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第九十ニ章

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第九十二章

 カラゲルとアーメル、そしてミアレ姫の一行はクレオンの天幕から出発した。
 岩山の斜面を駆け下りる、その勢いに乗って、三人の馬は滑るように草原へ飛び出した。
 太陽は空の一番高いところで輝いていた。頬に当たる冬の空気は乾き、行く手の視界は遥か彼方まで透き通るようだった。
「オホーイ、ホーイッ……ホイッ、ホイッ、ホイッ……」
 久しぶりの早駆けに高揚した気分のカラゲルは獲物がいるわけでもないのに狩りの勢子声を上げていた。
 それに答えるというわけでもないだろうが、アーメルも裏声混じりの羊飼いの掛け声を上げた。
「レイレイレイ……ヒーイッ、ヒーイッ、ヒーイッ……」
 男たちの妙な浮かれぶりにミアレ姫は呆れたように笑っていた。
 街道と言っても見渡す限り人通りは見えない。明るい天地の中で若者三人だけが道を急いでいた。
 行く手にはオルテン山の山並みが広がっていた。空を区切ってどっしりと、それでいてどこか夢の中のように遥かに見える。
 そこから流れ出て、いくつもの支流に枝分かれする河の流れ、そのきらめき。
 遠く、近く、七つの丘が見えた。七つの丘は奇妙なほど似ていた。
 空高くオローが鳴き声を上げるのが聞こえた。
 カラゲルはふと、町にいるクランは無事だろうかと思ったが、すぐに軽くかぶりを振った。そんなことは考えてみても無駄なことだ。それにクランはいまや誰よりも物事を見通しているらしい。片目を失った代わりに得た運命の目で。
 少しすると三人は馬の速度を緩めた。駆けづめで行くには冬営地は遠い。
 あらためてあたりを眺めまわしたカラゲルは、すぐ横を走るミアレ姫に声をかけた。
「王国の大地ってものはたいした眺めだ。こんなところでは人間なんてどれほどのものでもない」
「ええ、クレオンの天幕に居た時から思っていましたが、この土地は本当に美しいところですね」
「王都よりいいか。俺は王都もなかなのものだと思ったがな。もうちょっと楽しめたらよかったのだが」
「確かに王都は美しく、紺碧の都と呼ばれていました。でも、あの空を見て下さい。あのような青はとても人の力では作り出すことができません」
 二人の先を行くアーメルがこちらを振り返った。
「しかし、姫さま。空の青も、山や河の美しさも、人が讃えてやることでより生き生きとするんじゃありませんか」
 姫でなく、カラゲルがそれに言葉を返した。
「それはどういうことだ。人間がみんな滅びても空や山や河はそのままではないのか」
「そうでしょうかね。人がこの大地の上に置かれているってことには、何かあるんじゃないかって、そう思うんですが。つまり、神々がそうなさったってことなんですからね」
 ミアレ姫は口元に笑みを浮かべた。
「族長はクレオン様と似た考えのようですね。私はあの天幕でクレオンさまの教えを折に触れて聞くことができました」
 とたんにアーメルは笑い声を上げた。
「いやあ、実を言うと、今のはクレオン様の巻紙からの受け売りでしてね。でも、時々、私もそんなことを思うことがあるんです」
 カラゲルはクレオンについて別の感想を抱いていた。
「あのクレオンというのも、どれだけの力を持っているのか知らないが、あの髭面にギョロ目でぐっとにらまれると、ちょっと焦るぜ。ヤンゴもそう言っていた。実はつい昨日あったことだが……」
 カラゲルはここのところ、コウモリの巣のかしらヤンゴとすっかり意気投合していた。
 その時は二人、剣の稽古と称して汗だくになるまでやり合っていた。カラゲルの素早いブルクット族の剣と、ヤンゴの荒っぽい広刃の剣との撃ち合いはなかなかの見ものだった。
 そこへ二人の男たちが丘を登ってやって来た。
 アーメルの運んできた羊肉のおかげで、いくらか元気にはなったが、ボロの裂け目からはあばら骨の浮いた胸がのぞいているという者たちだ。
「なあ、俺たちにも剣の使い方を教えてくれないか。こうなったら自分の身は自分で守るしかないんだ。なあに、街道の盗賊になっても野垂れ死にするよりはましだ」
「そうとも、いざとなったらものを言うのは力だ。力だけだぞ。ねえ、お二人さん、あんたたちもそう思わないか」
 カラゲルとヤンゴは顔を見合わせ、困った表情になった。言うことは分かるが、盗賊になってもというのはいただけない。
 そこへクレオンがやって来て男たちを怒鳴りつけた。
「馬鹿者どもめ、剣だと、力だと。お前たちは王国に起こっていることを知らないのか。お前たちは闇の王に追われてきたのだろう。闇に剣を突き立ててどうなる。その刃で闇を切り裂くことができるとでも言うのか」
 男たちは口を尖らせて言い返した。
「そんなことじゃない。闇の王になんか俺はもう近づきたくもないんだ。俺はむざむざ死にたくなんかないってことさ」
「そうさ、どんなに落ちぶれても、生きてさえいればなんとかなる。たとえ、王国がどうなろうと、この腕に剣がありゃあ……」
 クレオンはもう一度、馬鹿者と怒鳴った。
「お前たちは死ぬのが怖いだけだ。死なずにいるというだけで生きていると言えるのか。人は死への恐怖でなく、人と土地と精霊への愛によって物事を決するべきなのだ。剣や力に頼ってどうなる。いいか、今のような時こそ、いかによく生きるべきかを考えるのだ」
 男たちはまだ不満げだったが、とぼとぼと丘を下っていった。
 それを見送ったクレオンはカラゲルに鋭い視線を突きつけた。
「稲妻の刺青の者よ、族長の息子よ。お前はいずれ部族の民を背負って立つ男のはず。いや、ブルクット族の者ならば王国を背負って立つことになるかも知れぬ。もし、お前までもが、あの者どものように力だけを信じているというなら、その行く末は闇へとまっしぐらだぞ。このことによく思いを凝らせ」
 カラゲルはその時のクレオンの怒りに燃えた目をよく覚えていた。
 しかし、力を信じることの何が悪い。思いを凝らせだと。思いひとつで戦に勝てるなら苦労はない。カラゲルは苦笑いして手綱を握り直した。
「……というわけで飛んだとばっちりを食ったのだ。クレオンめ、俺にまで説教したのだぞ」
 ミアレ姫は声を上げて笑った。
「クレオン様相手でそんなことでは洞窟の精霊の声なんか聞いていられないでしょうに」
「そんなことはない。洞窟の精霊は俺たちの味方だろう。あの爺さんと違って優しく言い聞かせてくれるだろうよ」
「味方……そうとも限りませんよ」
 ミアレ姫は道の遠くへ目をやった。
「じゃあ、敵か。俺たちは敵に頼るために、こんな道中をしているというのか」
「敵とか味方とか、そんなことじゃないでしょう。カラゲル、あなたは何と戦おうと言うのですか。ナホ族の民を打ち負かすつもりですか」
「そんなことはしたくないが……しかし、いざ戦争となればそうするしかないだろう」
 ミアレ姫は言った。
「そうではない戦のありようを教えてくれるのかも知れませんよ、精霊たちは」
 カラゲルはミアレ姫の瞳に見入った。きらめく瞳の中に空が映り、雲が飛び去るのが見えた。この雲は今朝降ったみぞれの名残だ。
 カラゲルは前を向き、何か考え込む顔になった。
 雲は一つの方向にばかり飛んで行きはしない。風向きしだいで姿を変え、集まっては消え、消えては集まる。身をよじりつつ、高く低く空を飛んでいく。雲は気まぐれな無数の水の粒子でできているのだから。
 我らの土地には無数の生命と無数の精霊が飛び交っている。気まぐれな魂が風のように、雲のように、頬をかすめる空気の中を彷徨っている。
 となれば時も一つの方向にばかり進むとは限るまい。自分がそこをどう横切っていくのかによるのだ。
「お前の鼻面の向きによるということだぞ」
 カラゲルは馬の首の横を撫でて言った。テン族の冬営地で借りたままのこの馬にも、ちょっとばかり愛着が生まれかかっていた。
 やがて一行の目に道しるべが見えてきた。旗竿に白い幟がはためいていた。
 アーメルが鞭で示して言った。
「ここまで来たらあと少しです。あそこで一休みして道の無事を祈るとしましょう」
 一行は道しるべのそばで馬を降りた。
 アーメルの後についてカラゲルと姫は石積みのまわりを歩いて回った。
 アーメルはお決まりの言葉を口の中で唱えていた。これも、いにしえの言葉らしかったが意味は知らない。
 石積みに突き立った旗竿のてっぺんにオローが来てとまった。冷たい風が吹き過ぎていく。オローはあたりを見張るような目で首をかしげていた。
 しばらくして一行はふたたび鞍にまたがり、道を進み始めた。馬も十分休んだだろうとアーメルの鞭を合図に一行が脚を速めようとした時、ミアレ姫が叫んだ。
「狼です、気をつけて!」
 どこからともなく現れた狼がミアレ姫の乗った馬の鼻先へ飛びかかってきた。
 姫は手綱を引き、両足を踏ん張ったが、馬は驚きに目を見開き、いなないて棒立ちになった。
 鞍からずり落ちかかるミアレ姫へカラゲルが手を伸ばしたが、二人は一緒になって馬の背から滑り落ちた。
 素早く立ち上がったカラゲルは姫を背後にかばいながら剣を抜いた。ツンと鼻をつく硫黄の臭気があたりに漂っている。
 アーメルも馬から飛び降り、カラゲルの反対側で姫を守った。
「何頭だ、アーメル」
「四頭……いや、五頭!」
 アーメルは腰帯にナイフぐらいは差してあるが武器らしきものは鞭しかない。飛びかかってくる狼の鼻っ面へ鞭をくらわしたが、黒い目の狼はそんなもので怯みはしなかった。
 カラゲルがアーメルと姫の二人をかばいながら前へ出た。
「アーメル、姫を頼む!」
 カラゲルは飛びかかってくる狼の喉元へ、ぐっと踏み込んで切先を突き立てた。狼は眼窩から黒煙のようなものを噴き出しながら息絶えた。
 さらに一頭を斬り伏せたカラゲルの耳にアーメルの叫び声が聞こえてきた。
 見ると、アーメルは手の甲から血を流していた。その血は姫の顔にまで飛び散っている。姫を守ろうとして狼の爪を受けたのだった。
「危ない、カラゲル!」
 姫が叫んだ。背後からカラゲルの首筋めがけて狼が飛びかかってきた。
 とっさに剣を横へ振ったカラゲルは草に足を取られて倒れた。目の前に狼の牙が迫り、血が凍るような思いになった時、鋭い鳴き声とともにオローが飛んで来た。
 オローの鉤爪が狼の背中に突き立った。もんどり打って地面に転がる狼の喉元をオローはくちばしの一撃で仕留めた。
 しかし、そこへもう一頭の獣が飛び込んできた。爪を受けたオローは翼を乱し、砂塵を舞い上げて、かろうじて空中へ逃れた。
 カラゲルは起き上がり、アーメルと姫へ怒鳴った。
「まずいぜ、ここは逃げの一手だ」
 三人が乗ってきた馬は少し離れたところで浮足立ち、しきりにいなないていた。
 アーメルは指笛で馬を呼んだが、こちらへは来なかった。馬に駆け寄り、何とか手綱を取ったが、首を振って言うことを聞かない。
 カラゲルは姫の手を引いて別の馬へと駆けた。その時、一頭の狼が馬へ飛びかかった。
 首に食いつかれた馬は必死にいななきながら身悶えたが、脚をバタつかせると砂ぼこりを上げて横向きに倒れてしまった。
 呆気にとられて立ちすくむカラゲルと姫めがけて残り二頭の狼が駆け寄って来た。
 カラゲルは剣を振って獣の襲撃を避けたが、姫を背中にかばいながらでは思うように動けない。アーメルも側に寄ることができずに焦るばかりだった。
「ちくしょう、しつこい獣どもめ!」
 大きく跳躍した狼の爪がカラゲルの利き腕を傷つけた。上着の袖が裂け、鮮血が宙に飛び散った。
 叫び声を上げたカラゲルは不覚にも剣を取り落した。
 それでもミアレ姫だけはと必死になって両手を広げ、王の血脈の身をかばおうとした時、耳元で破鐘を叩かれたような轟音がして、すぐに何も聞こえなくなった。
 カラゲルは宙に飛び上がった狼が弾き飛ばされ、四肢をよじって引き裂かれるのを見た。闇に満たされた空虚な身とはいえ獣の目には恐怖の色が浮かんでいた。
 頭がクラクラしてカラゲルは膝からくずおれた。
 地面から見上げると、決然とした表情で立ったミアレ姫が、高くかかげた両手に魔法印を結んでいた。
 どうしてもという時にだけ使うように言われてユーグに習った魔法を、ミアレ姫は、今、使ったのだった。
 闇の狼はすべて消滅したが、カラゲルとアーメルは立ち上がることができずにうめきながら草の上を這っていた。二人は魔法障壁のとばっちりを食っていたのだ。
「大丈夫ですか、カラゲル、アーメル!」
 ミアレ姫は男二人が地面で腰を抜かしたようになっているのを見て慌てた。
 やっとの思いで身を起こしたカラゲルは額の汗を拭って目を上げた。
「なんて力だ。姫さま、いつの間に……」
「怪我の手当をしないと。アーメルも大丈夫ですか」
 アーメルは四つん這いで、のそのそとこっちへやって来た。
「怪我はどうってことありません。それより頭がクラクラして……ううっ……」
 カラゲルも血の気の引いた顔を左右に振った。
「ちょっとは手加減ってものができないのか。目は回るし、吐き気はするし」
 ミアレ姫は申し訳なさそうな顔をした。
「ユーグにも気をつけるように言われているのですが、なにしろ初心者なもので」
「初心者だと。たいした初心者があったものだ。先が思いやられる……」
 王の血脈が魔法を使うこと。王国の歴史にその例はなかった。
 魔法は精霊の力を借りるものだ。王の血脈を持つ者がそれを使うとなれば、すさまじいばかりの力となるだろう。
 力を制御することを学ぼうとしても、そもそも精霊はそう簡単に人が制御できるようなものではなかった。精霊の繁き者、王の血脈となれば、その力はいつも最大に振り切ってしまうだろう。
 やむを得ず魔法を伝授したユーグが案じていたのはそこだった。
 ミアレ姫が怪我の手当をするうちに男たちも気を取り直して起き上がった。
 たいしたもので遊牧の民テン族が馴らした馬は逃げ去ってはいなかった。ただし、狼に襲われた馬はすでに死んでいた。
 ミアレ姫はカラゲルの馬に同乗することになった。アーメルが元気づけるように言った。
「さあ行きましょう。我らの冬営地はすぐそこです。馬を葬ってやりたいが、今は仕方ありません。そら、鷲も無事だったようですよ」
 オローが抜けるような青空に円を描くのを見上げつつ、一行は先を急いだ。
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