーグが着ているナビ教祭司のものに似ていた。
 ユーグは馬上から気軽に声をかけた。
「村の者か。今、おさは誰が務めている。教えてくれ」
 女はひょいと肩越しに振り返った。いったんは笑顔で会釈を返したが、その顔はすぐに曇った。
「あいにくですが、我らのおさはこれといった者がおりませんで……」
 女はしげしげとユーグの顔を見つめた。その目にどこか怖れるような色があった。
「……シャール……いやまさか……おお、もしやあなたは、ユーグ様では……」
「そうだ、シャールの息子、ユーグだ。島へ帰ってきたのだ。お前、もしかすると私を父の幽霊だと思ったのではないか」
「なんとまあ、ユーグ様のお帰りとは。そうだ、村の者たちに知らせないと」
 女は立ち上がり、いそいで会釈すると村へと走って行った。
 一行は村の中に向かって行った。それを出迎えるように漁師の村人たちが姿を現した。
 その先頭に立っている老人たちは涙をこぼしながらユーグの足元へうずくまった。
「おお、ユーグ様、お許しください。我らが不甲斐ないばかりにシャールを……我らのおさを……」
 村人たちは岸辺の土の上にひざまずき、ひれ伏して、口々にユーグに詫びた。
 ユーグは馬を降り、両手を上げて村の民の嘆きをなだめた。
「もうよい。今さら嘆いたとて仕方ないことだ。王都から来た者たちの暴挙についてはすでに聞いている。力づくの剣や魔法に楯突くことなど漁師にできることではないのだから」
 村人たちはやや落ち着きを取り戻し、まじまじとユーグの顔に見入った。この者たちの目にユーグは彼らのおさであったシャールがこの世へ帰ってきたのかと見えた。
 ユーグは一番前にいる老いた漁師に尋ねた。
「さっきも女に聞いたが、今は漁師のおさになる者はいないか」
「おりませぬ。ユーグ様、どうか、我らのおさになってくださいませ」
 村人たちはいっせいに、お願いいたしますと頭を下げた。ユーグはかぶりを振って言った。
「そうはいかない。私は大事な旅をしている途中なのだ。母はどうした」
「ルノーは大層な怒りようで、我らを見捨てて森へ去ってしまいました。レオのところへ」
 他の漁師が大声で叫んだ。
「見捨てられて当然だ、俺たちは、おさを見殺しにしたのだから……」
 村人たちはまた声を上げて泣き出した。
 ユーグはもう一度、手を振って皆をなだめなければならなかった。
「母の気性はよく知っているだろう。お前たちを見捨てたりはしない。いずれ母も村へ帰ってきて、次のおさを立てるように考えるだろう。まあ、それは伯父のレオでは……ないだろうがな」
 最初の老いた漁師が日焼けした顔にやっと笑みを浮かべて言った。
「ルノーは決して村へ顔を出しませんが、レオは相変わらずです。変わったお人ですが、なぜか気持ちのいい人柄で。私たちはレオに魚や貝を渡して、ルノーに持っていってもらっているのです」
 ユーグも思わず笑顔になった。
「変わったお人か。あんな変人は王都にもいないぞ」
 漁師たちも笑い出した。
 その時、ミアレ姫が馬を降りてきて村人たちの前に立った。なにやら思いつめたような顔の姫をユーグは手で制しようとしたが、仕方なく皆に紹介した。
「ここにいらっしゃるのはミアレ姫だ。言うまでもなく王の血脈であらせられる」
 村人たちは地面に額をすりつけんばかりにひれ伏した。スナ族は王国にあって最も王家への忠誠心あつい部族だった。
 それもそのはず、この地こそナビ教発祥の地であった。ナビ教とはすなわちダファネアへの信仰なのだから、その血脈を継承する王家への忠誠は神々への信仰と同義だった。
 ミアレ姫は静かに口を開いた。
「鷲の目の杖について王都の者が許しがたい行為を成したこと、今となっては何を言っても追いつきませんが、私からお詫びしたいと思います。その者たちはナビ教の信仰を冒涜した汚らわしい魔導士たちだったようです。その者たちによって私の父シュメル王も誑かされていたのです」
 漁師たちは顔を伏せたまま、また泣き出してしまった。
「なんと、もったいないお言葉……」
「杖を守れなかった私どもをどうかお許しください」
 口々に嘆きの声がもれた。
 ユーグは困った顔になり、姫に小さくかぶりを振って見せた。
 一行はふたたび馬に乗り、ユーグの母と伯父が暮らすという森へ向かった。
「姫さま、せっかく私がなだめましたのに。また、あのようになってしまって」
 ミアレ姫は自分も目に涙を浮かべて前を見ていた。
「いてもたってもいられなかったのです。あの漁師たちに何の落ち度があるというのですか」
「私もそう思いますが、漁師たちにはそう思えない何かがあるのでしょう。我が島の民にとって鷲の目の杖は宝であると同時に部族の禁忌だったのですから、それをむざむざ奪われるというのは、手足をもぎ取られるようなものです」
 二人の後ろからカラゲルが声をかけた。
「それにしてもユーグを漁師のおさにとは驚いたな。見当違いにもほどがあるだろう。ユーグは祭司だ。クランよ、祭司が魚や貝を獲っているところなど想像できるか」
 クランは腕に据えたオローに目をやりながら答えた。
「私はそうおかしいとも思わない。あの漁師たちの網は渡し船の絹の帆に似ていた。もし、あの網が絹の帆と同じなら、漁師と祭司に何の違いがあるだろう」
「馬鹿言え。網を帆の代わりにしてみろ。風が素通しで船が進むものか」
 クランはオローを空に放った。澄みきった青空に鷲は巨大な翼を広げ、一足先に森へ向かうようだった。
「あの船は帆を吹き飛ばされても進んでいた。見えぬ帆を持っているからだ。あの漁師たちも見えぬ網を持っているに違いない。祭司もまた見えぬ言葉、聞こえぬ言葉を持っていなくてはならない」
 一行は森へ入る坂にかかった。どこからともなく吹いてくる風にオレンジの甘い香りが漂っていた。
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