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第九十九章

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第九十九章

 三日後、クレオンの天幕のある岩山で改めて部族和解の集まりが催されようとしていた。
 テン族族長アーメルとその妻サラ、二人の長老。彼らは部族の若者たちを連れてやって来た。中にはカラゲルに従った旗手の少年もいた。
 少年は旗を持っていた。あの褐色の粗布の旗に今日は一羽の鷲の絵が描かれていた。
「見てよ、この旗を。戦場で見た鷲を描いたんだ。これこそ王国の旗さ。部族の民よ、この旗のもとに集えってことさ」
 旗は天幕の前に掲げられた。少年はミアレ姫に褒められて顔を赤くしていた。
 ナホ族族長ホワソンとその妻アンも部族の主だった者たちを連れてきた。しかし、そこに長老グインの姿はなかった。
 グインはカナ族を引き入れ、偽闇の王に誑かされて部族とその土地を危機に陥れた。族長ホワソンはさまざまな事情を考え、長老を許していたが、グイン自身は罪の意識と孫娘のこともあって屋敷にこもり床に臥せっていた。
 クレオンの天幕の前で二つの部族が手を握る、その前に、戦死者たちの供養が行われた。
 この地では死者は火葬され、灰はオルテン河に流される。河のほとりに死者を焼く煙がすでに丸一日、絶えることなく続いていた。
 火葬はテン族、ナホ族の区別なく同じ火によって行われた。いまや部族の民は古代において二つの部族が同族であったことを確信していた。
 いずれは聖地についての考えも変わってくるかも知れない。オルテン山中の洞窟、深き泉、そして、七つの丘。
 これらをどう考えるかについては、クレオンの持つナビ教の叡智とアルテのシャーマンとしての経験と勘が頼られることだろう。いずれにせよ、数十年かけて熟慮されるべきことと誰もが思っていた。
 オルテン河のほとりで戦死者の供養を執り行ったのは、ユーグだった。こうした儀式的なことはクレオンよりもユーグの方が得意だった。純白の長衣がオルテン河の水面に映る様子はいかにも清らかで鎮魂にふさわしい眺めだった。
 王の血脈ミアレ姫がすべての儀式に立ち会ったのも部族の民の目に尊い光景と映った。二つの部族は王国への忠誠を新たにした。
 また、儀式にはカラゲルも参列していた。すべてが終わってから岩山の天幕で目を覚ましたカラゲルは高熱のせいもあったが、看病するミアレ姫の前で涙をこぼした。
「姫さま、怪我人たちはどうした。死んだ者たちの遺体は……」
「大丈夫です、カラゲル。町から追放された人たちが怪我人の世話をしています。それに、ここには二人のナビ教祭司と二人のシャーマンがいるのですよ」
「そうか。死んだ者たちの霊が聖地にたどり着けるといいが……」
 稲妻の刺青がずきずきと疼くようだった。ブルクット族は戦士の部族。いかなる時も王国の守護者たるべきだ。そう考えていたが、本当の戦争はカラゲルの心を引き裂いた。
 しかし、高熱がおさまると、カラゲルは心の傷口を胸底深くしまい込んでおこうと決めた。
 カラゲルは知った。ダファネア王国の部族の民は力強く王国を率いる者を求めているのだと。闇の王などもってのほか、ましてやコルウスのような偽者でもない、真の王が求められているのだ。
 今、オルテン河のほとりで戦死者を焼く火を見つめながら、カラゲルは王の血脈と王国を守る決意を新たにしていた。
 儀式の場にクランの姿はなかった。そもそも、こうした公の儀式はシャーマンの領分でない。シャーマンは人それぞれの魂に寄り添うものだ。
 クランは儀式の場からやや下流の川岸に立って、川の流れに目をやっていた。
 その横には魂を取り戻したグインの孫娘とその世話をしていた老女が立っていた。老女は気遣わしげに孫娘の横顔をのぞき込んでいた。
 クランは孫娘の魂を求めた戦場でコルウスに出会い、それを追い払った。死霊の群れの呪縛から解かれた魂はクランの手によって連れ戻された。
 同時にそれはカラゲルの命を救うことともなったが、これらのことは偶然だろうか。あるいは神々の計画のうちか。クランには判断がつかなかった。きっと知らずともよいことなのだろう。
 クランによって魂を取り戻したはいいが、孫娘は記憶喪失の状態にあった。祖父のグインの顔すら分からない。グインは深く嘆いたが命を失うよりはいい。クランは孫娘をシャーマンにするよう勧めた。
「長老よ、この者の魂は並々ならぬ抵抗を示した。この者は霊の身体の側で、この戦をたたかい、そして勝ったのだ。この者は選りすぐりの魂の勇者だ」
 長老グインはめっきり老い込んだ顔に涙をこぼした。
「おお、シャーマンよ。イーグル・アイよ。私は勇者など求めてはいない。ただ、私の愛する孫娘を求めているだけだ……」
 しかし、最後はグインもクランの勧めを受け入れざるを得なかった。
 アルテも取りなして、この地のブンド族とともに面倒を見ようと言った。
「シャーマンの道は苦難に満ちている。熱病や悪夢や狂気をくぐり抜けた者だけがたどる道だ。シャーマンは家族を喪う。しかし、また、別の新しい家族を見つける」
 アルテは老いた長老に魂の行方について諄々と説いた。グインは丸めた背中を揺らしてシャーマンの言葉に耳を傾けた。
 こうした家族の間のことはクランには苦手なことだった。子どもの頃から部族の外にいて独りの天幕で暮らしてきたのだから当然かもしれない。
 クランは川の面に青い瞳を向けていた。戦死者たちの遺灰が白く筋となって流れていくのが見えた。人はその生き方がどうあれ、独りで生まれ、独りでこの世を去る。それだけのことだ。
 いにしえの言葉が口をついて出た。低く、極めて低く、朗唱の響きは水の流れる音と和した。
 その時、すぐ横に立っていたグインの孫娘の口からも、いにしえの言葉があふれ出た。
 これらの言葉は孫娘が魂を救われた時にクランが唱えていた朗唱の言葉だった。それが孫娘の深い記憶に刻まれたのだろう。洗いざらい記憶を喪失した中で、これらの言葉だけが残ったのだった。
 老女は娘がシャーマンとして目覚めたことに気付くと、胸の前で両手を握り合わせてありがたがり、涙を流した。
 死者の葬送が済むと、いよいよ和解の集まりがクレオンの天幕の前で始まった。
 二つの部族がハの字形に居並ぶ中央にクレオン。その左右にミアレ姫とユーグ。さらにその両脇にアルテとクランが立った。
 カラゲルもそこへ加わるよう求められたが、固く辞退して、今は旗手の少年と二人、少し離れたところから儀式の様子を眺めていた。
「この前の和解ができていたら、こんなことにはならなかったかも知れないな」
 独り言のようにカラゲルがつぶやいた。
 旗手の少年は我らが軍師だった男の顔を横目で見た。
「おかしなことを言うね。オルテン河のほとりで起こることは、みな運命なのさ」
「死者が多く出たのも運命で片付けられるのか」
「この世に生まれてきて、この世から去る者たち。その者たちにはみんな何か意味があるのさ。ただ、その意味を知ることができないってだけ」
 カラゲルは少年の横顔へ目をやった。
「お前、まるでシャーマンか何かのような口を利くじゃないか」
「これはシャーマンの教えじゃないよ。クレオン様の教えを族長から受け売りしているんだよ」
 少年はちらりと笑みを浮かべた。
「そうか……しかし、お前もよく知る誰かを亡くしたのではないのか」
「テン族みたいな小さな部族はみんながよく知る誰かさ。でも、人は何かを失って、その代わりに何かを得ることがあるよ。ほら、あのイーグル・アイを見てごらんよ。片目を失って、その代わりに世界の向こう側を見る力を得たんだ」
 カラゲルは天幕の前に立っているクランの姿へ目を向けた。クランはただ片目を失っただけではない。分からないが、もっと大きな何かを失ったのではないのか。
 カラゲルがそう思っていた時、天幕の前では二人の族長がハの字の真ん中に歩み出てお互いの手を握った。
 最初の和解の会合の時そうしたように、その手へミアレ姫が手を重ねて、長くこの地に平和が続きますようにと言った時、またもや騒動が起こった。
 二人の族長の妻たちが同時に産気づいたのだ。双子の妻たちは陣痛にうめき声を上げた。天幕の前に居並んでいた者たちは、ほとんどが男たちで慌て騒ぐばかりだ。
 怪我人の世話のために来ている部族の医者を呼びにやろうとしたクレオンへアルテが言った。
「待て、クレオンよ。お産ならば、ここにシャーマンが二人いる。我らに任せてもらおう」
 確かにこの地ではシャーマンが赤ん坊を取り上げるのはよくあることだった。若いアルテでもこれまで十数人の経験があった。一人の赤ん坊は死産だったが、あとは母子ともに安全に済ませていた。
「イーグル・アイよ、手助けを頼む」
 アルテにそう言われたクランは戸惑いの表情になった。クランには産婆の経験などなかった。妊婦の腹に手を当ててやるシャーマンの習わしすら初めてだったクランなのだ。
「私にか。私にお産の手伝いをしろと……」
「クレオンやユーグのようなナビ教の徒にばかり良い格好をされてもしゃくじゃないか。今こそ我らシャーマンの出番だぞ」
 あの老女も、お手伝いしましょうと進み出た。この老女は町では何度も産婆を務めたことがあった。そもそも、グインの孫娘を取り上げたのはこの老女だったのだ。
 アルテは老女とともに二人の妊婦の容態を見ていた。クランは遠巻きに様子をうかがうばかりだ。
 アルテは老女に言った。
「そうだ、あの娘も立ち会わせよう。あの娘はシャーマンになるのだ。こうしたことも見せておいたほうがいいだろう」
 老女はうなずき、近くにいた娘を呼び寄せた。
 やって来た娘は二人の妊婦の腹に手を置くと、いにしえの言葉の朗唱を始めた。
 まるで子守唄でも聞かされたように、この世に生まれ出ようとする生命の身動きは、一時、静まったようだ。
 今のうちにと族長の妻たちはクレオンの天幕へ運び入れられた。
 それを見た部族の民は口々に新米のシャーマンを褒めそやした。
「なんとたいしたものではないか。あれは長老グインの孫娘だろう」
「シャーマンの生まれをあれこれ言ってはいけないが、さすがは名門の血筋よ」
 この者たちの中には、今度のことについてのグインの行動に批判的な者もいたようだが、もうそんなことは忘れてしまっていたのだろう。
 やがて天幕の中から二つの産声が上がった。産まれたのは二人とも女の子で双子のように似ていた。
 天幕から出てきた三人のシャーマンと老女には人々からねぎらいの言葉が送られた。
 アルテは慣れたもので平気な顔でいた。孫娘は久しぶりの穏やかな笑みを浮かべていた。それを見た老女は嬉しさに、また涙をこぼした。
 ただ、クランだけは初めてのお産にほとんど厳粛といっていいようなものを感じていた。
 人はあのようにして母となり子となるのだ。自分もそうだったのだろうか。もちろん、その記憶があるわけもないが、たとえ臍の緒を切った後でも母子の間には見えぬ絆があるのではないのか。
 クランは魂の糸をたどることはできても、見えぬ母子の間の糸をたどることができないことを残念に思った。
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