地の果ての国 イーグル・アイ・サーガ

オノゴロ

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第百四章

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第百四章

 オルテン山に端を発するオルテン河には多くの支流があった。その支流の全てを把握している者など、何処にもいないだろう。
 それでも、その流れが我が同胞と繋がっているとなれば、人はその道を知っているはずだ。もし知らないという者がいれば、それは忘れているだけなのだ。
 ユーグはその道を忘れてなどいなかった。草原を流れる河は長年の間に姿を変えているはずだった。それでも、ユーグは故郷のスナ族の地への道を正しく進んでいくことができた。
 流れは草原から鬱蒼とした森へ入っていった。ユーグを先頭にした一行は流れを右手に見ながら、道とも言えぬ頼りない地面の痕跡をたどっていった。
 すでに王国の街道からは離れていた。そもそもスナ族の地へは街道も宿駅も届いていなかった。たとえ届いていたとしてもスナ族の地へは水を渡らねばならない。
 深い森の奥にある巨大な湖の中の孤島。それがスナ族の地であった。
 スナ族の貴重な絹織物を求める旅の商人の他はかの部族を訪ねようという者はなかなかいなかった。その細々とした繋がりも今は途絶えている。
 『神々の花園』。これがスナ族の地につけられた呼び名だった。そのくらい美しいというのだが、それを目の当たりにした者は少ない。
 森は大きく、いくらか開けた明るい草地に出たかと思うと、その向こうもまた森だった。森は深緑に沈み、身を屈めて厳しい冬に耐えているかのようだった。風は、ある日、轟々と吹き荒れたかと思うと、次の日はしんと無風になったりした。
 ほとんど人の気配のない森だが、突然、人の集落が現れることがあった。
 たいていは少数の天幕で作られた狩人の野営地だった。
 旅の一行はそこで人々と火を囲み、時には食料を分けてもらいさえした。一行は彼らに生まれを問うことなどしなかった。彼らは流浪の民であり、このようにしか生きられない者たちだろうから。
 彼らの方もシャーマンや顔に稲妻の刺青のある男を含む奇妙な一行の旅を詮索することなどなかった。
 彼らはただ、「よく来たな、友よ」と一行を火のそばへ招き、別れる時は行く先も尋ねず、「さらばだ、友よ」とだけ挨拶するのだった。
「ユーグよ、スナ族の土地はまだ遠いのか」
 ある日、カラゲルは馬上から尋ねた。これまでで最も長い旅が続いていた。
「スナ族の地は辺境の中の辺境だ。見ろ、しだいに河の流れも細くなってきただろう。あれが絶えて、さらにその奥へと分け入れば我が故郷は近い。カラゲルよ、さすがのお前も疲れたか」
「いや、疲れたというわけではないが、森の中はどこも似たような眺めで、時々、どちらへ向かっているのか分からなくなる」
 ユーグはうなずき、深い木立を眺め渡した。濃緑色の木の葉が息苦しいほどにあたりを取り巻いていた。今は鳥の鳴き声も聞こえなかった。遠くの木の幹はシルエットを成して一種の模様のようにしか見えない。
「それはカラゲルが草原の民だからだろう。私には森の姿が千変万化して見える。逆に私は草原にいる時、どちらに向かっているのか分からなくなる」
「なるほど、そういうこともあるかも知れない。おや、姫さまとクランはどうした」
 後ろからついてくるはずの二人の姿が見えなかった。もっとも、こんなことはこれまでによくあったことだった。
 こんな時は合図の声を決めてあった。あの羊飼いに習った裏声を交えた呼び声だ。
「レイレイレイ……ヒーイッ、ヒーイッ、ヒーイッ……」
 カラゲルはこれがすっかりうまくなって、森の中では鳥の鳴き声のように自然に響いた。
 すぐに木立の奥から同じ声が帰ってきた。これはクランが発しているのだった。クランも上手なものだった。
 つがいの鳥のように、二度、三度、声を交わしているうちに、ハルにまたがったクランと白馬のミアレ姫が追いついてきた。
「遅いぞ、クラン。姫さまもぴったりくっついて来ないと迷子になってしまうぞ。なにしろ、ユーグだけが頼りなのだ。こんなところではシャーマンの朗唱も役に立たないだろう」
 クランは苦笑いを浮かべた。
「役に立たぬということはないが、シャーマンの道をたどれば、まったく別の道を行くことになるというだけだ。場合によっては人が通れぬ道をな」
「人が通れない道ではしょうがない。姫さま、何をしていたんだ」
「水を汲んでいたんです。どこかの枝にひっかけたのか、皮袋に穴が開いていたのに気がついたので」
 カラゲルが見ると、白馬の脇腹につけた皮袋が膨らんでいて、その底に手直しした跡があった。
「真冬に吹きっさらしの草原を行くより森がいいかと思ったが、これはこれで苦労があるな。ユーグが言うには、いずれあの流れも絶えるようだ。その時には、道に遅れたらはぐれてしまうかもしれないぞ」
 一行は馬を連ねて、か細い道をたどって行った。その晩は川岸で野営したが、その二日後には、ついに河の流れが森の奥深くで絶えたのを知った。
 それでも、ユーグがいる限り大丈夫だと一行は安心していた。ユーグは水のある泉の場所も知っていた。
 さらに旅を続ける一行は、ある夕暮れ時、森を出て開けた場所に出た。
 これまで何度か横切った小さな草地と似ていたが、違うのはその小丘を成した頂きに石造りの建物があることだった。
 石壁が傾いた日差しを受けて白く光っていた。さほど大きな建物でもないが、なにやら健気に、また悲壮な決意を抱いて、そこに佇んでいるように見えた。
 一行はその建物の前に馬の脚を止めた。森の奥には何とも場違いな物と見えた。
「こんな立派な建物が森の奥にあるとは思いませんでした。ユーグよ、これは何でしょうね」
 ミアレ姫が尋ねると、ユーグは粗布の長衣をひるがえして馬から降りた。その白壁に手を当てると感慨深げな顔つきになった。
「これはナビ教の祭司のための修行場です。ここで独居してダファネアに思いを凝らし、瞑想によって悟りに至ろうとするためのものです」
 他の者たちも馬を降り、建物を見上げた。すでに屋根の中央部分は崩壊して、扉もない入り口からのぞき込むと壁の中に瓦礫の山ができていた。
 カラゲルは尋ねた。
「ユーグはここで修行したことがあるのか」
「いや、森の中に修行場があることは知っていたが来るのは初めてだ。祭司の修行は故郷から遠いところで行われる習いでな、ここに行き当たったのは偶然だ」
「それにしても、こんな人気の絶えたところだ。さぞ修行がはかどったことだろうな。ここなら魔法が大爆発してもどうってことはない。ねえ、姫さま」
 カラゲルはオルテン山の洞窟へ向かう途中、闇の狼の襲撃を受けた時のことをミアレ姫にあてこすった。カラゲルと姫はこのことをユーグには内緒にしていた。話したら、ユーグが怒り出すに決まっていたからだ。
 ミアレ姫は知らぬそぶりで建物の石壁を調べていた。積石の隙間に詰まった土に褐色の苔が生え、そこに一匹の大きな蟻が歩いていた。
「ユーグ、見てください。この森にはこんな大きな蟻がいるのですね」
 ユーグは姫の指さす先をじっと見つめた。膨らんだ腹が小指の先ほどもある。胴と触覚のついた頭には細かな毛が生えているのがよく分かった。
 脇からカラゲルが顔を出してからかうように言った。
「きっと、この蟻も魔法の力で大きくなったんだろう。ねえ、姫さま」
「カラゲル、うるさいですよ。蟻を大きくする魔法なんて何の役に立つんです」
 ユーグは何事か考え込んでいる様子だった。
 三人の肩越しに蟻を見たクランはふとブルクット族の聖地であったことを思い出した。岩窟の内側一面に蟻がいにしえの言葉を描いていた。蜜袋にいにしえの言葉の文字を孕んだ蟻の群れ、そして、柱の上に現れた首のない精霊……
「どうも、おかしいな……」
 ユーグがもう一度、蟻を見つめてつぶやいた。
「これは島の蟻のようだ。島から外へは出て行かないものと思っていたが」
 カラゲルは明るい顔になった。
「ということはスナ族の島が近くなってきたのだな。蟻が俺たちを出迎えてくれているのだろう。どうだ、今夜はここで野営といこうではないか。屋根には大穴が開いているが、夜風は防げるだろう」
 カラゲルが中へ踏み込もうとした時、瓦礫の陰から一人の男が飛び出してきた。男はカラゲルを突き飛ばして森の中へ逃げ込んだ。
「なんだ、先客がいたのか。それにしても、ぶつかっておいて挨拶もなしとはひどい奴だ」
 薄暮の暗い森へ男の後ろ姿は消えた。白い長衣の裾が破れて長く引きずっているのが最後に見えた。
「ユーグよ、あの白い長衣はナビ教祭司のものではありませんか」
 ミアレ姫が言うと、ユーグは信じられないという顔でうなずいた。
「まだ修行者がいたようです。ナビ教が王の庇護を失ってからも、あのオルテン山の洞窟の老人ノガレのような野の修行者はいるわけですが、この森の中では生きていくのもやっとでしょう」
 カラゲルは森の奥へ目を凝らしていたが、もう男の姿は見えなかった。
「修行者と言えば聞こえはいいが、ただの乞食だぞ、あれは。クランよ、お前、覚えているだろう。王都ちかくの宿駅でイカサマ博打で稼いでいた野郎を。あれと同類だ」
「黒水晶のサイコロを使っていたな。しかし、あいつのおかげでサンペ族のナンガに会えたのだぞ」
「今度はどんな奴に会えるのか、先が思いやられる。そうだ、俺たちは蟻に会った。蟻が俺たちを導いてくれることだろうよ。なあ、ユーグ、どうだ」
 冗談口を叩くカラゲルに返答もせず、ユーグはまだ何か考え込んでいるようだった。
 一行はここで野営をすることに決めた。屋根のほとんどは崩れ落ちているが、壁際に寄れば雨露をしのぐことはできそうだった。
 逃げ去った修行者の生活の跡が石壁の片隅に残っていた。床に黒く焚き火の燃え跡、何か果物らしき腐った臭いの食べかす、ボロ布の切れ端には血らしき黒い染みがついていた。
 それらの痕跡の汚らしさにカラゲルは顔をしかめた。修行者が肩口にぶつかった時の汗臭い体臭が記憶に残っていた。
「何の修行をしていたのか知らないが、クレオンとは大違いだ。少なくともクレオンはオルテン河で水浴びだけはしていたからな」
 ユーグはボロ布の下に書きつけがあるのに気付いた。乱れた筆跡のため読めるのはその一部分だけだった。
「……俺は裏切られた。奴らは別の道を取って帰ったのだろう。迎えに来ると言ったのに……俺は愚かだった。ナビ教祭司としても、また王国の民としても……シュメル王へ仕えることがナビ教祭司の務めであると言われ、ナビ教再興のためだと……褒美の短刀だけがこの手にある……これで我が命を絶てとでもいうように……」
 ボロ布を調べると中から小ぶりな短刀が出てきた。ミアレ姫がそれを見て首をかしげた
「王家の紋章がありますね。この地に王宮の誰かが来たのでしょうか」
「その者たちこそ鷲の目の剣を王都へ持ち去った者たちでしょう」
 カラゲルが短刀を手に取って調べた。貴石をちりばめた精緻な拵えの鞘から、ごく細身の刀身が現れた。
「これでは果物の皮をむくのが精一杯だな。狩りに使うでなし、護身用としても頼りない。何の役に立つのだ」
 ミアレ姫が言った。
「それは王家に尽くした者へ褒美として与える儀礼用の剣です。実用の物ではありません」
「なるほど。ということは、あいつは王家に尽くした立派な忠義者ということになる。そして、このボロ布は……どうやら傷の手当に使ったらしい跡があるが……」
 カラゲルは首をひねって考えていたが、ふと、クランを振り返った。
「どうだ、クランよ。お前のシャーマンの勘であいつが何者か分からないか」
 クランは呆れ顔になった。
「お前はシャーマンを何だと思っている。占い師ではないぞ」
「そうか。ならば、俺のありがたいご託宣を聞くがいい。あのナビ教の修行者、あいつが杖泥棒の一味をスナ族の地へ手引きしたのだ」
 それを聞いたユーグは顔色を変えた。
「馬鹿な! 仮にもナビ教の徒である者がそんなことを……」
「まあ聞け。ここまで旅をしてきて分かったが、スナ族の地へたどり着くのは容易なことではない。オルテン河の支流をたどるうちはいいが、それが絶えると道案内が必要だ。そこで、あの男の出番さ」
 カラゲルはすっかり暗くなっている出口を振り返り、短刀で外を指した。
「杖泥棒の一味は道に迷ったかなにかで偶然この草地を見つけた。あるいは、ここにナビ教の修行場があると知っていたかもしれない。いずれにせよ一味はさっきの野郎に道案内を頼んだ。シュメル王に忠義を尽くせ、ナビ教のためでもあると説得されたんだろう」
 カラゲルはまたフンとあざ笑うように鼻を鳴らした。
「その書きつけから思うに、あいつは王都へ連れて行ってもらえる約束だったんだろう。それが褒美の短剣でごまかされてしまった。となると鷲の目の杖を盗む手引きをした自分が阿呆らしくなってくる。とんでもないことをしたものだとな。それで手首あたりを切りつけたんだろう」
 短刀の先に引っ掛けたボロ布を眺めたカラゲルは少し憐れむような目になった。
「だが、死ねなかった……それで、うじうじとここで生きながらえていたわけだが、そこへ俺たちがやって来たものだから、自分を恥じて逃げた……とまあ、こんなところではないのか」
 ユーグはいよいよ気色ばんで叫んだ。
「違う! 断じて違う! 聖なる杖の尊さはナビ教の徒こそ誰よりもよく知っているはず。そうだ、きっと騙されていたのだ。そうに違いない」
「騙されていただと。なんだ、あいつが手引きをしたということは認めるのか。その書きつけを見れば明らかだがな。ユーグよ、そんなにいきり立たなくてもいい。みんながみんな、悟り澄ました聖者にはなれないさ」
 ユーグはいくらか落ち着きを取り戻したが、その後も何度か修行者の書きつけを読み返していた。乱れた筆跡、錯乱した文章。読めば読むほどカラゲルの言うのが本当のような気がしてくる。
 食事も済み、寝静まってからも、ユーグだけは眠れずにいた。
 屋根の穴から月の光が射していた。瓦礫の山に青白い光が降り注ぐ様子は、あのブルクット族の聖地を思い出させた。確かに形ばかりはどこか似ている。
 勇者たちの頭蓋骨で作られた部族の霊のための道しるべ。その厳かなたたずまい。あれにくらべて、この修行場の瓦礫の無残さ。
 短刀を月の光に透かして見ると、たしかに血痕と思えるものが見えた。あの男はまだ森の中にいるに違いない。何があったのか、あの男に問い質さねば。
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